2 不幸には耐性がある

「――うん、そう。だからとりあえず、こっちで職探ししてみる」


 電話の向こうであからさまに心配していると分かる父さんの泣きそうな声を聞いていたら、凹んでいた僕の心が少しだけ回復してきた。


「悪いんだけど、ちょっとまとまったお金を振り込んでもらえると助かる。うん、うん。就職決まったら返すから」


 当面の生活費を振り込んでもらえることになり、とりあえずホッとひと安心して電話を切る。


「さて――と」


 こんな時、これまで挫折したことのない人間なら、取り乱してしまうような出来事だろう。


 だけど、自慢じゃないけど僕は突然襲ってくる不幸にはかなり耐性がある。


 人生、五体満足でメンタルも元気ならとりあえず何とかなるのを、僕は知っていた。


 今住んでいるこのアパートは、会社の借り上げの寮みたいな立ち位置にある。だけど騒動を聞きつけた大家さんが、速やかに個人契約に切り替えてくれた。ついでに割り引いてくれた。夜逃げしちゃった社長は、大家のおじさんの古くからの悪友なんだそうだ。


「大木さん、ごめんね。本当にごめんね」

「大家さんが謝ることはないですよ」


 玄関先で大家さんにペコペコと頭を下げられて、母さんがやらかす度に頭を下げていた父さんの姿を思い出した。うん、謝る必要はない。悪いのはやった本人、以上。まあ、割引はありがたく恩恵にあずからせてもらうけど。


 大家さんが、僕の隣の部屋のチャイムを押す。


「こっちの子も、今回入社できなかった子でねえ」

「あ、僕の同期になる予定だった人ですか?」


 僕の他に、もうひとり入社する予定だったと聞いていた。その人のことだろう。


「そうそう。……あれー? さっき物音がしたのに出ないなあ。おーい、如月さん?」


 大家さんがドアノブを掴んで回すと、玄関のドアがあっさりと開いた。大家さんが、「大丈夫? 如月さーん?」と声を掛けながら中を覗く。


 すると。


「うわっ! だ、大丈夫如月さん!?」

「えっ、どうしたんですか!?」

「わっ、ちょっとしっかりして、如月さん!」


 大家さんが大慌てで隣の部屋に入っていったので、僕も急いで向かった。職を失った上に隣で人が死んだりしたら、さすがにこの不幸が僕の体質なんじゃないかって思えてしまう。さすがにそれは嫌だった。


「大家さん、一体――へっ?」


 視界に映ったのは、僕の部屋とは鏡写しの間取りの一室だった。狭い玄関先に、仰向けに寝転がった大きな足が見える。え、マジで死んでる?


 すると、床から低い唸り声が聞こえてきた。


「お、俺はもうおしまいだ……っぐす、ううう……っ」


 自分が管理するアパートだからか、こんな時でもきっちりと土間で靴を揃えて脱いでいった大家さんが、仰向けになっている人物の横にしゃがむ。


 眉根を寄せながら、段ボールが積まれたままの室内を見回した。


「如月さん、昼間っからこんなに飲んで……死んでるのかと思ったじゃないの」


 はあー、と大仰な溜息を吐く。その間も、床からは「グスッ、うう、ひっく」という何とも情けない泣き声が聞こえ続けた。


 何となく分かった。意気揚々と引っ越してきて、入社初日に会社が倒産して人生を悲観して酒を飲んで酔っ払ってしまったんだろう。


「お酒? あれ、同期なのにお酒……」

「如月さんは大卒だよ。だから二十三歳だね」

「へえー、そうなんですね」


 床に散らばっているのは、発泡酒の空き缶。ざっと見ても、五本は転がっている。如月と呼ばれた同期になる予定だった男の肩を揺すっている大家さんの困ったような眉毛を見て、勝手ながら僕も如月宅に上がり込んだ。


 キッチンの水切り場にコップがあったので、水道水を汲んで如月の顔の横に膝を突く。


 前髪はボサボサ、涙で濡れて目が見えない。


「あの、僕同期になる予定だった隣の部屋の大木拓夢ひろむです。大家さん来てるんで起きましょ?」

「うう……俺、どうしたら……っ」


 如月は相当酔っているのか、自分の世界に浸りきっているみたいだ。大家さんは僕と目線を合わすと、首を横に振った。大家さんも被害者だけど、理由が理由だけに強くは出られないんだろう。


 仕方ない。ここは僕の出番だ。


 コップを横に置き、なにはともあれ目が合わないことにはと瞼に張り付いた前髪を指でそっと避ける。すると出てきたのは、思わず「わお」って声が漏れそうになるほどのアイドル顔だった。この人、この顔があればすぐに転職も可能なんじゃないか?


