第3話
たくさんの使用人の視線が紋に向けられていた。紋はその視線に昨日より緊張しながら最初の挨拶をした。
「は、初めまして。紫井森紋と申します。今日から、よよ、よろしくお願いいたします!」
そう幾分噛み気味で言って頭を深く下げると、使用人の中から声が上がった。
「うわ、どんな陰気なのが来るかと思ったら、鈍くさそうなの来たわね~。」
そう言ったのは、二十代半ば頃の背の高い女だった。高い位置で髪を一つに結んでいる。
「これ、紗喜。」
藤代が軽く睨んでも、紗喜は気にもしていないようだった。周りの使用人たちも「紗喜、よく言った。」と代弁者を称えるような顔をしている。皆同じことを思っていたのだ。紫井森家から娘が使用人とhしてやって来る。そのことで、一緒に働くことになる使用人たちはピリピリと気を張っていたのだが、やって来たのはどうもイメージとはだいぶ違う少女だ。皆、興味津々の様子で紋を見つめている。
「紗喜、お前が紋に色々教えてあげてちょうだい。紋、紗喜はこんな調子だけど面倒見がいいから安心してね。」
藤代に指名されて、紗喜は「はーい」と返事して、紋にひらひらと手を振った。
「紋はまだ高校生だから、皆よく面倒を見てあげるように。」
藤代が言い、皆揃って「はい!」と応じた。
「あんたも大変だね。ご令嬢だったわけでしょ、紫井森家の。」
手始めに玄関先の掃除を教えながら、紗喜は遠慮も無く色々と訊いてきた。特に悪気は無いようで、紋も嫌な気がしなかった。むしろ、変に気を使われるより気が楽に感じた。
「いえ、小さい頃から使用人になるよう教えられて育ったので。令嬢なんて、とんでもないです。」
「ふーん。でも、私が十八歳の頃なんて遊び呆けてたけどね。高校生で家を出て使用人になるなんて偉いわよ。」
紗喜はそう言ってニッと笑った。
「あの、言われた通り、本当に鈍くさくて。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします。」
「あははは!ごめん、ごめん。あんな言い方したけど、気にしないで。」
紗喜は大笑いして言った。
「皆心配していたのよ。あの紫井森家の娘なんてどんなのが来るんだろうって。でも、あんたを見て安心した。よろしくね。」
そう言って、紋に手を差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
紋は慣れないことに戸惑いながら手を握り返した。とても嬉しかった。
未知弥は白銀グループの中の一つの会社を任され、日々忙しく仕事をこなしていた。父親の知可弥は霊力者の一族や、時に国とのやり取りに追われているが、いずれそれは未知やの役割となる。未知弥も父に同席することもあるが、今はこの会社で経験を積んでいる。
それと同時に未知弥が注力しているのが、医療や薬の研究部署の充実だった。会社の中に研究部署を作り、優秀な人材を好待遇で集め、研究に専念出来るようにしていた。それは勿論、母、志穂乃が病で若くして他界したことによる。どんなに強い霊力を持とうと、病を相手には無力でしかないことを痛感させられた未知弥は、早くからこの部署の開設を父に提案していた。知可弥はそれを喜ばしく受け止め、未知弥の自由にさせてくれている。
「未知弥様、入りますよ。」
未知弥が膨大な量の書類に目を通していると、ノックをして快が入って来た。仕事に関する定時報告とスケジュールの確認だった。快がスラスラと報告していくのを、未知弥は目を閉じて聞いていた。特段変わったことはない。快は一旦口を閉じたが、
「ここからは別件ですが。」
と付け加えた上で報告を続けた。
「紫井森妙ですが、特に動きはありません。紋と一緒に姿を見せるかと思ったのですがそれもなく、静か過ぎて不気味ですので、警戒を続けます。ただ、一つ気になる話が…。」
「何だ?」
未知弥は目を開けて快を見上げた。
「紋の兄、
「紫井森保か。」
未知弥は宙を仰いだ。保は母の妙と一緒に居るところを何度となく見ている。紫井森家らしい真っ黒な髪が肩の上で切り揃えられ、さらりと揺れていた。いつも表情は暗く、影を帯びていた。静かに母の後ろに付いている印象だが、母親同様に白銀家への恨みが強く、一族や母親への忠誠心が固いことは聞いていた。その保がこのタイミングで何か動きを見せているのは気にかかる。
