どっちでも良かった運命

如月姫蝶

どっちでも良かった運命

「俺は、一兵卒だ。そして、最前線で玉砕を命じられた身の上だった」

 亀山誠かめやままこと——そう名乗る男は、ぐいっと身を乗り出した。

 二十代の半ばと思われる、小柄ながら眼光鋭く威圧的な男だ。

「おい……玉砕って意味がわかるか? 戦の勝敗なんぞどっちでも良いから、戦って死ねって、そういうことなんだぞ!」

 亀山は、話し相手の襟首を掴み、有無を言わさず肉迫したのである。

 そして、相手が背けた顔を見詰めながら、その瞳孔は、ドクリと、一段と開いた。

「おまえ……やはり、綾子あやこに似ているな……」

 その声は、嫌に甘ったるく掠れた。

 灯りの乏しい小屋の中で、自称一兵卒の両眼は、どんな灯火よりも危うく燃え盛っていた——


「ホームレスが殴り殺されました。河川敷の、小屋の床を見てください!」

 警察への匿名の通報は、未明のことだった。若い男性と思しき声で、一方的にそれだけ伝えると切れたのである。

 発信元は、まさに一級河川に程近い公衆電話だった。その河川敷が、災害時の広域避難所に指定されているため、令和の現代でも、公衆電話が設置されているというわけだ。

 そこは、有事の際には避難所となるかもしれないが、平時はホームレスたちの小屋が立ち並んだ風景が広がっていた。もっとも、血腥い事件が発生した以上、今を平時と言うわけにもゆかないが。


 捜査一課に所属する岩尾いわお刑事が臨場したのは、日の出の時間帯だった。

 岩尾は、日々の職務に邁進しているがために、いい感じにくたびれた中年男である。ちょっとばかり変装すればここのホームレスたちに紛れ込めそうだな、などと、心の内で自虐しながら、同伴した制服警官に目配せした。

 岩尾は、主に殺人事件を担当する。幸いにしてと言うべきか、この河川敷に臨場するのは初めてだった。そこで、ここのホームレスたちの大半と顔見知りだという、最寄りの交番勤務の福田ふくだ巡査に協力を仰ぐことにしたのだ。

 いつか事件が解決したら、焼き鳥か中華料理、どちらかを奢るつもりだ。


 岩尾は、いくらか身を屈めて、事件現場たる小屋に這入った。

 被害者は、仲間内では「カメさん」と呼ばれていた、二十代であろう男性のホームレスだ。既に運び出されており、彼が「独居していた」という小屋の内部は無人と化していたが、なんとも動物的な残り香が強烈だった。

 凶器と思われるジャンクな鈍器も、小屋の中で発見され、こちらも既に科学捜査に回されている。

 そして、床に相当するダンボールの表面には、赤く、一つ一つが拳大の四文字が横書きされていたのである。

「スタート」と——

 被害者が、うつ伏せに倒れた状態で遺したと思われる、血文字のダイイングメッセージだった。


「……スタート?」

 岩尾は、眉根を寄せて考え込んだ。それは、頭部を鈍器で殴られ、薄れゆく意識の中で記した言葉としては、どうにも違和感があった。

 犯人を指す人名とも考えにくい。

 まさか、被害者は、死後の世界における新生活の開始を宣言したとでもいうのだろうか?

 それだけではなく、思えば、通報の内容にも引っかかる点があった。

 通報者は、「殴り殺され」たと具体的な殺害方法を述べた。つまり、目撃者か、犯人自身であったと考えられる。

 加えて、「小屋の床を見て」ほしかったということは、血液で記されたダイイングメッセージへの注目を望んだのだろう。であるならば、血文字は犯人による偽装工作だという可能性も考慮せねばなるまい。


「なあ、福田さんよう、カメさんを殺った犯人は、の野郎に違いねえぜ!」

 小屋の外で、何者かが、福田巡査に縋るようにして訴えかけていた。ホームレスの一人のようだった。

「なんだって!? クマさん、どうしてそう思うんだい?」

 名は体を表すなどと言うが、福田は、七福神と一緒に宝船に乗り込んでも絵になりそうなほど、福々しい人相の男だ。加えて、情に厚い言動により、この河川敷の住人たちの信頼を勝ち得ているのだ。


