第9話

「紋、元気ないね。」

結衣が心配そうに言った。莉央と陽菜子も一日気になっていたようで、顔を見合わせた。

「訊いても、大丈夫としか言わないし。」

「何かあったよね。…あのライバルに何か言われたとか?」

放課後の教室は徐々に生徒も少なくなっていた。三人は、元気のない紋から話を聞こうと思い、教師に呼ばれて職員室に行った紋が戻って来るのを待っていた。

「あれ?紋は?」

そう言って、怜が教室に入って来た。未知弥が学校に許可を取ったので、最近では、怜は当たり前に教室に入って来るようになっていた。容姿の良さと外面の良さで、しっかり皆の心を掴み、ファンクラブまで出来ていた。今日も昇降口から教室まで、散々愛想を振りまいてから来たのだった。

「先生に呼ばれて職員室に行っていて、そろそろ戻ってくると思うけど。」

莉央がそう答えると、

「でも、結構時間がかかってるね。」

と、結衣が時計を見て言った。

「…。」

怜は何となく嫌な予感を感じた。

「職員室、どこ?」

「え?隣の校舎の一階だけど…。」

陽菜子が言い終わる前に、怜は教室を飛び出していた。


 その頃、紋は職員室のちょうど真上にある家庭科室で、伊織と向き合っていた。

 教師との話が終わって職員室を出た時、紋はどこからか名前を呼ばれた気がした。辺りを見回しても誰もいない。しかし、誰かの声が、直接頭に響くように紋を呼んでいた。紋は、何となく「上だ」と思い、何かに引かれるように二階へと階段を上った。そして、扉の開いていた家庭科室に入ると、そこに伊織が立っていた。

「やあ。」

伊織はニコッと笑って手を振った。

「なかなか二人で会える時が無いから、学校にお邪魔しちゃった。」

紋は警戒して一歩後ろに下がったが、音も無く扉が閉まった。

「そんなに警戒しないで。今日はまだ、保のところには連れて行かないから。」

「お、お兄様のところ…。」

紋は保の名前を聞いて、動揺が隠せなかった。しっかりしなければと、頭を左右にっ振ったが、手の震えは治まらない。

「保が怖いんだね。うん、わかるよ。保って怖いよね。」

伊織は可笑しそうに言った。

「どうして、私を?…お兄様は、今どこにいるんですか?」

紋は、震えながらも、少しでも何か探ろうとしたが、

「それはどちらも答えられないんだ。ごめんね。」

伊織は笑顔で謝ると、紋に近付いてきた。紋は咄嗟に何か攻撃を考えたが、伊織に目を見つめられた瞬間、体が動かなくなり、意識が朦朧としてきた。

「やっぱり、君はすごく純粋だから、すぐに術に掛かるんだね。」

伊織は何かを探るように、紋の目をじっと見つめ続けた。紋の目の奥の奥まで、何か

読み解こうとするように。紋の目がどんどん虚ろになっていく。体に力が入らなくなり、ふらりと倒れ掛かったところを伊織が受け止めた。

「うん。君の操り方、わかったみたいだ。」

そう満足気に呟いた時、

「紋!大丈夫か?ここにいるんだろ?」

紋の気配を追って来た怜が、扉を叩いた。

「本当に、皆に愛されているんだね。」

伊織は目を細めて紋を見つめると、

「またね。」

と、紋の耳元でそう囁いて、姿を消した。

「紋!」

扉が開き、怜が飛び込んできた。

「おい!大丈夫か?」

怜は床に横たわっている紋を抱き起した。

「…。」

紋は、まだぼんやりしているが、意識は保っていた。暫くして、

「怜様…?」

と、不思議そうに呟いた。怜は拍子抜けしたのと安堵でガクッと力が抜けた。

「心臓に悪いんだよ!」

怜はその場ですぐに快に電話を入れた。

「何?学校で?…紋は無事なんだな?」

校内で接触があったことに、快は驚いた様子を見せた。電話を切ると、すぐに道弥に報告しようとしたが、未知弥は快の様子でだいたいの状況を把握したようだった。

「学校にまで現れたか。急いだ方が良さそうだな」

そう、静かに言った。


「コーヒーと…モンブランを。」

学校を出た後、伊織は行き付けの喫茶店で、少し迷ってケーキを注文した。いつもはコーヒーだけだが、術を使ったせいか、甘いものが欲しくなった。

 伊織は学園に通っていた頃から、この喫茶店を利用していた。人が少ないわけではないが、奥まった一番隅の席がお気に入りで、そこに居ると落ち着くので、本を読んだり、ただぼんやりと過ごしたりしていた。

