ドアをあければ雨

野森ちえこ

龍神の嫁

 滝? このアパートの玄関、いつから滝になったの?

 ザーザーなんて生やさしいものではない。雨でまえが見えないんだけど。


 いや、わかってる。わかってるけどさ。

 ちょっと降りすぎでは。つーか、はりきりすぎだってば。


 ☂


『あら、あなた龍神さまがついてるのね』


 出会いがしらにそんなことをいわれたのは大学の入学式だった。あら、今日はお弁当なのね。というくらいの気軽さだった。


『ここまではっきり視えるのは私もはじめてよ。すごいわね。この雨にも納得だわ』


 一般人には見えないものが視えるらしい未映子みえことはそれが初対面だったのだけど、十年経った今も友人関係がつづいている。

 未映子いわく、雨女、雨男というのは、水をつかさどる龍神に守護されていることが多いのだとか。

 龍神さまの雨は恵みと浄化。大事な日に雨が降るのは、外を浄化して悪いものがつかないように守ってくれている——らしい。


 自慢ではないが、その手のネタなら誰にも負けない。

 運動会、遠足、修学旅行、入学式、卒業式、成人式、デート、引っ越し、結婚式……なにかしらのイベント、大小さまざまな節目、その一度たりとも、ほんとうに、一度たりとも晴れたことがない。

 わが龍神さまには降水確率など無意味。晴れ男、晴れ女を自称する人にも何人か会ったことがあるけれど、ことごとく打ち負かしてきた。

 ちなみに、本物の晴れ男、晴れ女には稲荷系の神さまがついているという。


 一度でいいから太陽の下でデートをしてみたい。一度でいいから晴れた日に旅行がしてみたい。なんて思っていた時代もあるけれど、それも今はむかしの話だ。

 相手は神さまである。祓うわけにもいかない。強力なパワーを持つ龍神さま。引き寄せるのは雨だけではない。わたしの人生にとってよい影響も引き寄せるというから、まあそれなら——と、受けいれることにしたのである。あきらめた、ともいえるが。


 もはや神の存在を信じるとか信じないとかいうレベルではなかった。

 それまで晴れていたのに、わたしが外に出たとたんに雨が降りだしたりするのだから、それはもう人知のおよぶところではない。


 龍神さまの雨は恵みと浄化。

 それはつまり祝福である。

 理屈はわかる。ありがたいとも思う(ようにしている)。

 しかし、いくらなんでも降りすぎである。

 そんなにめでたいのか、わたしの離婚は。


 ☂


『ごめん、甘くみてた。やっぱ無理だわ。オレは晴れがいい』


 ガチの雨女を妻にすれば、その影響はともに生活する夫にも及ぶ。そんなこと交際しているときからわかっていたはずだが、愛があれば大丈夫と本気で思っていたらしい。その愛とやらは二年ももたなかった。


 そう。離婚理由はずばり、わたしがとうにあきらめた『晴れた日に○○したい』というものだった。


 他人が聞いたらずっこけそうな理由である。しかしわたしは『ならしょうがないね』と、あっさり離婚に応じた。

 龍神パワーを甘くみてはいけない。こればかりはわたしの意志や努力でどうにかなるものではない。人間、ときにはあきらめが肝心である。


 そうして、特にもめるようなこともなく、一緒になってから購入した家具家電などをどうわけるか相談しつつ諸々の手続きをすませ、わたしは職場近くのアパートに部屋を借りた。


 引っ越しの日? もちろん降った。豪雨だった。

 離婚届を提出した日は、急に進路を変えた台風がやってきた。ふたつほど。


 では今日はなんの日かといえば、シングルにもどってはじめての出勤日である。この際だからと一段落するまで有休をとらせてもらったのだ。


 それにしても、龍神さまったら大歓迎だ。

 めちゃくちゃはりきっていらっしゃる。


 しかたない。意を決して出発する。

 傘など役に立たない。

 レインコートに降りそそぐ雨、雨、雨。いきおいがありすぎて痛いくらいである。

 まあ、いつものことだけど。


 ☂


 会社のエントランスに足を踏みいれて数秒。先ほどまでのドカ降りがウソのように静まった。陽ざしすら見えはじめている。


「すげー。さすが龍神の嫁っすね」


 そういいながらエントランスにはいってきたのは後輩の成幸なりゆきのぼるだ。ブルブルッと頭を振っている。髪についた水滴をとばしているらしい。犬か。


「成幸くん」

「ども、おはようございます」

「おはよ。それ成幸くんでしょ、いいだしたの」

「なにがっすか」

「龍神の嫁」

「あー、そうなのかなあ。おぼえてないっすけど、いいじゃないっすか。カッコよくて」


 最近では、社内のみならず取引先の会社にまで、龍神の嫁というあだ名で認識されるようになってしまった。まあ、ただの雨女と呼ばれるよりはいいかもしれないが。


「オレとしては龍神さまにケンカ売るつもりはないんすけど」

「うん?」

「人間の旦那とは別れたんすよね」

「まあ、そうね」

「じゃあ、オレが狙ってもいいっすよね」

「なにを」

「人間の旦那ポジション」

「……はい?」

「龍神さまにも認めてもらえるようがんばるっす」

「いや、待って。なにいってんのかわかんないんだけど」

「今日から本気だすってことっす。あ、やべ。今日朝イチでミーティングがあったんだ。すいません、先行きます。またあとで!」


 ばたばたと駆けていく後輩を見送る。

 ぽっかーん。である。


 どれくらいほうけていたのか、ふいに聞こえてきた「わぁ……」というひかえめな歓声でわれに返った。

 振り向くと、ガラス張りのエントランスからおおきな虹が見えた。


 べつにわたしの手柄でもないのに、なぜだかちょっと得意になってしまう。

 雨女でよかったと思う、数少ない瞬間である。


 とりあえず、成幸くんのいったことは忘れよう。

 お調子者だし。きっとシングルになったわたしを元気づけようとか、そんなノリだろう。そうにきまってる。

 もっとも、わたしはまったく落ちこんでいないのだけれど。


 ひさしぶりの気楽なおひとりさま生活だ。楽しまなきゃ損である。


 とにもかくにも、休ませてもらったぶん今日からまた目一杯働いてやろう。

 雨と虹。龍神さまの祝福を受けて、新しい一日のスタートだ。


     (おしまい)


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