第11話 ルームメイトが言うことには

 年季の入った椅子を軋ませながら蜂谷が自慢の黒髪にドライヤーをあてている。


「災難だったな」


「よく言う。とどめを刺してくれたのはおまえじゃねえか」


 ぼやきつつも、例外として自室限定でルームメイトとだけは会話が許される規則のありがたみをおれはこっそり噛み締めていた。

 沈黙の食事と入浴を終え、早くも人恋しさを感じていたからだ。


 賑やかな寮内にあって強制的にコミュニケーションを禁じられるのは確かにきつい。こんな羽目になった元凶であるアホのユタとでもいいから会話したい、とまで思ってしまったくらいに。


「すまん。こちらが軽率だった」


「まあ、別にかまわないけどよ。それよりちゃんと聞かせてくれるんだろうな」


「泉さんのことか」


「おう」


 ふむ、とドライヤーのスイッチを切って蜂谷は応じたきり、将棋指しか碁打ちかと見紛うほどの長考に入っていく。


「蜂谷、もし言いにくい内容だったら別に無理する必要はないからな」


 助け船のつもりで言い添えたが、なおも蜂谷は沈黙したままだ。

 話すと決めた以上、彼はその意志を貫くつもりなのだ。ならおれにできるのは急かすことなく辛抱強く待つだけだ。

 部屋に貼られたポスターの三船敏郎とともに見守る中、意を決したらしい蜂谷がようやく口を開いた。


「半年前、泉さんに告白して振られたんだ」


 待て待て待て待て、こいつはいったいどこから話を始める気なのか。


「あー、ちょっといいか、背景として聞きたいことがいくつかある。そもそもどこで泉と知り合ったんだ」


「志水よ、剣道部には警察の方が外部の臨時コーチとして月イチで来てくれているのは知っているか」


「そうなの? でもそれがどういう──」


「泉さんの父君だ」


 これには驚いた。何よりおれがその事実を知らずにいたことに。


「非常に優れた指導をされる方でね、月に一回では物足らず、あの方が師範代をされている道場にまでときどきだが個人的に足を運んでいるんだ」


「やっと話が繋がったよ。そこで修練を積んでいたのが泉なんだな」


「その通り。これまで女になどまるで興味のなかったおれがすっかり一目惚れだったよ。その所作の美しさ、剣の強さ、どこか漂う儚さ。もうすべてが完璧だった。志水ならわかってくれるんじゃないか」


 わかるとも、わからないとも言いにくい。

 おれは何も答えず手だけでそのまま話の先を促す。


「日に日に強くなる恋心をもう自分の器の中にはしまいきれないとわかったとき、おれはその気持ちを伝えようと決意した。そしてさっきも言ったように玉砕したのさ」


 蜂谷は静かに続けた。


「彼女は言ったよ。『ずっと好きな人がいるから』と」


 それが誰を指しているか、たぶんおれにはわかっている。

 そして蜂谷もまた。


「普通に会話ができるようになったのはむしろそれからだな。で、近頃じゃ互いに共通の知人がいることもわかった。もちろん彼女の父君以外でな。その人の話をするとき、彼女はいちばん素敵な笑顔を見せてくれるんだ、悔しいことに」


 さて、と言って蜂谷は首を鳴らした。


「とぼける権利くらいは与えてやってもいいが、どうする」


「いや、いい」


 内堀まで埋められたような落城寸前の状況ですっとぼけても仕方ない。

 しかし現代に生きる武士、蜂谷誠十郎の態度はあくまで自らを律したものだった。


「なら話は早い。おれが聞きたいのはひとつだけだ。おまえ、彼女のことをどうするつもりなんだ。うちに入ってきた彼女の双子の姉とも親しいんだろう? 何やら事情がありそうな雰囲気だから詳しく聞くつもりはないが」


「どうもこうもしねえよ。おれは誰を選ぶ気もない」


 マイルドに返答するつもりが、有無をいわせぬ調子となってしまった。


「なぜだ。野暮のお節介を承知で言うが、泉さんと付き合う選択肢はおまえの中にないのか」


「簡単に言ってくれるぜ」


 恨みがましい響きになったのも無理はない。

 潔く認めよう。おれにとって有坂家の二人の女の子、葵と泉はともに特別な存在だ。他の誰とも比べようがないほどに。そして勘違いでなければおれ自身も二人から同様に想われている。