 今日もその奥まった席に座り、ケーキを一口食べたところで声をかけられた。

「こんにちは。私のこと、覚えているかしら?」

振り向くと、意外な人物だった。伊織は驚いた様子も無かったが、名前を思い出すのに少し時間がかかった。

「…白河さん。」

そこに笑みを浮かべて立っていたのは、結弦乃だった。今日は地味な濃紺なワンピースを着ている。

「ここ、いいかしら。」

そう言って、伊織の前の席に座り、コーヒーを注文した。伊織は、ただ不思議そうに結弦乃を見つめている。しかし、結弦乃が何も言わないので、再びケーキを食べ始めた。

 コーヒーが運ばれると、一口それを飲んでから、結弦乃は話を切り出した。

「紫井森紋を狙っているわよね。」

「…。」

伊織はフォークを持った手を止め、一瞬黙ったが、

「白川さんが僕のところに来るなんて、その話しか無いよね。」

と、にこやかに言った。結弦乃はもう一口コーヒーを飲むと、

「私にも手伝わせてくれないかしら。」

と言って、不敵な笑みを浮かべた。暫く沈黙が流れた。

「う~ん。信用出来ないなぁ。」

モンブランを突っついていた伊織は顔を上げて言った。表情はにこやかだ。

「そうよね。」

結弦乃もあっさりと答える。しかし、真剣な表情で、真っ直ぐ伊織の目を見た。

「私はあの子が邪魔なの。使用人のくせに、あんなに未知弥様に大切にされて。目障りだわ。」

そこまで言って足を組み、話を続けた。

「あなたたちはあの子を連れ出したい。私はあの子を追い出したい。ぴったりじゃない。」

伊織は微笑みながら聞いていたが、

「でも、残念ながら、僕たちの狙いは紋ちゃんだけじゃない。紋ちゃんの力を使って、白金未知弥を襲う狙いもあるとしたら、白河さんは協力できないよね。」

そう言って、反応を窺うように、上目遣いに結弦乃を見た。それを聞いた結弦乃は、フッと鼻で笑うと、

「そんなことは予測済みよ。あの子にやられるようなら、それまでだわ。弱い未知弥様なんて、興味ないわ。」

と言い放った。伊織は、一瞬ポカンとした表情を見せた後、

「怖っ。」

と言って、お腹を抱えてヒーヒーと笑い出した。涙が出る程笑うことなど、伊織には初めてのことだった。ひとしきり笑い、やっと落ち着いた伊織は、指先で涙を拭うと、結弦乃と向き直った。

「でも、いいの?僕らに手を貸したなんて知れたら、君はこのまま暮らしていけないでしょ?」

伊織の質問を、結弦乃は再び鼻で笑った。

「私がどれ程の思い出未知弥様を慕って来たと思っているの?厳しい訓練も、任務も、全て未知弥様に未知弥様に認めてもらうために乗り越えて来たの。その未知弥様が手に入らないのなら、私は別にどうなってもいいわ。」

澱みなく言う結弦乃を見つめて伊織は、

「すごいなぁ。僕にはよくわからない感覚だな。」

と言ってヘラヘラ笑った。

「あなただって、紫井森保のためなら何だって出来るんじゃない?それと同じだわ。」

結弦乃が真顔でそう言うと、一瞬キョトンとした後、

「本当だねぇ。」

と言って、楽しそうに笑った。


 保は社の中で、目を瞑り、自分の持つ霊力を集中させていた。やがて、保の正面の空間が振動を始めた。保は、自分の中の一点に力を集めるイメージで、更に集中力を高めた。額から汗が幾筋も流れた。あと少し。そう感じた瞬間に目を開き、集中させた霊力を、空間の振動している辺りに注ぎ込んだ。その瞬間、パクリと巨大な口が開いたように、そこに暗闇が現れた。その中で、嵐のように激しくエネルギーが渦巻いているのが感じられた。