「昨夜はここにいたのに、今朝は姿が見えねえのは、トータスの野郎だけだからさ!」

 この「集落」のリーダー格らしきクマは、睨みを利かせるように辺りを見回しつつ言った。

「それによう、カメさんは、自分の小屋に他人を招き入れようとはしねえんだが、トータスの野郎のことだけは、年が近いせいか気に入ってたみてえで、しょっちゅう小屋に上げては一緒に酒を飲んでたみてえだからな。小屋の中で殺られちまったんなら、犯人はトータスに決まってらあ!」

 岩尾は、クマが捲し立てるのを、小屋の中で聴きながら、一応の筋が通った証言だと認めざるを得なかった。なるほど、被害者は、古風なことに、右から左へと犯人の呼び名を記したというわけか……


 それにしても、岩尾が様子を窺ったところ、クマと呼ばれるホームレスは、五十代のように見受けられた。そもそも、ここのホームレスは中高年の男性がほとんどなのだ。被害者たるカメはずいぶん年下だというのに、リーダー格のクマの物言いからは、カメに対する畏怖の念のようなものが感じ取れた。


「クマさん。被害者のカメさんは、確か、半年ほど前にここへ流れ着いたばかりの人で、あんたよりも余程年下だろう。あんたほどの人が、若い新参者に、一目置いたような物言いをするもんなんだなあ」

 福田もまた、岩尾と同様の感覚を抱いたらしく、クマのプライドを傷つけぬように問うたのだった。

 クマは、苦笑を含みながら口を開く。

「それはよう……カメさんは、やたらめったら喧嘩に強かったからさ。それこそ、人を殺したことがあったとしても驚きゃしねえよ。それに、酒に酔うと、『俺は一兵卒だ』とかなんとか言い出すこともあったしなぁ……」

「一兵卒? カメさんは、自衛隊にでも所属していたのかい?」

「それが……おかしなことに、本人が言うには、旧日本軍だとよ。出征して、南方の戦地で使ったヒロポンが恋しいだなんて与太話を聞かされたことだってあったぜ。俺の息子くらいの年頃だろうに、第二次世界大戦なんぞ経験したはずがあるかってんだ!」

 クマは、そこで一旦言葉を切ると、福田を拝むように手を合わせた。

「福田さん、すまねえなぁ……ヒロポンがどうのってぇ話は、今の今まで、あんたにも黙ってて」

「いやいや、構わんよ。それに、第二次世界大戦の当時なら、ヒロポンを取り締まる法律は、まだ存在しなかったはずだからな」

 福田は、柔和な笑顔で受け流した。新参者の与太話のせいで、ここの住人たちが、覚醒剤使用の疑いをかけられることを避けたかったのだろうと察してのことだろう。


 まさか、旧日本軍の兵士が、戦時中から時空を超えて、現代の日本に出現したわけではあるまいな……

 実はSF愛好家である岩尾の脳裏を、ふとそんな憶測が過ったが、何を馬鹿なことをと、すぐさま自身を戒めたのである。


「ところで、カメさんのことは一旦置いておいて、トータスのことを教えてくれないか? つい最近ここで見かけるようになったが、私は、二度ほど顔を見た程度だからね」

 福田は、話を切り替えた。

「ああ……あの野郎は、ここに仲間入りして、まだ一ヶ月と経ってねえ。自称二十五才の、人付き合いの悪い奴さ。なんでも、震災が原因で一家離散して、アルバイトを転々として食い繋ごうとしたが、うまくいかずにここに流れ着いたんだとよ。本名は聞いてねえが、名字に『亀』の字が入ってるとかで、カメさんと被っちゃいけねえってんで、本人の希望で『トータス』っつう呼び名に落ち着いたんだ」


