第6話

 知可弥は、まるでまるで待っていたかのように未知弥を迎え入れた。

「昨日は大変だったようだね。」

柔らかな笑顔でそう言いながら、ソファに座るよう促す。テーブルの上には知可弥のお気に入りの茶器が並んでおり、それは機嫌の良い証拠だった。

「申し訳ありません。俺の管理不足でした。」

未知弥が謝罪すると、知可弥は笑顔のまま答えた。

「いや、大事に至らず済んで良かった。怜はこれを機に変わってくれるといい。」

「怜は反省しています。自分の非力さに打ちのめされたので、本人が一番変わりたいと思っています。」

知可弥はそれを満足そうに聞いて、お茶を一口飲んだ。花柄の美しい茶器は志穂乃のお気に入りでもあった。これを使うところを見るのはどのくらい振りだろうか。

「紋は?」

知可弥は自然に話題を切り替えた。

「眠っています。相当体力を消耗したようで、昨日から目覚めていませんが、命に別状はありません。」

「そうか。」

知可弥が短く言い、沈黙が流れた。未知弥はどこから話を進めるか考えていたが、知可弥が先に口を開いた。

「訊きたいことがあるのだろう?」

未知弥は知可弥の目を見つめた。全て見透かされているようだ。

「ええ…それはもう、たくさんありますね。」

未知弥は昨日の出来事を話した。知可弥は口を挟むことなく静かに聞いていた。

「紋は、非常に強力な霊力を持ち、相手の霊力を奪うことが出来ます。」

知可弥は結論を伝え、知可弥の反応を窺った。知可弥はテーブルの上に目線を向け聞いていたが、フッと笑みをこぼした。

「紋は、そんなことが出来るのか。」

未知弥は、その反応がどういうことか理解出来なかったが、更に話を続けた。

「それから、先日、精霊と居るところを目撃しています。長く存在し、会話も可能な程の精霊でした。紋の能力は計り知れない。紋が霊力を持たないという報告は虚偽であり、紫井森家が紋を使って白銀家を狙おうとしているのは間違いないでしょう。」

「ああ、その通りだと私も思うよ。」

「…。」

どうも知可弥の返答は雲を掴むようで判然としない。未知弥は訝しがるように知可弥を見つめた。知可弥は、未知弥のそんな表情を見て微笑んだ。

「未知弥、お前にまだ話していないことがある。」

そう言って、知可弥は淡々と語り始めた。十九年前の出来事を。


 紫井森詠による謀反は、事前に発覚したことで事なきを得た。また、詠本人が命を絶ったことで騒ぎは収まったように見えていた。しかし、強い怨念を持った詠の霊魂は成仏することなく彷徨い、白銀家を狙い続けたため、知可弥によって禁忌の森に封じ込められたのだった。

「次に生まれてくる娘を、十八歳になる年に使用人として仕えさせる」という条件を呑んだ紫井森家だったが、暫くして妙が妊娠し、それが女児であることがわかった。

  ある日、白銀家に女児妊娠の報告をしたいと妙から申し入れがあった。妙が自ら白銀家に赴こうとするのは、詠の件があって以来、初めてのことだった。白銀家の中には警戒して、それを拒むべきだと言う者もいたが、知可弥は申し入れを受け入れた。

 妙の報告は存外、穏やかに行われた。

「名前はもう、紋と決めております。」

妙はふっくらとしたお腹に手を添えてそう言った。

「紋か。いずれ手放す運命だが、愛情を込めて育ててくれ。」

知可弥がそう言うと、

「勿論でございます。」

妙はそう答えた。長い前髪の下の表情は見えなかったが、わずかに口元が笑ったようだった。

「ところで、志穂乃様のお加減はいかがか?」

妙が不意に話題を変えた。その頃、志穂乃はすでに病に犯されており、一日の大半を部屋のベッドの上で過ごしていた。

「ああ、状態は安定している。時々は外に出て、庭の花を見て楽しんでいるよ。」

それを聞いた妙は、

「そうですか、それは良かった。」

と、感情のわからない静かな声で言った。


 その日、知可弥と妙が話している頃、志穂乃はベッドの上で半身だけ起こして本を読んでいた。長く読み過ぎたのか、少し疲れを感じて窓の外を眺めていた時、ふと、人影が目に入った。紫井森妙だった。妙が妊娠の報告のために屋敷に来ることは志穂乃も知っていた。知可弥との面会が終わったのだろう。しかし、一人で庭を歩いてどこへ行くのか?妙は迷いのない歩調で真っすぐ庭の奥へと歩いて行く。

「あれは、禁忌の森…。」

妙の向かう先が禁忌の森だと気付いた瞬間、「行かなければ」と、志穂乃の中に予感のようなものが走った。志穂乃は急いで上着を羽織ると、妙を追って禁忌の森へ向かった。

 一人で外へ出るのは久しぶりだった。最近は、使用人か知可弥に支えられて庭に出る程度だったため、急ぎたいが、体が思うように動かなかった。志穂乃は急ぐことは諦め、霊力を少しずつ集中させて何か聞こえてこないかと耳を澄ましながら歩いた。  