 これこそが、保がこの数日間全力を注いでいたものだった。妙の持っていた文献の中から見つけた「無限の闇」を、ついに保は出現させることに成功した。この闇の中に紋を突き落とす。それが保の最終目標だった。

「くくく…。」

保の口から珍しく笑いが漏れた。ずっと無能だと認められなかった自分を、少しは褒めてやりたい気分だった。しかし、背後から全く緊張感の無い声がして、そんな気分はどこかに吹き飛んでしまった。

「あれぇ、保、それ何?」

伊織だ。お陰で集中力が途切れ、「無限の闇」は音も無く消えた。小さく舌打ちして振り返った保は、伊織の隣に立つ人物を見て絶句した。第三者が入って来ただけでも衝撃を受けるところだが、更に、それが白銀家側の人間だったからだ。

「どうして、お前が?伊織、どういうことだ?」

保は険しい表情で言った。

「白河さん、手伝ってくれるって。」

伊織はニコニコして言った。

「手伝いだと?何を言っているんだ?信用出来るわけがないだろう!」

「でも、紋ちゃんが邪魔なんだって。」

「…。」

保は酷く苛立ちながら、結弦乃を無言で睨んだ。結弦乃はさして興味も無さげに社の中を見回していたが、保の方を見た。

「あなたの妹、未知弥様にすごく大切にされて、自分の立場を忘れているみたいで、すごく目障りなの。」

「…。」

保が何も言わないので、結弦乃は続けた。

「あなたたちの狙いがあの子だけじゃなく、未知弥様もだということはわかってるわ。でも、さっきも言ったけど、あの子に負けるような未知弥様に興味は無いの。」

「…。」

保は無言のまま、探るように結弦乃を睨み続けている。

「私が、ここにあの子を連れて来てあげる。そうすれば、未知弥様も連れ出せるわ。」

側で聞いていた伊織が、パンッと手を叩いた。

「保、いいじゃないか、お願いすれば。紋ちゃん、最近見守りが付いてて近付きにくいし。」

保はチッと舌打ちし、考えを巡らせた。結弦乃を簡単に信用出来るはずがなかった。しかし、どちらにせよ、伊織がここに連れて来てしまった以上、この場所はすぐ見つかる可能性も高く、あまり時間が無いと言える。結弦乃を利用するしかない。伊織がここまで勝手な行動をとるとは思わなかった。保は全く苛立ちが収まらず、かろうじて、

「裏切りがわかったら、すぐ消すからな。」

とだけ言った。

「信用しなさいよ。」

結弦乃はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。


「また迷惑をかけてしまった…。」

紋は自分の部屋のベッドに横になり、申し訳なさでいっぱいになっていた。職員室を出てからの記憶が無く、気が付いたらベッドに寝ていた。

「私も、お側に居ながら何も出来ず、申し訳ありません。」

雪珠もさすがに元気が無い。

「雪珠は何も悪くないわ。」

雪珠には攻撃的な能力は無い。あくまで、精神的に紋を支えてくれる存在だ。紋はそれをよくわかっている。雪珠にそんなことを気にして欲しくなかった。

「でも、このままだと、もっと迷惑をかけてしまうことになるわ。」

紋は深刻な顔で言った。伊織の霊力が、決して紋より強いわけではない。しかし、術を掛けることに長けているようで、相手を一瞬で捕らえる。伊織を認識した時には、すでに術の中に居るのだ。この二度の接触は、様子見だったのかもしれないが、次こそは保が関わってくると思われる。

「お兄様は、私をどうしようと考えているのかしら…。」

妙の件で、酷く恨んでいることは間違いない。自分を殺すつもりだろうか。だとすれば、どんな方法を取ろうとしているのか…。何にせよ、紋の気持ちは滅入っていくばかりだった。

