いいなり

西の海へさらり

【短編完結】

 「いいなり」


 今朝、目覚めた瞬間から「すしの口」になっている。この場合のすしは、寿司ではなく鮨だ。ちらし寿司、手巻き寿司など、すし総称の寿司ではなく、旨いを強調した方のすし、つまり鮨の方だ。魚編に旨いって書くから、そりゃぁこっちの鮨の方がいいに決まってる。字面は食欲を刺激する。


 言葉を扱う仕事をしているわりに、人がつくった言葉の印象に流されやすい。広告を知り尽くしていても、広告に騙されやすいというそんな感じ。ある意味、職業病なのかもしれない。まぁ、単に情報の表側を受け止めていると、楽に生きられるからなだけだが。妻からは流されやすいとよく言われている。


 そんなことよりも、鮨だ。朝から鮨なんて喰えるところはない。ウチは漁港の近くでもない、内陸県だ。そんな陸まみれの我が県、我が町にも自宅兼オフィスから徒歩十分で、「とめ鮨」ってのがある。


 店の前を通るたびに、酢飯のイイ香りがしてくる。いつか行ってやろう、と思っているうちに二年が経っていた。 


 そんななか、今朝目覚めた瞬間から「鮨の口」になっていた。カレーの口、ラーメンの口、チャーハンの口、ハンバーグの口、ハンバーガーの口、アイスの口、俺の口はどうもガキっぽい。

基本的にいつも昼は、カレーかラーメンか、チャーハンの口なのだ。そのローテーションが落ち着いたらハンバーグの口になる。その次にハンバーガーとアイスの口がセットになって襲ってくる。ハンバーグとハンバーガーは似て非なるものだ。ハンバーグは肉が主役、ハンバーガーはパン、バンズが主役なのだ。


 我が口人格(くちじんかく)の中でも、オトナパートなのが「すしの口」だ。すしの口は年に数回やってくる。いわばお祭りだ。そのすしの口の中でも、すしは「寿司と鮨」に別れている。この鮨の口ってのは、そうそうやって来ない。どういうときに鮨の口がやって来るのか、俺も検討がつかない。なんせ、今日が初めての鮨の口なんだから。


「ねぇパパ、お昼さぁ、昨日のカレーが残ってるから食べておいてよ。もう、冷凍庫も場所ないんだから」

「うん、チンして食べておくよ」

 仕事に向かう由美子からの話も条件反射で返事した。いやまて、今日は鮨の口なんだってば。だいたい昨日の夜カレーだったけど、次の日の昼にもカレーなんてありえないよ。口人格はローテーショーンするんだからさ。カレーの口連投で、カレー嫌いになったらどうしてくれるんだっての。


 由美子が仕事に向かったあと、俺は仕事に取り掛かった。コーヒー豆を挽き、湯を沸かし、その間にパソコンを立ち上げる。手帳とペンを出してきて、今日の予定を確認する。明日が大学教授の取材で、週末には幼稚園の入園案内のパンフレット原稿が一本。毎日のルーティンをサラッとこなしていると、気になる店のことなんていつの間にか忘れている。とめ鮨のこともこうやって二年も思い出しては忘れてを繰り返している。


 だが今日は朝から、鮨の口なんだ。年に数回訪れる「すしの口」。そのなかでも、初めての鮨の口だからな。カレーを食べきらねばならぬという使命と今日は食べないという罪悪感の板挟みになっている。だが、俺は今日の昼、絶対とめ鮨に行くって決心している。


 コーヒーを飲みながら、薄型のタッパーにラップを敷き詰めカレーを流し込む。冷凍庫を整理してタッパーのスペースを確保する。カレーの入った鍋を洗っておく。

 明日の取材の準備にレコーダーと取材用質問原稿をプリントアウトし、取材の流れをおさらいしておく。週末入稿の原稿の推敲をして、修正箇所をチェックする。

 誤字はないが言い回しに気になる箇所が出てくる。チェックすればするほど、原稿が気になるのは神経質という性格のせいかもしれない。そのせいで、慎重になれるから仕事には役立っていると思う。


