第8話

 市街地を抜けて北に向かって行くと、次第に民家が少なくなり、茂みや藪が多くなって、やがて山にぶつかる。木々が生い茂って、日が射さず薄暗いその山の麓に、もう何年も放置された小さな神社があった。鳥居も無く、社自体も木が所々朽ちてしまっている。しかし、正面の開き戸は錠がされており、誰も中に入れないようになっていた。

 その中に、紫井森保は身を潜めていた。外から見れば古い朽ち果てた神社だが、内部は霊力を使って作られた、広く快適な空間が広がっていた。母親である妙が、紋に霊力を奪い取られたあの日、保は妙が大切にしていた「古い文献」も持って屋敷を出ると、数日間彷徨った後でここに辿り着いたのだった。

 今も、保は薄明りの下で、その文献を静かにめくっていた。この中には、霊力の様々な使い方が載っていた。今では使える者がおらず、忘れられたようなものも多かった。妙はこの本を読み尽くし、使えると思ったものを紋に教え込んだ。紋はすぐに身に付ける、若しくは学ばなくとも文献の通りに霊力を使いこなすことが出来た。保にはそれだけの能力はなく、いくつか試してみたが、ほとんどが上手くいかなった。しかし、一つだけ、もう少しで習得しようとしているものがあった。保はそれに賭けていた。

 その時、背後に人の気配がした。

「目を悪くするよ?」

そう言って、ニコッと笑いながら光を灯したのは、先程、紋とバス停に並んだあの青年だった。保は文献を閉じると、

伊織いおり、誰にも見られていないだろうな。」

と言って、青年を軽く睨んだ。

「大丈夫だって、心配症だなあ。」

伊織と呼ばれた青年は、ひらひらと片手を振って言うと、保の近くに置かれていた大きなクッションにドサッと座った。ここで居心地良く過ごせるようにと伊織が自分で用意したものだ。実際、伊織は全身をクッションに預けて、だいぶくつろいだ姿勢になった。

「それで、どうだった?」

保はにこりともせずに言った。

「ん~?」

伊織は保を見もせずにスマホをいじり始めた。

 保と黒瀬川伊織くろせがわいおりは学園の同窓生だった。ほぼほぼ他人と関わりを持たない保だったが、唯一、伊織とは親しくしていた。最初は、保に興味を持った伊織が、一方的に絡んでうるさがられていたが、徐々に保も伊織に心を開くようになった。伊織も、人懐っこく飄々としているようでいて、ほとんど他人と交わらず、一人で居るタイプだった。保には同じ匂いを感じ、珍しく自分から話しかけたのだった。学園内では寡黙だったが、保と居ると元来の性格が出るようで、人懐っこくのびのびとしている。

 黒瀬川家は、人に暗示をかけ操る他、呪詛的な術を得意とする家だ。紫井森家と同様、陰の気配が強く、あまり表立って行動しないのを常とした。霊力者が集う宴などにも、当主である伊織の父一人が出席するだけだったため、未知弥も伊織と面識が無かったのである。

「紋は確認出来たのか?」

なかなか答えない伊織に痺れを切らしたように、保が訊いた。

「ああ、うん。本当に純粋そうな子だった。すぐに術に掛かりかけたよ。」

やっとスマホの画面から顔を上げた伊織は、薄っすらと笑みを浮かべながら言った。それを聞いた保は、ハッとして伊織に詰め寄った。

「お前、紋に接触したのか?今日は確認しろと言っただけだぞ。」

「ごめん、ごめん。見てたら声掛けたくなっちゃって。」

伊織はヘラヘラしながら謝り、

「白銀未知弥にも会ったよ。」

と、しれっと言った。

「なっ…んだと?」

保の顔が急激に険しくなった。

「まだ計画は始まってもいないのに、もう姿を見られたのか?」

「大丈夫、大丈夫。すぐ逃げたし、俺が誰かもわかっていないみたいだったよ。」

伊織はリラックスしたまま言った。

「計画は慎重に進める。勝手なことばかりするな。」

対照的に、ピリピリと苛立って保が言った。

 保の恨みの矛先は、もはや白銀家でなく、母を裏切り霊力を奪った紋に向けられていた。元々憎らしく思っていたのだから、その恨みは相当に強い。あの日、覇気も無く変わり果てた母の姿を見た保は、絶望感に打ちのめされた。母、妙が大切にしていた文献のみを持って一人家を出ると、ふらふらと彷徨い続けた。そして、どうやってこの恨みを晴らせば自分の気は済むのか。保はひたすら考え続けた。

