第2話
あてどもなく歩きながら私はモニターアイを起動させる。目の端を野良猫がかけ去っていく気がするが、鼠かもしれない。何もわからない。
もう何度もやった作業だ。政府のHPに飛び、「
申請者の氏名、住所、ランク、年齢を入力した後、被申請者の情報を入力する。確認のためIDを読み取らせた後、被申請者の財産管理の表に移って「同額共用の方、差額遺文の方、全贈与の方」の選択が出てくる。
高等教育を受けていない私は単語の意味すら分からない。とりあえず適当に一つ選んで先に進む。レンシャリア名義の財産を全てちまちま入力しないと先に進めないようになっている。全部コピペで埋めると、異議申し立ての理由として「非申請者が社会に滞在することで、社会貢献になるため、その他の意義になるため」の二つの選択肢がでてくる。「その他の意義になるため」を選ぶと初めて自由記載欄が出てくるから、そこにレンシャリアが私にとって生きる指針であること、レンシャリアの介護費用は私の給与で賄えているため何ら国に迷惑をかけていないことを長々と入力し、送信ボタンを押す。この数週間で何十通も送信したが返事はまったくない。
あの日、レンシャリアは静かに笑って
「身体も動かない私がヴァリの負担になってるのがずっと嫌だったの」
彼女が連れて行かれた翌日に二人用居室を追い出され、私は一人用居室に移動させられた。その部屋にはずっと帰っていない。レンシャリアのいない部屋に帰る価値などない。
個人IDの配偶者欄も私の許可なく「無し」に更新された。仕事はもう何日無断欠勤しているだろう。アヴァさんからは個人メールも来ていた気がするがわからない。
「ママ」
涼やかな声が後ろからした。もちろん私は振り返らない。こんな狭くて汚い路地裏で声を掛けるのは違法な薬か売春の誘いに決まっている。
「ヴァリシア・ハルカゼ、3959140355を呼んでるんだよ」
一発ぶち殴ってやろうかと振り向きざまに距離を詰める。拳を振りかざした瞬間、私の目の前にいる少女が
「ママ、ねえ、あたしを助けて」
「はぁ?」
私が眉をしかめると、少女は笑ってその長い髪を揺らした。
「説明してあげよっか。ママってのは太古の昔に滅びた古の言葉。個体が生成されるために二個体の遺伝子を掛け合わせるのは知ってるでしょ?そのうちの雌の片割れの方の呼び名。あたしはママを探してたの、そしてついに見つけた」
私は何度か瞬きをした。動け、脳味噌。
「……あんたの遺伝子の半分が私由来だってこと?」
「さすがあたしのママ、賢いね。ねえあたしと一緒に、雄の片割れ、パパを助けに行こう。ママなんだから行ってくれるよね?」
あまりのぶっとんだ話に心身の疲労がたまりきった私はついていけず、気を失ったらしい。
目を開けると寝室だった。窓の外はもう暗い。ベッドから身を起こすと、窓から
グレーのカーテンが風で揺らめく。レンシャリアが気に入っていたあの部屋のオレンジ色のカーテンを持ってくれば良かった。
私達の部屋はもう清掃され、新しい誰かが住んでいるのだろうか。引っ越しの時は何の気力もなくてほとんど身一つで部屋を出てきてしまったことに今更後悔する。
「世話が焼けるねえ」
少女が私にグラスを手渡した。私は一息で飲み干す。身体の隅々に水が染みわたる感覚がある。しばらく忘れていた感覚だ。
イザベル・リンリンと名乗るこの少女は、IDを頼りにここに連れ帰ってくれたらしい。
まだぼんやりと靄がかかったような頭の私におかまいなく、イザベルは説明を始めた。
曰くー
農業を発展させて収穫物の量を増やし、人工食糧を工場で生産しながらも、この星で賄える食料は限られている。とどめられない人口増加を背景に、生殖は
したがって、この世にいるすべての人類は人口子宮の膜をメスで切り裂かれて生まれてくる。赤子は専門の
同じ寮で育った
人以外の生き物がいまだに下等な性交による受精生殖のしがらみに囚われている一方で、人類は性交と生殖を切り離すことに成功した。さらに、国家にとって不要な
イザベルの「パパ」も最近
「私とは初対面だけど、パパとは交流があったの?」
「冷淡なママと違って、パパは毎年誕生日にポストカードをくれてて、成人したのをきっかけに時々会ってた」
イザベルの出生の事実さえ知らなかったのだから冷淡でもなんでもない、と私は思うが黙っておく。彼女は私の目をじっと見つめながら言った。
「
目の前が真っ暗になったような気分で私はイザベルに問う。
「一生出られないってこと?」
そんな事実さえ
「……生きてればいいけどって感じだけど」
私は頭の中で鳴る警報に気付かないふりをする。レンシャリアが死んだなんて信じない。
「それで……パパってのは?」
「ソランヴェル・タカイ、ID8911527117」
イザベルは耳たぶに埋め込まれたスイッチを押して、宙空にモニターを表示させた。これといった特徴のない小太りの初老男性が映る。
「……オッサンと私、合わせたらアンタになる?ならないと思うけど」
私はモニターとイザベルを何度も見比べながら値踏みする。客観的に見て、イザベルの顔はかなり整っている。
「に、似てるじゃん!眉毛の濃さとか、耳たぶの形とか」
「どうだか」
私はモニターに顔を近づけて確認しようとしたが、イザベルは慌ててスイッチを切った。イザベルも父の容姿に関しては満足していないんだろう。
「ってか、本当に私の子って証拠あんの?」
「私の生まれる一年前、3098年にママの卵子使用許諾確認書類が届いてるはず」
「見た記憶ないけどなあ」
私がまだ
そういえば、レンシャリアは自分の卵子が誰かの精子と強制的に受精させられることがキモいからと、毎回注意深く通知を確認し律儀に拒否の返答をしていた気がする。あれは自分の病気が遺伝したら申し訳ないという気持ちもあったのかもしれない。
「
「なんで知ってんの」
「この前返事したから」
「そんなに若いのに?」
「ママが卵子提供した時とそんな変わんないよ」
「……そっか、大人になったんだねぇ……」
「全然感慨深くないくせに、かみしめるのやめてくれる?」
私は苦笑する。生意気なイザベルの話し方は失礼だけど、嫌な気はしなかった。ただ突然目の前に現れて、自分の子だと言われてもまったく何の感慨も感じないのは正直なところだ。
私は薬指に嵌めた指輪をくるくる回す。レンシャリアとの婚姻は知らない間に解消されてしまったけれど、この指輪は外す気はない。
「素敵な指輪」
イザベルは目ざとく見つけて褒めてくれる。
「ありがと」
「……レンシャリアはどんな人だったの?」
「綺麗で優しくて、いつも人の事を優先してさ……」
そこまで言った瞬間、脳裏にレンシャリアの笑顔が浮かんだ。あのいつも少し困ったように眉を寄せて控えめに笑う顔。急に腹の中から熱い塊が込み上げてきて、目の前が歪んだ。大粒の涙が次から次に零れてくる。
「あ……れ」
私は手の甲で目をこすろうとするが、追い付かない。涙の波に巻き込まれて溺れていく。
「……泣きなよ」
イザベルが私の肩を抱いて静かに言った。私は子どものようにわんわん泣いた。レンシャリアと離れてから泣いたのはこれが初めてだ、と頭のどこかで思っていた。
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