第5話

 そおれから暫く、何事もなく日々が過ぎて行った。季節は夏に差し掛かり、日差しがだいぶ強くなっていた。

 週末の昼下がり、紋はまた玄関先で朝顔の鉢を眺めてニヤニヤしていた。しゃがみ込んで顔を近付けて、徐々に大きくなってきた葉や、伸びて来た蔓を眺めながら、そろそろ玄生に支柱をお願いしようか、そんなことを考えていた。その時、背後で突然声がした。

「また見てるのな。」

怜だった。しらっとした表情で紋を見下ろしている。紋は驚いて、そんおまま尻餅をついてしまった。

「何やってんだよ…。」

怜は呆れたように言って、紋の手を引いて立ち上がらせた。華奢だな、と思ったが黙っていた。

「す、すみません。」

紋は申し訳なさそうに言って、お尻に付いた砂を払った。

「それ、そんなに面白いわけ?」

怜は朝顔の鉢を指差して訊いた。

「はい…。あの、未知弥様が種をくださって、一緒に蒔いたんです。元気に成長しているのが嬉しくて。」

ふわっと柔らかく笑いながら紋は答えた。怜はその表情が何とも可愛く見え、一瞬怯んだ。

「未知弥様も朝、出勤する前に見てくださっていて、楽しみにしてらっしゃるんですよ。」

目を伏せ気味にして幸せそうに言う紋が、未知弥を慕っていることは容易にわかった。同時に怜は何か面白くないような気分になった。

「あ、そ。」

と短く言って話題を変える。

「今、仕事中なのか?」

「はい。今日は一日仕事です。あ、今は休憩時間で、それで朝顔を見ていました。」

叱られると思ったのか、紋は慌てたように付け加えた。

「ふーん。」

そう言って、怜はまじまじと紋を見つめた。見れば見る程、紫井森家の人間とは思えない。どうしたらあの母親からこの娘が生まれるのかと思う。

「??」

紋は怜にっじっと見つめられ、どうしていいかわからずソワソワした。初対面の際に、「天使のよう」と言ってしまった程端正な顔の怜を見つめ返すのは、紋には難しかった。

「あの、私仕事に戻らないと…。」

目を合わせられないまま、紋は控えめな口調で言ったが、被せるように怜が話し出した。

「お前、高校どこ行ってんの?学園に居ないもんな。」

「私は、S高校です。」

「どうして学園じゃないんだ?霊力無いからか?」

急に怜の目付きが鋭くなった。紋は戸惑いながらも返事をした。

「はい、そうです。それに、私は学校に行ったことが無かったので、知可弥様や未知弥様が、その方がいいだろうと考えてくださいました。」

「はぁ!?お前、今まで学校言ってなかったの?小学校も中学校も?」

紋の返事に、怜はぎょっとして言った。

「は、はい。」

「マジかよ…。」

『義務教育』という言葉が怜の頭の中を過ったが、「いや、あの一族ならやりかねない」とすぐに思った。

「じゃあ、ずっと屋敷の中に居たわけか。お前、世間のこととかわかってんの?」

「一通りの勉強は全て終わって、一般常識も学んでますが…。流行りの音楽やオシャレなどは、今、学校の友だちから教わっています。」

紋はちょっと恥ずかしそうに言った。怜は完全にドン引きした顔で質問し続ける。

「遊びは?友だちと買い物とか、カラオケ行くとか。」

紋はフルフルと首を横に振る。

「マジか!旅行とかバーベキューとかしたことあんの?」

と訊きながら、怜は「あの家族が楽しくそんなことするはずがないな」と思い、紋はもちろん首を横に振った。

「うわぁ…。夏の海も、祭りもか?花火で遊ぶのも?」

「花火…打ち上げるんですか?」

紋が目を丸くして言ったので、怜は脱力して座り込んだ。

「気軽に遊べる手持ちの花火があるんだよ。」

「そ、そうなんですね。」

紋は、「信じられない生き物がいる」とでも言いたそうな目で見てくる怜に、申し訳なさそうに言った。

「信じらんね~。」

怜は頭をガシガシと掻き、紋はそろそろ本当に仕事に戻らなくてはとオロオロしていた。そこへ、紗喜がやって来た。

