第4話

 紋の学校生活が始まった。早朝起きて、少し使用人の仕事をした後、自分でバスに乗って登校する。最初は初めてのバス登校に緊張していたが徐々に慣れ、学校でも友だちができたようだった。帰ってきたらまた少し使用人の仕事をするが、基本は課題など学業優先にするよう言われている。

「学校どう?楽しいでしょ。」

紗喜が休憩中に訊いて来た。

「はい、すごく楽しいです。まだ慣れないことばかりなんですけど…。」

紋はモジモジして答えた。

「教室間違えたり、授業中に差されてもないのい立ち上がって答えちゃったり、何もないところで転んだり…。」

「さすがね…。転ぶのは学校関係ない気がするけど。」

紗喜は真顔で言った。

「本当にわからないことだらけで。流行りも疎いから、今教えてもらっていて。」

余りにも紋が世間に疎いので、友だちが流行りの曲やファッション、スマホのアプリや動画などを色々教えてくれているらしい。紋は今、勉強よりそれを覚える方がよっぽど大変なようだ。

「でも、楽しそうで良かったわ。」

紗喜は本心からそう言った。あの紫井森家で閉じ込められるように育ってきた紋が、普通の女子高生らしく過ごせることがとても喜ばしく思えた。

 未知弥や知可弥も、紋が徐々に紋が徐々に馴染む様子を見て安心していた。紫井森家の動きも特別見られない。警戒は怠れないが、紋が使用人に自然に受け入れられ、むしろ可愛がられていることで、屋敷内の空気は以前より良くなっているようだった。白銀家の使用人は元々仲が良く、ぶつかることがあっても玄生や藤代が上手く間に入って取り持って来た。そこにやって来た紋が、ちょっとドジでフワフワしたところが可愛らしく、皆が笑うことが 以前より増えていた。

「紋は不思議な子です。紋を見ていると温かい気持ちがして、皆笑顔になるんです。」

玄生も藤代も、口を揃えてそう言った。

「さ、仕事に戻ろうか。紋は庭の掃除ね。」

紗喜がそう言い、二人は休憩室を出た。今日は土曜日で学校は休みなので、紋も一日使用人の仕事をするのだ。

 紋は庭に行き、箒で掃き掃除をした。その途中、未知弥と種を蒔いた朝顔の鉢が目に入った。それと同時に数日前を思い返したー。

 未知弥が朝、出勤のために車に乗り込もうとした時、

「未知弥様~!」

と声がしたのでそちらを見ると、植木鉢を抱えた紋がパタパタと走って来るのが見えた。

「どうした?」

未知弥はギョッとしたように言って、はあはあと肩で息をしている紋が落ち着くのを待った。

「芽、芽が出たんです!」

そう言って紋は抱えていた植木鉢を差し出した。確かに、土の表面に小さな朝顔の芽がいくつも出ている。

「ああ、さっき見た。」

未知弥があっさり言ったので、

「え!知ってたんですか?」

紋は恥ずかしさで顔を赤くした。未知弥は、

「そんなに嬉しいのか?」

と、つい訊いてしまった。

「はい!未知弥様から頂いた種です。一緒に撒いたんです。すごく嬉しいです。」

紋は眩しいくらいの笑顔で言った。未知弥は呆気に取られたように紋を見つめた。無言の未知弥に、紋はハッとして、

「す、すみません、私だけはしゃいでしまって…。」

顔を赤くして下を向いたので、未知弥はフッと微笑んだ。

「いや、そんなに喜んでくれるのは嬉しいことだ。このまま育って花が咲くのが楽しみだな。」

そう言われて紋はおずおずと頭を上げると、優しく微笑んでいる未知弥と目が合って、思わずまた下を向いてしまったのだった。

 それから順調に芽は育っていた。紋は箒を置いて鉢の前にしゃがみ込み、愛しそうにそっと芽を指先で撫でた。あんまり幸せな気持ちで撫でていたので、背後を一人の少年が歩いて行ったことに気が付かなかった。

 