 最初は何も聞こえてこなかったが、禁忌の森に近付くにつれ、少しずつ妙の声が聞こえてきた。

「詠、詠、私の可愛い妹。」

そう何度も繰り返している。志穂乃はもう少しで禁忌の森の入口が見える辺りで、妙が気付かないよう茂みに身を潜めて立ち、妙の様子を窺った。

「詠、悔しいだろう、こんな所に閉じ込められて。もう少し辛抱しておくれ。必ずお前を解放してあげよう。」

そう言って、妙はゆっくりと自分の膨らんだお腹をさすった。

「ここに私の娘がいる。紋と名付けた。この子に私は全てを賭けて、白銀家を葬るつもりだ。だから、もう少し待っておくれ。」」

妙は口元に笑みを湛えながら話し続けた。

「紋に私の全てを教え込む。霊力のことは勿論、私の憎しみも全て注ぎ込んで、白銀家を恨み葬るためだけに育てるのだ。」

 志穂乃はそれを聞いて、激しい嫌悪感に襲われた。このままにしてはいけない。白銀家のためにも、生まれてくる紋のためにも。自分に出来ることがないか、志穂乃は咄嗟に考えを巡らせた。白銀家と紋を守るために、自分に何が出来る?

「まだ生まれてくる前田が、私にはわかる。この子は必ずやる。それだけの力を持っていることが、私にはわかる。」

そこまで妙が行った時、志穂乃は後ろ手に手を組んで、全く何気ない様子で妙の背後に歩み出た。

「こんにちは。こんなところで会うなんて、奇遇ね。」

妙は不意を突かれ、驚いたように振り向いたが、すぐに冷静に応えた。

「これは志穂乃様。部屋でお休みになっていることが多いと聞きましたが、今日は具合がよろしいのですね。」

志穂乃はそれに対してニコッと笑顔を見せた。真っ直ぐな黒髪を腰まで伸ばし、表情を隠して陰の気配に包まれた妙と、金色に近い明るい髪がふわふわと波打ち、陽の気配に包まれたような志穂乃は、全く対照的な二人だった。

「お腹、大きくなってきたのね。」

穏やかな笑顔で志穂乃は妙と向き合った。

「…。」

妙は無言で、少し警戒心を滲ませた。志穂乃はかまうことなく微笑んだまま、更に一歩、妙に近付いた。

「ねぇ、お腹に触れてもいいかしら?その子の幸せを願いたいの。」

「…。」

妙が返事に迷ったその一瞬、志穂乃は自分の背後に隠した手の中に作っていた白く柔らかい光の玉を、妙のふっくらとしたお腹にそっと押し当てた。玉は光を放ちながら、ゆるりと妙のお腹に入っていき、完全に見えなくなった。ほんの一瞬の出来事だった。妙は、お腹の中に温かい何かがゆっくりと入ったのを感じた。

「な、何をした?」

お腹に手を当てた妙は、珍しく狼狽えたように言った。しかし、志穂乃は、

「生まれてくる子が幸せになれるよう、おまじないをしただけよ。」

と言って、やんわりと笑った。

「おまじないだと…?」

前髪の下の表情を険しくした妙の体が小刻みに震え、

「ふざけるな!何をした?」

妙は志穂乃に掴み掛かろうとしたが、その時、知可弥の声がした。

「詩穂乃!こんなところで何をしているんだ。」

妙は志穂乃から離れると、

「チッ…。」

と大きく舌打ちして姿を消した。

 知可弥が志穂乃の側に駆け寄ると、志穂乃はふらりと知可弥に倒れ掛かった。

「大丈夫か?今、妙が居たようだが…。」

まだ薄っすらと妙の気配が漂っていた。

「勝手に部屋を出て申し訳ありません。」

弱々しく微笑みながら志穂乃は言った。青白い顔をしている。

「何があった?いや、まずは部屋に戻ろう。」

知可弥は志穂乃を抱き抱えて屋敷に戻った。ベッドに入り、薬湯を飲むと、志穂乃の顔色は少し良くなったようだった。知可弥は枕元に置かれた椅子に座り、志穂乃の話を聞いた。志穂乃は自分が見聞きしたことと、妙にした「あること」を話した。