「紋^?そろそろ休憩終わりよ…って、怜様、何してるんです?」

怜はバツが悪そうに立ち上がると、

「別に。」

と短く言った。紗喜は紋と怜を交互に見た後、何か納得したようにニヤニヤした。それを見た怜は、

「違うからな!」

と、紗喜が何も言っていないのにそう言って、屋敷の中に足早に歩いて行った。


「絶対何か企んでますって、紫井森のやつら。」

未知弥の部屋にやって来た怜は、ソファに座って一人でしゃべり続けていた。元々容姿の面からして訝しがっていた怜だが、紋が学校に行っておらず、屋敷の中だけで育ったことを知り、さらに怪しむ気持ちが強くなったようだ。

 向かいに座っていた未知弥は、やれやれと言った表情で聞いていたが、

「怜、お前が口を出す件ではないと、快に言われたはずだが。」

静かに怜の話を遮った。

「わかってますって。それでも、こんなに怪しいのに、どうして誰も何も疑わないのかと思って…。」

怜は憤慨hしたように言った。未知弥は黙って目を閉じた。決して疑っていないわけではない。先日も紋が精霊と居るところを目撃し、戸惑ったばかりだ。その件も早く

知可弥と話したいところだが、知可弥が多忙な故に時間が取れないでいた。

「みんな、紋に甘いし、むしろ屋敷の中は和やかだ。絶対に何か起き…。」

怜がそこまで言った時、ドアをノックする音がした。

「入れ。」

未知弥が短く言うと静かにドアが開き、快が入って来た。いつもに比べてピリッとした空気を纏っている。

「怜、お前の気配がしたと思えば、こんなところで何をしている?」

「…。」

怜は快と目を合わせず、下を向いて黙った。

「お前が口を出す話じゃないと言ったはずだ。そうだろう?」

快の口調は落ち着いているが、明らかに怒りを帯びている。

「顔を上げろ、怜。」

ピリッとした空気が流れ、怜はハッとして顔を上げた。

「いいか、ここはお前がグダグダと無駄口を叩きに来る場所じゃない。お前はいつまでも子供みたく未知弥様に接しているが、立場をわきまえろ。」

そう言われて、怜はぐっと言葉を詰まらせた。

「未知弥様が優しいからお前のそんな状態を黙って受け入れてくれているが、もうそろそろ限度を超えている。お前、家でも遊び呆けているよだな。いい加減に将来のことを見据えたらどうだ。」

怜の顔がカッと赤くなった。

「言われなくてもわかってるよ。そう言う快だって、昔は手が付けられなかったっていってたじゃないか。」

ムキになったように言ったが、快は顔色一つ変えず、ゾクッとする程冷たい視線を怜に向けた。

「ああ。だが、お前の齢の頃には改心して、未知弥様に仕えていた。お前はずっと霊力を伸ばす努力もせず、現実から逃げ続けているが、いつまでそうしているつもりだ?」

「うるせえ!」

耐えかねたように怜が叫んだ。顔は赤く、握りしめた拳がわなわなと震えている。怜は立ち上がると、快を押し退けて未知弥の部屋を出て行った。室内に沈黙が残った。

「申し訳ありません。兄弟で見苦しいところを…。」

快は未知弥に謝った。未知弥は快の目を見てフッと笑った。

「お前が説教する日が来るなんてな。」

「からかわないでください。」

快は照れくさそうに髪をくしゃっと掴んで目を逸らした。


 カッとなったまま、怜は速足で階下に向かっていた。全て図星だった。だからこそ、耐えられなかった自分が情けなく、怒りが止まなかった。

 怜は白桐家という代々白銀家に仕える家に生まれたが、あまり霊力が強くなかった。幼い頃から、強い霊力を持つ兄の快と比べられてきた。幼少期こそ兄のようになるのだと努力したが、あまりに周囲から否定されるため、霊力を伸ばすための鍛錬も逃げえるようになった。また、快が幼少期から反発心が強く、思春期は手が付けられない程荒れていたという話を聞くと、それなら自分もまだいいのだと言い訳に利用し始めた。今年十八歳になるが、霊力だけでなく学業すら手を抜き、快の言う通り、遊び呆けて両親に心配されているのだった。