「ねーねー、未知弥様ぁ、庭に変なヤツ居たけど、あんなの居ました?」

背後で声がして、部屋で仕事の資料を眺めていた未知弥は椅子を回転させて声の主を見やった。

「ノックぐらいしろ、怜。」

未知弥にそう言われると、怜と呼ばれた少年は、コンコンとノックをしてニヤニヤ笑った。

 金髪に近い色素の薄い髪、長い睫毛の大きな瞳が美しく、少し幼さが残るが端正な顔立ちだ。快の弟の怜だった。

「それで、何が居たって?」

『変なヤツ』が誰かだいたい予想は付いたが、未知弥は一応訊いてみた。

「そうそう、ちっちゃい女が、庭で植木鉢眺めてニヤニヤしてたんですけど。あんな使用人居ました?」

紋だ、と確信して未知弥は天井を仰ぎ見た。ニヤニヤ朝顔の芽を眺める紋の顔が思い浮かんで、また変に愛しさが湧き上ったので、振り切るように怜の方を見た。

「紫井森家の娘だ。紋という。」

未知弥がそう言うと、怜はギョッとしたように美しい目を見開いた。

「あれが?嘘でしょう?母親にも兄貴にも全然似てないじゃないですか。」

「ああ、皆おどろいている。」

「あれ、でも、近く通っても霊力感じなかったけどな。紫井森家の娘なら、かなりの霊力の持ち主でしょう?」

さすがに快の弟だ。鋭いところを突いて来る。

「紋は霊力を持たない。そう報告を受けているし、お前の言う通り、霊力が感じられない。」

「マジかよ…。でも、あの紫井森家だ、何企んでるかわからないですよね。」

その時、開けっ放しのドアを誰かがコンコンとノックした。

「誰かと思えば、うちの馬鹿がギャーギャーと。」

そこにはニッコリ笑った快が立っていた。

「快!」

怜が怯んだ。

「兄さんと呼べ。お前が口を出すことじゃない。何しに来たんだ。」

快と怜は白銀家に代々仕える上位の一族で、「白桐しろきり家」という。白銀家の程近くに屋敷を構えており、怜はそこで暮し、霊力者の通う学園に通っている。齢は紋と同じで高校三年生だ。快は未知弥の秘書として仕えているため、白銀家に住んでいる。

「いや、別に…。」

怜は言葉を濁した。

「どうせ、紫井森家の娘がどんなか興味本位で見に来たんだろう。違うか?」

快にそう言われて、怜は観念したように片手で髪をくしゃくしゃさせると、

「そうだよ。その通り!」

と言ってソファにドサッと座った。

「だって気になるだろ?二十年近く前の因縁であの紫井森家からやって来る娘なんてさ。」

勿論、怜も白銀家と紫井森家の間に起きたっ出来事や結ばれた約束については知っている。紫井森家の人間とも何度も顔を合わせたことがあり、その不気味な雰囲気も良く知っている。何かが起こるに違いない。怜の興味関心が膨らむのも無理は無い。

「まだ俺たちもわからないことばかりだ。警戒しながら様子を見ているところだ。」

未知弥は椅子から立ち上がり、怜の向かいに座った。

「お前が面白がって首を突っ込むようなことじゃない。」

快はそう言って軽く怜の頭を小突いた。怜はうるさそうにそれを手で払った。

「それにしても、紋だっけ?イメージと全然違うな。」

どうしても気になる様子の怜を見て、快が言った。

「そうだ、お前挨拶がまだだろ。齢が同じだし仲良くしろよ。いい子だよ。」

「はぁ?いいよしなくて。仲良くする気ねえし。」

怜は慌てたように言ったが、快はさっさと部屋を出ると、すぐに紋を連れて戻って来た。仕事の途中だった紋は急に連れ出され、よくわからないまま快の後ろに立っていた。小さいので快の体ですっぽり隠れてしまっている。快は紋の後ろに回ると、そっと背中を押して部屋の中に入れた。