「白銀家を守ると同時に、生まれてくるその子も守らなければと思ったのです。」

志穂乃は、妙の恨みに満ち溢れた言葉を思い出しながら話した。

「恨みや憎しみを植え付けられて、相手を葬るためだけに育てられるなんて、その子は確実に不幸です。妙のお腹の中の子に、私の霊力を送りました。」

「志穂乃…。」

「どういう形で現れるかわかりませんが、その子が恨みと憎しみに囚われないよう、自分の目で見たものを信じられるよう、私の願いを込めました。」

志穂乃は目を閉じて微笑んんだ。

「どうか、十八年後にその子がこの屋敷で愛されますようにと願って。」

「そうか…しかし、お前の霊力がだいぶ弱まってしまったな。」

知可弥は、そっと志穂乃の頬に触れて言った。先程、禁忌の森の前で志穂のを抱きとめた時から、かなり霊力が弱まり、体力を消耗しているのを感じ取っていた。

「いいのです。これで白銀家が守られるのなら。その子が幸せになるのなら。私は、そんなに先が長くありませんわ。」

志穂乃は知可弥の手に自分の手を重ねて、微笑みながらそう言った。


「それが、紋が生まれる少し前の出来事だ。」

知可弥はそこまで話すと、お茶を一口飲んだ。

「紫井森家が何か企んで紋を送り込んでくるのは重々承知だった。だが、私は志穂乃の力を信じたし、この家に迎え入れることで紋を救いたいと思っていた。」

 未知弥は、今聞いた話と白銀家に来てから見て来た紋の様子を整理するように、目まぐるしく頭を回転させていた。

 紋のあの雰囲気は、志穂乃の力の影響だったのだ。紫井森家の人間とは思えないあの柔らかな雰囲気。どこか放っておけない、人に愛されるあの人柄。確かに母を想わせる。初めて紋が白銀家に来た日、知可弥がどこか嬉しそうに見えた理由が、今わかった気がした。

「紋はあの容姿のお陰で、紫井森家の中で酷い扱いを受けたと思う。それがどれだけ辛いことだったかと思うと、胸が痛む。それに、妙からは厳しい指導の他に、恐らく虐待に近いことも受けたはずだ。きっと、心に傷もあるだろう。」

知可弥は視線を落として話した。知可弥は、あの夜、酷く怯えた様子で「ごめんなさい」と言い続けた紋を思い浮かべた。

「しかし、紋は、妙や一族の者から教え込まれた恨みや憎しみに取り込まれることなくここまで来た。それは、志穂乃が『自分が見たものを信じられるよう』力を込めたからだ。私は、それがとても救いだったと思っている。ただ恨みと憎しみに囚われた生き方は不幸だ。まして自分の意思で無かったとしたら尚更だ。」

紋からは、恨みや憎しみの感情は全く感じられない。あの紫井森家の中で、妙の元で育ち、そういった感情に囚われなかったのは正に奇跡と言える。それは、志穂乃が紋を守ろうとした故だった。

「あの精霊も、母さんが作ったのでしょうか?紋は、あの精霊の存在に支えられているようでしたが。」

未知弥はあの時見た精霊を思い浮かべながら訊ねた。

「いや、それはわからない。志穂乃の力かもしれないし、紋自身が召喚したのかもしれない。」

「紋は、一体どれだけの能力を持っているのでしょうか。昨日感じた霊力は凄まじいものでした。」

未知弥は知可弥に意見を求めるように、目を見つめた。

「それは私にもわからない。お前が驚く程の霊力を持っていたのだ。しかも、紫井森妙の霊力を奪い取り、消滅させることまでした。」

「霊力を奪うことができるなど聞いたことがありませんが、それが目の前で行われた。恐るべき能力です。紫井森妙はその能力を利用して白銀家を狙っているとしか考えられない。」

「恐らく、私たちが紋に気を許したところで、その能力を使うよう言われているのだろうな。」

知可弥と未知弥は、同時に深く息を吐いた。

「紋は、自分の意思と使命の板挟みになっているわけだ…。未知弥、紋から目を離さないように。」

「はい。」

 自分が霊力を持っていることを知られてしまった紋は、今頃、酷く不安になっていることだろう。元々自分の意思に反するとはいえ、与えられた使命のために知可弥や未知弥を始め、皆を騙していたことに違いはない。一体自分にどんな処罰が下されるのか。そして、自分の能力を明かしてしまい、計画が明らかになったことで妙から受ける仕打ちに対する恐怖。不安定になった紋が自暴自棄にならないか、未知弥もそこは危惧していた。そのため、紋の部屋には使用人に見守りに入らせていた。

「紋を最後まで守ることが、私の本意だ。」

知可弥がきっぱりと言った。

「それを聞いて安心しました。」

知可弥が今日初めて表情を緩めた。

「それから、早急に紫井森妙との面会を。」

未知弥は再び目付きを鋭くさせ、知可弥の目を見て言った。知可弥も真剣な表情で頷いた。

「ああ、すぐに要請しよう。」

 

 紋が目を覚ましたと報告があり、未知弥は紋の部屋へ向かった。

「入るぞ。」

ノックをして声を掛けると、

「…はい。」

と、緊張感のある声で返事があった。中に入ると、ベッドの上で半身を起こした紋が不安そうな表情でこちらを見ている。諸々問い質されることや、下される処罰を覚悟しているのだろう。

