五、

「馬鹿が、名を叫んで、どうする」

岳林坊が、嘲るように言った。


迫り来る水鏡!

と、左近の手元から、色取り取りの蝶々の群れが湧き出して、五枚の水鏡に襲い掛かった。


「伊賀忍法、朧蝶!」

左近、得意の術である。

だが——


無数の紙片を蝶に変化へんげさせる術であったが、岳林坊の水鏡に当たると、へなへなと元の紙切れに戻って、地面に落下してゆく。

水と紙。

左近の朧蝶は、岳林坊の水鏡には相性が悪いのだ。


「ふははは、そんなまやかしが通じるか!」

叫ぶや、五枚の水鏡から、錫杖の切っ先が一斉に突き出された。


高く跳躍して、岳林坊の頭上を跳び越える左近。

崖際で踏みとどまり、クルリと振り向く、岳林坊。

位置が入れ替わったが、五枚の水鏡は、そのまま五人の岳林坊を映している。

対する左近は、剣先をダラリと下げる、柳生新陰流「無形むぎょうくらい」である。


「それっ、今度は、倍の速さでゆくぞ!」

勢い付く岳林坊が、前進しようとした瞬間、

「お、おおっ?」

急に彼の足が、あらぬ方向へ踏み出した。

「な、なにっ・・俺の足が!?」


驚きの声を発した岳林坊は、ふらふらと崖の端へ・・・

「ま、待て! 何で——?」

言い終わらぬうちに、真っ逆様に崖下へと落ちていった。


忍法朧蝶は、左近が自己の名を特殊な技法で叫ぶことにより、相手の三半規管を麻痺させる技であった。

したがって、岳林坊が蝶々の群れを見た時には、既に術に掛かっていたのだ。


左近は静かに納刀すると、崖下を覗いて岳林坊がピクリとも動かないのを確認し、山道へ戻った。


岳林坊に惨殺された夫婦者の遺骸を道脇に運び、合掌してから、江戸へ向かって歩き始めた。


弥助の仇を討ちたい気持ちは胸にあったが、隠密は、命じられたこと以外は、してはならないのだ。


(いずれ、飛騨高山藩探索の運びとなったら、志願してみるか)


鬱蒼と茂る山林の小道を縫いながら、左近はそう思うのだった。


(了)



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

飛騨妖法「水鏡分身」ー如月左近忍法帖② コーシロー @koshirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