「紋、これが前に言っていた俺の弟の怜だ。馬鹿だけどよろしくな。」

そう言われて、紋はソファに足を組んで座っている少年をじっと見つめると、

「…天使のようですね。」

と、感心したように呟いた。

「うるせー!誰が天使だ!」

怜が真っ赤になって言い、快がブッと吹き出した。未知弥は肩を震わせて笑いを堪えている。

「いや~良かったな、怜。天使だそうだ。」

快が可笑しそうに怜の肩をバンバン叩いた。皆の反応に、紋はオロオロしている。未知弥が紋に自己紹介をするよう促した。

「紫井森紋です。よろしくお願いいたします。」

紋がそう言って頭を下げると、怜はチラッと紋を見て目を逸らした。

「可愛いだろ?」

快がニヤニヤして言う。

「別に。」

「照れてるのか?」

「照れてねーし。」

「齢も同じだし、仲良くな。」

「へいへい。」

怜は紋の顔を見ずに言った。やり取りを見ていた紋が心配そうにしているので、未知弥が声を掛けた。

「大丈夫だ。本気で怒っているわけじゃないし、悪いヤツじゃない。安心しろ。」

それを聞いて紋は頷いた。その未知弥の優しい様子を見て、怜は「珍しいな」と思った。


 その夜、未知弥はそろそろ眠ろうと思い、カーテンを引くために窓辺に行くと、また縁側に一人で座っている紋が目に入った。また何か心配事だろうか?未知弥は気になった。普段あそこに使用人が座っていても気にしないだろうが、紋はどうしても気になってしまう。未知弥は部屋を出て、足音を立てることなく縁側に向かった。

 紋の近くに行くと、どうも様子がおかしい。紋は縁側の柱に寄りかかるように座っており、どうやら眠っているようだった。未知弥は、こんなところで寝ているのかと、やれやれと思い紋を起こそうとした。しかし、紋の肩を揺らそうとしたところで手を止めた。紋がうなされていることに気付いたからだ。

「できません…。許してくだ…さい…。」

柱に寄りかかった紋は、時折何か呟く。酷く呼吸が荒く、苦しそうだ。

「紋、大丈夫か?目を覚ませ。」

未知弥が肩を揺らすと、紋はハッと目を覚ましたが、未知弥と目が合うと、

「ご、ごめんなさい…。ごめんなさい!」

と、怯えたように叫んだ。大きく開いた瞳が恐怖の色を帯びている。目の前にいるのが未知弥だとわかっていないようだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

震えながら謝り続ける紋を、未知弥は抱き寄せると、

「大丈夫だ。落ち着け。」

冷静な口調で言い、ギュッと抱きしめる腕に力を入れた。その瞬間、紋の体から力が抜け、意識を失ったように未知弥の腕の中で静かになった。すーすーと穏やかな寝息が聞こえる。それを見て未知弥は安堵したが、同時に紋が抱えているものが何なのか、一体どんな育てられ方をしてきたのか、紫井森家に対する疑念ばかりが浮かんできた。

 紋は未知弥の腕の中で安心したように眠っている。汗ばんで乱れた前髪を指先で直してやると、

「未知弥…様…。」

紋は何か夢を見ているように呟いた。未知弥はそんな紋を見て、抱いている腕にもう一度力を込めた。


「紋、おはよう~。」

翌朝、紋はいつも通り学校に登校した。紋が教室に入ると、窓際に集まっていた三人組の女子が手を振った。紋は嬉しくなって三人のところへパタパタと駆け寄ろうとしたが、途中で誰かの机にカバンを引っ掛けて転びそうになった。

「紋~。」

「大丈夫?」

「やっぱ紋だわ。」

三人は呆れたように言い、紋も恥ずかしそうに笑った。

 三人は、莉央りお陽菜子ひなこ結衣ゆいといい、中学校から仲の良い三人組だ。入学初日から道を間違えたり、物にぶつかったり頼りない紋に、莉央が声を掛けてくれたのが仲良くなったきっかけだった。莉央は賢く冷静で頼りになる存在だ。

「紋、お休み取れた?遊びに行けそう?」

陽菜子が訊いてきたので、紋は頷いた。休日に四人で遊びに行こうということになったが、紋が使用人として働いているため、休みがもらえるのか、遊びに出ていいのか確認する約束をしていたのだ。

