第7話

 紋の平穏な日々が過ぎていた。学校に行きながら使用人として働く生活にもすっかり慣れ、学校生活と仕事と、それぞれ楽しむ余裕も生まれていた。

 怜も、心を入れ替えたように学業と霊力の鍛錬に真剣に取り組んでいた。元々頭は良く、飲み込みはいいのだろう。ぐんぐんと成長を見せていた。性格は相変わらずで、毎日、紋をからかって楽しんでいる。未知弥はそれを、やれやれと思いながら見ているが、紋が元気そうな様子にはホッとしている。

 あれから、まだ紋が時々、母の霊力を奪ってしまったことに罪悪感を感じて、落ち込むことがあるのを未知弥は知っていた。それは、時間がどうにかしてくれる以外に無いだろう。それでも普段は元気に過ごす紋を、未知弥は陰で見守っていた。

  

 学校生活も順調だった。成績ッも優秀。友だちとも仲が良く、先日は念願が叶って 四人で休日に遊びに行くことが出来た。ただ、楽しみ過ぎて前日眠れなかった上に、当日は初めての事ばかりで興奮し、翌日の日曜日は一日寝込んだ。お陰で怜に「小学生の遠足かよ」と散々馬鹿にされてしまった。

「ねえ、未知弥様ってどんな顔なの?カッコいいんでしょう?」

昼休みに、陽菜子の推しの話を聞きながらお弁当を食べていたが、不意に話が逸れた。

「は、はい。それは、とても。」

紋は急に話を振られたのもあって、ドキドキしながら答えた。

「私の推しのケイ君だってカッコいいでしょ?それと比べてどう?」

「未知弥様です。」

「即答かよ…。」

そう言われて、紋はハッとして顔を赤くした。陽菜子はそんな紋を見て、

「あ~、いいなあ、身近にそんなカッコいい人がいるなんて。」

と、心底羨ましそうに言った。すると、横から莉央が何か冊子を差し出した。

「これ、お父さんから借りてきてたの忘れてた。白銀グループの広報誌なんだけど、ここに載ってるのが未知弥様よ。」

「見せて!見せて!え~!これ!?これが未知弥様?美し過ぎない?」

陽菜子が叫ぶと、結衣も冊子を覗き込んで、キャーキャーと騒いでいる。二人でひとしきり騒ぐと、陽菜子が、

「紋はこんなカッコいい人が好きなのね。」

と言ったので、卵焼きを口に入れたばかりだった紋は「ゴホゴホッ」とむせ込んだ。

「な、な、何言ってるんですか!?」

紋が真っ赤になって狼狽えると、莉央、陽菜子、結衣、三人揃って、

「バレバレだから。」

と言った。

「わ、私は別に…。それに、未知弥様はすごくモテるんですよ。私なんて…。」

「そりゃあ、この美貌に、あの家柄と財力じゃあ、女が放っとかないわよね。」

陽菜子がそう言い、紋は、先日屋敷で開かれた食事会を思い返した。

 屋敷の洋間で開催された、そんなに規模の大きくない立食式の食事会だった。紋も給仕係として会場内で働いていたが、未知弥と話したい若い女たちが、途切れることなく未知弥の元へ集まっていた。大人びた美人ばかりで、紋はそれを、そっと横目で眺めていたが、未知弥がすごく遠い存在に感じられたのだった。