 本当はわかっている。もう変わらなければいけないことを。しかし、気持ちを入れ替えたところで能力が高まる保証などどこにもない。自信も無く、向き合って打ちのめされるのが怖くて逃げているのだ。

「くそっ…。」

自分に対する苛立ちと不甲斐なさで声が出た。階段を降り、渡り廊下へ向かおうと角を曲がったところで人にぶつかった。

「悪い…。」

「すみません!」

謝る声で、相手が紋だとすぐ気付いた。紋は顔が当たったのか、鼻の辺りを手で触っていたが、

ハッとしたように手を下すと、

「あ、怜様。申し訳ありません。」

そう言って頭を下げた。姿勢を戻した後は、心配そうに怜を見ている。その邪気の無い様子に、怜は更に苛立ちを強めてしまった。

「お前、何なんだ?そんな無邪気そうにして、何企んでんだよ。」

怜は表情に苛立ちを隠さず言い、紋に詰め寄った。

「何を、おっしゃっているんですか?」

紋は困惑した表情で言った。それを見て怜は、

「あぁ、くそ!どいつもこいつも!」

そう叫ぶと、紋を突き飛ばすようにしてどけると、再び足早に歩き出した。がむしゃらに庭を抜けて行く様子だった。

「れ、怜様!どちらへ行くのですか?」

紋が慌てて呼び掛けたが、

「気安く呼ぶな!」

そう言い放って、怜はぐんぐん歩いて行ってしまった。

 紋は嫌な予感がして、怜が歩いて行く方向のずっと先の方に目をやった。木々が重々しく茂った森が目に入る。そこだけ、明らかに違う気配が漂っているのが遠くからでもよくわかる。禁忌の森だ。

「絶対に近付くな。」

未知弥の声が頭の中に響いた。紋は咄嗟に走り出していた。このまま、怜が自棄になって禁忌の森に入ってしまうような気がしたからだ。実際、怜は引き寄せられるように、そちらに向かって歩いている。

「怜様、待ってください!そちらに行ってはいけません!」

紋が必死に叫ぶと、追いかけて来たことに気付いた怜はギョッとしたように振り返ったが、

「うるさい!ついて来るな!」

そう怒鳴りつけて足を止めない。

 その内、嫌な気配と黒い森の入口が近付いて来てしまった。森の入口には白い札が張られた大きな岩が置かれていた。これによって、中にいる無数の怨霊たちが封じ込められているのだ。

 自棄になっている怜は、岩の脇を通り抜け、森の中に入ろうとした。息を切らせた紋が追い付いて、怜の手を引いた。

「怜様、いけません…。危険です…。」

しかし、怜は紋の手を振りほどくと、

「うるさいんだよ!こんな森、一人で大丈夫だ!」

そう言って森の中に足を入れ、振り返ることなく、奥へ向かって歩いて行ってしまった。

 紋は直感的にわかっていた。この森の中が本当に危険であることを。怜一人の力では戻れないだろうということを。紋は無心で怜を追いかけ、森に足を踏み入れた。


「何だここ、どっちに向かってるんだよ。」

暫く歩き、すぐに怜は自分が方向を見失っていることに気付いた。薄暗い森の中はどこも同じ風景で、どこに向かっているのか、どちらから来たのかすら、わからなくなっていた。まずいな…と早くも感じた時、