 家を出て数日後にこの神社を見つけ、ここに潜みながら更に考えた。紋にとって最も残酷な方法で、白銀家を葬れないだろうか。保の考えはそこに至った。

「紋に、白銀知可弥と未知弥の力を奪わせれば…。いや、紋がそれを受け入れるわけがない。」

保は、薄暗い社の中で独り言を言い続けた。

「紋にそれをさせるには…?」

そこで、伊織の存在が浮かんだ。

「そうだ、伊織に暗示をかけてもらえばいい。紋に暗示をかけ、力を奪わせたところで暗示を解く。現実に戻った紋は、自分のしたことの罪の大きさに耐えられないだろう。そうして絶望に陥ったところを、自分の手で葬ろう。」

 保は、すぐにこの計画を伊織に持ち掛けた。伊織がどんな反応を見せるかと思ったが、伊織は、

「うん、いいよ。」

とだけ言って、あっさりと計画に乗った。元々、伊織は何を考えているかわからない、狂気的なところがあった。すぐに笑顔を見せるので、あまり関わりのない人は好印象に受け取るが、内面が全く見えない。焦ったり怒ったりすることも無く、保はそれが、逆に伊織の恐ろしさに感じることがあった。

「ごめん、ごめん。」

伊織はニコニコしながら言った。

「でも、収穫もあったよ。」

「何がだ?」

保は怪訝そうな顔で伊織を見た。

「ん~。紋ちゃんはね、白銀道也の弱点になるよ。」

伊織は再びスマホの画面を見ながら、楽しそうに言った。

「…。」

保が無言のまま見つめてくるので、伊織は言い直した。

「うん、だからね、紋ちゃんを使えば、すぐに白銀未知弥も誘き出せるってこと。」

そう言って、スマホから顔を上げると、ニコッと保に笑いかけた。


「おい、行くぞ。」

翌朝、紋が登校するために玄関に行くと、怜が待ち構えていた。

「…はい?」

紋はポカンとして怜を見た。

「はい?じゃねえよ。ほら、バス停まで一緒に行くぞ。」

「え、あ、はい…。」

紋はわけがわからなかったが、急かされるままに靴を履き、怜と歩き出した。今日は、未知弥はもう出勤したようで姿は見えなかった。

「お前、昨日危なかったんだってな。それなのに、送迎断っただろ。」

隣を歩きながら怜が言った。

「だから、これからバス停まで、俺が一緒に行くことになったから。」

「ええ!」

紋は驚いて声を上げた。どうやら、昨晩の内に未知弥が怜に連絡を入れたようだ。

「あ、あの、私は使用人なので、送迎をしてもらうわけにはいかないと言ったんです…。」

「別に、誰も気にしねぇって。危険なら仕方ないだろ?」

怜はあっけらかんと言う。

「いえ、立場はしっかり守らないといけません…。」

紋は一人でごにょごにょ言い始めた。

「ああ、でも、結局、怜様を煩わせているわけですよね。うわ~、どうしましょう…。」

「いいから落ち着けよ。」

怜は呆れ顔で紋を見たが、真顔になると、

「俺は、未知弥様に命じられた修行の一貫って体だから、周りの目は気にするな。一番大切なのは、お前の安全だ。」

と言った。紋はハッとして、

「はい…。ありがとうございます。」

と頭を下げた。

 バス停までは十分程の距離だ。紋と怜は並んでバスを待った。

「俺はここまで。バスに乗れば、この時間なら学校までは学生が多いから、接触してこないだろうって。でも、気を付けてな。」

バスが来ると怜はそう言って、紋がバスに乗るのを見届けると、自分も学園に向かった。


「ねぇ、さっきの人、誰だったの?」

紋が教室に入ると、普段はあまり話さないクラスメイトが声をかけてきた。紋が不思議そうな顔をすると、

「ほら、さっきバス停で見送ってくれてた人。めちゃくちゃイケメンだったじゃない!」

と、じれったそうに言った。怜のことを言っているらしい。紋が説明しようとすると、莉央たちもやって来て、話に加わった。

「何?何の話してるの?」