「せめて私がもう少し、実戦能力が高かったら良かったのだけど…。」

強力な霊力と高い能力を持っていたが、こんなにも攻撃に弱いことに、紋は不甲斐なさを感じていた。

「知可弥様や未知弥様が付いていてくれますわ。」

雪珠がそう言ったが、紋の表情は更に曇った。

「でも、私は甘え過ぎているのよ。」

「紋様…。」

「私は使用人なのに…。」

何度繰り返した言葉だろう。何度も自分に言い聞かせているのに…。

 その時、未知弥がドアをノックした。

「紋、起きているか?」

「!」

紋は名前を呼ばれ、咄嗟に布団を被って寝たふりをした。しかし、

「はい、起きております。」

と、雪珠がしれっと答えたため、紋は慌てて起き上がった。

「どうした?そんなに起きていて大丈夫なのか?」

入って来た未知弥に不思議そうに訊かれ、紋は再びドサッと倒れ込んだ。

「…。」

未知弥が呆れたように無言で見ている。紋の顔が赤かった。

「体調は大丈夫か?」

「はい…。」

紋はベッドの上に半身を起こして座り直し、小さく返事した。

「校内にまで入って来たんだな。」

未知弥は椅子に座ると、すぐに本題に入った。

「またご迷惑をおかけしてしまいもうしわけありません。」

紋は頭を下げて謝罪した。

「お前が謝ることは何もない。とにかく無事で良かった。」

未知弥は優しくそう言ってくれたが、紋は複雑な気持ちだった。

「ですが、近い内に、次は兄様が姿を見せると思うのです。」

そう言う紋の顔が強張っていた。未知弥も真剣な表情で聞いていた。

「あの伊織さんという方、霊力強いわけではないのですが、私はすぐに術にかかってしまって…。今までが様子見だとしたら、次は…。」

紋は手をギュッと握った。

「安心しろ、お前の兄の居場所はもう掴みかけている。それに、狙いは紋だけじゃなく、俺もだ。」

「え…。」

紋の顔がサッと青くなった。淡々と、未知弥は続けた。

「恐らく、お前を使って俺の霊力を奪う算段だろうな。」

「そ、そんな…。」

紋は絶句した…。

「あの伊織という男は二度、お前に術をかけて様子を見ているようだ。おまえを術で操って、俺の霊力を奪わせようとしているのだろう。そして、最終的に、お前を始末するつもりだと思う。」

「ど、どうしましょう…もし、私の能力で未知弥様を…。」

紋の声が震えた。あっさりと術にかかてしまう自分が、知らない内にそんなことをしてしまったら?紋は恐怖を感じた。

「安心しろ。」

未知弥の声に、紋はハッと顔を上げた。

「そんなことは絶対にさせない。」

未知弥は穏やかに笑って紋を見つめていた。紋は泣きそうになるのを堪えながら、

「未知弥様は、私に優し過ぎます…。」

と言って俯いた。少し沈黙した後、未知弥が訊いた。

「…誰かに何か言われたか?」

「いえ、そういうわけでは…。」

紋は慌てて答えたが、それ以上言葉が出なかった。再び沈黙が流れたが、未知弥が口を開いた。

「紋、この件が片付いたら、蛍を見に行かないか。」

「えっ…。」

紋は思いもかけない言葉に、顔を上げて未知弥を見た。未知弥はじっと紋の目を見つめた。

「十年ぶりに見に行こう。嫌か?」

紋は再び泣きそうになりながら、首を横に振った。

「行けません。私は、使用人ですから…。」

「結弦乃だろう?」

紋は一瞬言葉に詰まったが、何とか答えた。

「あ、いえ…、結弦乃様は注意をしてくださっただけです。私が立場をわきまえるように。」

「何と言っていたんだ?」

「えっと、その…使用人であることを忘れるなと。それから…結弦乃様は未知弥様の婚約者だと聞きました…。」

言いながら、紋はギュッと手を握り締めた。未知弥は、やれやれと思いながら、

「結弦乃が勝手に言っていいるだけだ。そんな事実は無い。」

と、キッパリと言った。紋はポカンとして未知弥を見た。

「昔からなんだ。けれど、俺は結弦乃のことは妹のようにしか思ったことはない。何度も本人にも伝えている。」

「そうなの、ですか…。」

そう言って、紋の頭の中で「でも、だからと言って何だと言うのかしら」と声が響いた。結弦のが婚約者でなかったからと言って、自分が未知弥の隣に立てるわけではないのだから。

