第5話 彼が表情を和らげるのが嬉しくて、


 それから1週間は瞬く間に終わった。


 日曜は1週間分の洗濯をして死ぬほど寝たら終わってしまう。そして月曜からは残業続きの社畜生活。その間、あの幽霊のことはすっかり忘れていた。


 いや、思い出さないようにしていたんだ。考えるのも億劫で、あの公園の前を通らないようにしていた。


 でも4月二週目の土曜日である今日は、仕事も休みだ。のんびり目を覚まして、洗濯が終わると、またなんの予定もない週末が始まる。


 山のような洗濯ものをベランダに干しながら、外を眺める。住宅地の隅にあるそこからは、週末の幸せそうな家庭がチラホラ見える。親子が庭で遊んでいる家、車に乗り込んでこれからどこかに行くのだろう家。今日も仕事のなのか、スーツで足早に歩く男、友人同士で笑いながら連れ歩く少女たち。


 はぁ、とため息を吐いた。干し終わったので窓を閉めて部屋に戻ると、しんと静まり返った何もないワンルームは暗くて居心地が悪く感じた。何年もこんな暮らしをしているのに、その日はどうにも耐え難かった。


 俺はその辺にあったシャツとデニムを着て、スマホと財布だけをポケットに突っ込むと、家を出ていた。


 何の予定もないのに外に出て。さてどうするかと考えて、とりあえずコンビニに昼飯を買いに行くことにした。昼はコンビニ弁当、夜はカップラーメンというのが俺のルーチンでもある。栄養についてなんやと言う奴もいるが、健康なんてものは長生きをしたい奴が考えたらいいものだと思う。こんな人生、長くても仕方ない。


 コンビニでペットボトルの水と、適当に選んだ弁当を買い、ビニール袋を提げてトボトボ歩く。何度か子供とすれ違った。元気よく遊びに行く彼らの未来は明るいんだろうか。今まさに幸せそうなのに、その未来まで。


 どうしようもないことを考えている。溜息を吐いて足を止めた。目の前に、あの古びた公園への看板が掲げられていた。








 俺がひいらぎ公園にたどり着いた時、彼はベンチに座って上を見ていた。何が有るのかと視線を追うと、木の枝に小鳥が二羽、仲睦まじく止まっている。ピィピィと何やら会話している様子だ。彼は、それをじっと見ていた。


 俺はそんな様子にまた一つ溜息を吐いて、それから今日は慎重に、その公園へと足を踏み入れた。


「あっ」


 物音で彼がこちらに気付くと、本当に嬉しそうに笑って、「きよはる」と彼は俺の名を呼んだ。呼び捨てを許した覚えはないが、幽霊に礼儀をどうこう言っても仕方ないだろう。第一、俺がタメ口をきいている。


「1週間ぶり……」


「ええ、ええ! また来てくれるなんて、嬉しいです!」


 彼は手で胸を押さえながら微笑んでいる。その仕草がなんとも子供のような、女性のような、不思議な感じがした。そういえば、記憶が無いなら彼は何故言葉や仕草を知っているんだろう。


 またベンチの隅に腰掛けて、「今日は弁当、生きてるから」とビニールを置く。彼は「それは良かった」と微笑んでいる。何を言っても、何をしても彼はニコニコと嬉しそうに俺を見ていた。


 ポケットからスマホを取り出して時間を見ると、まだ11時だ。飯を食うには少し早い。と、彼が不思議そうな顔をして、「それはなんですか?」と問いかけた。


「これ? スマホだよ」


「スマホ?」


「あー……これが有ったら、遠くの人とお喋りできたり、時間がわかったりして便利なんだよ」


 彼がどの程度文明について知っているかわからないから、噛み砕いて説明する。彼は少しして、「携帯電話なんですか?」と言った。


「……あんた、携帯電話は知ってるんだ」


「……あっ、本当ですね、私は携帯電話を知っています……」


 と、いうことは。彼は古の妖怪や、長い時間をここで過ごす地縛霊ではないのかもしれない。少なくとも携帯電話が一般化した後で記憶を失ったはずだ。そしてスマホは知らない。


 しかし、スマホを知らないのはなかなか判断が難しい。本当にスマホが登場する前の存在か、なんらかの理由で知らずにいたのか……。


 しばらく考えて、俺ははっと気付いた。何を探偵ごっこをしているのか。この幽霊がどこの誰で、これからどうなろうと、俺の知ったことではないのに。


「きよはるは、優しいですね」


 彼が急にそんなことを言ったから、俺は「はあ?」と怪訝な声を出してしまった。


「急になんでそんな話になるんだ」


「だって、こうしてまた来てくれて。私の質問に丁寧に応えようとしてくれたでしょう? とても優しい人です」


 むず痒い。優しいなんて、誰にも言われたことがない。冷たいとか、付き合いが悪いとか、何考えてるかわからないとか、そういうのが俺の評価だし、俺もそうだと思う。優しいなんて、真逆だ。


 彼には俺しか相手がいないから、そんな気がしているだけだろう。


「俺は優しくなんてないよ」


「じゃあ、きよはるの思う、優しい人ってどんな人です?」


「えっ、そりゃあ……」


 俺は今まで知り合ってきた人間の中で、優しいんだろうなと思ったやつの顔を思い浮かべる。


「……見ず知らずの人に親切にして、丁寧に喋って、困ってる人を助けて、……話を聞いてくれて、……一緒にいたりして…………」


 言ってるうちに俺は眉を寄せた。


 これは、目の前のこの、幽霊のことじゃないか? わざわざ忘れ物を教えてくれたり、こうして襲いもせずに俺の話を聞いて泣いたりする、彼のことじゃ。


「なら、きよはるも優しい人ですね」


 何をどう解釈したのか、彼がそう微笑む。呆れた。何を聞いてどう考えたらそうなるのか。これ以上この話を議論しても仕方無さそうなので、俺はもう、諦めた。

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