「イケメン」というワードを聞きつけた陽菜子が目を輝かせた。紋が説明すると、

「何それ~!未知弥様だけでも羨ましいのに、紋ずるい~。」

と、陽菜子が悶えた。

「すごいキレイな顔してたよ。オーラすごかった。」

「ちょっと紹介してよ!」

「紹介してもらってどうすんのよ。」

と、莉央が呆れたように言ったが、陽菜子は聞いていない。

「でも、本当にカッコいい人ばかりいるのね。」

結衣が感心したように言った。

「女性も皆さんキレイなんですよ。未知弥様のお母様の志穂乃様は、まるで女神様のようで。この前も、結弦乃様という方がいらっしゃって、とてもおキレイでした。」

紋がそう言うと、莉央が反応した。

「白河結弦乃って人?才色兼備で有名なんでしょう?うちのお父さんがパーティーで見かけて、すごくキレイだったって言ってたもの。」

「そうです。様々な任務を任されていて、とても優秀だそうです。」

すると、陽菜子がグイッと割り込んできて、

「ライバル出現ね。」

と言ってニヤリと笑った。

「紋、ボーッとしてると、未知弥様取られちゃうわよ。」

「だから、私は、そんな…。」

紋は困り顔でしどろもどろになった。皆、あれおれ好き勝手なことを言って盛り上がっているが、紋は、

「私は、ただの使用人ですから。」

と言って微笑んだ。自分に言い聞かせるようでもあった。


「それで、何でお前がここに居るんだ、結弦乃。」

未知弥は、社長室で書類に目を通しながら言った。応接用のソファに結弦乃が座って、未知弥をじっと見つめていた。赤いひざ丈のワンピースがよく似合っている。

「私をここで働かせて欲しいんです。いいでしょう?」

結弦乃はねだるように、上目遣いで言った。結弦乃は幼い頃から未知弥に懐いており、周囲も未知弥にとっての妹のように見ていた。結弦乃自身は、幼い頃からずっと、未知弥に恋心を抱いている。霊力者の中でも「才色兼備」と言われ、能力も高い自分が、最も未知弥にふさわしいと自信を持っている。

「どうしたんだ、急に。」

未知弥は結弦乃を見ずに訊いた。

「任務が無い時に、ここで社会人として働くのは、いい経験だと思いません?」

結弦乃はニッコリ笑って言った。しかし、未知弥は素っ気ない。

「お前は任務で十分忙しい。ここでの仕事は任せられない。どうしてもと言うのなら、父親に頼んで、白河グループで働かせてもらうといい。」

「…。」

結弦乃は一瞬言葉に詰まった後、何か言いかけたが、そのタイミングで快が入って来た。

「結弦乃は、未知弥様の側に居たいだけだろ?」

「な、何よ、快!」

結弦乃は顔を赤くして快を睨んだ。快は気にすることもなく結弦乃の横を通り過ぎ、未知弥の脇に立った。

「未知弥様は忙しいんだ。ここは遊びに来る場所じゃない。」

そう言われて、結弦乃は明らかに府服装だった。しかし、今日はこれ以上ここに居ても成果は無いと判断し、帰るために立ち上がった。その時、快が未知弥に見せようと差し出した写真が手から落ち、空を舞って床に落ちた。それを、すかさず結弦乃が拾い上げた。

「結弦乃、ありがとう。」

快は、すぐ返すよう手を伸ばしたが、結弦乃はまじまじと写真を見つめた。

「黒瀬川伊織よね。彼、どうかしたの?」

事も無げに言って、写真を快に渡す。

「知っているのか?」

快は写真を受け取りながら、意外そうに言った。昨日の夜から調査を始めたが、この男について、まだ情報を得られていなかったのだ。

「知っていることを教えてくれ。」

未知弥が真剣な表情で自分の方を見たので、結弦乃は満足気な表情でソファに座り直した。

「黒瀬川家の長男で、伊織という名前です。学園で私の一つ上の学年だったので覚えています。でも、本当に目立たないタイプでしたから、特別何か記憶に残っていることはありませんわ。」