 そちらに気を取られていたら、誰かにぶつかりそうになった。

「も、申し訳ありません。」

「紋、前を見てないと危ないよ。」

慌てて謝り、相手を見上げると、片手にグラスを持った快が微笑んでいた。未知弥の方にチラッと視線を向けると、

「心配?」

と言って、紋の顔を覗き込んで笑った。紋はすぐに、

「そ、そんなことないです…。」

と言ったが、顔が真っ赤だった。快がニコニコ微笑んでいる。

「いえ、その、すごくおモテになるんだなと思って…。それもキレイな方ばかり。」

紋は下を向いてごにょごにょと言った。

「未知弥様は、まぁ、昔からあんな感じだね。すぐ女子が近付いて来る。でも、全然興味を持たないんだよね。」

快はそこで、グラスに入った飲み物を一口飲むと、

「紋ぐらいだよ、未知弥様が気に掛けるの。」

と、しれっと言った。

「えぇ!」

快の発言に、紋は思わず大きな声を出してしまい、周りの視線が集中した。紋は恥ずかしくなり、下を向いて、小声で快に抗議した。

「快様、何をおっしゃるんですか!」

「いや、ホントホント。紋のことが可愛いんだよ。」

快は軽く言って笑うと、ポンポンと紋の頭を撫でた。

「紋は可愛い、可愛い。」

「~~~。」

紋が赤くなって返事に困っていると、

「快、いつまでしゃべっているんだ。紋も仕事ができないだろう。」

いつの間にか未知弥が近付いて来ており、快を軽く睨んだ。

「はい、申し訳ありません。」

快はニヤニヤして、紋の頭から手を離した。そして、紋に小声で、「ね。」と耳打ちした。

「快、お前は酒でも飲んでるのか?」

未知弥が面白くなさそうに言うと、

「まさか。ジュースですよ。勤務中ですから。」

快は持っていたグラスを揺らして言った。

「紋、何か困ってないか?」

未知弥は紋を見て言った。紋は赤い顔のままで未知弥を見上げ、

「だ、大丈夫です!し、仕事に戻ります。」

と言ってその場を去ろうとしたが、未知弥紋の手を引いた。紋が驚いて振り返ると、未知弥は優しい目で、

「紋、飲み物を用意しておいてくれ。後で一緒に飲もう。」

と言って微笑んだ。周りの女たちの支援が紋に注がれていた。

「か、かしこまりました。」

紋は心臓がバクバクする中、かろうじてそう返事をして、その場を離れた。相変わらずニコニコ笑って見ている快が目に入った。

「紋?何、ボーっとしてるの?」

結衣が言って、紋はハッと我に返った。紋は自分をしっかりさせるために、ブンブンと頭を振ると、いきなり三人に宣言するように言った。

「私は、一使用人でしかないんですから!」

三人は一瞬キョトンとしたが、

「愛があればそんなもん。」

「いいじゃない、ドラマチック。」

「シンデレラストーリー実現して見せてよ。」

それぞれ好き勝手なことを言い、紋は何も言い返せなかった。紋だってわかっている。十年前のあの夜から、未知弥はずっと、紋にとって特別な存在だ。


 週末、紋は玄生の庭の手入れの手伝いをしていた。玄生は本当に植物に詳しく、世話の仕方など色々と勉強になるので、紋は自分からよく手伝いを申し出ていた。今まで興味を持つ人間が居なかったので、玄生も嬉しいようだった。

 今日は高いところに上ったり、力仕事もあるということで、怜も駆り出されていた。

「あち~。何で俺まで手伝わなきゃいけないんだよ。」

「これも勉強だ。次はこれを持って行け。」

暑い夏の午後だ。眩しい日差しを受けて、怜がぶつぶつ文句を言っているが、玄生は聞く耳を持たず、次々と怜に仕事を指示する。

「人使い荒いな!」

「お前は黙って働けんのか!」

冷たい麦茶を取りに行っていた紋は、二人のやり取りを見てクスクス笑った。

「少しやすみませんか?」

「ああ、紋ありがとう。」

紋が差し出したグラスを、玄生は笑顔で受け取った。紋は怜にもグラスを渡すと、二人が途中まで縁側に掛けたネットを見上げた。このネットの足元からゴーヤを生えさせて、緑のカーテンを作る計画らしい。

「これが全部、覆われるんですか?」

紋が訊くと、

「そうだよ。日影が出来て涼しいし、ゴーヤの可愛い実が成るんだ。」

玄生は楽しそうに教えてくれた。紋もニコニコして、

「楽しみですね。」

と言った。怜は二人のほのぼの感を呆れたように眺めている。

「さて、それじゃあ肝心な苗を運ぶぞ。怜、さっさと動け。」

「えー?まだ全然休んでないんだけど。」

怜はブツブツ言いながらも玄生について行った。それを紋も小走りで追いかけた。


 その頃、未知弥は部屋で、一人の若い女と向き合っていた。

「任務ご苦労だったな、結弦乃ゆずの。」

「ありがとうございます。未知弥様に満足して頂けるらな、どんな任務でも引き受けますわ。」

結弦乃と呼ばれた女は微笑みながらそう答えた。利発そうな目をした、かなりの美人だ。胸の辺りまで伸びた栗色の髪は艶やかで、体のラインがはっきりしたワンピースから、長い手足がすらりと伸びている。