「月に数回は週末に休みを取れるので、自由にしていいと言われました。」

「やったね!これで四人で遊べるね。」

結衣が嬉しそうに言った。さらに、

「大変だよね。白銀家の使用人なんて。」

と、紋を労わるように言ったが、陽菜子がグイッと紋に顔を近付けて言った。

「でも、霊力者の一族って、皆、すごーく美形なんでしょ?」

「は、はい。皆さんとても端正な顔立ちで…。」

紋がそう言うと、陽菜子は、

「いいな~。いつか会わせて欲しい~。」

と、全力で羨ましがっている。

「白銀家は人間性も評判がいいみたいね。」

父親が白銀グループの会社に勤めている莉央が言った。

「はい!皆さんすごくいい方ばかりで、本当に良くしてもらっています!」

紋が力を込めて言うので、三人とも可笑しそうに笑った。

「それにしても、紋はなかなか敬語が抜けないわね。今度遊ぶ日は、敬語禁止にしようか?」

陽菜子が提案すると、「いいね」と莉央と結衣も乗り気だ。紋が困ったようにオロオロしていると、さらに、結衣が思い出したように紋に訊いた。

「そうだ、紋、コンビニは寄ってみたの?ガリガリ君もホームランバーも食べたこと無いって言ってたけど。」

「ま、まだ…です。」

紋は恥ずかしそうに下を向いた。ずっと紫井森家の中で育った紋は、勿論一人でコンビニに行ったことなど無く、結衣が言うようなアイスも食べたことが無かった。それを三人が知って驚くということがあったのだ。

「一人でコンビニで買い物。紋、これくらいはしてみよう。」

と言われていた。紋が色々と世間ズレしているのはわかっていたが、それくらいは出来た方がいいと言うのだ。紋はバスと徒歩で通学しているが、三人とは方角が違うので一人で帰っている。バスを降りてすぐにコンビニがあり、紋は何度か店のドアの前に行ってみたが、緊張してしまい、結局まだ入店すら出来ていなかったのである。

「今日こそはコンビニでアイス買ってみよう。もう、命令よ。明日報告!」

陽菜子が痺れを切らしてそう言ったので、紋は、

「は、はい…。」

と答えるしかなかった。


 その日の夕方、バスを降りると、紋はコンビニの前に立った。中には客が数人いて、制服姿の学生も何人かいるようだった。

 紋は思い切って中に入ると、キョロキョロとアイスを探した。店内はそんなに広くないのに、初めての紋には何がどこにあるのかわからなかった。それでも、店内を二周してやっと「こんなところにあったのか…」と思いながらアイスを見つけ、ドキドキしながらレジで購入したのだった。

 店を出て、溶けない内にとすぐにアイスを開けて一口食べてみる。紋の顔がパッと明るくなった。声には出さないが「おいし~」と言っているのが聞こえるようだ。紋は夢中でアイスを食べ、最後の一口を食べ終えた時だった。紋の隣に停まっていた黒塗りの車の後部座席のまどが開いて、

「楽しそうだな。それはうまいのか?」

と、未知弥が言った。

「!!!!!」

紋は声も出ない程驚き、アイスの棒が手から落ちた。

 紋がコンビニの前に立っていた時、仕事で外に出ていた未知弥の乗った車が近くを通った。未知弥は何となく窓の外を眺めていたが、見覚えのある女子高生が目に留まった。

「快、そこのコンビニに車を停めてくれ。」

「コンビニですか?わかりました。」

快は珍しい指示に少し戸惑いつつ車を停めた。そこへ紋が出て来て、未知弥たちには全く気付かずアイスを食べ始めたのだった。

「うまかったのか?」

未知弥がにこりともせず言うと、紋は震えながら、

「も、申し訳ありません!学校帰りにコンビニに寄って、アイスを買ってしまいました!」

と言って頭を下げた。

「いや、別に構わないが。…小学生か?」

そう言われて、紋が恐る恐る顔を上げると、未知弥はくっくっと可笑しそうに笑っていた。

「も、申し訳ありません…。」

紋は恥ずかしそうにもう一度謝った。

「いや、色々と楽しんでいるならいい。俺は仕事に戻る。気を付けて帰れ。」

そう言うと窓が閉まり、車がゆっくりと発車した。未知弥がバックミラーに目をやると、いつまでも車を見つめて佇んでいる紋が見え、未知弥はまた、ふっと可笑しそうに笑った。

「未知弥様、最近楽しそうですね。」

それを見た買いがそう言って微笑んだ。弥は何か言い返そうとするのをやめ、窓の外を眺めながら昨夜のことを思い返していた。

 あの後、紋を部屋まで抱えて行き、後は藤代と紗喜に任せた。朝の藤代からの報告では、そのまま眠っていたとのことだった。今の様子を見ても、特に心配することは無さそうだった。しかし、あの恐怖に怯え切った紋の瞳が、未知弥の頭に焼き付いて離れなかった。