「黒瀬川家か…。」

未知弥はそう呟いて、黒瀬川家の当主の顔を思い浮かべた。口数の少ない控えめな男で、あまり会話をした記憶が無い。息子がいるのは知っていたが、顔を見たことは無かった。紋は「意識が遠のくような感覚がした」と言っていたが、黒瀬川家の得意とする術を使ったと考えれば納得がいく。

 未知弥がそこまで考えたところで、結弦乃が思い出したように呟いた。

「そうだ、紫井森保と仲が良かったわ。」

「紫井森保と?」

未知弥の目付きが鋭くなった。

「ええ。二人共、あまり他人と関わらないタイプですが、よく二人で居るところを見ました。特に、黒瀬川伊織の方が楽しそうに見えましたけど。」

急に未知弥の気配が変わったので、結弦乃は少し戸惑ったようだった。

「紫井森保の差し金で、紋に接触したということでしょうか。」

快も表情が硬くなっている。

「その可能性が高いな。恐らく近い内に、また紋に近付くだろう。」

未知弥の口から紋の名前が聞かれ、今度は結弦乃の表情が険しくなった。

「あの紋という子に関することなのですね?」

結弦乃は立ち上がって、未知弥と快の近くに歩み寄った。

「どうして、あの子をそんなに気に掛けるのですか?」

「紫井森家の話はしただろう。兄の保が紋を狙っている。危険だからだ。」

未知弥は静かに言い、快に伊織について調査することと、保の行方を突き止めることを急ぐよう命じた。

「それだけでしょうか?」

結弦乃は食い下がった。

「結弦乃、もう下がるんだ。」

快が言ったが、カッとしていた結弦乃は引き下がらなかった。

「でも、あの子はただの使用人でしょう。」

一瞬、部屋の中が静まり返った。張り詰めた空気が流れ、数秒間が長く感じられた。未知弥は結弦乃を無表情で見ると、

「それが、どうだと言うんだ?」

ゾクッとするような冷たい声で言った。


「おい、紋、まだかよ?」

今度は放課後、紋が教室で帰り支度をしていると、怜の声がした。

「!?」

紋が驚いて声の方を振り返ると、教室の後ろ側のドアにもたれ掛かるように怜が立っていた。

「え、ちょっと、あれ誰?」

「すごいイケメン!」

「あの人よ、あの人。朝バス停で見た人!」

教室に居た女子たちがざわざわと騒ぎ出した。怜は気にする様子もなく教室に入り、紋の席まで歩いて来た。

「れ、怜様、どうしてここに…?」

「帰りも見守れってさ。お前、全然出て来ないから、勝手に入って来ちゃったぜ。」

怜はそう言ってから、紋の近くに居た莉央、陽菜子、結衣に気が付いた。

「紋の友だちですか?白桐怜と言います。紋がお世話にまってます。」

外面の良い怜は、ニッコリと笑顔で挨拶した。

「全然ですぅ。私、陽菜子って言います。」

「私は結衣です!」

陽菜子と結衣はキャーキャーとはしゃいでいたが、莉央は冷静なままで、

「紋、何かあるんですか?見守りって言いましたけど。」

と、気に掛かったことを怜に訊いた。怜はニコニコ笑ったまま、

「ほら、紋って頼りないでしょ?知らない人について行くんじゃないかって、未知弥様が心配しちゃって。」

と、軽く言った。それを聞いた莉央の顔がパッと明るくなる。

「あら、未知弥様が?」

「そうなんですよ。未知弥様がこんなに心配性だなんて知らなかったな~。」

「ちょっと紋、愛されてるじゃない。」

カラカラと笑い合おう怜と莉央を、紋は半笑いで眺めていた。


「あの、怜様、本当にすみなせん。」

紋は怜と並んで歩きながら頭を下げた。

「送迎を断ったのに、これでは…。やっぱり未知弥様に、一人で大丈夫だと話します。」

怜はそこまで黙って聞いていたが、

「未知弥様が譲るとは思えないけどな。」

と、バッサリ言った。

「使用人の立場で心苦しいのはわかってるさ。でも、状況が状況なんだから、誰も文句言わないだろ?」

「でも、怜様の時間も奪ってしまいますし…。」

紋は、心底申し訳なさそうに言った。

「俺は別に嫌じゃねえから、気にすんな。」

怜はぶっきらぼうに言ってから、

「いや、お前に何かあったら、みんな悲しむからさ。」

と、慌てて付け加えた。紋はしょぼんとしたまま、

「そうでしょうか…。」

と言って深い溜息をついた。

 藤代や玄生、紗喜…自分に皆とてもよくしてくれる。しかし、一族全体を見たらどうだろうか。問題を起こしている紫井森家から、使用人としてやって来た娘が、送迎や護衛を付けるような扱いを受ければ、納得しない者も多くいるだろう。