「今回の任務は長かったな。」

「約半年でした。でも、大した内容ではありませんでしたから。」

白河結弦乃しらかわゆずのは快や怜と同等の家柄の娘で、霊力者の中で才色兼備で有名だった。強力な霊力を持ち、能力が高い上、すれ違う誰もが振り返る程の美しい容姿をしている。学園を首席で卒業後、二年間海外留学し、実戦にも対応出来るよう厳しい訓練を受けてきた。帰国後は、白銀家からの様々な任務を任され、その全てをそつなくこなし、知可弥や未知弥からの信頼も厚かった。

「こちらの方が大変だったのでは?」

不意に、結弦乃が目付きを鋭くさせた。そう訊かれた未知弥の目も、一瞬鋭くなった。

「紫井森家の娘が来て、色々あったとか。」

任務で遠方に赴いていた結弦乃は、任務を終えて帰ってから、噂程度に話を聞いているようだった。未知弥は紋が来てから起きたことを簡単に話した。結弦乃は頷くでもなく、目線はテーブルに向け、黙って聞いていた。

「やはり、何事も無くとはいかなかったのですね。」

未知弥が話し終えると、結弦乃は冷静にそう言った。しかし、

「紫井森家の娘が、志穂乃様に守られていたと言うのですか?」

と訊いた表情は幾分険しかった。

 結弦乃は現在二十一歳で、ほとんど志穂乃の記憶は無い。しかし、伝え聞く話や写真で見る姿から、今でも皆から愛される志穂乃を尊敬していた。また、幼い頃から憧れ慕う未知弥の母親であることからも、より特別な存在に感じていた。その志穂乃に、紫井森家の娘が守られていたというのだ。結弦乃は明らかな不快感を抱いていた。

「ああ、父さんから話を聞いた時は驚いたよ。しかし、結弦乃も紋に会えばわかると思う。」

「…?」

結弦乃は、解せないという表情をした。

「紫井森妙が倒れたとは言え、本当にその娘は信用出来るのですか?処罰が何も無いと言いうのは甘いように思いますが。」

結弦乃は納得がいかないという言い方をした。

「ああ、そう考える者もいるのは確かだ。しかし、紫井森妙に背き、霊力を奪ったのは紋本人だ。それに、危険を冒して怜を守ったのも事実だ。」

未知弥は淡々と話した。

「あれだけの霊力と能力を持つ紋が一族に入ったことを、好意的に受け止める者の方が多い。」

それは事実だった。紋が霊力を持たないと聞いて落胆していた者たちは、紋の強力な霊力を味方に付けたことを、かなりの成果と考えていた。

 結弦乃はその点に反応した。

「そんなに強力な霊力と能力を持っているのですか?」

自分の能力の高さに絶対の自信を持つ結弦乃にとっては、気にならないはずがなかった。自分が誰よりも知可弥弥未知弥の役に立ち、信頼を得られていると自負しているのだから。

「ああ。あの霊力は、俺も驚いた。それに、自分の霊力を察知されないよう隠したり、相手の霊力を奪うことが出来る。末恐ろしいよ。」

未知弥が他人を称えるような言い方をするのを、結弦乃は初めて聞き、唇をギュッと噛んだ。

「それに、俺も父さんも、紋のことを信している。」

「なぜ、そこまで信用出来るのです?」

結弦乃は表情をすっかり険しくし、詰め寄るように訊いた。

「なぜ…か。そうだな、それも、恐らく会えばわかる。」

またそう言われると、結弦乃はそれ以上何と言っていいかわからなくなった。

 少しの沈黙の後、空気を変えるように結弦のが口を開いた。

「そう!怜がこの屋敷に住んでいるんですって?未知弥様の監視下で鍛錬中だと聞きました。」

怜のことをよく知っている結弦乃が、クスクス笑いながら可笑しそうに言った。

「あの子がそんな不自由な生活耐えられるのかしら。」

それを聞いた未知弥は、

「いや、案外たのしそうだがな…。」ろ、表情を変えることもなく言った。その瞬間だった。

「ぎゃはははは!ホント鈍くさいなお前~。」

と、怜の馬鹿笑いが窓の外から聞こえて来た。

「な、何?」

結弦乃はギョッとしたように窓の方を見た。未知弥は「またか」といった顔をしている。

 結弦乃は窓際に駆け寄り、声のする方を見た。ゲラゲラ笑う怜と、その前に、地面に尻餅をついて土まみれになっている少女が見えた。

「お前、何ですぐ転ぶの?」

どうやら、紋は運んでいたゴーヤの苗を、転んで自分の上にぶちまけたらしい。照れたようにヘラヘラ笑っている紋を、呆れたように、怜が手を引いて立ち上がらせようとしていた。しかし、紋が手を伸ばすとサッと手を引っ込め、紋をからかって楽しんでいる。