「それで、どうする?」

黙り込んだ紋の顔を覗き込んで、未知弥が訊いた。

「見に行かないか、蛍。」

「でも…。」

「でも?」

「私は使用人です。きっと、良く思わない人がいます。」

すると、未知弥が紋の顔に手を伸ばし、上を向けた。

「紋、お前はどうしたいんだ。」

未知弥に優しく訊かれ、紋の目に涙が溢れた。

「行きたい、です…。」

「ああ、行こう。」

未知弥は微笑むと、紋の頭を抱き寄せた。

「!」

紋は驚いて声も出なかった。顔が一瞬で真っ赤になったのが自分でわかった。もう、どうしていいかわからなかった。自分の気持ちは抑えきれなかった。紋は目を閉じて、そのまま未知弥に抱き締められていた。


「結弦乃から報告は?」

部屋に戻った未知弥は、すぐに快に訊いた。結弦乃に、保と伊織が出入りしそうな場所が当たって欲しいと頼んでいたいたのだ。

「はい、たった今、保の居場所の情報が送られて来ました。」

快はスマホの画面を未知弥に見せた。地図と、古びた神社の画像が届いていた。未知弥は確認し頷くと、

「さすがだな。しかし、やけに早いな。必要以上に動いていないといいが…。」

と呟いた。

「今回は、私情が混じっていないといいですが…。」

快がそう言い、未知弥と顔を見合わせた。常に冷静沈着に任務をこなす結弦乃だが、今回はいつもと状況が違うようだ。快が心配するのも理解が出来た。

「紋に、自分が婚約者だと言っていたようだ。」

「相変わらずですね。」

快は苦笑した。

「結弦乃の未知弥様好きは子供の頃からですからね。何度断られても、全くめげず。」

未知弥も快も、子供の頃からの光景を、それぞれ思い返した。

「でも、未知弥様も、そろそろ本当に結婚のことを考えた方がいいんじゃないですか?」

快がニヤニヤして言った。

「お前こそ。」

「いえ、お仕えする身としては、未知弥様に先に結婚していただかないと。」

快はもっともらしく言い、未知弥はそれを聞き流して、話を戻した。

「それより、保たちの動きだ。これまで二度、黒瀬川伊織が接触してきたが、そろそろ保が動き出すだろう。」

「黒瀬川伊織を使って紋を連れて行くつもりであれば、もう、紋が何と言おうと護衛をつけるしかありませんね。」

「しかし、俺を誘き出すことも狙いのはずだ。出来れば、事を一度に片付けたい。」

「と、言いますと…?」

快が訊いたが、未知弥は何か考えている様子で答えなかった。


 それから、紋は数日間休み、週末に仕事に復帰した。保や伊織の動きも無く、紋も屋敷から出ることがなかったので、安心してすごしていた。

「無理しないでね。」

「そうよ、完全に良くなるまで、ゆっくりでいいからね。」

藤代や紗喜も優しくサポートしてくれ、紋は申し訳なさを感じつつ、感謝した。

「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です。」

紋はそう言って、積極的に仕事をこなしていた。迷惑ばかりかけていないで、しっかり働かなければと思っていたし、立て続けに仕事をすることで、保のことを考えないようにもしていた。一つ仕事をこなすと、すぐに次の仕事を引き受け動いていた。