「勘違いしないでね。」

また、結弦乃の声がした。そうなのだ、皆がよくしてくれるとはいえ、勘違いしてはいけないのだ。

「誰かに何か言われたのか?」

紋が長く黙っているので、怜が訊いた。

「いえ、何も。」

紋は慌てて返事をした。その言い方に、怜は何か思ったようだったが、それ以上は何も訊かなかった。


 黒瀬川伊織は、静かに一人で過ごすことが好きだった。

本を読んだり、音楽を聴いたり、自分のペースで好きなことをする時間が、何より心地良かった。だから、幼い頃から友だちも作らず、それが寂しいと思ったことも無かった。そんな中で、保は唯一、伊織が興味を持った相手だった。

 保と初めて会ったのは学園の図書室だった。古びて薄暗い図書室の利用者は少なく、まして霊力に関する古い書物を読む学生など、保以外いなかったので関心を持った。また、他人と関わろうとせず、影を帯びた雰囲気の保に似たものを感じ、伊織は自分から保に声をかけた。

「ねえ、何読んでるの?」

保はそれに答えなかった。しかし、伊織は全くめげることなく話しかけた。

「古い本読んでるね。面白い?」

最初は煙たがられたが、繰り返し話しかけている内に、

「それ、少し難しいけど、面白いよね。」

「こっちもオススメだよ。」

など、伊織も古い書物に関心があり、知識も持っていることがわかると、保も徐々に会話をするようになった。

「俺は母親に認められていないんだ。」

時間が経つと、保はそんな話をするようになった。伊織も、紫井森家が女系の強い一族であることは知っていたので、そんなものだろうと思って聞いていた。しかし、白銀家や妹の紋の話が出てくる頻度が増え、話を聞くにつれ、保の恨みの深さが分かってきた。

「俺は、どうしても紋を認められない。なぜ、あんな頼りのないヤツを母さんが信頼しているのか、納得がいかない。」

保はよく、そうこぼしていた。そうして、あの日が来た。紋が使命を放棄し、母親である妙の霊力を奪ったのだ。その後の数日間を保がどうしていたのか、伊織でさえも知らない。やっと連絡が付いた時には、保は古びた神社に籠っていた。

「伊織、手伝ってくれないか。」

やつれた様子の保がそう言ってきたのは、神社に籠るようになって数日経った時だった。伊織はその数日間、毎日保の側で過ごしていた。特に声をかけるでもなく、クッションに座ったり、ごろごろしたりしながら、スマホをいじったり本を読んだりして、ただただ保の側で過ごしていた。