「何あれ、めちゃくちゃ楽しそうじゃない…。」

結弦乃は、信じられないといった表情でその光景を眺めた。それに、気になるのは、あのみたことのない少女だ。

「あんな子、居ました?新しい使用人ですか?」

「ああ、あれが紫井森家の娘、紋だ。」

未知弥が答えると、結弦乃は驚いて振り返った。

「う、嘘でしょう…。紫井森妙に似ても似つかないわ…。」

「ああ、俺も驚いたよ。ただ、さっき話した母さんの話、納得しないか?」

そう言いながら、未知弥も窓際にやって来て、外の様子を眺めた。

 結弦乃は改めて紋を見た。紫井森家の人間とは思えない髪と目の色、そして、ふんわりとした雰囲気。確かに、志穂乃を思わせるものがある。

 未知弥は窓を開けた。庭では、やっと立ち上がった紋が、服に付いた土を払って、「へへっ」とっ笑っていた。それを見て、未知弥の顔に自然と優しい笑みが浮かんだ。

 その瞬間、結弦乃は今日一番の驚きを感じた。これまで、幼い頃からずっと未知弥を慕って、その姿を見続けて来たが、未知弥が誰かに対してこんな風に優しい笑みを向けるところなど見たことが無かった。結弦乃は胸が、さざ波が立つようにザワザワとするのを感じた。