 その時も、取ってきて欲しいものがあると頼まれ、渡り廊下を一人で歩いているところだった。

「ねぇ、ちょっといいかしら?」

紋は不意に呼び止められ、声の方を見ると、結弦乃が庭に立っていた。紋は何となく身構えながら頭を下げた。

「そんなに身構えないでちょうだい。」

結弦乃は可笑しそうに笑って言った。そして、紋の方に近付いて来た。

「ちょっと、付き合ってくれないかしら。」

結弦乃はそう言うと、ニッコリと微笑んだ。

「え、でも…。」

紋が躊躇っていると、結弦乃はサッと紋の手を握った。

「ちょっと話がしたいの、来てちょうだい。」

強引ではないが抗えない力がかかり、紋は結弦乃に引っ張られるような体勢になった。しかし、紋は咄嗟に自分の霊力を放ち、結弦乃の手を振りほどいた。「バチッ」と電流が流れるような感触があった。

「ふうん、霊力が強いのは本当なのね。」

結弦乃は目を細めて紋を見ると、グイッと距離を縮めて近付いた。そして、

「これ以上、未知弥様に迷惑をかけたくないでしょう。」

と言いながら、再び紋の腕を握った。紋は結弦乃の言葉に一瞬怯み、その隙に腕をがっちりと固定されてしまった。振りほどこうと思ったが、結弦乃の言葉が頭の中に響いていた。

「いい子ね。来なさい。」

結弦乃は紋の手を引いて歩き出し、紋もそれに従って歩いた。屋敷の門を出ると車が一台停まっており、それに乗せられた。

「あなたの兄のところへ連れて行くわ。」

紋はハッとして結弦のを見たが、澄ました顔をしているばかりだ。何とか逃げなくては…。そう思い、固定された腕をほどこうと霊力を込めようとした時、結弦乃が何か呟き、更に術をかけた。全身に電流が流れるような刺激が伝わり、紋は意識を失った。

「実戦が不足しているのね。」

結弦乃は冷めたような目で紋を見て、そう呟いた。


 紋が居ないと、未知弥に報告があったのはそれから暫くしてからだった。なかなか戻らない紋を、藤代と紗喜が捜してみたが、どこにもいなかった。屋敷には強力な結界が張られており、伊織などの侵入は不可能だ。紋が自分から出て行ったとも考えにくい。

「結弦乃と紋が話しているのを見たと言う者がありますが…。」

藤代がそう伝えたが、未知弥は冷静だった。

「居場所はわかっている。お前たちはいつも通りにしていてくれ。」

そう言って、隣に立つ快を見やった。

「快、行くぞ。」

「はい、未知弥様」

快も穏やかに答えた。未知弥は無言で頷くとドアに向かい、快もそれに続いた。


「これは、君がかけた術?」

伊織が、虚ろな目をして座っている紋の顔を覗き込みながら、結弦乃に訊いた。

「そうよ。腕の固定を外されそうになったから、かけたの。」

結弦乃は何でもなさそうに言い、保の方を見た。伊織は興味深そうに紋を見回している。結弦乃のかけた術が気になるようだ。

「今意識を戻すと面倒よ。そのままにした方がいいわ。」

結弦乃は伊織を見ずに言った。

「本当に連れて来たんだな。」

保は紋を見下ろして言った。あの出来事があってから初めて対面する紋に、保は手が出そうになるのを堪えた。

「まだ疑っていたの?」

結弦乃は馬鹿にしたように言った。

「未知弥様にはここの情報を伝えてあるから、その内ここに来るわ。後は、あなたたちのお手並み拝見ね。」

保はチッと舌打ちして、伊織の方を見た。

「伊織、お前、準備はいいな?」

「うん、大丈夫、だと思う。」

伊織は紋を見回しながら言った。

「だと思う?」

保がピクッと反応した。

「いや、僕の知らない術がかかってるから少し気になったけど、大丈夫そうだ。」

そう言って、伊織は紋の目を見つめると、術をかけ始めた。

「さあ、立って。」

伊織がそう声をかけると、紋はふらりと立ち上がった。

「うん、いい子だ。」

伊織はニコッと笑った。

「もうすぐ、君の敵が現れる。そうしたら、そいつの霊力を奪うんだ。出来るね?」

伊織は両手で紋の顔を包み、目を見つめたまま、何度も何度も繰り返し同じことを紋に伝えた。紋は虚ろな目をしたまま、所々を反芻して呟いている。

「大丈夫だ。これでかかっているよ。」

伊織がニコッと笑って言った。

「保こそ、大丈夫なの?」

「ああ。」

保は短く答えると、目を閉じて片手を上げた。眉間に皺を寄せ、強く集中した一瞬で、頭上の空間が口を開けたように開いた。初めて出現に成功してから、精度を上げ、瞬間的に「無限の闇」を出現させられるようになっていた。