「うん、いいよ。」

伊織は詳細も訊かず、スマホを眺めたままで答えた。さすがに保が睨んでいるのがわかると、姿勢を正して微笑み、保の目を見て言った。

「出来ることは何でもするよ。友だちだ。」

保は「くだらない」と言うように顔をしかめたが、悪い気はしていないようだった。

「お前の術を使って、紋を操ってほしい。」

保は計画を説明した。伊織の術によって操った紋に、白銀未知弥の霊力を奪わせる。その後、術を解き、紋が絶望しているところを保が止めを刺すと言う。

「わかった。」

伊織は細かいことは何も訊かなかった。保は伊織の緊張感の無さが不満なようだった。

「フワフワしたヤツだが、紋の霊力は強い。慎重にしろ。」

保はそう忠告したが、

「うん、大丈夫。大事なのは霊力の強さじゃないんだ。」

伊織は、微笑んだままでそう言った。


「もうすぐね。」

夕方、紋は、ふっくらと膨らんできた朝顔の蕾を指先で撫でながら言った。すっかり季節は夏らしくなっていた。毎朝水を遣りながら、紋は朝顔が開くのが待ち遠しかった。

「もう咲きそうか?」

背後で声がしたので振り返ると、浴衣姿の未知弥が立っていた。

「はい、もうすぐです。」

紋がそう答えると、未知弥も鉢を覗いて、

「本当だな。」

と言って微笑んだ。

「今日はお帰りが早いのですね?」

こんなに早い時間に屋敷に帰っている未知弥を見るのは珍しかった。

「ああ、少し調子が悪くて帰ってきた。疲れが溜まったんだろう。」

そう言われてみると、顔色があまり良くない。紋は心配そうに何か考えているようだったが、おずおずと口を開いた。

「あの、私、ちょっとした癒しの力を持っているんです。」

未知弥はそれを聞いて、しらっとした表情で紋を見た。紋は顔を赤くして、

「あ、ひどい!信じてないですね?」

と言ってオロオロし、未知弥はそんな紋を見て、くくくっと笑った。

「いや、悪い。じゃあ、その癒しの力とやらを見せてくれ。」

からかわれたとわかり、紋は一瞬拗ねたような表情をしたが、気を取り直して呼吸を落ち着かせた。

「左手を出してください。」

未知弥が言われるままに左手を差し出すと、紋は両手でそっと包み、目を閉じて何か念じ始めた。

 未知弥は、右手が少しずつ温かくなるのを感じた。それが徐々に腕、肩、全身へと広がり、やがて体から抜けていった。体はほんのり温かく、軽くなっていた。

「どうですか?」

紋は手を離すと、未知弥の顔を覗き込むようにして訊いた。

「ああ、すごく楽になった。すごいな、紋。」

未知弥は優しい笑顔で言った。紋も嬉しくなって微笑んだ。

 その時、快が未知弥を呼びに来た。

「未知弥様、お休みのところすみません。至急、返事が欲しいという案件が…。」

そこまで言って、快は、おや?という顔をした。

「未知弥様、顔色が良くなりましたね。何かありましたか?」

微笑む紋と未知弥の顔を見比べている。

「いや、何でもない。」

未知弥は機嫌良くそう言って、屋敷の中へ歩いて行く。快は不思議そうな顔をしていたが、すぐに未知弥を追いかけた。

 一人になった紋が仕事に戻ろうとした時、背後に人の気配がした。結弦乃だった。

「あ…。」

紋はドキッとしてその場に立ち尽くした。いつの間にかそこに立っていた結弦乃が、冷ややかな目でこちらを見ていたからだ。

「ずいぶん、親しそうね。」

結弦乃は腕組みをして言った。

「「いえ、そんな…。」

紋はめを逸らして俯いてしまった。

「勘違いしないでと言ったでしょう。」

結弦乃はそう言いうと、冷たい目のまま、口元に笑みを作った。

「いずれ、私が未知弥様と結婚するのよ。」

紋はハッとして結弦乃の顔を見た。

「私が婚約者だと、以前から決まっていたの。だから、あなたが未知弥様とどうにかなることは無いの。」

結弦乃の目が挑発的に光っている。紋は一瞬目を閉じた後、

「勿論です。私は使用人ですから。」

そう、ニッコリと笑顔で言った。

「わかっているならいいの。」

結弦乃は満足気な表情で、屋敷内へと歩いて行った。

 結弦乃が見えなくなると、紋は自分の頬をピシャッと両手で叩いた。

「大丈夫。わかっていることでしょう。」

紋は自分に言い聞かせるように言った。もう、十分幸せだ。これ以上求めたら罰が当たりそうだ。それに、いくら望んでも、叶うものではない。紋は頭をぶんぶん振ると、次の仕事のために屋敷に入った。

 暫く、掃除や夕食準備の手伝いなどに集中していると、藤代が紋を呼んだ。

「紋、未知弥様の部屋にお茶を運んでちょうだい。」

そう言って、紅茶が載った盆を渡しながら、藤代は不思議そうに付け加えた。

「結弦乃が紋にお願いって言うのよ。何かしらね。」

紋は、また結弦乃に何か言われるのだろうかと気が重くなったが、盆を受け取って、未知弥の部屋に向かった。

 階段を上り、未知弥の部屋に近付くと、ドアが少し開いていた。珍しいと思いながらノックをしようとして、紋は手を止めた。部屋の中で、未知弥と結弦乃がキスをしている光景が目に入ったからだ。

