第14話 四年前、六月十四日〈3〉
その後も神社のおじいちゃんはいろいろな話をしてくれた。
どんよりとした気分になっているおれたちを気遣ってくれたのだろう、面白おかしいエピソードが柔らかい語り口から次々に繰りだされていく。
中でも青年時代、戦後の闇市での乱闘話はまるで映画のような迫力だった。
悪党たち相手に合気道で大立ち回り、見事とっちめてすかっと締めくくられるかと思いきや、師範から「修養が足りぬ!」と大目玉を食らってしまったそうだ。このときにはすっかりリラックスして足を崩していたおれは思わず吹きだしてしまう。
幼い頃から剣道をやっている泉とも武道トークで盛り上がり、気がつけば時刻は午後六時半になろうとしていた。
おじいちゃんや娘さん、それに現在神職を務めている義理の息子さん(といっても結構な年齢なのだが)から「よければ晩ごはんもご一緒に」と誘ってもらったのだが、さすがにそこまで甘えるわけにもいかない。
感謝の言葉をそれぞれに述べてお暇し、悲劇の舞台となった例の崖を互いに黙ったまましばらく見学してからおれたちは帰路に着く。
雨脚も来たときに比べればずいぶん弱まっており、おまけになぜか真っ赤な夕日まで見える。麓へと続く長い階段のてっぺんから雨と夕焼けの合わさった景色を眺めていると、先ほどおじいちゃんから聞いた話のせいだろうか、この世とあの世の境目に自分が立っているような気がした。
「おいおい、雨なのになんで夕焼けなんだよ」
おかしくねえか、と同意を求めたおれに対し、葵から返ってきた言葉は辛辣極まりなかった。
「バカじゃないの陽平。あのね、あっちは西の空なんだから、すでに雨が上がっていたって何もおかしくないでしょうが。おわかり?」
少し考えてから「おお!」とようやくおれは葵の説明を飲みこむ。
「なるほどー。葵、やっぱおまえ頭いいな」
「あんたがおバカさんなだけ」
「くっそ、人がせっかく素直に褒めてやったというのに」
「はいはい、そりゃどうも」
泉が間を取り持つように「じゃあ明日は晴れるんだ。でもわたし、雨も好きなんだけどね」と口にし、どういうわけか傘を畳みだした。
「だね。雨、わたしも好きだな。ちよさんもきっと雨を願ってたんだろうね。だって好きな人に出会えたのは雨の降る日だったんだから」
葵も泉にならう。
二人は畳んだ傘を近くの木に立てかけ、手を広げてきゃっきゃと雨と戯れだした。
服や髪が濡れるのをまるで厭わず、双子の姉妹が雨の中で踊る。ただはしゃいでいただけなんだとしても、おれの目には踊っているようにしか見えなかった。
世界中の誰よりも綺麗な、びしょ濡れで笑う二人の踊り子。
西の果てに沈みゆく陽の光を背に、輝くほどに眩い彼女たちの向こうには姫ヶ瀬の街が広がっていた。
雨に煙っているせいでぼんやりと、しかしはっきりと存在している。
ここがおれの街なんだ、と生まれて初めて痛切に思った。そして葵と泉の生まれ育った街なのだ、と。
突っ立ったままで眼下の街を眺めているおれの手から、いきなり安物のビニール傘が乱暴にもぎとられた。
葵かと思ったが意外なことに泉の仕業だった。
彼女はわざとらしくふくれっ面をしてみせる。
「陽ちゃん、何で空気も読まず真顔なの」
「ここはあんたも傘を放り投げる流れでしょうが」
同調した葵がおれの頬を人差し指で何度も突く。
傘が奪われたために体はどんどん雨に濡れていくが、なぜだか心地よく感じた。
だけど二人みたいに踊りだしたりはしない。
それはきっと不格好で、様にならないから。
代わりにおれはぽつりと呟く。
「綺麗だなあ、って感動してた」
「は?」
「え?」
動揺している彼女たちにあえて説明することなく、そのままおれは独り言のような言葉を重ねた。
「自分が生まれ育った街だからって、今まで何か特別に思ったことなんてなかった。大して面白いこともないなとか、そんなことしか思ってなかった。でも、いいよな。この街でよかったよ。ここに生まれてきて本当によかったよ」
葵と泉がいたから、などとことさらに強調する必要なんてどこにもないんだ。飲みこんだままずっと腹に留めておけばいい。そう、ずっと。
何を思ったか、二人は顔を見合わせるや否やそのまま階段を下りはじめた。シンクロしたかのような同じ歩調で。
おまえら傘は、とおれが口にするよりわずかに早く、またしても彼女たちはまったく同じタイミングでこっちへと振り返る。
「陽平のバーカ」
「陽ちゃんのバーカ」
それはもう、どうしようもなく最高の笑顔だった。
葵と泉、二人とどういうきっかけで仲よくなったのかなんてとっくの昔に忘却の彼方だし、別に何だっていいさ。
いつの間にかおれは、彼女たちを家族もしくはそれ以上の存在として受け止めていた。もう充分すぎる。
このまま大人になっていけば、いつか必ず二人のうちどちらかを傷つける耐えがたい決断をしなければならなくなるだろう。
たかが十二歳のガキにだってそのくらいはわかるんだよ。だったら今このときがおれの人生において最も光に満ちた瞬間だったとしてもかまいはしない。
大丈夫、あまりに完璧すぎる目の前の光景を思い出すだけできっと一人で生きていけるはずだ。
呆けたように葵と泉と姫ヶ瀬の街並みを眺めながら、おれは二人から離れるために雲の上の進学校だった星見台学園へ進もうと心に決めた。
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