「引き続き、警戒を続けます。」
「ああ、頼んだ。」
「それから、紋の学校の手続きを済ませました。制服も急がせたので、すぐ屋敷に届くはずです。」
「そうか、喜ぶだろう。」
学校に行けるとわかり、涙を流していた紋の姿が思い浮かんだ。
「屋敷からあまり遠くない一般校にしたのですが、制服が可愛いんですよ。似合うだろうな~。」
快が陽気に言い、未知弥は呆れた顔をした。
「お前はこの前から楽しそうだな。」
すると、快はニヤニヤして未知弥を見た。
「違いますよ。未知弥様が楽しみかなと思ったんですよ。」
「?」
未知弥が怪訝な顔をすると、快はますます楽しそうにニヤニヤした。
「報告は以上です。」
そう言って部屋を出ようとして、何か思い出したように振り返り、未知弥に一通の手紙を渡した。
「この前、医療器具を提供した小児病棟の子供からの手紙です。」
未知弥はそれを黙って受け取り、すぐに開封して目を通した。拙い字でお礼の言葉が書かれていた。一生懸命想いを伝えようとしたことがよくわかる手紙だった。実際に病棟で対面もしたので、未知弥の顔らしい絵も描かれており、それを見て未知弥はフッと微笑んだ。それと一緒に、小さな黒い粒が入ったビニール袋が入っており、「あさがおのたね」と書いてある。未知弥はそれを手の平に乗せ、まじまじと見つめた。
「花を育てると言っていたな。」
すぐに紋の顔が思い浮かび、帰宅したら渡してみようと思った。
紫井森家の屋敷は白銀家から車で一時間程の郊外にあり、白銀家程ではないにしろ、かなりの広大な敷地を有していた。こんもりと木々が生い茂り、全体が森のように見える。常に静寂に包まれ、陰の気が漂っていた。
今日はその屋敷の広間に十人程が集まり、一族での話し合いが行われていた。
「ついに、紋が白銀家に仕え始めた。ここからが、始まりだ。」
紋の父親、
「紋には全てを教え込んだ。大切なことは、焦らないことだ。」
隣に座っていた妙が俯き加減でそう言った。目元は見えないが、口元には笑みを湛えている。
「しかし、あの子が本当に上手くやり遂げられるだろうか?」
親族の一人が不安を隠さず言うと、そこに居た数名の者も同調した。
「本当に、あの子に白銀家を滅ぼすことなどできるのか?」
信じ難いと言わんばかりに、先程とは別のが言った。俯いていた妙はふいと顔を上げた。前髪の隙間から、黒々とした瞳が美しく怪しく光っていた。その目を見て、男は怯んだ。
「あの子は特別だ。普段隠しているが、霊力は白銀知可弥と同様、いや、それ以上かもしれぬ。」
広間が静まり返った。あのふわふわした頼りない少女が、それ程の霊力を隠し持っているという、にわかには信じ難い話に、皆黙るしか出来なかった。妙は自信に満ちた声で話を続けた。
「能力の高さも群を抜いている。幼い頃から、その役目を伝え厳しく教え込んで来たが、あの子は見事に全て身に付けた。」
「あのあの文献の中の術もでありましょうか…?」
また別の一人が恐る恐る訊いた。
「ああ、そうだ。あの中の術を使えば、白銀家を滅ぼすことなど容易いことだ。」
妙は視線を動かす事もなく言った。
「しかし、急いては事を仕損ずる。まずは、白銀家にじっくりと馴染むことだ。時間を掛けて馴染み、油断させたところを狙う。」
妙は自信を漲らせた口調で言い切るが、まだ多くの者が不安を隠せないようだった。それだけ白銀家が強大であり、またそれに対し、あのフワフワした紋が頼りになるようには見えなかった。そこに居る者たちは、妙の話が夢物語のように聞こえた。
その時、それまで沈黙して話を聞いていた青年が口を開いた。
「母さん、私も正直に言って、紋を信用することができません。あまりにも頼りない。」
紋の兄の保だった。何人かが、同調するように頷いた。保は更に言った。
「紋一人に全て任せるのは不安です。」
妙は笑みの消えた表情で保を見やった。
「それでは保、お前に何ができる?あれを侮るな。お前とは違う。あの子は特別だ。」
そう言われた保は言葉に詰まり、下を向いた。膝の上で握り締めた手が微かに震えている。ずっと言われ続けてきた言葉だ。紋は特別であり、お前はただの凡人だと。