 ほら、もう十一時なのに仕事の目途がついた。とめ鮨に行く準備はできた。財布に三万円とクレジットカードを入れていざ!鮨は腹いっぱい食べたら、いくらかかるのか全く見当もつかなかった。四十にもなるっていうのに。

 スマホの電源はオフに。道中のカレー屋マサラをスルー、いつものラーメン屋大源も今日までの半額クーポンを無駄にしつつスルー。最後の難関、地獄の大盛チャーハン東楼閣、ハンバーグの旨いファミレスジョンサン、たまに行くハンバーガーショップ・バーガークイーンを越え、アイスクリーム屋フォーティーズを通り過ぎた。ようやく、宿願のとめ鮨前に到着。


 酢飯のいい香りがする。表にはロウのディスプレイなんてもんはない。暖簾だけだ。手書き風の書体でとめ鮨と印字された暖簾だ。旨そうな雰囲気が店構えからビシビシと伝わる。

 ガラガラっと引き戸を空けて、キョロキョロせず常連みたいに入店。昼から鮨なんてのは、四十男にはオトナの予防接種みたいなもんで、通過儀礼だ。この道通って初めて一人前ってやつだもの。


「いらっしゃいませ!お一人様?カウンターどうぞッ」

 大将だろうか、カウンターの奥から清潔そうなオヤジさんの声が響いた。おしぼりと熱いお茶、店内は昼前のせいか客はまばらだった。

「何しやしょ!昼は、あっし一人なもんで、ランチ一本になってまして」

 俺はアツアツのお茶を飲みながら、入口付近に吊り下げられている小さなホワイトボードを見た。


 ホワイトボードには、いなり特上・いなり上・いなり並と丁寧な字で書かれていた。その下の方に後から書き足したのか、茶碗蒸し付きという文字がうっすらと見えた。


「ランチは、いなり寿司だけですか?」

「へぇ、手前ども、ランチはいなり一本でやらしてもらってます。なににしましょ?」


 なにしましょって、いなり寿司だけかよ。表に書いておいてよ。不満がこぼれ落ちそうな顔をおしぼりで拭いた。お茶まで飲んだ手前、じゃぁ帰りますというわけにはいかない。サッと軽く食べて、帰ろう。寿司だけにいい話のネタくらいにはなるだろう。


「じゃぁ、いなりの並みで」

「へい、ガッテン承知のスケ!」

 ほどなく小ぶりないなり寿司が八つ、皿に載って出てきた。ホワイトボードの通り、茶碗蒸しもセットだった。サッと食って帰ろう、俺は何度も頭のなかでその決心を反芻(はんすう)した。鮨の口だった反動が大きいところに、このいなり寿司。俺だけじゃない、誰だってこの状況じゃぁ、いなり寿司のおいしさを正当に評価できないな。そう思いながら無造作にいなり寿司を口に押し込んだ。


 舌よりも先に頭が反応した。うまいじゃないか!このいなり寿司、お揚げの甘さが丁度いい。酢飯の中の刻んだ生姜と大葉がいい仕事してる。旨かった。あっという間に皿のいなり寿司を八つも食べていた。


「お客さん、食べっぷりいいね。並みもいいけど、いなりの上も試してみませんかい?」

「上は、並みとどう違うんですか?」

「上はいなり寿司の上にこぼれウニとイクラをぶっかけてるんですよ。ちょっとお高いですけどね。並みは本当はお持ち帰り専用でして。店で並み食べるお客さんってのはウチにはほとんどいませんで」

「そうなんですか、それ早く教えて欲しかったなぁ。じゃぁ、いなり寿司の上をください」


 並みの時よりも少し時間がかかったが、パッといなり寿司上がカウンター越しに渡された。ウニとイクラ、零れ落ちそうだ。不味いわけがない。旨いに決まっている。上はいなり寿司自体は二つ、ウニいなり寿司とイクラいなり寿司だった。セットの宿命か、並みと同じ茶碗蒸しが付いてきた。俺は貪るように食べ尽くした。