「すごい、すごい。」

伊織が陽気に言ったので、保は「無限の闇」を閉じ、舌打ちをした。

「伊織、緊張感を持ってくれ。」

伊織は聞いているのかいないのか、特に返事はしなかった。

「でも、紋ちゃんいい子そうなのに残念だなぁ。霊力や能力も高いんでしょ?」

伊織は紋の頭を撫でながらそう言ったが、保は無言のままだった。その時、

「不必要に触らないでくれないか。」

落ち着いた声がした。保がハッと声の方を向いた。社の中に、気付かない内に未知弥と快が立っていた。

「結界は…。」

保が思わず呟いたが、

「結界なら、俺が破りました~。」

と、快が陽気に言った。保は険しい表情でチッと舌打ちした。

 伊織はキョトンとして、紋の頭に手を置いたままだったが、パッと手を上げて、

「そんなに怒らないで。」

と言って、ニコッと笑った。未知弥はすたすたと伊織と紋の元に進み、伊織から紋を引き離した。伊織は、未知弥から怒りと強力な霊力が漲るのを感じた。未知弥は冷たい目で伊織を見ると、

「紋にかけた術を解け。」

と言った。しかし、伊織は、

「う~ん、ごめん、それは出来ないんだ。」

そう言って、保の方を見た。

「保、始めていい?」

「ああ。」

保も冷静に応えた。

 伊織は、未知弥に支えられて立っている紋に向かって行った。

「紋ちゃん、それが誰かわかるね。君の敵だ。そいつの霊力を奪うんだ。」

紋は、言われた言葉を繰り返して呟いた。そして、虚ろな目のまま、未知弥を見上げた。

「…。」

未知弥は無言で立っていた。紋はそのまま未知弥の胸の辺りに手を当てた。それでも未知弥は動じなかった。保は息を呑んで、紋の手元を凝視している。伊織も、微笑みながら、その様子を眺めていた。紋は、無表情のまま、手の先に霊力を集中させようとした。

 その時、ずっと静観していた結弦乃が呟いた。

「解け。」

すると、紋の周りに薄いガラスが張ったような光が現れ、それがパリンと音を立てて割れた。虚ろだった紋の目に光が戻り、力が抜け、床に倒れそうになったところを未知弥が支えた。

「紋、大丈夫か?」

「…未知弥、様…?」

紋は不思議そうに未知弥の顔を見つめた。未知弥は微笑んで紋をそっと抱きしめた。

「どういうことだ、伊織!」

保が伊織を怒鳴りつけた。伊織は頭をポリポリと掻きながら、

「ん~…白河さんかなぁ…。」

と言って、へらっと笑った。

「お前…。」

保に睨みつけられた結弦乃は、腕を組んで小馬鹿にしたような顔で向き合った。

「私が未知弥様を裏切るわけがないでしょう。」

「何をした…?」

「ここに来る前に、車の中で紋に術をかけていたでしょう。そこの彼は、私の術の上に自分の術をかけた。私が先にかけた術を解くことで、同時に彼の術が解けるようになっていたの。」

結弦乃の説明を聞き、

「ごめん、保、失敗しちゃった。」

と、伊織は舌をチラッと出して言った。保は大きく舌打ちして両手を握り締めた。

「さて、お終いにしよう。」

そう未知弥が言った瞬間、保は自分の頭上に「無限の闇」を出現させた。黒い闇がパックリと口を開いた。未知弥も快も、初めて見るその闇に一瞬見入った。保にこんなものを出現させる力があったことに驚きを感じた。