 抜かりなく聴き取りながら、岩尾は、なるほどと納得した。トータスは英語で亀、より正確には陸亀を意味するからである。


 警察署に戻った岩尾の元には、やがて、科学捜査の担当者から、様々な情報がもたらされた。

 被害者である、通称「カメさん」の小屋にあった荷物から、軍服の一部と認識票が発見された。金属製の認識票には、「亀山誠」という名が刻まれていたという。

 軍服も認識票も、デザインは旧日本軍のものに酷似している。しかし、終戦後約八十年が経過した現在、それ相応にあるべき経年変化が認められないというのである。


 岩尾のSF脳が疼いた。経年変化が見られないということは、やはり、被害者は、戦時中から一気に時空を飛び越えた人物ではなかったのかと……


 しかし、岩尾は、刑事として重視せねばならない、別の情報にも直面したのである。

 亀山誠の名が刻まれた認識票から発見された指紋が、半年前に発生した、とある未解決事件の犯人が現場に遺したそれと一致したというのである。

 その事件とは、建設中のスタジアムにて発生した殺人事件である。そのスタジアムは、震災の被災地における復興のシンボルとして、建設が進められていた。

 半年前のある夜、コンビを組んで見回りを行っていた警備員二名が、侵入経路からして不明の何者かに殺害された。そして、未だ犯人逮捕には至っていないのだ……


 岩尾は、真面目にSF要素を排除して、推理をやり直した。

 カメさんと呼ばれた男は、そもそも、旧日本軍の軍服や認識票のレプリカを所持していた。そればかりか、自分は亀山誠という名の本物の兵士だという妄想も有していた。

 妄想の背景には、おそらく、覚醒剤の使用歴があるのだろう。

 直接の動機は不明ながら、彼は、半年前に殺人に及び、その後あの河川敷のホームレスと化したのではなかろうか……


 その後、また別の情報が、岩尾の元へもたらされた。

 凶器と断定された鈍器から、被害者とは異なる指紋が発見され、それが、亀山はじめという男のものだと判明したのである。

 彼は、未成年だった当時に傷害事件を起こしたため、警察のデータベースに指紋が登録されていたのだ。

 そうだ。亀山始こそが、トータスと呼ばれた男に違いない。


「亀山……」

 岩尾は呟いた。被害者と加害者は同姓ではないか。これは、果たして偶然なのだろうか……


 そして、翌日のことである。

 隣県のとある商店街にて、ご当地アイドルたる四人組の少女たちが、イベントのステージに立った。そして、拙くも微笑ましい歌や踊りを披露する最中——

「おまえら! 音楽を冒涜すんじゃねえっ!」

 若く小柄な男が、そんなふうに叫びながら、ステージに乱入して、アイドルたちに殴り掛かったのである。

 しかし、その拳は届かなかった。

 かぶりつきでステージを鑑賞していた熱心なファンたちが、いい仕事をしたからである。彼らは、寄って集って乱入者へと飛び掛かり、きちんと締めたうえで警察に突き出したのだ。

 そして、警察は、色めきたつこととなった。突き出されたその男が、指名手配中の亀山始だと判明したからである。


 亀山の身柄は、岩尾が勤務する警察署へと移送され、取り調べが行われることとなった。

 取り調べ室で亀山と対峙したのは、岩尾だ。そして、必要に応じて岩尾の補助を務めるため、若手の刑事が一名、室内に控えていた。

「カメさんを殴って死なせてしまいました。そのことに間違いありません。でも、あの人は、俺の音楽を応援してくれていたんだ……殺してからそのことがわかって、どうしていいかわからないまま逃げ出して、ヘタクソな歌が聞こえてきたので、ブチギレてしまいました……」

 亀山は、灰色のデスクの向こうから、しおらしく供述した。

 彼は、ご当地アイドルを襲撃して、ボコスカと私人逮捕されたため、些か人相が変わってしまったようだ。しかし、元は鼻筋の通った上品な顔立ちだったようである。

「俺は、バイトで食い繋ぎながら、シンガーソングライターとして活動してました。『スタート』っていう名義で、歌う動画をネットに上げてたんですよ」

「スタート?」

 岩尾は、聞き咎めずにはいられなかった。

「えっ!? 俺の名前って始だから英訳して……刑事さん、カメさんのダイイングメッセージ、ちゃんと見てくれましたよね?」

 始の口調に棘が生えた。

「ああ、もちろんだとも。昨日未明に通報したのは、きみ自身だったんだな?」

「はい」

 始は、しっかりと頷いた。


 やれやれ、どっちでも良かったわけか……


 岩尾は、その呟きを心の内に留めた。

 実は、かのダイイングメッセージを科学的に鑑定した結果、四文字の周囲に付着した血痕の形状から、右から左へと書き記されたものだと断定されたのだ。よって、「トータス」と読むべきなのだ。