「大丈夫か?」

未知弥は枕元の椅子に座りながら訊いた。

「は、はい。」

紋の手が、不安と緊張で震えているのに気が付き、未知弥はフッと笑ってその手を握った。

「そんなに緊張していたら体に悪いぞ。」

「!?」

紋は、予想外の未知弥の笑顔に混乱してしまった。しかも、未知弥が手を握ったので顔は真っ赤になり、またしてもパニック状態だった。

「心配するな。誰もお前を責めない。」

「え…。」

紋は戸惑った表情で未知弥を見た。

「でも、私は隠し事を…皆さんを騙していたのです。私は、私は…白銀家を滅ぼすよう、命を受けていました。」

紋の目から涙がポロポロとこぼれた。

「大丈夫だ。全てわかっていたんだ。父さんが全て知っていた。」

未知弥は、知可やから聞いた話を全て紋に話した。

「じゃあ、私のこの容姿は志穂乃様の影響が?あ…それでお会いしたことがあるような、懐かしい気がしたのですね。」

紋は確認するように、そっと自分の髪に触れた。

「しかし、その容姿で紫井森家では酷く扱われたのだろう。それは、お前に辛い思いをさせてしまった。」

紋は何か思い返すように暫く自分の手の平を見つめていたが、ゆっくりと話し始めた。

「いえ、一番辛かったのは、知らない相手を憎めと言われたことでした。幼い頃から、白銀家を恨め、憎めと言われ続けましたが、私はそれがどうしても出来なかった。」

紋はそこまで言って顔を上げると、フッと笑った。

「覚えていらっしゃらないと思いますが、十年前、私はこのお屋敷で未知弥様とお会いしているんですよ。」

未知弥は意表を突かれたような顔をした。紋はそれを見て、クスクスと笑った。

「夏の宴の日でした。あの日、母が私に知可弥様と未知弥様を見せるために、私を宴に連れて行ったのです。私が、ただ一度、紫井森家から出た日でした。容姿を隠すため、黒髪のウィッグを被らされていました。」

紋は懐かしむように話した。

「母に外に居るように言われて、池の畔で退屈していた私に、未知弥様は蛍を見せてくださいました。」

そう言って、紋はその光景を思い浮かべるように目を閉じた。その光景は、昨日のことのように覚えている。

「蛍…。」

未知弥も記憶を辿るように目を細めた。十年前の夏、宴の夜。珍しく幼い子供がいた…。

「お前は、あの時の…。」

未知弥の言葉に、紋は驚いて目を開けた。

「覚えていらっしゃるんですか?」

「ああ、今思い出した。黒髪のおかっぱ頭の子供だ。蛍をすごく喜んでいたな。こんなに喜ぶか?と思った。」

未知弥は可笑しそうに笑った。

「だ、だって、私、初めて見たから…。」

紋の顔がまた赤くなった。

「でも、すごく嬉しかったんです。それに、母からとにかく憎むべき相手だと教えられていたのですが、あの日、未知弥様に会って、この人は憎むべき相手じゃないとわかったんです。自分の目で見たものを信じようと思えました。」

未知弥は、志穂乃の言葉を思い出していた。志穂乃の想いはしっかりと紋に伝わっていたのだ。

「それも全て、志穂乃様のお陰だったのですね。私、守られていたのですね。」

紋は噛みしめるように言った。

「ああ。だが、きっとお前の中に、最初からそういった芯の強さがあったのだろうな。」

紋は照れたように瞬きをした。

「紋、もう少し訊きたいことがあるが、体が辛ければ今日はここまでにしよう。」

「いえ、私は大丈夫です。何でも訊いてください。」

紋は、しっかりと未知弥の目を見て言った。

「そうか。辛くなったら言ってくれ。」

そう前置きをして、未知弥は話を進めた。

「紋、お前は一体どんな能力を持っているんだ?あの時お前は、紫井森詠の霊力を奪い、消滅させたんだな?」

あやは自分の手を見つめて数秒間黙った後、答えた。

「私は、相手の霊力を抜き取る力を持っています。抜き取って、その場で消滅させられるのです。詠叔母様は霊魂だったので、霊力を抜き取った衝撃で、全て消えてしまったようでした…。」

昨日、実際に見たことだが、言葉にして聞くと再び衝撃を受けた。

「紋、そのような能力を持ちながら、お前からは霊力が感じられないが、何故だ?」

それは、最も確認したいことの一つだった。

「私は、人に悟られないよう、霊力を隠すことが出来るのです。」

紋の返答は、またも信じ難いものだった。霊力を隠せる者も、聞いたことがなかった。紋はそれを読み取ったように言った。

「私自身、何故そんなことが出来るのかわからないのです。母が古い文献を持っていました。そこには様々な、現在では見ることのないような能力の記録があったのですが、私はその中のいくつかを、すぐに習得してつかうことが出来ました。」