「怜様…。」

背後から声がしたのでバッと振り返ると、肩で息をした紋が立っていた。

「何でついてきてるんだよ!」

怜は顔を引きつらせたて言った。

「も、申し訳、ありません…。咄嗟に、ついて来てしまいました…。」

「何なんだよ!」

こうなったら突き放すわけにもいかず、怜は紋と並んで歩くことになった。

二人共、どちらに向かっているかわからなかった。ただ、歩いて行く先が、徐々に徐々に暗さを増していることだけはわかった。何かに引き寄せられているように。

 ただ暗いだけではない。何かが行きてそこにいるような気配を感じる。姿はまだ見えないが、確実に何かがいる。前に進めば進むだけ、怜も紋も嫌な予感が増していくのを感じていた。

「怜様、申し訳ありません。私はどこに向かっているのかわからなくなっています。」

紋が責任を感じているように言った。

「いや、別にお前が謝ることじゃないだろ。俺だってわかってねえよ。」

怜は情けない気持ちになりながら言い、紋を見た。紋は怜を見上げて、

「迷子ですね。」

と言って、へらっと笑った。怜は呆れたような顔で、

「お前…変なヤツだな。」

と言って目を逸らした。

「でも、本当にどうしましょう。どちらに向かったら森を抜けられるのか…。」

紋は立ち止まってキョロキョロと周りを見渡した。暗さが増して、視界も悪くなってきた。

「よく見えなくなってきたな。」

怜はそう言って、手の平を広げ、ポッと淡い光を灯した。その瞬間、紋は何かを察知して小さく叫んだ。

「怜様、明かりを消してください!」

しかし、遅かった。怜が明かりを消すより速く、何かが二人の方に近付いて来る気配がした。


 その頃、未知弥はすぐに、誰かが禁忌の森に入ったことを察知していた。状況から見て怜だろう。大事に至る前に早急に連れ戻す必要があるが、あの森は未知弥でさえも厄介に思える場所だ。大昔から、白銀家を滅ぼそうとした一族の主やその家族、家臣などの中で、命を落としても魂が鎮まらなかった強い怨念を持った霊魂が、あの森の中に封じ込められている。その数は誰も知らず、未知弥でさえも中に入ることを厳しく禁止されていた。

「あの森の中に入ると、入口も通った道も、方角すらわからなくなって、二度と外には出られないのだ。

と、皆を置怯えさせるように、年老いた家臣がいつも言っていたのを思い出す。さらに、こう続けた。

「強い、強い霊力を持ったままの霊魂もいる。生半可な力ではやられてしまうだろうな。」

 どうやって怜を救出するか。今日、知可弥は屋敷を不在にしているため未知弥に判断が求められる。

その時、ドアがノックされた。快だ。

「未知弥様、怜が禁忌の森に入ったようです。」

いつになく深刻そうな声だった。未知弥はドアを開け、快と向き合った。

「ああ、今どう救出するか考えていた。」

「それが…。」

快が何か言いかけて、珍しく躊躇した。

「何だ?」

「紋が、一緒に森に入ったようです。」

「紋が?」

未知弥の顔が一瞬で険しくなった。

「はい。怜を覆うように森に入るのを使用人が目撃しています。」

未知弥はいつにない焦りを感じた。急がなければ、二人の身が危険だ。

「とりあえず森に向かう。」

未知弥はそれだけ言って、部屋を出た。


おどろおどろしい気配が、怜と紋の方へと近付いていた。二人は引き寄せられるように森の奥へ踏み込み過ぎていた。怜が明かりを灯すために霊力を使ったことで、そこにいた霊魂たちに二人の存在を気付かせてしまった。