 しかし、左右どちらから読んだところで、結局は亀山始を指していたことになるのだ。

 岩尾は、始の供述が停滞せぬよう、その事実を今は伏せておくことにした。その一方で、供述が捗るよう、別の事実を明かすことにした。


「ああ……カメさんは、いつの間にか、俺の音楽活動を知ってくれていたのに……俺は、そんな人をこの手で……いったい、どうやって償えばいいんだ……」

「カメさんなら、生きてるよ」

 岩尾は、ここぞとばかりに始に歩み寄り、その肩に手を置いて告げたのである。

「え……」

「きみだけではなく、仲間のホームレスたちも、彼が亡くなったと誤解したようだがね。未だ意識不明ながら、入院して治療を受けているよ。捜査一課は、殺人だけではなく殺人未遂も担当するから、私はこうしてきみの前にいる」

 岩尾は、始の眼を覗き込んだ。

「償うと言うのなら、まずは全てを正直に話したまえ」


 始は、「夢みたいだ……」と一頻り泣きじゃくってから、供述を再開したのである。


 俺は、亀山家の本家に生まれました。亀山家は、戦後すぐに没落したけど、元は田舎の大地主だった家系です。俺も、それなりに大きな一軒家で生まれ育ちました。

 何せ田舎のことだから、仏間の畳の上で仰向けになると、部屋中に飾られた、ご先祖たちの写真に見下ろされました。大きな仏壇を中心としたような家の造りでした。

 けど、本当に家の中心だったのは、家族に大事にされていたのは、寝たきりのひいばあさんと、生まれつき病弱な弟でした。まだ子供だった俺は、いつも不満を募らせてましたよ。傷害事件を起こしたり、バカなマネもしました。

 まだ生きるべきか、もう死んじまうべきか……なんて、しょっちゅう悩んでいました。


 大震災に見舞われたのは、中学生のころです。俺は、ひいばあさんや弟の悲鳴が聞こえていたのに、咄嗟にそれに背を向けて逃げ出しました。それ以来、家族の誰とも会ってないし、連絡を取ったこともありません。

 都会に出て、アルバイトを頑張りながら、ミュージシャンとしての活躍を夢見ました。

 でも、結局はホームレスに……


 今から半年前、大震災以来の途方もなくショックな出来事を経験しました。あの、未解決の、スタジアムでの殺人事件です。事件の夜、俺もあそこにいたんです。

 あのスタジアムは、大震災で何年も更地と化していた土地に建てられました。俺の故郷です。そして、戦前には亀山家が所有していた土地でもあるんです。

 復興のシンボルだと言われていたスタジアムですが、俺には、故郷や一族のでっかい墓標だとしか思えませんでした。

 けど、スタジアムが完成したなら、俺は赦してやれるんじゃないか、俺も赦してもらえるんじゃないかと考えて、アルバイトの警備員として見届けることにしたんです。

 そんなある夜、巡回中に、別の区画を担当する警備員から、応援を求める通信が入りました。切羽詰まったその声は、すぐに悲鳴に変わりました。

 俺は、足がすくんでしまって、動けませんでした。俺はまた、誰かの悲鳴を見捨てて……彼らは死んでしまいました。

「赦してなどやらぬ。次はおまえだ」——そう宣告されたように感じて、俺はすぐさま逃げ出しました。

 その後も他のアルバイトに就きましたが、どれもこれもうまくゆかず、あのホームレスの溜り場に行き着くことになったんです。

 まだ生きるべきか、もう死んじまうべきか、はっきりとした答えは、今になっても出せていませんが……


 そして俺は、カメさんと出会い、弟分のように目を掛けてもらいました。喧嘩が強いカメさんに付き従ってさえいれば、他のホームレスから意地悪されることもありませんでした。

 ある夜、カメさんの小屋に招かれて、二人で安い酒を酌み交わしました。

 彼は、本名は亀山誠なのだと教えてくれました。俺は亀山始ですと伝えると、同姓であるのが気になったのか、出身地やら、祖母やひいばあさんの名前やら、色々尋ねてきたんです。俺の父方のひいばあさんの名前が綾子だと知ると、カメさんの目の色が変わりました。

 その後は、毎晩のようにカメさんの小屋に招かれ、酔っ払いの与太話を聞かされることになりました。定番のネタは、第二次世界大戦で兵士として戦い、ヒロポンを支給され、玉砕を命じられたなんて感じでした。

