第2話 再会

 ぱあん、と頬を打つ乾いた音が廊下中に響き渡る。

 まだ春休みボケの抜けきっていない始業式後の緩んだ空気を切り裂いたその音は、ざわついていた周囲の注目を一瞬にして集めてしまう。

 口を半開きにして痺れた頬をさすっていたおれの姿は、誰の目からもさぞかし間抜けに映っていたことだろう。


「えっ……と、久しぶりの挨拶にしてはやけに派手だな」


 出てきた感想もやはり間が抜けている。


「いやいや、こんなんじゃ全然足りないんだけど。だいぶ利子も貯まってるし、気がすむまでやってもいいなら」


 そう言って、目の前の見慣れぬ制服姿の女子生徒は再び右手を大きく引いた。


「待て待て、とにかく落ち着け」


「ご心配なく、冷静も冷静。あんたに会ったらまず一発引っぱたこうってずっと思ってたんだから。というか、一発だけじゃとてもじゃないけど物足りない」


 不敵に笑いながら恐ろしいことをさらりと述べる。


「悪いけど遠慮させてもらうわ。おれのデリケートな柔肌はこれ以上の痛みには耐えられません」


「そ。じゃあ次に顔を合わせたときにね」


 そんな物騒な次回予告はいらん、と小声で突っこんでからおれは本来彼女へ真っ先にかけなければならなかった言葉、「入学おめでとう」を口にした。


「つか、まさかこの学校に入ってくるとは思わなかった」


「ん、わかってはいたけど女子の人数が少ないのはちょっと不安かも」


「心配ない。ここにいるのはおれをはじめ穏やかで争いを好まぬ草食男子ばかりだから、肉食系のおまえならすぐサバンナの頂点に立てるさ」


「あんた、やっぱりもう一度叩かれたいわけ?」


 だけど口ぶりとは裏腹に彼女の表情は柔らかくなっている。


「相変わらずバカだね、陽平は」


 長らく耳にしていなかったおれの名を呼ぶその声に、へらへらとした態度を装いながらも内心ではマグニチュード9のレベルで動揺していた。

 ああ、彼女は確かに有坂葵だ。


 葵とはいわゆる幼馴染みというやつで、かつては同じマンションに住み、うちが引っ越してからも六年間同じ小学校の同じクラスに通い、まあ、仲はよかった、と思う。クラスメイトから幼稚に冷やかされるくらいには。


 しかし中学時代の三年間、彼女とたった一度しか会っていない。中学二年の途中でおれは学校の寮に入ったし、そこにはいろいろな事情があるとはいえ、正直いってもう顔を合わせる機会はないかもしれないと感じていたほどだ。


 どんな会話を交わせばいいのか、迷っている間に葵の方から話を切りだしてきた。


「あんた、どうせ今日暇でしょ」


「なぜそう決めつける。まあ、部活にも入っていないし暇には違いないが」


「聞くまでもなかったか。あのね、うちのお母さんがさ、最近顔を見せてなかったから久々にあんたにご馳走したいって言ってるの。わたしの入学祝いとあんたの高等部進級祝いもかねてさ。だから、その、どうだろうか」


 ほんのわずかな違和感があった。戸惑いと呼ぶべきなのかもしれない。以前の彼女であればもっと強引な誘い方をしてきたはずなのだが、右も左もわからない新しい学校で実は緊張しているのか、それとも少し大人になったのか。

 時間の流れは確実にお互いを変えている。それを成長と呼ぶべきなのかどうかはおれにはわからなかった。


 彼女に向けて小さく頷き、承諾の意を示す。


「じゃあ、ありがたく唯さんのお招きにあずかろうかな」


 葵の入学はともかく、こちらの高等部進学など祝われるほど大したものでもないが、葵の母親である唯さんの料理につられたのは否定できない。

 ちなみに唯さんを決して「おばさん」などと呼ぶべからず、それはおれが幼い頃からの厳然たるルールだ。


 ただし、その「おばさん」なる呼称がふさわしくないのも事実だった。

 唯さんはこぢんまりとしているが本格的なビストロ〈オルタンシア〉をオーナーシェフとして切り盛りしており、コックコートなどは着ずラフな格好で家庭的なフランス料理を豪快に作る姿は本当に格好いい。


「店のランチの営業が終わってからだから、少しお昼が遅くなるけど」


「かまわねえよ。そのぶん腹を空かせていけるってもんだ」


「わかった。じゃあ、一時半に正門のところで」


「ん? 先に帰っててもらっても大丈夫だぞ」


「そんなこと言って、ちゃんと店の場所覚えてるの?」


「まあ、だいぶうろ覚えではあるが」


「だめじゃん。やっぱりわたしが道案内しなきゃ。お母さんにもきっちり連れてこいって言われてるしさ」


 結論は出た、とばかりに葵はにっこり笑う。


「そしたらまたあとで。遅れないでよ」


 そう言って歩きだした葵だったが、何歩か進んだところで足を止めて振り返った。昔よりも伸びた、肩にかかる綺麗な黒髪が音もなく揺れる。


「これからよろしくね」


 なぜか「こちらこそよろしく」という返事が出てこずに、ひらひらと手を振るだけでおれは黙って彼女の後ろ姿を見送った。

 とても大きな空白が一気に埋まったみたいな、かすかな余韻がまだそこには残っていた。

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