 黒い靄の塊のようなものがいくつもやって来て、怜と紋の周りをクルクルと旋回し始めた。よく見ると、黒く光る目のようなものが付いている。

「くそ…。」

怜は恐怖を感じながらも、紋をまもろうと自分の背後に隠すようにした。

 一つの靄の塊が怜の少し前で止まった。次の瞬間、急に蠢くように膨らんだかと思うと人の形になった。はっきりとはしないが、髪の長い女のようだ。

「生きた人間とは…何年振りだろうね。」

女の声で靄が話し始めた。

「ほう…その目と髪の色、お前、白銀家の者か。」

表情はわからないが、どこか楽しむような雰囲気が伝わってくる。黒い闇のような、こちらを吸い込んでしまいそうな目が怜を見つめている。怜はたじろいだ。その女から、自分とは比べものにもならない程の強い霊力が感じられるからだ。

「何だ?何か言ったらどうだ。」

女が嘲笑うように言った。怜の霊力の程度は、もうとっくに把握したようだ。怜は言い返すことすら出来ずに握った拳を震わせていた。

「白銀の一族の者がの体たらくとはね。」

女は、くくくっと小さく笑ったと思うと、次の瞬間、狂ったようにけたたましい笑い声を上げた。そして、ひとしきり笑った後、すっと冷ややかな口調に変わって言った。

「ああ、憎い。」

その言葉に同調するように、それまで漂っていた他の靄たちが女の背後に集まった。この一つ一つが意思を持った霊魂のようだ。

「お前たち一族のお陰で、我らは死ぬことも出来ずに永遠にここに閉じ込められているのだ。」

そう言って、女は一歩、怜に詰め寄った。怜は気圧されるように一歩後ろにさがり、背後にいた紋にぶつかった。

「守っていたつもりか。そこの娘、前に出てこい。」

可笑しそうに女が言った。紋は、止めようとした怜の腕をすり抜けると、怜の少し前に立った。

 女は暫く紋を見つめ、何か考えているようだった。紋も何かを確かめるように、じっと女を見つめていた。

「お前は、妙な気配だ。私に近い気もするが…。」

女がそこまで言った時、紋が口を開いた。

「詠叔母様…?」

その言葉に、女も怜も、ハッとしたように紋を見た。怜も白銀家と紫井森家の過去の話は聞いており、詠の名前は知っていた。怜はごくりと息を呑んで、改めて女を見

た。これが、二十年前、謀反を企てた紫井森なのか…。

「お前、姉さんの子か?」

女はそう言って紋に近付いた。紋は怯むことなく女を見つめた。

「とても似つかないが…、確かに紫井森の気配はある。しかし、何か別の気配も…。」

女━紫井森詠は困惑を隠せない様子だった。

「私は、紫井森妙の娘です。紋と言います。」

紋は静かに言った。

「姉さんに娘が生まれていたとは。とても紫井森の人間には見えないが…。それに何故、白銀家のの人間と一緒にここにいるのだ?」

詠は湧き上がる疑問をブツブツと口にした。長くこの森に封じ込められ、下界の事は何もわからないのだから仕方ない。

 しかし、詠は暫くしてニヤリと笑ったようだった。紋の見た目と霊力を感じないことは気になるが、この状況で平然と詠に向き合っている様子には感心する。何より、姉の娘であればただ者であるはずがない。これは、何か姉の考えがあるに違いない。

そこまで考えて、詠は気味が悪い程優しい口調で話し始めた。

「紋と言ったね。色々と訊きたいことはあるが、お前が姉さんの娘である以上、私がお前を攻撃するわけにはいかない。ここから出してやろう。」

そう言うと、詠は紋の方へぐっと近づいて来た。そして、顔を近付けると、怜には聞こえないくらいの小さな声で、

「お前、姉さんから使命を与えられているな?」

と囁いた。それを見て、詠は満足気にニヤリと大きく笑みを浮かべた。

「それでは、お前に道標を渡そう。」

そう言って、詠は小さな光の玉の中に作り出し、紋に差し出した。紋は両手でそれを包むように受け取った。

「この光が差す方向へ歩いて行け。そうすれば森の入口に出られるだろう。」

「ありがとうございます。」

紋はそう言って、立ち尽くしている怜を振り返り、「行きましょう」と言うように目配せした。怜は戸惑いながらも頷き、二人は歩き出そうとした。すると、詠が低く笑い始めた。