「とにかく、私は全てをこの計画に注いできた。紋は必ずやる。計画は始まったばかりだ。」
妙はそう言って立ち上がると、音も無く部屋を出た。残された者たちは言葉も無く妙を見送った。ただ一人、保だけが歯をくいしばり、手を震わせ続けていた。
未知弥は帰宅すると真っ直ぐ使用人棟の方へ向かった。仕事で遅くなったので、使用人たちも、もう仕事を終え急速hしているであろう時間だった。
廊下の角を曲がった時、ドンと誰かとぶつかった。
「すまない。」
「ひゃあ、す、すみません。」
同時に言って、未知弥は相手が紋だとすぐ気付いた。紋も未知弥だと気が付いて、慌てて謝り直した。
「も、申し訳ありません。」
「いや、大丈夫だ。」
そう言われても、紋はソワソワしているようだった。よく見ると、使用人用の淡い花柄の浴衣を着ている。
「あの、お風呂を頂いてきました。未知弥様は、今お帰りですか?」
先に休むのが申し訳ないと思ったのか、紋は遠慮がちに訊いた。
「ああ、少し遅くなった。初日は疲れたか?」
「いえ、皆さん良くしてくださって。今日は紗喜さんに色々と教えて頂きました。」
そう答えながら、紋はどうして未知弥がこんな所に居るのだろうと不思議に思った。
それを感じ取ったのか、未知弥はふいと目を逸らし、スーツの胸ポケットに入れていた朝顔の種を取り出して紋に差し出した。
「花を育てるのが好きだと言っていただろう。これをやるから、育ててみるといい。」
紋は驚いた顔で袋を受け取り、種をじっと見つめた後、未知弥を見上げた。
「頂いていいのですか?」
「ああ、お前にやる。」
そう言われて、紋の顔が嬉しそうにパッと輝いた。人から何かもらったのはどのくらいぶりだろうか?いや、そんなことがあっただろうか?誕生日すら何か贈られた記憶が無かった。
「ありがとうございます。」
紋はとても幸せな気分で、柔らかな笑顔でそう言った。目元に少し涙が滲んでいる。
可愛いー。
不覚にも未知弥はそう思ってしまい、動揺を隠せなかった。しかし、紋は嬉しさでそんなことには気付かず、
「どこで育てよう。あ、鉢や土はどうしたらいいかしら。」
と、独り言を言ってあれこれ考えている。
「玄生に頼むといい。明日の朝、一緒に訊いてやろう。」
未知弥は動揺を抑えて言った。
「わぁ、いいんですか?ありがとうございます。」
さらに紋の顔が輝いた。
「じゃあ、明日の朝、玄関前で。ゆっくり休め。」
そう言って未知弥は、自然と紋の頭をポンポンと撫でた後、背を向けて自分の部屋へと向かった。紋は、一度に色々なことが起きたので頭が混乱し、ただただ、顔を赤くしてその場に立ちすくんでいた。
部屋に戻った道弥はドサッとソファに深く座り込んだ。紋を前にすると調子が狂う。髪をくしゃくしゃとさせ、溜息が出た。
これまで、あまり女性に興味を持つことが無かった。勿論、幼い頃から未知弥の美貌に恋心を抱く女子は数知れずいた。更には霊力、財力もあり、隙あらばと近付いてくる女子は後を絶たない。しかし、未知弥はその誰に対しても特別関心を持つことが無かった。大人になり、何度か関係を持つことはあったが、長く続くことはなかった。特別な愛情を誰かに抱くことが無く、こちらから関わりたいと思ったことも無い。最近は仕事が忙しいことを理由に、誰も寄せ付けなかった。
それなのに、紋だけが違った。何故か感情を揺さぶられる。涙や笑顔に愛しさすら感じて、自然と頭を撫でてしまう。
おかしい。
正直、未知弥は戸惑っていた。相手は警戒すべき紫井森家の娘であり、気が抜けない相手だ。さらに、ニヤニヤしていた快の顔も浮かんだ。
「厄介だな…。」
ネクタイを外しながら、未知弥は呟いた。
朝、玄生は毎日の日課で、園芸用品をしまってある納屋の戸を開けた。園芸用の土や肥料、植木鉢やプランターなどが雑多に並んでいる。
次に植えようと用意していた花の苗を外に出そうとしていると、
「あの…、おはようございます。」
背後で控えめな声がした。声ですぐに紋だと気付き振り向いた玄生は、驚きの余り、持っていた苗を地面に落としそうになった。紋の後ろに未知弥が立っていたからだ。
「ど、どうされました、未知弥様。」
「頼みごとがあってな。」
そう言って、未知弥は紋の肩をポンと叩いた。微かに笑みを浮かべて。