 さすがに腹も一杯になってきた。お会計でもと思った頃、

「お客さん、特上は気になりませんか?これはね、一日一食限定なんですよ。まぁまだ昼前ですから、ご用意できますぜ」

 あたりを見渡すと、年配の男性が茶碗蒸しを食べていた。どうもいなり寿司の上を食べ終わった後のようだった。こぼれたいくらが皿に残っていた。

「どうしやす?一食限定ッ、頼むか頼まないかはお客さん次第ってもんです」

「じゃぁ、特上もらえますか?あ、でももう茶碗蒸しはいいですから」

「いやぁ、お客さん。茶碗蒸しあってのいなり寿司ってもんなんですよ。もうお互いがパートナーみたいなもんですから。そんな食べ方ウチじゃあオススメしてませんねぇ」


 夜は握り専門店らしく、どうもこだわり職人みたいだ。仕方ない、茶碗蒸し三杯ってのも話のネタにもなるだろうし。俺はいなり寿司特上を頼んだ。

 いなり寿司特上はウニやイクラの代わりに煮アナゴが一本どーんとのっていた。いなり寿司はその下に三つ。中身は並みや上と同じだ。トッピングで変わるんだな。並み、上、特上ってやつは。


 さっきいなり寿司の上を食べていた年配の御仁が、大将に特上のいなり寿司を勧められている。一食しかないはずなのに。あれは、ウソだったのか。俺は、同じ味の茶碗蒸しをかきこんだ。


 会計はリーズナブルだった。いなり寿司一式並み・上・特上で五千五百円。昼からしたら高めだが、鮨を喰うと息巻いて三万円とクレジットカードを持って家を出たものとしては、拍子抜けでもあった。


 家には二時前には帰ってきた。腹が一杯だった。早々にパソコンの電源を落とし、仕事を終えることにした。俺は、ソファで居眠りしていた。もう何も食えない。最終的には、鮨の口から寿司の口に無理やり変えたがそれはそれでいいかと満足するように、気持ちを切り替えていた。明日の取材のツカミネタにディレクターに話してみようと話の展開を整理していた。あのディレクターはやたらと面白い話をしろって、言ってくる。あれは一種のパワハラみたいなもんだ。


 夕方、パートから由美子が帰ってきた。冷凍庫のタッパーに気が付いたようだった。

「ねぇパパ、お昼何食べたのよ。怒らないから正直に言いなよ。」

「カレーのタッパー、見つけたのか?」

「そうよ。でもいいわよ。スペースあったなら、無理に食べなくても良かったんだし」

 俺は由美子に、とめ鮨での昼メシのことを話した。

「なに?それって、いなり寿司を勧められるがまま並みから特上まで全部食べたってこと?」

「まぁ、結果的には」

「お金の話じゃないけどさ、それって言われるがままだったってことじゃない?」

「そうだな、結果的にはとめ鮨の大将に言われるがままだったな」


俺は妻に背を向けて、朝に残したコーヒーを温めていた。

「まるであなたみたい。いいなり寿司ってことね」

 いいなり寿司か。うまいこと言うなぁ。彼女、俺よりワードセンスあるんじゃぁないか。いいなり寿司か。すしの口のローテーションに加えておこう。

 

「残ったカレーは明日のお昼に食べてよね」

「ああ、取材から帰ってきたら食べるよ」

 明日の昼はカレーだ。ちょうどカレーの口になっていたところだ。鮨屋の大将よりも、カミサンのいいなりになっている方が一番うまくいくってもんなんだな、のくだりをメモに追加した。明日ディレクターの面白話はこれにしよう。


 翌朝、さすがに胸やけがした。茶碗蒸しのせいだ。三杯も茶碗蒸しを食うやつがいるか 取材に行く前に胃薬を二錠口に入れて、コーヒーで流し込んだ。残りのコーヒーを飲みながら、昨日のメモに目を通す。胸やけがキツイ。


 じっくりと眺めたあと、メモをくしゃくしゃと握り潰した。キッチンのゴミ箱に捨て、今日はカレーの口、カレーの口とつぶやきながら家を出た。

             (おわり)

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