 紋は車が見えなくなると、屋敷までの道のりを一人歩き始めた。初めてのコンビニ、自分でアイスを買って食べたのが嬉しくて、明日、莉央たちに報告するのも楽しみで、紋の足取りは軽かった。それに思い掛けない未知弥とのやり取りも。紋は心の中がほわっと温かくなるように感じた。

 あと十分程歩けば屋敷に着くというところで、紋は瞬時に嫌な気配を察知した。それと一瞬遅れて、音も無く何かの気配が近付き体に絡み付くと、すーっと暗い路地に紋を引き込んだ。

「呑気なものだな、紋。」

冷たい声がした。紋は気配を感じた時点でそれが誰かわかっており、返事をする声が震えた。

「お、お兄様…。」

暗がりに兄の保の姿が浮かび上がる。真っ直ぐに肩の上まで伸び、きれいに切り揃えられた髪と、前髪で半分隠れた暗い印象の瞳から、紫井森家の血をしっかりと継いでいることが窺える。

「鼻歌でも歌いそうな様子だったが。俺にこんなに簡単に捕まるようでは、やはり頼りないな。」

保が紋を見下ろして言ったが、紋は俯くばかりだった。

「俺には母さんがお前を過信しているとしか思えない。報告も入れず、何を呑気にしている?」

それを聞いて、紋は何とか顔を上げて答えた。

「お母様から報告は要らないと言われています。まずはゆっくり時間を掛けて馴染むようにと…。」

そう言いながら、徐々に声が消え入るように小さくなっていった。

「馴染む、か。お前のことだ、情が湧いて何も手出しできなくなるんじゃないのか?母さんもかあさんだ、こんなフワフワしたヤツに任せるなんて。」

保は忌々しそうに紋を睨みながら言った。紋は何も言えず、また俯いてしまった。

「どうせお前も俺には何も出来ないと思っているんだろう。確かに紫井森家は女子が強い家系だが、俺は父さんのように無能じゃない。」

恐る恐る顔を上げた紋には、保の目が怒りや憎しみを込めて狂気的に光ってるように見えた。

「お兄様、何をする気で…。」

「お前には関係ない。」

紋の言葉をピシッと遮って保は続けた。

「ただ、お前がやらないのなら、俺がやるまでだ。」

「そんな…。お母様はそんなこと望んでいない…。」

紋がそこまで言うと、

「黙れ!」

保は鋭く言った。

「そんなことはお前にいわれなくてもわかっている。」

保は忌々しさをぶつけるように言った。

「使命を忘れるな。いつでも俺が見ていることも。もう一度言っておく。お前がやらないのなら、俺がやるまでだ。」

そう言うと、暗闇の中に保の姿は消えていった。残された紋は、力無くその場に立ち尽くしていた。


 屋敷に帰り、紋は平静を装い仕事をしようとしたが、あまりに顔色が悪いので皆に心配され、藤代に休むよう言われた。

 紋はますます気持ちが沈むのを感じ乍ら部屋に入り、ベッドに座り込んだ。兄の声とあの目が頭から離れない。気がどうにかなりそうだ。

 兄の保が紋を良く思っていないのは昔からだった。紫井森家が女子の強い家系であるのは重々承知しているが、見た目、雰囲気がとても身内とは思えず、また頼りない様子の紋に、保は常に苛立ち疑念を抱いていた。本当に紋は紫井森家の血を引いているのか。本当に白銀家を滅ぼすことなど出来るのか。しかし、母親の妙は紋の能力に確固たる自信を持ち、信頼を置いている。保はそれが憎かった。

 保は、ほとんど何の権限も持たない父親と違い、紫井森家の男子の中では能力が高く、また頭が切れるため、一族の中には保に擦り寄る者もいた。しかし、妙は一度たりとも保を褒めたり認めたりしたことがなかった。そのことは常に保の自尊心を傷付け、そのもどかしさや怒りの矛先は自然と紋にむけられた。

 紋が白銀家に仕えるようになってから、保は常に紋の動向を探ろうとしていたが、白銀家に張られた強力な結界によって阻まれていた。日が経っても紋から紫井森家に何か知らせが届くことは無く、その状況に保は苛立ちを募らせていた。