「お前は行かせない。」

そう言って、手を怜の方へ伸ばすと、怜の動きがピタリと止まった。金縛りのように体が動かなくなり、同時に首が絞められていくのがわかった。

「ぐっ…。」

怜の口から苦しそうな声が漏れた。

「お前は白銀家の者だろう。私は一人でもお前ら一族の者を消し去りたいのだ。こんなチャンスは滅多にないからな。」

詠は楽しそうに言って手の平を閉じるような仕草をし、怜の首が更に絞められた。周囲を漂っていた他の霊魂たちも、楽しむように怜の周りを回り始めた。

「やめてください、叔母様。」

紋が言っても、詠が力を弱める気配はない。

「ぐぅっ…。」

怜が苦しそうに呻く。紋は咄嗟に考えを巡らせた。霊力を使って攻撃するところを怜に見られるわけにはいかない。しかし、そんなことを言っていられる状況ではない。とは言え、ここで激しい争いになれば大きな騒動になる。それは避けたい。けれど、これ以上迷っている時間は無い。このまま怜を死なせるわけにはいかない。紋は覚悟を決めた。

 紋は少し俯いて呼吸を整えると、顔を上げ、鋭く睨むように詠を見た。そして、一瞬で詠に近付き胸の辺りに手をかざした。

「お前…。」

詠は想定外の紋の動きに怯み、同時にそれまで感じなかった霊力が現れたのを感じた。紋の手の辺りから、それは徐々に広がりを見せている。

「何だ…?」

漸く異変に気付いた詠は、身を引こうとしたが遅かった。体が動かない。紋は集中するように目を閉じると、何かを囁き始めた。

「お、お前…。」

詠が取り乱し始める。同時に、怜の首を絞める力が緩まり、怜は地面に倒れ込み、激しく咳き込んだ。そこへ、怜の周りを漂っていた無数の霊魂たちが、攻撃しようと一斉に怜に飛び掛かった。

「!」

怜が目を瞑った瞬間、閃光が走り、霊魂たちが一瞬で焼き尽くされた。怜は呆然として、灰と化した霊魂たちがその場に舞い散る光景を見つめた。

「大丈夫か?」

頭上で静かな声がした。

「未知弥様…。」

怜が顔を上げると、未知弥が立っていた。その後ろに快も居る。しかし、二人の表情は硬く、怜の方を見ていなかった。

 その視線の先には、紋と詠が居た。そこに居る紋は、信じられない程強力な霊力を漲らせて立っていた。体から霊気がオーラになって見える程だった。

 詠は、紋の手を振りほどきたくても、それが出来ないでいるようだった。何とか抵抗しようとするが、体が思うように動かないのだ。その内、詠の体の中から何かが出て来た。黒々とした、柔らかそうな球体。

「や、やめろ!お前、何故そんなことが…?」

詠が顔を引きつらせて叫んだが、紋は囁き続け、球体が完全に姿を現した。

「やめろーーー!!」

詠が恐ろしい声で叫び、人の姿から小さな靄になった。そして、力無くふらふらとその場を漂うと、徐々に徐々に小さくなり、やがて完全に消えた。周りを旋回していた残りの霊魂たちも、慌てたように闇の中に消えて行った。

