第10話 世間は意外と狭かった

「おかえりなさいまし」


 夕方に帰寮して早々、玄関でユタの気持ち悪い挨拶を受けた。


「我ら寮生一同の希望の星でいらっしゃる志水同志に対しての本日の無礼な行動の数々、わたくし、大変反省しております。あっ、お体にスギ花粉が……」


「触んな。おまえの目だと本当に花粉が見えてそうで怖いわ」


 無遠慮に伸びてきたユタの手を全力で引っぱたいて退ける。

 ついてくるな、とユタを追い払いながら自分の名前が書かれた靴箱を開けた。しかしなぜかそこにあるはずのスリッパが見当たらない。


 おかしいなと首を捻っていると、まだしつこく傍らにいたユタがおもむろに懐から揃いのスリッパを取り出した。


「それがし、温めておきましたゆえ」


「黙れこのサル! 生温かすぎてこんなもん履けるかバカヤロウ!」


 怒りに駆られたおれはやつの顔面目掛け、受けとったスリッパを力いっぱい投げつけてやった。だが至近距離からの攻撃だったにもかかわらず、まさに猿のごとき敏捷さでユタは間一髪避けやがった。

 あわれにも奥の管理人室近くまで飛んでいくスリッパ。


 反省する素振りもみせず、ユタは不満そうに唇を尖らせた。その顔がまたふざけているとしか言いようがない。


「鉄板の秀吉ネタだったのにぃ」


「どの口が言ってんだ! ええおい、誠意の欠片もなくかつてのルームメイトを冤罪に陥れようとしたやつが!」


「おいおいジミー、おまえの辞書は冤罪の意味が間違ってるぞ? ちゃんとした辞書をおれが五千円くらいで売ってやろうか?」


 ぎゃあぎゃあとそんな愚にもつかぬやりとりを交わしていたおれたちだったが、「おうコラ!」と不意にドスの利いた声が降ってきてその場に凍りついてしまう。


「小僧ども、玄関先でぎゃあぎゃあ騒いでるんじゃねえよ」


 高校寮の管理人を務めている巨漢にして強面の二階堂さんだった。

 今年めでたく三十路を迎える二階堂さんはかつて大相撲の世界に身を投じており、幕下上位にまで番付を上げて十両へあと一歩のところに迫るほどだったという。

 しかし稽古の際に大怪我を負って二十代半ばで失意の引退をし、その後は流れ流れて星見台学園に拾われたそうだ。


 間違いなく学園最強である二階堂さんに凄まれたおれたちは、すかさず「すんませんしたっ!」と直立不動の姿勢から深々と詫びを入れた。

 たっぷり十秒間は頭を下げていたおれたちに「おら、凡人はひたすら稽古あるのみだ。部屋戻って勉強しろ」と叱咤して、二階堂さんは悠然と大股で去っていく。


 その背中に向かって「あざーっす!」ともう一度頭を下げた。だが二階堂さんが寮監室へと消えるなり、ユタの野郎はおれの肩に馴れ馴れしく腕を回してきた。


「で、ジミー。女子寮とのイベントはいつだ」


「はあ? そんなもん、やるかどうかすら定かじゃねえよ」


「バカモノ! おまえってやつは、再び漢の信頼を裏切るつもりなのか?」


 忍なら足抜けは死をもって償わなけりゃならんのだぜ、とユタは言う。あいにく忍じゃありませんし、おまえらとの信頼関係ももうありませんから。

 やつの腕を乱暴に払いのけ、また二階堂さんが出てきたりしないよう静かにスリッパを取りにいく。うだうだやっていたおかげで、生理的に受けつけない妙な温もりはすっかり消えていた。


「ふいー、二階堂さんの姿は心臓に悪いぜ」


 そのまましれっと立ち去るつもりだったが、ユタは見逃してくれずいつの間にかおれの学ランの裾をつかんでいた。


「こらこら、話はまだ終わっちゃいないぞ」


「しつこいなあ、そんなに女の子と遊びたきゃ街なか行ってナンパでもしてこいや。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって言うだろ」


「できるんだったらとっくにしとるわ! このシャイボーイにそんな大それた真似ができるとでも思ってんのか! 自分には可愛いガールフレンドがいるからって上から目線でもの言ってんじゃねえぞコラ!」


「おい声のボリューム下げろバカ、またどやされるぞ」


 こいつだけが二階堂さんに張りまわされるのならむしろ願ったり叶ったりだが、おれまで巻き添えになるのはほんと勘弁してほしい。

 そんなドキドキ状態のせいで、誰かが帰寮してきたその足音にもつい過敏に反応してしまう。

 帰ってきたのは、剣道部の活動を終えて体を上気させた道着姿の蜂谷だった。


「いつもながら騒がしいな」


 一瞥して蜂谷は言う。

 おれはただ苦笑いで答えるのみだ。

 だが彼は予想外な反応をみせ、おれの目をじっと見据えてきた。


「なんだよ。照れるじゃねえか」


 おどけて返すおれに、とんでもなく衝撃的な発言が蜂谷の口から飛び出した。


「志水よ。泉さんとはちゃんと会えたのか?」


 驚きのあまり、手に持っていたスリッパを思わず床に落としてしまう。


「ちょっ、ちょっと待って、なんでそれを知ってる? ていうか知り合い?」


 まさかの問いに動揺を隠せずにいるおれを、突然後ろから押しのける者がいた。誰の仕業かは考えるまでもない。


「質問するのはこっちが先じゃボケぇ! その泉ってのは男か、それとも女か。嘘偽りなく話せやハチぃ!」


「ふむ、女だ。さしずめ剣のできる大和撫子といったところだな。今は異国の剣士風になっているが、いずれにせよ綺麗な人だよ」


 悪鬼羅刹のような剣幕のユタに対しても、蜂谷は常日頃と変わらぬテンションで淡々と答える。

 ああ、確かに泉は剣道をずっと続けていた。まず間違いない。


 蜂谷の返答を受けて、過激に反応するでなく逆に背中がしょぼくれたように見えるユタだったが、むしろそちらの方が不気味だ。

 ぽつりとこぼすようにユタは言った。


「こりゃあもう、寮長に直訴するしかねえ。このままだとせっかくの実りをこの外道に乱獲されておらたちは飢え死にしちまう」


 誰が外道だ、誰が。

 こちらをきっと睨みつけ「村の暮らしはおらが守る!」と叫ぶが早いか、ユタのやつは走り去ってしまった。


 そしてまだ夕食時間にもなっていない三十分後、不要なプリントの裏に書き殴られただけの雑な文書が寮のロビーにある掲示板へ貼り出された。


「志水陽平   上記の者を三日間の『一人無人島の刑』に処す   寮長」

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