第13話 四年前、六月十四日〈2〉

 三人それぞれにタオルまで手渡され、傘を差していたとはいえいくらか濡れていた部分を丁寧に拭いたおれたちは、おじいちゃんの後をとことことついていく。

 廊下には木の匂いが漂っていた。懐かしいような、どことなく落ち着かなくなるような、そんな匂いだ。


「どうぞこちらの部屋に。好きなところへお座りください」


 そう言っておじいちゃんが案内してくれたのは社務所の一番奥にある部屋だ。古びてこそいるが、掃除が行き届いていて埃一つなさそうな八畳間。

 真ん中にはうっすらと赤みがかったテーブルが置かれていた。

 おれたち三人は床の間とは逆側に並んで正座する。

 けれどもそんなおれたちを見ておじいちゃんはにっこりと微笑んだ。


「かしこまる必要はありませんよ。楽な姿勢の方が話も聞きやすいでしょう」


 剣道をやっている右隣の泉はそもそも正座に慣れているはずだし、左隣に座っている葵も涼しげな顔で「いえ、このままで大丈夫ですので」と答えていた。

 となればおれだけがいきなり胡坐をかくわけにもいかない。どうしても我慢ができなくなれば足を崩させてもらうとして、それまでは何とか正座で頑張ってみよう。


 申し訳ないことに人数分の温かいほうじ茶と和菓子の水無月まで用意してくれており、背筋のぴんと伸びたおじいちゃんは「どうぞ遠慮なく」と勧めてくる。

 おれたちはそのご厚意に甘えることにした。


「さて、どこから話しましょうか」


 無作法にも口いっぱいに水無月を頬張ったおれはとっさの問いに答えられず、代わって泉が「えと、その、神主さんにおまかせします」と緊張気味にしゃちほこばって返事をする。


「いえいえ、私はすでに気楽な隠居の身ですよ」


 やんわりと訂正を加えてから、おじいちゃんがおもむろに話しはじめた。

 とはいえ、レイニー・デイにまつわる伝承の大筋は、姫ヶ瀬に暮らしている人間であればほぼ一般常識と言っていい。

 傘の広告やら観光地の宣伝やらで耳にタコができるほど繰り返し聞かされているのだ。ここ葛見神社だっていわば聖地のひとつであるわけで。


 今より百年以上も昔の明治時代、和傘職人の家で徒弟として働いていた少年と、彼より少し年上の少女の恋物語だ。

 清吉とちよ、おれでもメインである登場人物二人の名前くらい知っている。


 とある商家の旦那が囲っていた妾の娘、それがちよだった。病に倒れた母親の快復を祈願するため、毎日あの長い石段を上って葛見神社へとやってきていた彼女は、ある雨の日に一人の少年と出会う。

 親方から言付かって傘を神社へと届けに来ていた清吉だ。


「あっという間に恋に落ちる、これは若い人たちの特権でしょう」


 まるでおれたちに問いかけているかのように、柔らかくおじいちゃんが笑う。でも小学生が言葉の意味を実感できるのはまだ少し先の話だ。


 ちよの母親は程なくしてこの世を去った。その喪も明けるか明けないかのうちに、ちよの縁談がまとめられる。体のいい厄介払いだったのだろう、相手は二回り以上も年の離れた男だったそうだ。

 彼女は逃げだした。着の身着のまま、行くあてなどなくただ足の進むに任せ、気づけば見慣れた葛見神社へとやってきていた。


「必死に祈ったのです。せめてもう一度、清吉少年に会ってからこの地を去りたいと」


 この日も雨が降りしきっていたのだという。果たせるかな、そこに現れたのは誰あろう清吉少年だったのだ。

 もう一度だけ、などという願いはほとんどの場合それだけで終わらない。


 ちよの状況を聞き知っていた清吉は息を荒く弾ませ、傘を差しかけながら彼女の手をとった。そして二人は駆け落ちの道を選び、どこか遠くの土地で幸せに暮らしたのだそうだ。

 まさに雨が取り持った恋の物語として話はここで終わる。


「この伝承を市内の熱心な郷土史研究家が掘り起こして以来、ここ葛見神社も縁結びの社として知られるようになったわけです」


 そう締めくくりながらもおじいちゃんの表情はなぜか浮かないものだった。

 葵も同様に感じたらしく、「今みたいにレイニー・デイだなんて騒ぐのはやっぱり納得できないんでしょうか」と身を乗りだす。

 だがおじいちゃんの反応は予想と違った。


「いえいえ、そうではありません」


 ゆっくりと頭を振ってから「実は」と切りだす。


「ここまでのところが一般によく知られている言い伝えではありますが、結末が歴史的事実とは大きく異なっているのですよ。もちろん、今日あなたがたは郷土史の勉強に来られたということですので、私もきちんとお話させてもらうつもりです。ただ若い人が聞かれて楽しくなる類の話ではありません」


 よろしいか、とばかりにおじいちゃんがおれたち三人の顔を見回した。

 葵に泉、それぞれと目配せしあい、同時に頷いて先を促す。

 静かにお茶をすすったおじいちゃんは「では」と語りだした。


「清吉とちよの二人は結局逃げ切れなかった。年の頃は互いにまだ十五、六。味方となってくれる大人もなく、追いつめられた二人が選んだのは心中でした。死ぬことによって一緒になろうとしたのです」


 淡々とした口調だったがかえって言葉に重みを感じる。二人の恋はこの世では成就しなかったのだ、と信じざるを得ない。

 両隣に座る有坂姉妹も同様だったらしく、いきなり告げられた悲劇的な結末にショックを受けているように見える。


「この社の裏をもう少し進んでいけば、とてもささやかに水が流れ落ちている滝らしき場所があります。後でご覧になってください。ちょっとした崖のようになっているがおわかりになるでしょう。まだ幼いといってもいいほどに若かった彼らが、世を儚んで身を投げたのが再会した雨の日にだったのか、それとも別の日だったのかまではわかりません。ですが、いずれにせよ現実の物語は悲恋として終わりを迎えました」

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