紋は、詠から出て来た黒い球体を手の平の上に漂わせ、それに何か囁いていた。球体がぶるぶると小刻みに震え出した時、紋は目を見開き、

「滅べ。」

と言った。その瞬間、震えていた黒い球体は音も無く粉々に砕け散った。

 紋の手がだらりと垂れ、その場に倒れかけた。

「紋!」

怜が叫んだが、それより早く、未知弥が紋を支え、抱き抱えた。

 未知弥の顔を見ると、紋は一瞬驚いたように目を見開き、それから弱々しく笑った。そして、片手に握り締めていた道標を未知弥に渡した。

「未知弥様…。」

「大丈夫か?」

未知弥が訊いたが、紋はそれには答えず、

「ごめんな…さい…。」

そう言って目を閉じた。そのまま意識を失ったが、目の端に涙が光っていた。未知弥は無言で、紋をギュッと抱きしめた。

「未知弥様、あの…。」

怜が快に支えられて歩いて来ると、震える声で未知弥に声を掛けた。未知弥は無言で怜を見た。怜はこれまで感じたことのない、怒りのこもった未知弥の気配に気圧された。

「怜、森に入ってはならないことを、お前はよく知っていたはずだが。」

落ち着いた、酷く冷たい声だった。怜はゾクッとして、顔を上げることも出来なかった。

「顔を上げろ、怜。」

そう言われ、怜は顔を上げた。未知弥と目が合う。今まで見たことのない、未知弥の氷のようにっ冷たい目。未知弥を包む気配が怒りに満ちている。怜は身動きも取れなかった。

「身勝手な行動をするばかりか、人を巻き込むとはどういうことだ。」

「も、申し訳、ありません…。」

怜は恐怖から、そう謝ることしか出来なかった。

未知弥は怜に背を向けると屋敷に向かって歩き出した。

「怜。」

再び名前を呼ばれて、怜はビクッと体を強張らせた。

「ついて来い。処分は明日下す。」

未知弥は短く言い、怜は項垂れて、小さく「はい」とだけ答えた。

 

 未知弥が紋を抱えて屋敷に戻ると、心配していた使用人たちが出て来て世話をした。紋は外傷も無く、穏やかな表情で眠っていた。ベッドに寝かせた後、未知弥は使用人たちに下がるように言い、部屋の中は紋と二人きりで静かになった。

「あれは何だった?」

未知弥はそればかりを考えていた。さっき目の前で見た信じ難い光景。紋は、あの霊魂から霊力を抜きとったと言うのか?そんな能力を持つ者がいるなど聞いたことがない。そして、紋からほとばしるように溢れた霊力。紋はあれ程強い霊力を隠し持っていたということか。

 頭を整理させようにも、起きたことの衝撃が大き過ぎた。知可弥はどんな反応を示すだろうか。さすがに自分一人で解決出来ることでは無さそうだ。これまで生きてきて、こんなにも頭が混乱するのは未知弥にとって初めてのことだった。未知弥は気持ちを落ち着けようと目を閉じた。しかし、さっきの光景が繰り返し頭の中を過るばかりだ。

 目を開け、穏やかに眠る紋を見つめた。この、小さく華奢な体に、どれ程の能力を秘めているのだろうか。そして、何を隠し、抱えているのか。

「ん~…。」

紋が小さく唸って、眉間に皺を寄せた。

「ごめんな…さい…。」

唸るようにそう呟き、目から涙がこぼれた。普段の無邪気な様子とはかけ離れた紋の様子に、未知弥は胸が痛くなった。そして、この前のように何かに怯え切った様子を思い出した。

「お前は何を抱えているんだ?」

未知弥はそう呟くと、苦しそうに唸る紋の手を握った。唸り声が止み、紋の表情がわずかに柔らかくなった。


 翌日、怜は屋敷に呼び出され、大広間で未知弥を待っていた。暫くして未知弥がやって来た。昨日のような怒りは感じられなかったが、怜は緊張した様子で俯き加減に正座していた。未知弥が座ったタイミングで頭を深く下げると、