「古い文献…。」

紫井森妙はそんなものをどこで見つけたのか。

「私は自分が怖いです。こんな誰も持ち得ないような能力を、何故か持っている自分が…。」

紋は呟くように言った。

「お前には理性がある。無暗に使わなければいいだけだ。」

未知弥はそう言って、紋の頭をポンポンと撫でた。その優しさに、紋の目に涙が滲んだ。

「そうだ、あの精霊も、お前が召喚したのか?」

「え…知っていらっしゃったのですか?」

紋は目を見開いた。

「ああ。この前、お前たちが話しているのを見てしまったんだ。」

「そうでしたか…。」

すると、どこからともなく、未知弥と紋の目の前に雪珠が現れた。柔らかく微笑んでいる。

「雪珠と申します。」

そう言って、未知弥に頭を下げた。

「どこか、母さんに似ているようだ。お前は母さんが作り出したのか?それとも紋の力なのか?」

未知弥の質問井に、雪珠は少し考えてから答えた。

「はっきりとはわかりませんが、恐らく、紋様を守ろうとした志穂乃様の力と、救いを求めた紋様の両方の力だと、私は考えております。」

それは、すんなりと納得のいく答えに聞こえた。

 雪珠は紋に微笑みかけた。

「紋様、言ったでしょう、大丈夫だと。ここの方々は、きっとあなたを幸せにしてくださると、私は信じておりました。」

「雪珠、ごめんなさい。私は不安で、あなたの言葉を信じられなかった。いつmpp不安で押し潰されそうだった。」

紋の目から涙がこぼれた。雪珠はいつものように、優しく紋の頭を撫でた。

「いいのです。いいのですよ。」

そして、未知弥の方に向き直ると、

「紋様を、どうかよろしくお願いいたします。」

と、再び頭を下げた。

「ああ、安心してくれ。紋の幸せは必ず守ろう。」

未知弥の言葉に、綾の目から更に涙がこぼれ、雪珠は嬉しそうに笑いかけた。

 その時、未知弥が誰かの気配に気付いて言った。

「入れ。」

すると、遠慮気味にドアが開き、そこに怜が立っていた。何か手に紙袋を持っている。怜は雪珠を見て一瞬怯んだが、おずおずと部屋に入って来た。そして、紋の近くまで進んで、バッと深く頭を下げた。

「ごめん!俺のせいで紋を危険な目に遭わせた。本当に、ごめん…。」

「怜様、そんな、私が勝手について行ったのです。頭を上げてください。」

紋は慌てて言った。

「いや、俺が未熟過ぎた。それに、危険に晒したのに、逆に守られるなんて情けなさ過ぎるだろ。」

怜は心底情けないと感じている顔をしていた。

「怜は、これからこの屋敷で暮すことになった。俺や快の監視下で教育し直す。」

未知弥に言われ、怜は深く溜息をついた。

「何だ?不満か?」

「いやいやいや!頑張ります!」

二人のやり取りを微笑ましく見ていた紋に、怜は持っていた紙袋を差し出した。

「これ、紋がやったことないって言うから。」

「え…私にですか?」

紋は不思議そうに紙袋の中を覗き、中身を取り出した。

「あ、これ…。」

それは手持ち花火のセットだった。紋の目がキラキラしている。

「夏休みに、みんなでやろうぜ。」

「はい!ありがとうございます!」

紋は満面の笑顔で返事をし、嬉しそうに雪珠にも花火を見せた。


 その頃、紫井森家の屋敷内には不穏な空気が流れていた。白銀家から急な面会要請があり、妙以外の一族全ての者が、強く警戒感を示したからだった。

「妙、大丈夫なのか?急に面会を要請してくるなんて、何かあったに違いない。」

紋の父親、紫井森治が不安に駆られながら妙に言った。

「紋が何か失敗したんじゃないのか?企みがばれたのかもしれん。」

オロオロと座敷を歩き回る治と対照的に、妙は静かに座って扇子を仰いでいる。他の一族の者たちも、皆ひそひそと何か不安げに話し合っているが、妙は気にも留めていないようだ。