「何だ、これ…。」

快が呟いた。

「『無限の闇』です…。あの中には強いエネルギーが渦巻き、無限の闇が広がっています。中に入ったら、永遠に彷徨うことになります…。」

紋が答えた。あの文献の中に載っており、妙に強要されて、紋も何度か出現させたことがあった。

「ああ、お終いにする。」

保はそう呟くと、自らその闇の中に飛び込もうとした。

「保!」

「待て!」

伊織と未知弥が声を上げたが、それより先に動いたのは紋だった。咄嗟に手から出した霊力で保を絡め取り、そのまま床に引きずり落とした。

「紋…何を…?」

保は、霊力に体を絡め取られたまま半身を起こし、駆け寄った紋と対峙した。

「何だ?母さんと同じように俺の霊力を奪うのか?それとも、自分で俺に止めを打ちたかったのか?」

「お兄様…。」

紋は保の前に膝を付くと、保の両手を握り、霊力でその手をがっちりと固定した。

「何のつもりだ?」

保がもがいても、手はビクともしなかった。紋は、目に涙を溜めて、保の手を握っていた。

「お兄様…。私は、もう、これ以上家族がどうかなってしまうのを見たくないのです。お母様にもあんなことをしてしまった…。」

紋の目から大粒の涙がポロポロとこぼれた。

「紋…。」

「私たちは、分かり合えなかったですが…。それぞれの道を、生き直しましょう…。」

「…。」

保は放心したように空を見つめていた。紋は肩を叩かれ、振り返ると未知弥が立っていた。

「保、お前の処罰はこれから考えよう。お前もだ。」

そう言って、未知弥が目線を向けた先に、いつの間にか快に捕らえられた伊織が立っていた。珍しく、その顔が青ざめている。

「保、ダメだよ…。いなくなるなんて聞いてない…。そんなのは聞いてない!」

最後は悲鳴のように叫んだ。

「…。」

保は無言のまま空を見つめるばかりだった。


「しかし、結弦乃、少し勝手が過ぎたな。」

帰りの車内で未知弥が言った。保と伊織は白銀家の家臣たちが連れて行き、快の運転する車に紋と結弦乃も乗って、屋敷に向かっていた。

「結果的には上出来だわ。」

結弦乃はつまらなそうに言った。未知弥は結弦乃に、保たちの居場所を探すよう依頼したが、それ以降の結弦乃の行動は、全て結弦乃の独断で取った行動だったのだ。

「お前の動きは大よそ予測していたが、少し間違えばどうなっていたかわからない。今後、勝手な行動は慎め。お前をあまり危険な目に遭わせるわけにはいかない。」

「別に…。あんなヤツら大したことありませんし。」

結弦乃はフンッとそっぽを向いたが、心配されたことには少し照れを覗かせた。

「兄が、いえ、私のせいで、申し訳ありませんでした。」

紋は深く頭を下げた。体を小さく縮ませて、心底申し訳なく感じているのがわかった。

「紋、頭を上げろ。謝らなくていい。」

未知弥は真顔でそう言った。

「いえ…母の件からずっと…。」

紋は頭を下げたまま、涙声でその先が続かなかった。

「紋、気にするな。お前一人が抱える問題じゃない。」

未知弥にそう言われ、紋は涙がこぼれ、何も言うことが出来なかった。

 少し車内に沈黙が漂った後、それを破るように、最初に結弦乃が口を開いた。

「そうよ、あなたが申し訳なく思ったって仕方ないわよ。それより、あなたは強力な霊力を持っているんだから、もっと実戦を身に付けるべきね。」

「実戦って、お前、紋に何させるつもりだよ…。」

快が呆れたように言った。

「そんなに申し訳なく思うなら、自分の身を守れるようになるべきよ。それに、宝の持ち腐れよ。」

結弦乃がそう言いきると、

「それなら、結弦乃が教えてくれたらいい。」

未知弥が提案した。

「ええ?嫌です、そんなの…。」

「怜みたく、結弦乃も屋敷に住めばいい。」

快が楽しそうに言って笑った。

「あの…、私、お願いしたいです。これ以上、ご迷惑をお掛けしたくないので…。」

紋が真剣に言うと、結弦乃は大袈裟に溜息をついて、

「面倒くさ~い。」

と言った。それを見て未知弥は、

「断らなかったから、受けてくれるようだ。」

と、微笑みながら紋に囁いた。












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