 しかし、紋は妙の計画を幼い頃から教え込まれてきたのである。とにかく焦るなと言われてきた。じっくりと時間を掛けて、怪しまれることのないように馴染めと。その間、報告は不要だったが、保はそれがもどかしくて仕方がないようで、何か手はないかと動いていた。

 ただ、紋が怯え苦しむ理由はそこではない。紋が苦しんでいるのは、与えられた使命と、それを決して実行したくない自分の想いに挟まれていることだ。母を、紫井森家を裏切るのか。そんなことが自分に出来るのか。それでは、使命通り、白銀家を攻撃するのか。

 紋は幼い頃から母に「白銀家を滅ぼすことがお前の使命だ」と教え込まれてそだった。しかし、いくら母から白銀家を敵視する理由をおしえられても、紋は白銀家をどうしても恨むことが出来なかった。どんなに母が感情的になろうとも、紋の頭の中は何故か常に冷静だった。自分の目で見ていないものを信じてはいけない。自分が実際に見て感じるものを信じなくては。自分の心の声がして、紋は母の教えに呑まれることなく成長した。そして、それを母に悟られないように気を付けた。

 そんな紋をずっと支えてくれているのが雪珠だ。雪珠が最初に現れた時を、紋はもう記憶していない。それくらい自然に、気が付いたら雪珠は近くに居てくれた。紋が思い詰めた時、いつもどこからともなく現れてくれる。今日もそうだ。ベッドの上で頭を抱える紋の目の前に、柔らかな光に包まれた雪珠が浮かび上がった。

「大丈夫。大丈夫ですよ、紋様。自分の気持ちに正直にさえすれば、大丈夫です。」

いつも通りそう言って紋を抱きしめてくれた。紋は小さな子供がぐずるように頭を左右に振った。目元に涙が滲んでいる。雪珠は優しく微笑んで、紋を包み込んだまま頭を撫でた。

「大丈夫です。大丈夫です。」

雪珠を包む光が紋も包み、紋は光の温かさを感じ、いつもその温もりに癒されるのだった。その時、紋と雪珠は、部屋のドアが薄っすらと開いていることに気が付かないでいた。そして、そこに未知弥が立っていることに。

 未知弥は今日、早めに仕事を切り上げ、いつもより早い時間に屋敷に帰って来た。そこへ藤代がやって来て、紋の様子を伝えた。

「紋の様子がおかしい?」

「はい、ふらふらと酷く青い顔で帰って来て。それでも仕事をすると言うので、今日はもう休ませました。何かあったとしか思えませんわ。」

紋とは夕方コンビニの前で別れたが、そんな様子は微塵も見られなかった。嬉しそうにアイスを食べていた顔が浮かぶ。あの後、屋敷に帰るまでの道のりで何かがあったということか。藤代は心配そうな表情で未知弥を見つめている。

「わかった。後で様子を見に行く。」

未知弥がそう言うと、藤代は少しホッとしたように頭を下げて、部屋を出て行った。

 わずかな道のりで何があった?未知弥は少しの時間考えを巡らせたが、見当が付くはずもない。今まで静か過ぎる程何も起きずに来たが…。未知弥は少し嫌な予感を感じた。これ以上は考えていてもわからない。未知弥は紋の部屋に向かった。

 紋の部屋に近付くと、わずかにドアが開いており、細く光が漏れていた。未知弥はドアの前まで行き、ノックしようとしたが、その手が止まった。微かに誰かの声が聞こえて来たからだ。ー声?

 不可思議に思って、わずかに開いたドアから中を覗くと、柔らかな光に包まれた女が、紋を抱きしめているのが目に入った。その女は体がぼんやりと透け、ふわりと宙に浮いており、人ではないことはすぐにわかった。

あれは、精霊か?未知弥は言葉も出ず、暫くその光景を見つめていた。

 二人は未知弥には気付かず、

「紋様、大丈夫です。きっと、全て上手くいきます。大丈夫です。」

雪珠は、繰り返しそう言いながら紋の頭を撫で続けた。ようやく落ち着いて来たのか、紋は何度か小さく頷いている。

 未知弥は音を立てずにドアから離れると、真っ直ぐ部屋に戻った。

 頭の中でぐるぐると考えが巡る。あれは間違いなく精霊だった。あれを紋が召喚したと言うのだろうか?あれだけの存在感と、対話まで出来る能力を持った精霊を召喚出来ると言うのか?だとすれば、紋の霊力は相当のものと言える。やはり、能力を隠しているということか。そこまで考えて、また考えが止まる。どうしてもわからない。紋からは霊力が感じられないのだ。