「落ち着け。」

妙が扇子をピシャリと閉じて言った。妙のその一言で、座敷はしんと静まり返った。

「面会を要請されただけだ。そう騒ぐな。」

そう言う妙の口元は笑っており、状況を楽しんでいるようにさえ見えた。誰もが黙り込んだ中、声を上げたのは保だった。

「しかし、何もなければ要請など無いでしょう。私はやはり、紋が何か失態を犯したとしか思えません。」

妙が保の言葉に耳を貸すはずも無かった。妙は冷ややかな目で保を見やった。

「保、お前、紋に接触したね?」

そう言われて、保は言葉に詰まった。妙は容赦なく畳みかけるように続けた。

「誰がそんなことをしろと言った?紋の精神状態を揺るがすようなことをするな。」

妙は立ち上がると、座敷に居る者たちををぐるりと見回した。

「お前たちはまだ、紋の力を何も知らない。あの子がどれだけの霊力とそれを活かす才能を持っているか。疑う者は好きに逃げるがいい。」

妙はそう言うと、治や保に目をくれることもなく座敷を後にした。座敷に残された者たちは、言葉も無く、妙を見送るばかりだった。


「話をさせ過ぎたな。もうっゆっくり休め。」

怜が退室してから、未知弥はそう言って自分も立ち上がった。

「明日は学校に行きます。」

紋はそう言って笑顔を見せた。

「まだ無理はするな。そうだ、明日は…。」

未知弥は何か言いかけて留まったので、紋は不思議そうな顔をした。

「明日、恐らく紫井森妙が、父さんとの面会のためにこの屋敷にやって来る。」

「お母様が…。」

紋の全身に緊張が走り、手が震えた。

「ああ。向こうの企みが明らかになったのだから、面会を要請した。勿論、お前を同席させるつもりは無いから安心しろ。ここで休んでいるか、学校に行くか、紋の判断に任せる。」

「私は、同席しなくて本当にいいのでしょうか…。」

母親がこの屋敷に来る。それを聞いただけで、紋は恐怖と不安を感じた。出来ることなら顔を合わせず済ませたい。気配すら感じたくなかった。学校に行っていた方がいいかもしれない。しかし、それでいいのだろうか?逃げずに向き合い、妙に自分の意思を伝えるべきではないのだろうか。

「今日はもう考えずに休め。」

紋がぐるぐると考えを巡らせているのに気付いて、未知弥が優しく言い、頭をポンポンと撫でた。そうされると、紋はとても安らいだ気持ちになった。

「はい、そうします。」

紋は微笑んでそう言った。


「ねえ、雪珠。」

未知弥が部屋を出て二人きりになると、紋は雪珠に話しかけた。未知弥に休めと言われたが、ずっと考えることが止められなかった。

「何でしょう、紋様。」

雪珠は相変わらず柔らかく笑って答えた。

「私、お母様が怖いわ。とても…。会うことを考えるだけで、手が震えるの。でもね、私はもう終わらせたい。私は、ここに居る人たちを誰一人憎むことが出来ないし、ここに居ることがとても幸せなのよ。」

そう言いながら、紋の目に涙がこぼれた。ずっとずっと、辛かった。母親には歯向かえなかった。自分の生きる理由は、母の言う通りに白銀家を滅ぼす事だけだと思っていた。でも、そうではなかった。ここに憎むべき相手はいなかった。自分が持っていた感覚は間違っていなかった。そして、ここの人たちは皆、自分を受け入れ大切にしてくれる。そのことが、これ以上ない程幸せだった。

「私、ここに居たい。」

紋は自分の手をギュッと握った。

「雪珠。私、ちゃんと向き合って、お母様とのこと終わりにするわ。」

「紋様なら、きっと出来ますよ。それに、紋様はもう、一人じゃありませんから。」

雪珠は、そう言って紋の手を握り、微笑んだ。


翌日、紫井森妙は、定刻通りに白銀家の大広間に着座していた。相変わらず、暗い色の着物を着て長い髪を垂らし、表情がよく見えない。

「今日はよく来てくれた。頭を上げてくれ。」

知可弥が正面に座り声を掛けると、妙は低く下げていた頭をっゆっくりと上げた。

「本日はご対面の機会を頂き光栄の極み。知可弥様、お元気そうで何よりでございます。」

妙は淡々と挨拶を述べた。知可弥の脇に座った未知弥の方にも体を向け、頭を下げた。知可弥は無言で頷き、早々に話を切り出した。

「今日は他でもない、紋に関する話で呼んだ。」

妙はそう言われても、特に焦るような様子も見せなかったが、

「紋はよくやっているでしょうか。」

と、義務的に訊いた。

「ああ、皆に馴染んでよくやってくれている。」

知可弥がそう答えると、妙の口元が少し笑ったようだった。

「顔を見たかっただろうが、今は学校に行っている。」

「学校?…そうですか。それは残念。」

妙は少し意表を突かれたようだった。自分は「必要ない」と学校に行かせなかったし、白銀家でも使用人として、そのまま働いていると思っていたのだろう。

「私たちは、紋には普通の十八歳の少女として生活して欲しいと考えている。しかし、どうも紫井森家ではそうではなかったようだ。」

知可弥の言葉に、妙は無言だった。何を問われようとしているのかを探っているようだった。

「紋は本当に愛情を掛けて育てられたのか、正直なところ懐疑的だと考えている。」

知可弥がそう言うと、妙が今度はすぐに答えた。

「私なりの愛情を掛けたつもりでございます。」

重々しい口調だった。大広間に沈黙が流れた。

「本題に入ろう。」

知可弥が話を進めた。

「紫井森家の報告では、会うあは霊力が出現しなかったとのことだったが、我々としてはそこに相違があると考えている。」

そう言われても、妙は動揺を見せることもなく、

「しかし、紋からは霊力が感じられないでありましょう。」

と、静かに言った。

「ああ、確かに。それ故、私たちも核心を持つことが出来なかった。しかし、紋は昨日、私の一族の者を守るために霊力を使った。霊力を隠す能力を持っていることも、紋が教えてくれた。」

