第4話

「で、今日は」

「ウサギが全然捕まらない」

「だと思った」

 眉間に二本の皺を寄せた麻奈美はほうじ茶アイスラテにストローを差し込んだ。

 ひとくち啜って、口から離す。

「でも、たぶん技術が原因じゃないんだよね」

「ん? どういうこと?」

 眉間の皺を消して、麻奈美はこちらを見た。

 せっかく色々教えてくれた友人にこんなことを言うのがなんだか申し訳なくて私は目を逸らす。机の上に置いた自分のスマホを意味もなく見つめる。

「アプリやめようと思ってて」

「え、なんで」

「なんか、意味あるのかなって思ってさ」

「意味?」

「うん。私が元彼と別れた理由、知ってるでしょ」

 麻奈美は何も言わずに小さく頷いた。

 元彼はとても気の合う人だった。趣味や好みもそっくりで、一緒にいて居心地がよかった。このまま結婚するんだろうと本気で考えていた。

 唯一私と彼がズレていたのは仕事と恋愛の比重だった。

 ――結婚しても仕事は辞めたくない。

 その一点だけが専業主婦になってほしい彼と食い違っていた。

 その一点だけで、私たちは別れた。

「一葉は仕事すごく大事にしてるもんね」

「うん。でもそれだけじゃない気もする」

「だけじゃない?」

「私、他にもいっぱい大事にしてることがあるんだなってわかったの」

 彼と別れてからマッチングアプリを始めて、他の人を探し始めて、私は自分の求めていることの多さに初めて気付いた。

 今まで気の合いすぎていた彼と付き合っていたから気付かなかったんだ。

「たぶん私は自分の仕事を認めてくれる人に出会っても、他のことでまたすれ違うんだと思う」

 二兎を追うものは一兎をも得ず。

 そんなこと嫌ってほどわかってるのに、きっと私はこれからも求めてしまう。

 仕事も、恋愛も、それ以外も。

「恋するたびに悩むなら、恋なんかして意味あるのかなって」

 とん、と音が聞こえた。

 麻奈美が机にカップを置いた音だ。そのまま机の上の私のスマホに手を伸ばした。

 電源ボタンを押すと、顔認証でロックが解除される。彼女は『IT』のアイコンをタップした。


『二兎を追うものは一兎をも得ず。

 だが恋はただ一兎を追えばいい』


 薄緑色の背景に濃紺の文字で二行の文章が現れた。

 とんとん、と麻奈美は指で画面の中央に表示された文章を叩く。

「嘘だよね、これ」

「え?」

 アプリの画面が切り替わり、ずらりと男性の写真が表示される。

 麻奈美がスワイプすると下から次々と違う人の写真が現れた。

「たとえばめちゃくちゃタイプのイケメンでも無職で毎日タバコとギャンブル漬けで歳も五十離れてたらどう?」

「どうって」

「恋愛対象から外すでしょ?」

 私はひとつ頷く。

 いくら第一印象が良くたってプロフィールを見ずにハートを贈ったりはしない。

「一兎でいいわけないんだよ。顔も、身長も、性格も、年齢も、趣味も、国籍も、家柄も、学歴も、趣味も、仕事も、年収も、全部わたし好みがいい。そりゃ優先順位はあるけどさ」

 麻奈美は画面をスワイプした。

 次々と知らない男性の笑顔が消えて、他の人の笑顔が現れる。


「千兎を追うようなもんだよ、恋って」


 真亜美は画面から指を離した。スクロールしていた画面が速度を落とし、止まる。

「だから悩んで当たり前なの。だって千兎なんか誰にも追えないんだもん。『彼のここちょっと気になるんだよね』って愚痴りながら、『でも彼のここ最高なんだよね』って誤魔化しながら、なんだかんだ楽しくやっていけたらそれでいいんだよ」

 動かなくなった画面から目を離すと、彼女と真っ直ぐに目が合った。

「一葉の人生が楽しくなるなら、恋する意味はあると思わない?」

 麻奈美はそう微笑んだ。

 私はまた、彼女の目が見られない。

「……それは、そうかも」

「でしょ? それに一葉は恋愛楽しめるほうだし大丈夫だよ」

「麻奈美は人に前を向かせる天才ね」

「誰にでもじゃないけどね」

 一葉は頑張ってるから、と麻奈美は続けた。不意に聞こえた優しい声に私は顔を上げる。

「一葉、前の人と別れてものすごく傷ついてたじゃん。ほんと人生ドン底ってくらい」

「うん、まあ」

「でも新しい恋がしたい、ってわたしに言ったよね。すごいなあって思ったんだ。乗り越えようとしてるんだって。わたしもつい応援したくなっちゃった」

 そうだ。初めからずっとそうだった。

 麻奈美は私と会うたびいつも言ってくれていた。

「悩みはわたしが聞いてあげる」

 机の上に置いたままだった私のスマホを麻奈美が持ち上げる。

 それからにっと口角を持ち上げて、こちらに差し出した。

「だから安心して追いかけなよ、家ウサギちゃん」

 私は差し出されたスマホを受け取って握りしめた。ありがとう、と心の中で思う。

 けど、口に出すのは別の言葉だ。

 感謝よりもそっちのほうがこの頼れる友人は喜んでくれるだろうから。

「次会うときは惚気話も聞いてもらうからね」

「楽しみにしてる」

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