第73話 君だからこそ

 数時間後、夫婦の私室に戻ってきた私は少し頭がクラクラしていた。今日はいつもよりかなり茶会の時間が長引いてしまったし、あの3人のことが話題に上がったことで変に気持ちが揺さぶられたことも原因かもしれない。もう全ては過去のことだとは言っても、やはりあの人たちはいまだに私に大きな影響力を持っているようだ。


(…どこかで彼らなりに幸せに暮らしてくれているのならよかったけれど…、やはりあんな話を聞くと、妙に胸が痛くなってしまう)


 私の今の幸せがあるのは、元ディンズモア公爵令息から突然理不尽に婚約破棄されたからで、そしてそのきっかけとなったのはアレイナ嬢で…、本当なら私が今いるこの王太子妃という地位に座っているのはミリー嬢だったわけなのだから。


(これって…、罪悪感のようなものなのかしら)


 3人が苦労している話を聞けば聞くほど、私の心は落ち着かず、そしてどんよりと沈んでいくのだった。






「やっと戻ってきたね」

「っ!……殿下…。いらっしゃったのですね」


 ふう、と息をつきながら部屋に入ると、そこにはエリオット殿下が待っていた。しまった、思い切り気を抜いた顔をしてしまっていたわ。咄嗟にそう思ったけれど、案の定殿下の表情が曇る。


「…疲れているね、クラリッサ。顔色が良くない。…おいで」

「そ、そうですか?いえ、今日は少し……お話が盛り上がって茶会が長引い……、っ?!」


 私の言い訳も聞かず、殿下はスタスタと私に歩み寄ると問答無用で私を横抱きに抱え上げた。


「でっ!殿下……っ!ジェイミーが見てますわ…っ」


 そう、私はジェイミーとともにこの部屋に帰ってきたのだ。小さなジェイミーはこちらを見上げてきょとんとした顔をしている。


「おとうたま、おかあたま、だっこ?」

「そうだよ、ジェイミー。お母様は疲れているみたいだ。休ませてあげないといけないから、お前はキアナたちとお利口に待っていなさい。いいね?」

「あい」


(さっ……、3歳児よりも甘やかされている……)


 殿下の言葉に、控えていた乳母や侍女たちがいそいそとジェイミーのそばに寄っていってくれる。私は殿下に身を預けたまま、隣の寝室のベッドの上に連れていかれたのだった。




 寝室で二人きりになった途端、殿下の声色に甘さが増す。


「大丈夫かい?クラリッサ。一応ちゃんと診てもらおうか」


 私の体にほんのわずかな負荷さえかけないという意志の強さを感じるほどにゆっくりと丁寧にベッドの上に横たえられながら、そう声をかけられる。


「い、いえ、本当に私は大丈夫ですわ、殿下」

「……。」

「…ただ少し、疲れて目まいがしましたけれど、もう平気です。どこも痛くありませんし、体も辛くありませんわ」


 殿下は言葉の真偽を確かめるようにじっと私の瞳を見つめてくる。そしてベッドサイドにそっと腰かけると、私の頬に温かい手のひらを当てた。


「それならいいけれど…。…何か思い悩んでいるように見えたのは、僕の気のせいだろうか」

「……え…っ?」

「さっき部屋に入ってきた時の、君の顔。何だか沈んでいるように見えたよ。気に病んでいることがあるのなら、話して欲しい」

「で……殿下…」

「僕は君の夫だ。君が不安に思っていることや困っていることがあるなら、その原因は全て取り除いてあげたい。たとえそれがどんな些細なものであったとしても、だ。…僕を信じて、話してごらん」

「…………。」


 結婚以来、殿下は年々私の気持ちを読むことに長けてきている。今では私のほんのわずかな表情の変化ですぐに「どうしたんだい?クラリッサ。何があった?」と尋ねてくるほどだ。愛の深さがすごい…。


「……本当に、私の個人的な……、些細なこと、なのですが…」

「うん」


 ごまかしきれる雰囲気ではないので、私は彼ら3人に対する自分の気持ちを正直に打ち明けた。




「……なるほど。…君らしいな。いまだにあの連中のことで思い悩んでいただなんて…」


 私が吐き出した思いをただ黙って聞いてくださっていた殿下は、私の髪をゆっくりと優しく撫でながら言った。


「クラリッサ、…君は僕と結婚して王太子妃の座に即位して以来、いつも全力で公務に取り組んできてくれた。恵まれた環境にある富裕層よりも、むしろ日々の生活で手一杯の貧しい民たちのために。福祉の面を充実させ、フォローの行き届いていなかった人々にまで手を伸ばし、彼らの生活を安定させてきた。だからこそ、君は今民たちの信頼を得て大きな支持を集めているんだよ」 

「……殿下…」

「君は自分の力で、正当に、今のこの地位を得たんだ。誰かから不正に奪ったわけでも、あくどい手段を使ったわけでもない。そして他ならぬ君だからこそ、今のこの平穏なティナレイン王国を維持できているんだ。…僕は君を選んだことを誇りに思っているよ。だったら、きっとこうはならなかった。優しくて公平な心を持つ君だからこそ、民から愛される王太子妃になれたんだ」

「…殿下…、……ありがとうございます」


 私の心に殿下の優しい言葉が染み渡っていく。温かくて、思わず涙が滲む。


「だから、君はそんなことで思い悩まなくていいんだ。人生は自分が行動してきた通りの結末を迎えるものさ。…クラリッサ、君はこれからもその慈悲深い心のまま、僕をそばで支えておくれ。ただ隣にいてくれるだけでいい。君さえいてくれれば、僕は前を向いて強く進んでいけるのだから」

「殿下…。…はい。私もです。あなたがいてくださるから、今日までやってこられました。あなたさえいてくだされば、これからもずっと……」

「…クラリッサ…、…ありがとう。…愛しているよ。これ以上ないほどにね」


 殿下の愛に満ちた瞳が私を優しく包み込む。この方の視線で、言葉で、私の心はいつも不思議なほどに落ち着いていく。

 ふいに、殿下が私の隣に身を横たえると、私の頭の下にするりと腕を通して両腕で優しく抱きしめた。


「っ!……殿下…」

「…少しだけ。こうしている時が僕の何よりの癒やしの時間なんだよ。僕が公務に戻る前に、少しだけ付き合っておくれ」

「……。……ふふ」


 そんなことを言いながらも、きっと私を安心させるためなのだろう。私だって、結婚以来エリオット殿下のことはだんだんよく分かるようになってきたんだから。これもこの方の優しさなのだ。

 殿下は私に腕枕をしながら、もう片方の手でゆっくりと私のお腹を撫でる。


「…楽しみだな。またジェイミーやソフィアのような愛しい宝物が増えるわけだ」

「ふふ。ええ…。本当に」

「…ありがとう、クラリッサ。君はこうして僕に唯一無二の幸せをくれた。人を愛する喜びを教えてくれて、愛する人が隣にいてくれる喜びを与えてくれた…。そして、その愛する人が僕の子を産んでくれるという幸せまでも」

「…………殿下……」

「これからもずっと、僕は君を守っていくよ」


 殿下は私の頬に手を当て、ゆっくりと唇を近づけてくる。

 優しい口づけを受けながら、私はうっとりと目を閉じた。

 まるで彼と二人きり、柔らかな羽に包まれて空に浮いているような気持ちになりながら──────




   



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