それを聞いても、妙は口元に薄っすらと笑みを見せただけだった。

「そうでしたか。もう、気付かれてしまいましたか。」

妙は静かにそう言った。紋に霊力があることが知られたとわかれば、妙が狼狽えるだろうと思っていた者たちは皆、その落ち着き払った様子に不気味さを感じた。

「紋に霊力が無いとしたら、白銀家がどう出るか窺っておりました。紋は紫井森家にとって大切な一人娘ですから。」

全く悪びれる様子もなく妙は言い、知可弥も好きに話させた。

「紋は私の大切な娘でございます。やっと生まれた愛しい娘と離れ離れにさせられる母親の気持ちがおわかりか?もしも、紋に霊力が無いとすれば、白銀家に差し出す必要がなくなるかもしれないという、私の親心から来る悪あがきでありました。」

知可弥は、妙の話を白々しく思いながら聞いていた。側に座る未知弥も同じだった。まるで、大切な娘を手放したくなかったためだと言いたいようだが、紋にしてきた仕打ちを、知可弥たちは全て知っている。

「妙、正直に話せ。」

急に知可弥の声が鋭くなり、大広間に緊張が走った。

「お前の企みも、そのためにお前が紋にしてきた仕打ちも、こちらは全て知っている。」

さすがに妙の表情から笑みが消えた。

「お前は、白銀家への恨みを晴らすためだけに紋を育てたのだろう。我々への恨みと憎しみを植え込んで。」

「…。」

妙は無言で知可弥を見つめた。知可弥は淡々と続けた。

「しかし、覚えているだろう、十九年前、志穂乃がお前にしたことを。」

そこで初めて、妙の表情がピクリと引きつった。

「あの時、志穂乃は白銀家を守るため、そして紋を守るため、自らの霊力をお前の体に送り込んだ。それはある意味呪いだ。紋はあの容姿で生まれ、お前の考えに呑まれることなく育つことが出来た。」

そこまで言った時、妙の肩が小刻みに震え出した。そして、

「あはははははははは!」

と、狂ったように大声で笑い始めた。大広間に居た者たちは、皆、気味悪そうに妙を見つめた。

「ああ、一日だってあの女の顔を忘れたことはない。あの時、あんなことが無ければ、あの女がいなければ…悔しくてたまらない。」

妙は髪を振り乱して、ふらりと立ち上がった。

「紋が生まれた時の絶望がわかるか?あの女を思わせる目、髪…紋を見るたびに苛立ちを覚えて気が狂いそうだった。あの子には白銀家を恨めと厳しく教え込んだつもりだったが、こんなにも早く全て知られてしまうとは。私も紋を買い被ったものだ。

怒りをぶちまけるように言い放った妙だったが、しかし、この期に及んでも自信に満ちた妙の様子は何なのか?知可弥と未知弥は鋭い眼差しで妙を見つめていた。

 妙は、紋が自分を裏切るはずがないという自信があった。幼い頃から恐怖で支配し続けて来たのだ。紋にそんなことが出来るはずがないと。そうである以上、紋はこのまま白銀家に馴染み、知可弥と未知弥の力を奪うという使命を必ずや全うするだろう。それさえ叶えば、妙にとって自分の身も紫井森家も、どうなろうとかまわなかった。

「それでは、私への処罰を下して頂きましょう。」

妙は、ふらりと一歩前へ出た。その顔は笑っている。知可弥は動じることなく妙と対峙した。知可弥の家臣たちがすぐに動けるよう構え、大広間の緊張感が更に高まった。

 その時、突然、大広間の襖が開いて、制服姿の紋が入って来た。それまで、何の気配も感じられなかった。

「紋、今日は学校に行くと…。」

未知弥が驚いたように言った。確かに今日の朝、紋は学校に行くと言って屋敷を出て行ったはずだ。実際、紋は屋敷を出たが、妙が来るのを見計らって屋敷に戻っていた。そひて、気配を潜めて、妙の面会の様子を窺っていたのである。

 紋は、未知弥と目を合わせると、フッと微笑んだ。未知弥は、その微笑みに、紋の覚悟を見た気がした。

 紋は真っ直ぐ妙と向き合った。

「ああ、紋。」

妙は紋に近付いた。

「ああ、私の可愛い紋。制服がよく似合っているね。」

そう言って、紋の頬を優しく撫でた。紋は久しぶりに会う母の猫撫で声に恐怖を感じ、体が震えた。しかし、心の中で強く念じていた。「大丈夫、大丈夫」と。「私には雪珠がいる、志穂乃様も守ってくれている」と。それから、白銀家の皆の顔が次々と浮かんだ。皆、紋を大切にしてくれる人たちだ。そして、「安心しろ」と優しく言ってくれる未知弥の顔が。

