緊張

@szKashiwazaki

 競技場は張り詰めた緊張感に包まれていた。8人の男がクラウチングスタートの姿勢を取っている。


 スターターのピストルが鳴った。7人が一斉にスタートを切った。8レーンの男だけは動かなかった。

 タイミングをつかみ損ねたのではない。その証拠に、号砲から5秒、10秒と経っても男の姿勢には変化がない。訝しむ観客たち。とうとう他の7人が200メートルを駆け抜けゴールしたが、男は一歩も動かないままだった。 


 やがて、大会の医療スタッフが数人やってきて声をかけたが返事はない。それどころかクラウチングスタートの姿勢で顔を前に向けたまま、一切動かない。奇妙なことに、男の体を全員で持って運ぼうとしても、大地に根を張っているかのごとく、ビクともしない。一同、途方に暮れそうになるが、そこでそのうちの一人が男の眼球運動に気が付いた。


 ALSという病気がある。日本語で筋萎縮性側索硬化症と呼ばれるこの病気は、筋肉を動かす運動神経系が壊れていく難病である。患者は徐々に体が動かせなくなり、四肢が麻痺し、やがて声も出せなくなる。しかし、眼球を動かす神経は比較的最後まで保たれるため、患者は眼球運動によってコミュニケーションを図る。


 これを利用した。まず「あかさたなはまやらわ」と順に読み上げていく。「な」と言ったところで男が瞬きしたら、次に「なにぬねの」と続ける。「に」のタイミングで男が瞬きすれば、メッセージの一文字目は「に」になる。


 体が動かせなくなった原因に心当たりはないかと尋ねると、男曰く、精神的に極度の緊張状態に陥ったため、全身の筋肉までもがこわばって一切動かなくなったとのことだった。男の体を持ち上げることが出来なかったのは恐らく、緊張が靴や大地にまで波及したためであろう。


 スタッフたちは早速、男の緊張をほぐすことに取り掛かった。リラックスするにはアロマがいいと誰かが言えば、ありとあらゆる種類のアロマが用意され、音楽がいいと誰かが言えば、これまたあらゆるジャンルの音楽が流された。しかしどちらも効果は無かった。成功した自分をイメージさせてみたりもしたが駄目だった。催眠術を使ってみたりもしたが無駄だった。事態は八方ふさがりの様相を呈しついには、リラックスするには運動をするのがいい、などと言い出す者まで現れた。


 そのとき、スタッフの一人がある提案をした。それはあまりにも大胆なものだったが、他に手段もなく、わらにもすがる気持ちで実行に移された。


 まずはじめに、男に目隠しがされた。指一本動かせない暗闇の中で男は、何やら工事をしている音を聞いていた。それが一週間ほど続いたのち、目隠しがとられた。


 男は目を剥いた。そこは男が普段使っている練習場だった。いや、正確には練習場そっくりに作り替えられた競技場だった。


 もはや遠い昔のようにも思える記憶が蘇ってくる。無駄な気負いもなく、ただ速く走ることのみに集中して、練習に明け暮れた日々――


 号砲が鳴った。

 男は勢いよくスタートした。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緊張 @szKashiwazaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