「あれ?結弦乃、居たんだ?久しぶり。」

怜が結弦乃に気付いて手を振った。紋も未知弥の部屋を見上げた。結弦乃を見ると、

「おキレイな方ですね。」

と、感心し切ったように怜に言った。怜は、

「そうだな、結弦乃は霊力者の間でも才色兼備で有名だからな。」

と、さして興味もなさそうに答えた。

「ちょと怜、やけに楽しそうじゃない。真面目にやりなさいよ。」

結弦乃にそう言われて、

「はいはい、やってますよ。」

と、ひらひら手を振って返した。

 紋は結弦乃に頭を下げた。しっかりと目が合ったが、結弦乃は何も言わずに目を逸らした。


「これでよし。」

玄生が満足そうに言った。プランターにゴーヤの苗を植え付け、作業が完了した。

「これがぐんぐん伸びてカーテンになるなんて、楽しみですね。」

紋が嬉しそうに言うと、

「小ぶりだが、ゴーヤが獲れるから、料理して食べよう。」

と、玄生のにこやかに言った。怜は、

「うぇ、俺、苦いからゴーヤ苦手。」

と言い、玄生に子供扱いされている。

 最後の片付けに、怜と玄生が納屋に行ってしまい、残った紋は一人でゴーヤの苗を覗き込み、指先でちょんちょんと葉を触っていた。

 その時、背後から霊力を感じ、紋はサッと振り返った。紋の顔をかすめるように、一筋の光線が通り過ぎ、消えた。

「…。」

紋は光線を追っていた目線を戻し、そおこに立っている結弦乃と向き合った。近くで見ると、より美しさが際立って、紋はドキッとした。

「ふぅん。勘はいいのね。」

結弦乃はニコリともせずに言った。

「試して悪かったわ。あなた、紫井森家の娘なんですって?」

結弦乃はじっと紋を見つめた。

「あ…、紫井森紋と申します。」

紋は慌てて名乗り、頭を下げた。しかし、結弦乃はそれに対しては何も反応せず、紋を上から下まで舐めるように見た。

「本当に、霊力を感じないのね。大した能力だわ。」

紋は何と答えていいかわからず戸惑った。すると、急に結弦乃はニッコリと笑った。

「私は白河結弦乃よ。よろしくね。」

「は、はい。よろしくお願いします。」

紋がホッとしたように、そう返事をすると、結弦乃は、紋に詰め寄るように一歩前に出た。そして、スッと真顔に戻ると、囁くように言った。

「あなた、使用人よね。勘違いしないでね。」

「え…。」

結弦乃は紋から離れると、それ以上何も言わずに去っていった。紋は言葉も無くその場に立ち尽くした。


「紫井森保の消息は掴めたか?」

未知弥は社長室で、快から仕事関係の諸々の報告を受けた後、最後に訊いた。

「申し訳ありません。可能性のあるところをあたっていますが、未だに見つかっていません。」

深刻な表情で快が答えた。保の捜索には、かなりの人数を導入していたが、未だに気配すら掴めたいなかった。

「そうか。」

未知弥は短く言って空を見つめた。恐らく、保は妙が持っていたという「古い文献」を持って、どこかに潜伏していると考えられる。

 紫井森家の解体に際し、一族の人間は皆、歯向かうことなく命令に従った。治を始め、皆、地方にバラバラに送られることとなったが、妙が力を失った今。紫井森一族の中に事を起こそうとする人間はいなかった。ただ一人、保を除いては。元々、妙に認められず、紋に敵対心を抱いていた保が、この状況で黙って全てを受け入れるはずがない。妙を裏切り、霊力を奪った紋に対する恨みも相当に強いはずだ。いずれ紋に接触してくるのは間違いないだろうと知可弥も未知弥も考えている。

「紋の登下校に送迎を付けましょうか?」

快が提案した。

「いや、もう本人に話したのだが、頑なに断ってきた。自分は使用人だから、そんな訳にはいかないと。」

「紋らしいですね。」

「そうも言っていられない状況なんだがな。改めて説得してみる。」

未知弥は小さく溜息をついた。それを見て快は、未知弥の紋を心配する気持ちがわかり、微笑ましく思った。

「快、ニヤニヤするな。」

未知弥は、快が何を考えているか気付いて、面白くなさそうに言った。しかし、快はそれには答えず、話題を変えた。

「そう言えば、昨日、結弦乃が来たそうですね。」

用事で出掛けていた快は、結弦乃が屋敷に来たことを怜から聞いた。結弦乃のことは、結弦乃が生まれた時から知っているので、妹のような存在だ。

「ああ、この前の任務が終わって報告に来た。半年の任務だったから、久しぶりだったな。」

「怜は『相変わらずだった』と言っていましたけどね。」

快はおかしそうに笑った。結弦乃の気の強いところを言っているらしい。年下の怜は、幼い頃から、いつも結弦乃に言い負かされているのだ。

「紋とは会いましたか?」

「窓越しに顔は合わせたが。」

「結弦乃、仲良くやってくれるといいですけど。」

快が苦笑しながら言った。

 未知弥は昨日の結弦乃の様子を思い返した。結弦乃は元々気が強く、幼い頃から皆に「才色兼備」と褒め称えられて来た。その自分の素質を、自分自身でも十分に理解して自信を持っている。更に、能力の高さで、これまで数々の任務をこなし、知可弥や未知弥の信頼を得ていることも自負している。そこに現れた、強力な霊力と高い能力を持った紋のことを気にしないはずがない。また、一族内に齢の近い女子がおらず、これまで姫のような扱いを受けて来た。皆に愛され、可愛がられている紋を、結弦乃がどう受け止めるか。快が心配するのも仕方なく思われた。多少の波風が立つことは避けられない予感がした。


 静かな日々が過ぎていた。変わらず、紋は頑なに送迎を断り、自分一人で登下校していた。自分は使用人であるから、護衛も付けないで欲しいと頼み込み、未知弥たちも強く説得出来ずに見守っていた。

 しかし、変化は前触れもなく起こった。

 その日、紋は放課後、校門を出て莉央たちと別れ、バス停に向かって歩いていた。四人で課題に取り組み、いつもより帰りが遅くなったため、他に歩いている生徒はいなかった。

 その時、一人の青年が、気配も無く近付いて来た。

「駅まで行きたいんだけど、バス停はこの辺にあるかな?」

背が高く、黒髪で端正な顔立ちの青年が、ニコッと笑って紋の顔を覗き込んできた。兄の保と同じくらいの年頃だろうか。人懐っこい雰囲気が漂っている。紋は、全く見覚えのない相手に声を掛けられ、戸惑いが隠せなかった。しかも、気配も無く現れたが、向き合った今は、しっかりと霊力が感じられる。霊力者だ。