 紋は、自分の頬を撫でる妙の手を取って、頬から離した。

「紋…?」

妙は怪訝な表情を見せた。紋は話し始めた。

「お母様、ごめんなさい。私はずっと辛かった。知りもしない相手を恨めと言われ続けることが。」

「紋、何を言っている?これは全て、紫井森家のためだと言っただろう。」

妙は紋の肩を掴んで言った。紋は怯えたように首を左右に振った。

「違います…お母様は、恨みを晴らしたいだけ、です…。そして、詠叔母様を取り戻したい…。」

「…。」

妙の体が無言で震え出した。紋は話を続けた。

「でも、お母様、それは叶わないのです。詠叔母様は、もういません。」

「な…んだと…?」

それを聞いた妙は、放心したように紋の肩から手を離した。

「私が、詠叔母様を消滅させました。」

「紋…お前、何を言っている…?」

妙が動揺しているのがわかった。

「お母様ごめんなさい。私はここの人たちが好きです。ここに居られることが幸せです。もう、終わりにしましょう。」

紋は涙をこぼしながらそう言うと、放心状態の妙の胸に手を当てた。ハッとしたように妙は体を引こうとしたが、紋が妙の手を掴み、鋭く目を見つめると、妙は身動きが取れなくなった。

「や、やめろ、紋…。」

紋は涙をこぼしたまま微笑むと、目を閉じて霊力を研ぎ澄ませた。何か大きなエネルギーが動くのを、そこに居る全ての者が感じた。妙の体から黒い球体が現れ始めた。

「あれは…。」

知可弥や家臣たちは初めて見る光景に、呆然としたように見入っていた。

 球体は徐々に大きくなりながら、妙の体から抜け出してくる。

「お母様、これでお終いです。」

「や、やめろーーーーーー!」

断末魔のような妙の叫び声が響き渡った。黒い球体は完全に妙の体から抜け出ると、紋の手の平に収まった。そして、詠の時と同じように、紋が呟いた。

「滅べ。」

次の瞬間、黒い球体は音も無く粉々に砕け、消えた。同時に、紋も妙も力尽きてその場に倒れた。


 それから数日間、紋は眠り込んだ。妙の強力な霊力を抜き取り消滅させたことで、霊魂であった詠の霊力を消滅させた時以上の体力を消耗したのだった。

「ああ、紋、良かった。」

目が覚めると、様子を見に来ていた藤代が優しく言った。どの位眠っていたのだろうか?時計と窓の外の様子から、今が午前中だということはわかった。

 すぐに報告を受けた未知弥がやって来た。

「もう大丈夫か?」

「…はい。」

紋はまだ少しぼんやりとしているようだったが、半身を起こして座っていた。

「あの、私はお母様を…。」

紋は自分の手の平を見つめた。

 未知弥は、あの後の出来事を紋に伝えた。紫井森家は今度こそ解体されることとなった。一族の者は皆屋敷を出され、それぞれ地方に送られることになる。霊力を失った妙は精神を崩し、床に伏している。毎日、「紋、紋…。」と唸るように言い続けているとのことだったが、それは紋には伝えなかった。

「そうですか…。」

紋は複雑な表情をして未知弥の話を聞いていた。

「少し気掛かりなのは、お前が言っていた古い文献が見つからなかったことと、お前の兄の保が消息を絶っていることだ。」

「お兄様が…。」

紋の表情がサッと翳った。あれだけ妙を慕っていた保のことだ、紋に恨みを募らせ、復讐に来る恐れもある。

「大丈夫だ、快に調査を進めさせているし、この屋敷の中に居れば心配ない。」

紋はそう言われて、弱々しく微笑んだ。

「私は、このままここに居てもいいのでしょうか。嘘をついていたことに違いはありませんから…。」

「言っただろう、誰もお前を責めないと。むしろ紋は、一族間の争いの中での被害者だ。」

「…ありがとうございます。」

紋はポロポロと涙をこぼした。

「辛かったな。」

未知弥は紋を優しく抱きしめた。紋は、一瞬驚いて体がビクッとしたが、声を上げて泣き始めた。未知弥は、紋が泣き止むまで、ずっとその小さな体を包み込んでいた。

 紋は泣き止むと、外に出たいと言い、二人は連れ添って庭を散歩した。日差しは夏らしく強く、蝉が遠くで鳴いている。

 玄関近くまで来た時、紋が声を上げた。

「見てください!」

朝顔の鉢を指差して、紋が嬉しそうに言った。

「咲いています!きれい!」

「ああ、本当だな。」

薄紫色をした大輪の花がいくつも、きれいに咲いていた。未知弥も微笑んで花を見つめた。紋は未知弥と一緒に育てた朝顔を、二人で笑って見られることを、これ以上ない程の幸せに感じた。

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