第7話 あなたが寂しくないように
レンが〈鳥籠〉でサラと暮らしだしてから二年近くの時が経った。
その間、自分には〈遠見〉の力なんてないからと遊んでいたわけではない。やるべきことは意外なほどに多かった。
たとえば北方の森で火の手が上がったとする。そうなればすぐに政庁へ報告しなければならない。一刻を争う事態であることが想定されるので、上階の護衛兵から下へ下へと伝達されていくのが常であった。
一方でさほど緊急性は高くないと思われる、ささやかな変化を発見した場合は報告文書を書き上げなければならない。
いくつかの仕事のうち、主にレンが任されるようになっていたのがこれだ。
字を知らず読み書きとは縁遠かったレンが、今では一端の文章をしたためることができるようになっている。大きな進歩といえた。
だが日々成長していくレンとは裏腹に、サラの体調は緩やかながらも確実に悪化の一途をたどっていた。
特に〈遠見〉としての能力を行使した翌日には、必ず高熱を出して寝込むようになっていたのだ。
今ならレンにだって理解できる。〈遠見〉であるがゆえの目の酷使は、ずっとサラの肉体を蝕み続けているのだ。
あれほどの能力だからこそ、どうしたって反動なしというわけにはいかないのだろう。彼女は文字通り、命がけで〈遠見〉としての任務を果たしている。
その身を削る献身ぶりを見ているのはレンにとって耐えられないほどに辛い。
「サラがそこまでしてヴァレリアのために尽くす必要なんてどこにあるの」
そう詰め寄って止めようとしたことも一度や二度ではない。
けれどもそのたびに、彼女は柔らかく微笑みながら首を横に振った。
「わたしが投げだしてしまえば、これまでの〈遠見〉たちが紡いできたことさえも無意味にしてしまうような気がするの。それにね、死んでいった一族の皆にも申し訳が立たないじゃない」
優しく言い聞かせるようにレンを諭すのが常であった。
サラが寝込む時間は徐々に長くなっていく。
紛い物であるレンには代わりの目になってあげることもできず、己の無力さを痛感しながら看病し、日々の業務を担うのがやっとだ。
サラの体調が思わしくないとの報告を受けて以降、フランチェスコが〈鳥籠〉まで足を運んでくる機会は増えた。
寝台に横たわっているサラの脇で、見舞いの間はずっと彼女の手を握ったままのフランチェスコが椅子に腰掛けている。サラが起きていればしきりと小声で何事かを話しかけ、眠っていればそのまま静かに。
そんなときにはレンも気を利かせ、席を外す。
とある日の午後もフランチェスコが訪れ、これまでと同様にレンが〈鳥籠〉上階へ行こうとすると彼の方から呼び止めてきた。
「少し待て。話がある」と。
どういうつもりなのかと訝しみながらも、彼に倣ってサラの顔が覗けるほどすぐ近くへ腰を下ろす。
意外にも最初に切りだしたのはフランチェスコではなくサラだった。
「正式に、決定したのですか?」
もうこの頃になると、寝台から起き上がることさえ稀なほどにサラの体調は悪化していた。食事もろくにとれず、頬は随分とこけてしまっている。
にもかかわらず、このときサラは緩慢な動作でどうにか上半身を起こそうと試みた。急いでレンが介添えをし、彼女の希望通りの姿勢をとらせる。
「ありがとう」とサラの目が伝えてきているのがレンにはわかった。
少し待った後、フランチェスコは「ええ」と短く答える。
これを聞いてサラが微笑む。正確には、微笑もうとしていた。
「よかった。これでもう、後のことは、大丈夫ですね」
「何をおっしゃる」
ほんのわずかだが、フランチェスコの声に震えが聞き取れた。
「サラ様、あなたがついていなければレンもまだまだ子供です。多少の仕事はできるようになってきたとはいえ、あなたの助けなしでは早晩立ち行かなくなるのが目に見えておりますぞ」
レンが〈遠見〉の一族の血を引いておらず、その才覚もないことを知っているのはこの場にいる三人だけだ。
会話の風向きに、レンは嫌な予感がした。
「ねえ、二人とも。いったい何の話をしているの」
サラの背中を支えながら、その目を真っ直ぐに見つめてレンが問い質す。
「わたしはね、レン。ずっとあなたに、謝らなければ、いけなかった。終わりゆく運命にある、〈遠見〉に、嘘をついて、あなたを巻き込んで、しまったことを」
呼吸もしんどいのだろう、切れ切れになりながらサラは言った。
「寂しかったの。父も、母も、きょうだいも、仲の、良かった、友達も、いろいろ教え、てくれた、長老、たちも。みんな、死んで。孤独に、わたし、勝てな、かった」
「もういいよ! やめて!」
レンは泣いていた。溢れる涙を拭おうともせず、サラの弱々しくなった肩を両手で抱きしめる。
「だってわたしは巻き込まれたなんてこれっぽっちも思ってない! サラと出会えたことがわたしの人生でいちばんの幸せなんだから!」
レンの手にサラの手がそっと重ねられる。
その温もりは、レンにとって今も変わらず太陽そのものだ。
「フランチェスコ、さま」
振り絞るようにサラが声を出す。
「おねがい、この子を」
「必ず」
対するフランチェスコの返答は非常に簡潔であった。
意味を汲み取れない二人の会話にレンの心は波立つ。自分一人だけが見知らぬ街へ取り残されてしまったみたいで、不安と苛立ちとが交錯する。
「わけのわからない話をしないでよ……!」
「ごめんね、レン」
「やめてよ、謝ってほしいわけじゃないんだよぉ」
何かをしゃべろうとサラの口元だけがかすかに動いていたが、言葉になることなくそのまま彼女の意識は途絶えてしまう。
結局、これがサラと交わした最後の会話となった。
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