「は、はい。すぐそこに…。」

紋は、そう答えるのが精一杯だった。青年はその様子を見ると、

「ああ、ごめん。びっくりしたよね。大丈夫、危害を加えるつもりは無いから。バス停まで一緒に歩こう。」

と言って、紋の手を取って歩き出した。

「え…、あの、ちょっと…。」

戸惑う紋に対し、青年は足取りも軽く、ご機嫌そうに歩いていく。強引なことをしてくるが、決して手を強く握っているわけではなく、怖さは感じさせない。紋は手を引かれるままに歩いた。

「あ、バス停だ。」

すぐにバス停が見え、青年は嬉しそうに指差した。青年は紋の手を握ったまま、バス停の前に立った。

「駅行きのバスは~…。」

青年が時刻表を指でなぞり、バスが来る時間を確かめようとしたので、

「次は二十分です。」

紋はつい、時刻表を指差して教えてしまった。

「ありがとう。」

青年はにこやかに笑って、紋の両手を握った。

「え、あの…。」

紋が戸惑っていると、青年は無言で、じっと紋の目を見つめてきた。黒い瞳にじっと見つめられると、紋は吸い込まれるような気がしてきた。

「純粋そうだな。」

青年が小さく呟いたが、紋の耳には届かなかった。紋の目はどこも見ておらず、意識は朦朧としていた。体も、ふらりと左右に揺れ始めた。その時だった。

「紋!」

誰かが紋の名前を呼んだ。ハッと紋の意識が戻り、声のした方を向いた。険しい顔をした未知弥が目に入る。その後ろに、快の運転する車が停まっている。

「残念。」

青年は微笑んだままそう言うと、紋の手を離し、

「またね、紋ちゃん。」

と言って、姿を消した。快が即座に反応して後を追う。

 青年が消え、力が抜けて倒れそうになった紋を、瞬時に移動した未知弥が抱きとめた。

「大丈夫か?今のは誰だ?」

「だ、大丈夫で…す…。」

未知弥の心配そうな表情を見て、紋はすぐに答えたが、体に力が入らなかった。

「何かされたのか?」

未知弥は無事を確かめるように、紋の肩や腕に触れた。紋は弱々しく微笑んで、

「何も…。ちょっと、手を握られただけです…。」

と言った。あまり未知弥を心配させたくなかった。しかし、未知弥は紋の手を見つめると、

「車に乗れ。」

と言い、紋を抱え上げ歩き出した。紋は、その声が怒っているように聞こえ、不安になった。更に、抱き抱えられたことに戸惑い、半分パニック状態だった。

「すみません、気配を追いましたが、逃げられました。」

青年を追っていた快が戻ってきて、未知弥たちのために後部座席のドアを開けた。

「あの、でも、私は乗るわけには…。」

紋は慌てて言ったが、

「命令だ。乗れ。」

未知弥は短くそう言い、紋を半ば強引に後部座席に乗せると、自分も隣に乗り、快に車を出させた。

 車中、未知弥は終始むごんだった。腕を組んで窓の外を眺め、紋の方を見なかった。紋は、ひたすら身を縮めて座っていた。未知弥が、何か確実に怒っているのはわかったが、それがなぜなのかわからず、どうしていいかわからなかった。謝ろうにも、何と謝っていいかわからない。

「…。」

紋は汗がとまらなかった。どうしよう。未知弥様は怒っている。何か言わなくちゃ…。そう思うが、頭の中はぐるぐると混乱するばかりだ。せっかくのフカフカのシートも広い車内も、全く感動する余裕は無かった。