 しかし、あれを見てしまった以上、霊力を持っていると考えるしかない。霊力を感じさせないことさえ、紋の能力だとしたら?あの雰囲気、態度の全ても意図して演じているのか?紋の底知れない闇を見るようだ。やはり「紫井森家の娘」であるのか。

そこまで考えて未知弥は頭を振った。それ以上、考えたくないと思った。


「未知弥様、おはようございます!」

翌朝、未知弥が部屋を出ると、両手いっぱいに花を抱えた紋が、昨日の様子が嘘のように元気に歩いて来るところだった。

「あぁ。すごい量だな。」

未知弥は少々面食らったが、紋の抱えている花を半分程持ってやった。

「あ、大丈夫です。一人で運べますから。」

紋は慌てて言った。

「今日は志穂乃様の祭壇の係なんです。」

鼻が好きだった志穂乃のために、祭壇はいつも美しい花で飾るよう言ったのは知可弥だったが、屋敷中の者がそれを喜んで続けていた。今日はその花の一部を入れ替える日だったため、紋は大量に花を抱えて祭壇の間に向かうところだった。

 扉を開けると自然光と花の香りが溢れ出てくる。この部屋に入ると、いつもすっと気持ちが良くなる気がした。

 紋は、志穂乃の写真の前でしっかりと頭を下げてから、祭壇の上の花を回収し、束ねた花の香りを嗅いでフッと笑った。

「まだキレイ。」

「自分の部屋に飾ったらいい。」

「いいんですか?」

「構わない。」

紋の顔が嬉しそうにパッと明るくなった。

 そういいう紋の様子を見ていると、未知弥はいつも、今まで自分の中に無かった優しい気持ちが芽生えるのを感じる。なぜだろうか。このふわっとした雰囲気も、何かくすぐったい気持ちにさせる。しかし、これが全て何かの企みの上にある演技かもしれないのだ。

 紋は新しい花を生け、数歩下がって全体のバランスを確認した。納得したように頷くと、じっと志穂乃の写真を眺めた。未知弥も、つられたように写真を見つめた。生きていた頃と同じように、優しく微笑んでいる美しい母親の写真を。

「どんな方だったのですか?」

暫くして、紋は写真を見つめたままで未知弥に訊ねた。未知弥は紋の方を見たが、紋は半分、心ここにあらずといった様子で写真を見つめていた。

「とにかく優しい人だった。俺にも、使用人にも平等で、いつも周囲を気遣っていた。ちょっとドジなところもあったし、ふわふわして子供みたいでもあったな。」

そこまで言って、

「そうだ、紋、お前みたいに。」

と続けかけて、未知弥はハッとした。そうだ、似ているのだ。ふんわりとした雰囲気、憎めない子供のようなところ。

「どうかされましたか?」

未知弥が黙ってしまったため、紋は不思議そうに顔を向けた。

「いや、何でもない。」

未知弥が答えると、紋は再度写真を見つめた。

「不思議なんです。お会いしたこともないのに、ここに来て志穂乃様の写真を見ると、懐かしい気持ちになるんです。」

紋は呟くようにそう言った。

紋と母親の間に何かがあるというのだろうか?未知弥は、昨日からの困惑が更に増していくのを感じた。

「あ!いけない、次の仕事に行かなくちゃ。」

紋は急に我に返ったようにだった。祭壇に汚れが無いか最終確認し、回収した花を大事そうに抱えた。

「そう、未知弥様、朝顔の芽が随分大きくなったんですよ、お時間があれば、また見てくださいね。」

「わかった、仕事に行く前に見るようにする。」

未知弥がそう言ってくれたので、紋の顔がまた嬉しそうにパッと明るくなった。

 紋は未知弥に花をも持ってくれたお礼を言うと、次の仕事に向かった。未知弥はそれを見送ると、頭の中を整理しようと部屋に戻った。紋と母親。何かを知っている様子の知可弥を思い出す。父親とはゆっくり話す必要があるのは確かなようだ。






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