 なのにもし、おれが二人のうちどちらかを恋愛相手として選んでしまえば、選ばれなかったもう一人をきっとひどく傷つけてしまう。

 昔も、今も、この先も、おれは決してそれを望まない。


 葵と同様、およそ二年ぶりに会ったときの泉の様子を思い出す。

〈オルタンシア〉の窓から入ってくる午後の日差しで、まだ見慣れない彼女の金髪が光に透けて一段ときらめいて見えていた。


「そういや泉の通っている高校はそんな派手な金髪にしても大丈夫なのか」


 会話を繋げていくための何気ない一言だったはずが、泉の答えは予定調和を崩すまったく予想外のものだった。


「高校? 行ってないよ。こういう髪の色も一生に一度くらいはありかな、と思ってやってみただけ」


 トーンを変えることなく口にした泉とは対照的に、その結論に至った背景がわからないおれは「は? え?」と混乱するばかりだ。

 ぽかんと口を開けたままのおれを見てから、彼女は目線を少し下に落とした。


「別にちゃんとした理由があるわけじゃないんだけど」


 そう前置きして泉が説明してくれたのは簡単な事の成り行きだった。

 高校受験当日の朝、彼女は志望している公立高校へ向かうための電車にきちんと乗ったのだという。けれども目的地で降りることなく電車に乗り続け、そのまま終点にまで行き着いてしまった。

 もちろんもう受験の開始時刻はとっくに過ぎていた。


 いくら思い返してみても「明確な意志はそこになかった」と泉は言う。

 なぜそうしてしまったのか、自分でもはっきりとはわからないのだそうだ。ただ、気持ちは軽くなった、と。


「不思議なことに、ありのまま理由にもなっていない事情を説明してもお父さんは怒らなかったよ。それどころか『一年くらいの遅れなんて長い人生、そんなに大したことじゃない。泉がこの一年を納得いくように使ってくれればぼくはそれでかまわない』って。もちろんお母さんは陽ちゃんと同じように驚いて、どっちかといえば苦い顔をしていたんだけど、でもお父さんの意見は変わらなかった」


 ちょっと不気味でしょ、と泉は笑っていた。

 有坂姉妹の父、辰巳さんは一見すれば強面で厳格な警察官だ。

 だが葵も泉も、父から諭されるように叱られることはあっても、頭ごなしに怒鳴られたことはないと口を揃える。


 あんなことが起こっても、有坂家の在り方は根っこのところでは何も変わっていなかったことに、おれは本当に心の底から安堵した。

 おれは有坂辰巳という一人の人間に対して、どれだけ感謝しても足りないくらいの恩があると思い続けている。

 それでもおれの記憶に強く残っているのは、あの人が繰り返し頭を下げる姿ばかりだ。そんな必要なんてまるでなかったというのに。


「さすがおじさん。うちのちゃらんぽらん親父とはえらい違いだな」


 それだけを口にしたおれに、泉も暗に認めるような苦笑いで応じる。彼女だけでなく葵や唯さんも。


「ま、あんたさえよければ頑張って勉強して星見台に来なよ。そしてわたしと陽平のことを恭しく先輩って呼べ」


 煽っているのか激励しているのか、あるいは両方ぐちゃぐちゃに混ざっているのか。葵が肩をそびやかしながら言葉をかけるも、当の泉は「そんなの絶対にいや」とけんもほろろな対応だった。かすかな笑みを浮かべての。


 葵と泉がそこにいて、二人と冗談交じりに会話をし、時には鋭くやり合いながらも結局は互いを分かちがたく感じる。

 おれはこの空気がとても好きだったんだと今さらながら思い知らされてしまった。

 選べない。どうしたっておれは二人のどちらかなんて選べないのだ。

 そして誰にもその胸の内を明かすつもりもなかった。蜂谷は間違いなく信頼できる男だが、それでもだ。


「よっこらせ」


 互いが背中合わせになっている勉強机から離れ、梯子を伝ってもぞもぞと二段ベッドの上へと登ったおれに、蜂谷から咎める気持ちを多分に含んだ声がかかる。


「おい。まだ十時前だぞ」


 枕に顔を埋め、そのままの姿勢でおれは答えた。


「パトラッシュ、ぼくもう疲れたよ。なんだかとっても眠いんだ」


「誰がパトラッシュか」


「最後に三船敏郎が見られてよかったよ」


「貴様、おれの心の師をバカにすると──」


「すると?」


「斬る」


 蜂谷が腰を浮かして竹刀を手に取ったのが音でわかる。このままなら斬られるというよりは殴打されるといったほうがより正確だろう。痛いのは勘弁な。

 やれやれ、と蜂谷が珍しく乱暴に再び椅子へと腰を下ろした。


「志水よ。いつまでも結論を先延ばしにできるものではないぞ。腹を括れ」


 返事はしなかった。

 しかしそんなことはおれが誰よりいちばんわかっている。

 だからこそ結論は「二人から離れる」しかなかったのに。

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