 けれどそのうち、俺は、亀山の分家に生まれた人間だ。出征したせいで、最愛の妹を本家の当主から守ってやることができなかった。本家の当主は喜兵衛きへえという名で、子宝に全く恵まれぬからと、既に三度も妻を取り替えたような男だ。しかし、本人以外の誰もが、妻たちが石女うまずめだったのではなく、本人が種無しなのではと噂している。

 妹の綾子は、そんな男の後妻になっても不幸になるばかりだろう。戦地から生きて戻ったら、いっそこの俺が、綾子に子宝を授けてやろうと思う——そんな怖い話までしはじめたんです。綾子は俺のひいばあさん、喜兵衛はひいじいさんの名前です。ひいじいさんの写真は、仏間に飾ってあったのを覚えています。

 俺と同じ年頃のカメさんが、ひいばあさんの兄貴だって言うんですよ!?


 そして、ついに最後の夜、もっと信じられない話が、カメさんの口から飛び出しました。

 カメさんは、戦地で玉砕を命じられ、最愛の妹に一目会いたいと強く念じたそうです。

 すると突然、青白い閃光によって視界を染め上げられてしまった。敵襲かと思って夢中で格闘するうち、どうやら相手は日本人で、そこは戦地ですらないと気づいたが、時既に遅く、二人ばかり殺してしまっていたと……そこは、例のスタジアムだったのだと……

 全く、よく出来た与太話ですよ! カメさんは、戦死を免れ、現代の日本に転移したが、途端に殺人犯になったというわけです。俺の心まで殺したわけですよ! そして、その後は、俺のことを待ち構えるみたいに、あの河川敷でホームレスになったんだ……

 そのうえカメさんは、あの夜、俺の顔が妹に似ているからと、俺に伸し掛かってきたんです。

 俺は嫌だった。昔、中学生だったころ、「女みたいな顔しやがって」と、同級生の男に酷い目に合わされたことがありました。だから、本当に嫌だった。

 咄嗟に指に触れたガラクタを掴んで、カメさんの頭を殴りました。でも、殺すつもりはなかったんです。そして、殺すつもりはなかったのにと、暫く茫然としていたら、カメさんが「スタート」と書き遺してくれていたことに気がついたんです……

 でも、良かった……カメさんは生きてたんだ……


「本当に夢みたいだ……いずれカメさんが意識を取り戻したら、ちゃんと謝って、音楽論でも語り合いたいと思います!」


 いやいや、カメさんの血文字は、きみの音楽活動に言及したものではなかったわけで……


 岩尾は、そんな言葉をぐっと呑み込んで、始のうっとりとした笑顔を眺めた。

 続いて、一旦書類に目を遣り、細部に纏わる供述を求めようとしたときのことだった。


「うわっ!? どうした亀山、大丈夫か!?」

 岩尾を補助すべく控えていた若い刑事が、悲鳴じみた声を張り上げた。

 岩尾が、即座に始を見遣れば、なんとその笑顔が半透明と化して、後方の窓の鉄格子が透けて見えたではないか!

 始は、訝しむような表情に転じたかと思うと、みるみる姿を消してしまった。

 あたかも、夢か幽霊か何かであったかのように、掻き消えてしまったのである。


 若い刑事は、腰を抜かした。


 一方、岩尾のSF脳は、入院中のカメさんの身を案じた。

 そして案の定、彼の容態が急変して亡くなったという知らせが、取り調べ室にもたらされたのである。


 カメさんは、本来なら、玉砕を命じられながらも生きて復員して、秘密裏に妹の綾子に子宝を授けるはずだったのだろう。

 それが、運命にバグでも発生したのか、思いを遂げぬうちに時空を超越して、妹本人ではなく、その曾孫と出会ってしまったのである。

 そして、SFで言うところの親殺しのパラドックス、この場合は曽祖父殺しのパラドックスのごとき状態に陥り、そもそも始が生まれなくなってしまったのだろう。


「おい、この事件が片付いたら、おまえさんにも、焼き鳥か中華料理かどちらか奢ってやるって話、どっちでも、どうでも良くなっちまったなぁ。お疲れさん」

 岩尾は、腰を抜かしたままの若い刑事に、せめてもの労いの言葉を掛けた。

 歴史の修正力とやらが押し寄せて、今回の事件そのものが無かったことになってしまう前に。

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