「…。」

紋は目を閉じた。落ち着け、と心の中で言ったが、思わず踵を返して逃げるようにドアから離れた。

「おわっ、紋、前見てるか?」

紋は前から歩いて来た快に気付かず、ぶつかりそうになった快が声を上げた。

「す、すみません。」

紋は謝ったものの、真っ直ぐ快を見ることが出来なかった。目に涙が滲んでいたからだ。

「どうかしたのか?」

快は紋の顔を覗き込み、すぐに紋が泣いていることに気が付いた「。

「い、いえ、何でもないです。あの、すみません、これを結弦乃様に頼まれたのですが、お願いしてもいいですか?」

紋は下を向いたまま、盆を快に差し出した。

「…結弦乃が何かしたか?」

快は盆を受け取って訊いたが、紋は首を横に振った。

「いえ、本当に何でもないんです。申し訳ありません。失礼します…。」

紋はそう言って、そそくさとその場を走って離れた。

 紋を見送った快は、盆を片手に持って、ドアをノックしようとしたが、その瞬間に結弦乃の叫ぶような声が響いた。

「どうして?私は、ずっと未知弥様が好きよ。幼い頃から、ずっと、ずーっと!」

部屋の中では、結弦乃が興奮したように立ち上がり、未知弥が冷静な表情でソファに座っていた。

「結弦乃のことは、ずっと妹のように思ってきた。それ以上は何もない。」

未知弥はきっぱりと言った。結弦乃はそれを聞いて、両手を握りしめて立ち尽くしている。

「快、入って来い。」

未知弥に呼ばれて、快は「やれやれ」と思いながら部屋に入った。未知弥と結弦乃のこのやり取りは、これまで何度となく見て来ていたのだ。快は盆をテーブルの上に置いた。

「これ、紋に頼んだんだって?」

結弦乃はそれに答えず、面白くなさそうに横を向いた。未知弥は怪訝な顔で、快と結弦乃を見た。

「今、紋がこれを持ってここに来たんですよ。恐らく、見たんでしょう。泣いていましたよ。」

快はそう言って、結弦乃を見た。

「結弦乃、いい加減にしろ。」

結弦乃は唇を噛んで黙っていたが、

「納得いかないのよ。紫井森家の娘で、使用人なのに…。」

と、絞り出すように言った。未知弥は冷静なまま、結弦乃を見つめた。

「結弦乃、今日は、お前にそんなことをさせるためにここに呼んだわけじゃない。二度と繰り返すな。」

静かに、しかし重々しく言った。


 その夜、紋はベッドに寝そべり、雪珠と話していた。

「ねぇ、雪珠。私は欲張りね。こんなによくしてもらって、十分幸せなのに、もっともっと欲しいのね。」

夕食が終わるまでは何とか堪えたが、部屋で一人になると、涙が止まらなかった。

「それが普通ですよ。」

雪珠は枕元に座り、優しく紋の髪を撫でながら言った。紋は少しの間黙ってから、ポツリと話し始めた。

「私ね、十年前に初めて未知弥様と会った日から、一日も未知弥様のことを忘れたことが無かった。ただ、憧れだと思っていたの。また姿を見ることが出来るんだって。」

雪珠は黙って微笑みながら話を聞いている。

「なのに、こんなに優しくしてもらえるなんて思ってもいなかった。こんなに、こんなに…。」

紋の目から、更に大粒の涙がこぼれた。

「こんなに未知弥様のことが好きだと知らなかった…。」

紋は嗚咽を漏らして泣き始めた。

「どんなに想っても仕方ないのに。そんなのわかってるのに…。」

わかっていても、結弦乃から言葉で突き付けられるのは辛かった。それから、キスしているところを見てしまったことも。

「私、わかっているつもりで、期待して、勘違いしてしまった。」

聞いていた雪珠が、ふふっと笑った。

「雪珠、ひどい。どうして笑うの?」

紋は子供のように言ったが、雪珠は微笑むばかりで何も言わず、優しく紋の髪を撫で続けた。その内、紋は泣き疲れたようで、眠りに落ちてしまった。

「紋様、おやすみなさい。」

雪珠が紋の耳元でそう囁いた時、誰かがドアをノックした。雪珠はそれが誰かすぐにわかった。ドアに近付き、

「紋様は眠ってしまいました。大丈夫です。ご安心ください。」

そう小声で伝えた。

「そうか、わかった。」

未知弥は少し安堵した様子で言い、その場を後にした。



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