 そうしている間に、一言も言葉を交わすことなく車は屋敷に着いた。快がドアを開けてくれ、紋は車を降りた。未知弥も車を降りたので、紋は何か言おうと思ったが、

「快、すぐにあの男の調査を頼む。紋、今日はもう休め。話は明日聞く。」

と、未知弥は素っ気なく言って屋敷に入って行ってしまった。

 取り残された紋は、泣きそうな顔で立っていた。そこへ、車に気付いた藤代が外に出て来た。

「おかえりなさいませ…あら、未知弥様は?紋、どうしたの?」

何も知らない藤代は不思議そうに、立ち尽くしている紋を見た。紋は藤代に飛び付かんばかりに駆け寄り、

「ふ、藤代さん、どうしましょう~。私、未知弥様を怒らせてしまったみたいなんです!」

と、半泣きで言った。

「え?何?何があったのよ。」

藤代は紋の頭を「よしよし」しながら、状況が呑み込めないので快の方を見た。

 快は肩を震わせて、笑いたいのを我慢しているようだったが、藤代に経緯を話した。

「いや、不審なヤツが近付いたのは深刻な問題なんだけど、それ以外のとこで怒っちゃって。」

快が可笑しそうに話すと、っ藤代も可笑しそうに笑って、

「あらあら、大変ねぇ。」

と言った。紋は、二人がなぜ笑っているのかわからず、相変わらず涙目でオロオロしている。

「わ、私どうしたらいいのでしょう。何を謝ったらいいのか…。」

すると、藤代がニコッと笑って、

「大丈夫よ、紋、おいでなさい。」

紋の手を引いて、屋敷の中に連れて行ったのだった。


 未知弥は自分の部屋に入ると、すぐにシャワーを済ませて、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。本当に、自分らしくない。あの時は、仕事で外に出たついでに、紋の学校に提出する書類があると快が言い、たまたま紋の学校の近くを通った。車の中から、紋が知らない男と見つめ合っているのを見た時、紋の身の危険を考える前に、自分の感情が大きく波立った。完全に冷静さを欠いていた。お陰で相手を追うことも失念していた。更に、手を握られたと聞いて、苛立ちが抑えきれなかった。自分の態度に、紋が戸惑い困っているのはわかったが、どうしようも出来なかった。車内で話さなかったのは、決して怒っていたからではなく、自分の感情の動きが気恥ずかしく、上手く話せなかっただけだ。

 紋の何がそんなに自分の心を掴むのかと、不思議に思う。母親である志穂乃の雰囲気を纏っているからかと考えてもみた。しかし、どうごまかそうとしても、紋に対する想いが、母親に対する思慕ではなく、一人の女性に対する愛情だと認めざるを得なかった。純粋そうな目も、どうしようもなく抜けているところも、ふわふわした雰囲気も、とにかく愛おしかった。誰よりも強い霊力を持ちながら、華奢でどこか儚さを漂わせ、守ってやりたいと思わせた。緊張しながらも一生懸命話したり、嬉しそうに笑ったり、くるくる表情が変わるのも見ていて飽きず、魅力に感じた。

「未知弥様。」

そう言って微笑む紋の顔が自然と浮かんだ。未知弥はゆっくり頭を振った。今は優先して考えるべき事がほ他にある。今の紋の置かれた状況を考えれば、悠長にし過ぎていたのだ。

 その時、コンコンと遠慮がちにドアをノックする音がして、未知弥はガバッと身を起こした。気配で紋だとすぐにわかった。

「どうした?」

未知弥がドアを開けると、緊張気味に下を向いて、紋が立っていた。淡い水色に小花が散らされた、可愛らしい浴衣を着て、ガラスの器が載った小さな盆を持っている。

「あ、あの…。これ、藤代さんに持って行くよう言われて…。」

紋は、おずおずと盆を未知弥に差し出した。盆の上のグラスには、黄色と白の二層になった冷菓が入っていた。それは、志穂乃がよく作ってくれた思い出の菓子で、今でも藤代が時々作って未知弥に出してくれるものだった。白いムースの上にレモンの甘酸っぱいソースがかかっている。