「昨日は申し訳ありませんでした。自分自身の未熟さで禁を犯し、人を巻き込んだこと、深く反省しています。」

と、謝罪した。数秒間の沈黙の後、

「頭を上げろ。」

未知弥は短く言って怜に頭を上げさせると、真っ直ぐ怜の目を見つめた。

「…。」

怜は目を逸らさないよう見つめ返した。数秒間が酷く長く感じられたが、やがて未知弥が目を閉じて行った。

「お前の反省はわかった。今日は二つの要件で呼んだ。一つは、お前に下す処罰を伝えるため。もう一つは、昨日禁忌の森の中で起きたことを詳細に話してもらうためだ。」

 怜はそう言われて複雑な表情を見せた。処罰の件ではなく、昨日の出来事は、まだ怜を混乱させていた。

「俺があの場に付く前に何があったのか、少しずつでいいから話してくれ。」

促され、怜は自分でも出来事を整理するように、区切りながら話した。

「森の奥からたくさんの霊魂が出てきて、その中の一人が女の姿になりました。それが、紫井森詠でした。」

その名前に、未知弥もピクッと反応を見せた。

「最初は誰かわかりませんでした。ただ、俺が白銀家の一族の者だと気付き、詰め寄って来ました。白銀家が憎いのだと。その時、紋が居ることに気付いたのですが、先にその女が紫井森詠であることに気付いたのは紋でした。同族の気配で分かったのかと思います。でも、詠は紋に困惑していました。」

「困惑?」

「不思議な気配だと言っていました。紫井森の気配はするが、容姿が一族の人間らしくない。さらに、何か別の気配も感じるようなことを言っていました。」

「別の気配…。」

未知弥は何か考えるように呟いた。その気配が何のことなのか、そこに重要な鍵があるように思えた。

「けれど、紫井森妙の娘である以上、紋は逃がすつもりで、紋に道標を渡しました。その時、何か紋に囁いて、紋が頷いたようでしたが、聞き取れませんでした。」

未知弥はじっと何か考えるような表情で無言だった。そのまま怜は話を続けた。

「俺のことは逃がさないと言って首を絞めて、その後は、未知弥様も見た通りです。」

怜はそこまで話して黙り、昨日の光景を思い返した。紋は何をした?あんな現象は見たことがない。それに、紋から溢れ出た凄まじい霊力。昨日、目の前で起きた出来事の衝撃が大きく、怜もまだ整理が出来ていない様子だった。

「あの、あれは、紋がしたのは…。」

怜は未知弥に訊いた。わかってはいるが、未知弥の口から聞かないと納得できないというような様子だった。

「紋は、紫井森妙の霊力を抜き取り、消滅させた。」

未知弥が淡々と言った。怜はそれを聞いても、まだ信じられないという顔をしている。未知弥とて信じられない。相手の怜りょきを抜き取るなど聞いたことのない話だ。それを、あの紋がしたというのだ。しかし、もしもそれが可能だとしたら。紫井森家がその能力を活かさないはずがない。隙を見て、未知弥弥知可弥の力を奪おうとするはずだ。

「紋は…未知弥様たちを狙っているってことですか?」

怜はかすれた声で言った。未知弥は少し沈黙したが、

「その可能性が高いな。」

と、短く答えた。沈黙が流れる。

「紋、どうなるんですか?」

微かに震える声で、怜が訊いた。

「今は何も言えない。」

未知弥の返事に、怜は絶望的な顔をした。

「でも、紋は、俺を助けようとしてくれたんですよ?紋がいなかったら、俺は死んでいました…。」

怜は力無く言って項垂れた。

「紋がしたことには衝撃を受けました。あんなに強い霊力を持っていたことにも。でも、もしも、俺が強かったら紋を巻き込むことも無かった…。そうしたら、紋はあんなことをしなくて良かったと思うと、自分が情けなくて…。」

後半は涙声だった。

 未知弥は暫く無言のまま座っていたが、静かに立ち上がり、怜を見下ろした。

「お前の処分だが。」

怜はビクッと体を強張らせた。

「暫くこの屋敷で暮すように。俺や快の監視下で鍛錬を積んでもらう。人を守れるようになれ、いいな。」

怜は一瞬放心していたが、

「ありがとうございます!」

すぐに頭を下げて、出せる限りの声で言った。未知弥は黙って大広間を出ると、真っ直ぐ知可弥の元へ向かった。

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