 人間顔じゃないとは言うけれど、見た目がいい方が得をするのは事実だ。連れ去り事件と騒がれながらも世間が父さんに同情的だったのは、絶対父さんの儚い系美人な雰囲気のお陰はあると思っている。現に店長も父さんにメロメロだし。父さんはああ見えてかなりめげないタイプなんだけど、そう見えないから守りたくなっちゃったんだろうな。


 小説の締め切りが間に合わなくて何度も逃走しては悪びれず笑ってたし、なんせミステリー作家だからしょっちゅう人の殺し方を考えてるし。


「如月さん、とりあえずお水飲みましょっか」

「……誰?」

「だから同期になる予定だった大木ですってば」


 如月が、酔いが覚めたかのように何度も瞬きをする。


「女の子の同期いるなんて聞いてない……」

「うるさい。女顔で悪かったな」

「え、男? だってこんな小さくて可愛いのに……」

「うるさい。殴るぞ」


 日頃平和主義な僕でも、このことに関して言われた時は俄然戦う気満々になるのだ。


「ごめんなさい」


 如月は素直に謝った。

 

 父さんも僕も、身長はそこまで高くない。それでも父さんは160止まりだったけど、僕は165あるんだ。店長に「守りたいと思ったんだ」なんて言われる父さんほど、僕は華奢じゃない。「天使が舞い降りたかと思った」なんて言われる父さんほど、女顔でもない。多分。


「とにかく起き上がって」

「あ、はい」


 如月の背中を支えながら起こすと、コップを手渡す。如月は首を傾けながら、僕の顔をじっと見ていた。不躾って知ってるかな、この人?


 と、居心地が悪そうに僕らのやり取りを眺めていた大家さんが言った。


「あの、他の人にも話をしないといけないから、最後に戻ってくるね? 大木さんお願いしていい?」

「え……」


 冗談だろ、と思っている間に、大家さんはサーッといなくなってしまった。ご丁寧にドアまで閉めて。


「嘘だろ……」


 呆然としている僕に、水を飲み干した如月が問いかける。


「ねえ、大木さん……君、この先どうするの?」

「え? どうって何? 就活するけど」


 生きる為には働くしかない。働く為には就職活動をするしかないだろう。何言ってんだこいつ、と冷めた目で見ていると。


「どうしてそんなにスパッと切り替えられるの……?」


 じわりとまた如月の瞳が潤み始めたじゃないか。うわ……泣き上戸めんどくさい。


 しかも如月は、何故か僕の両肩を掴んできた。こいつ馬鹿力だな。


「ねえ、どうやって切り替えてるの? お願い教えて!」

「どうやってって言われても……僕、この程度じゃへこたれないし」

「だから、どうして!?」


 しつこい。


「……引かないでよ?」

「うん、約束する!」


 キラキラした瞳で深く頷かれたので、僕はつい僕の人生に起きたトンデモ事件の数々を話してしまった。


 ――そして。


拓夢ひろむ……っ! 君は、君は幸せになる権利がある……っ!」

「はあ……」


 何故か僕は今、同期になる予定だっただけのさっき知り合った隣人・如月の腕にきつく抱き締められている。どうしてこうなった? ていうか呼び捨てされてるんだけど。


「僕、別に不幸せじゃないよ」


 年上だけど敬語を使う気すら失せて、タメ口で答えた。だけど如月は「我慢しなくていいんだよっ!」と人の耳元で叫ぶと、僕を更にギューッと抱き締めたじゃないか。ぐえ。


「俺、俺……決めたっ!」

「どうどう。大丈夫、平気平気、生きてりゃ人生なんとでもなるから」


 辛うじて動かせる手で如月の広い背中をぽんぽん叩くと、如月はブンブンと首を横に振る。


「俺が! まだ甲斐性はないけどっ!」

「ほら、落ち着いて」

「俺が拓夢ひろむを幸せにするから! 約束するから!」

「大丈……は?」


 こいつ何言ってんの? と思って顔を上げた、その時。


拓夢ひろむ!」

「ちょ、ちょっと待て! 早まるな――ぶふうっ!」


 酒臭い口が、俺の口に重なった。


 嘘でしょ……。

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