「あの、申し訳ありません。私、未知弥様の気分を害してしまったようなのですが、どうしていいかわからなくて…。」

紋はそう言いながら、また目に涙が滲んできてしまったので、完全に下を向いてしまった。

「いや、お前は何も悪くない。」

未知弥がそう言って盆を受け取ったので、紋は顔を上げた。未知弥の顔を見ると、いつもそうしてくれるように、優しく笑っていた。

「あ、良かった…。私、本当にどうしていいいかわからなくて…。」

紋は心からホッとしたように言った。しかし、今度は恥ずかしさでどうしたらいいかわからなくなったらしく、

「じゃ、じゃあ、私は失礼しますね。」

と言って、そそくさと立ち去ろうとしたので、未知弥が引き留めた。

「待て、中に入れ。」

「え、でも…。」

紋は胸の前で両手をぶんぶん振ったが、未知弥は盆を見せ、

「一人で食べろと言うのか?」

と言って笑った。紋は緊張していて気に留めていなかったが、盆の上にはグラスが二つ並んでいた。


「おいしいです。」

紋は冷菓を一口食べて笑顔になった。甘いムースにレモンのソースがさっぱりとよく合って美味しかった。向かいに座る未知弥も、それを見て微笑んだ。

「そうか。子供の頃はよく母さんが作ってくれた。今でも時々藤代が、俺が疲れていると思うと作ってくれるんだ。」

「そうなんですね。」

紋はそう言って少し考えていたが、

「あの、私でも作れるでしょうか?」

と、遠慮気味に訊いた。

「作ってくれるのか?」

「あ、いえ、作れたらいいなって…。」

紋は恥ずかしそうに言って下を向く。未知弥が疲れている時に、自分も作れたらいいのにと思ったのだ。未知弥はそんな紋を見て、フッと笑うと、

「藤代に訊いてみるといい。楽しみにしている。」

と言った。紋は顔を赤らめたまま、小さく「はい」と答えた。

 食べ終わると、未知弥は夕方の出来事に話題を変えた。

「あの男に見覚えは?」

「いえ、ありません。」

紋は未知弥の目を真っ直ぐ見て答えた。

「私はずっと紫井森の屋敷の中に居たので、あまり多くの人と会っていません。一度会っていれば覚えていると思うのですが、あの人は記憶にありません、」

「霊力者だったが、俺も記憶にない。」

霊力を持つ者であれば、どこかで顔を合わせるか、白銀家の屋敷に出入りしている可能性があるが、未知弥も見覚えがなかった。

「何か特徴はあったか?」

未知弥に訊かれて、紋は夕方のことを思い返した。手を掴んで、目をじっと見つめられた。吸い込まれそうな黒い瞳…。

「目を見つめられて、吸い込まれるような、徐々に意識が遠のくような感覚がしました。未知弥様に名前を呼ばれなかったら、完全に意識を失っていたかもしれません。」

紋は膝の上でギュッと手を握った。

「意識に働きかける術か…。」

未知弥は頭の中に、霊力者の一族でそういった能力に長けた家をいくつか思い浮かべたが、あの男の顔は出て来なかった。

「まだわからないが、恐らく保が関わっていると思っている。」

未知弥は静かに言った。紋はハッとしたように顔を上げた。

「お兄様が…。」

兄の保は、あの日以来消息を絶っている。未知弥たちは行方を捜しているが、まだ何の情報も得られないでいる。姿を隠したまま、誰かを仕向けて接触してくることは十分に考えられる。

「紋、お前の霊力が強力なことはわかっている。高い能力も持っている。しかし、お前は実戦には弱い。今日のような危険な目に遭うのは心配だ。やはり、送迎をするか護衛を付けるかしたいと思う。」

未知弥は真剣な顔で言った。それを聞いて紋の表情が強張った。

「それは…。私は使用人です。そんなことをして頂くわけにはいきません。」

顔は困った表情をしているが、意思の強さが伝わって来た。

「紋、気持ちはわかるが、お前の身が危険だ。」

未知弥は真剣な表情のまま言った。しかし、紋は首を横に振る。自分の置かれた立場はわきまえている。使用人の自分が、そんな風に手厚い扱いを受ければ、様々なところで不和が生じるに違いない。

「あなた、使用人よね。勘違いしないでね。」

紋の頭の中で結弦乃の声が響いた。

「頑なだな…。」

未知弥は溜息をついた。紋の想いはよくわかる。むほんを企てた一族の娘であり、使用人として仕えるという約束の元にこの屋敷にいるのだ。未知弥も、それ以上は強く言えなかった。

「申し訳ありません…。」

紋は俯いて謝った。

「いや、お前の考えはよくわかる。ただ、心配なんだ。」

未知弥は苦笑して言った。紋は胸がいっぱいになり、急に立ち上がると、

「だ、大丈夫です、未知弥様。私こう見えて結構強いんです!」と、ガッツポーズで言い切った。未知弥は一瞬ポカンとした後、くくくっと笑い出した。

「お前が言っても、頼りないな。」

「ええ!?」

紋は真っ赤になって声を上げた。

「いや、全然強そうに見えないんだが。」

未知弥はまだ笑っている。紋は何も言い返せず、ソファに座り直した。未知弥は笑うのを止めると、

「いや、悪い。でも、今日は俺たちが通ったから良かったものの、一人だったら危険だった。みな心配している。それはわかってくれ。」

そう言って手を伸ばすと、紋の頭を優しく撫でた。

「はい。」

紋は、なぜだか泣きそうな気持になりながら、こくりと頷いた。


 

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