「あの、未知弥様に朝顔の種を頂いたので一緒に育てたいのですが、植木鉢と土を分けて頂けないでしょうか。」
紋が遠慮がちに言うと、玄生は一瞬ポカンとした後、すぐに答えた。
「ああ、もちろんだ。ちょっと待っておくれ。調度いい鉢があったはずだ。」
玄生はいそいそと納屋の中に入り鉢を探したが、内心かなり動揺していた。未知弥がこれまで植物に関心を持ったことなど無いし、まして誰かと連れ立って、こんなところに楽しそうにやって来るなど信じ難いことだった。何が起きているのだろうか?と思う程だ。
玄生は、程なくして青い花柄の陶器の鉢を手に持って出て来た。その中に、外に用意していた土を入れ、紋に手渡してくれた。
「これでどうかね。芽が出て、支柱が必要になったらまた取りに来るといい。用意しておくよ。」
「ありがとうございます。」
紋の顔がパッと明るくなり、柔らかな笑顔が広がった。
「良かったな。」
未知弥も優しく微笑んだ。
「玄生さん、ありがとうございます。」
紋はもう一度お礼を言うと、未知弥と並んで屋敷の方へ戻っていった。玄生は二人の姿が見えなくなるまで、その光景を見つめていた。
紋と未知弥は、玄関近くに鉢を置くことに決めた。そこなら、お互い毎朝確認することが出来るからだった。
二人で種を蒔き、土を被せると、紋が、
「元気に育ってね。」
と声を掛けてから、水をかけた。
「楽しみですね。」
紋は本当にワクワクしているようだった。
「早く芽が出るといいな。俺も出勤前に見るようにする、」
未知弥も楽しそうに言った。こんなことで楽しさを感じるのは子供の頃以来だろうか?
「何色の花が咲くか楽しみですね。」
紋が言うと、
「そうだな。楽しみにしながら大切に育てよう。」
未知弥がそう言い、二人で微笑んだ。
それから、紋は徐々に、しかし確実に、使用人たちに馴染んでいった。紋が一生懸命に仕事に取り組む様子や、素直な性格がすぐに受け入れられた。ドジなところや、ちょっと世間知らずなところも、いじると反応が面白く、皆に可愛がられている。勿論、藤代や紗喜のサポートのお陰も十分にあった。特に、紗喜は藤代の言う通り本当に面倒見が良く、他の使用人からも慕われており、紋を積極的に皆と関わらせて馴染みやすいようにしてくれていた。人との関係作りに不慣れな紋は、戸惑うことも多いが、有り難いと感謝しながら、精一杯馴染もうと努力した。
夜、未知弥と快が連れ立って屋敷に帰ると、使用人たちが集まって何やら楽しそうにしている。未知弥たちが不思議そうに見ていると、藤代が気付いて手招きした。
「おかえりなさいませ。ちょっとこちらへ来てください。」
「楽しそうだな。」
「紋の制服が届いたので、お披露目会をしようということになりまして。紋が制服を着るのが初めてだと言うので、皆面白がってしまって。」
藤代はクスクスと可笑しそうに笑って言った。
「はーい、みんな、注目!」
紗喜の声が響き、皆そちらを向く。使用人の休憩室のドアが開き、紗喜の後ろから、恥ずかしそうに紋が出て来た。
「あら、可愛い~。」
「よく似合っているわ。」
使用人から声が上がる。紺色のブレザーに、濃い緑を基調にしたチェックのスカート、首元にワインレッドのリボンが結ばれた制服が、華奢な紋にとても似合っていた。
「可愛い~!」
一際大声でいったのは快だった。
「やっぱり、紋に似合うと思ったんだよ、ここの制服。可愛いな~。」
そう言って、紋に抱き付きそうになるのを、サッと紗喜が紋を引っ張ってかわした。
「紋、すごく可愛いわよ。」
「す、少しスカートが短くないでしょうか?」
紋はスカートの裾を気にするように触っていたが、紗喜が笑って、
「大丈夫、この制服はこれくらいが可愛いのよ。あぁ、私も着たいわ~。」
そう言うと、それを聞いた快が、
「ははは、勘弁してくれよ。」
と言い、紗喜にど突かれている。
「紋、良かったわね。未知弥様と快が手続きしてくれたのよ。」
藤代も我が子を愛でるように紋を眺めて言った。紋は皆に褒められて、どう反応していいかわからずオロオロしていたが、
「未知弥様、快様、ありがとうございます。」
と慌てて頭を下げてお礼を言った。
「いや、手続きは快がしてくれた。良かったな。」
未知弥はなるべくあっさりと、それだけ言った。隣で快がニヤニヤしていたからだ。
「どういたしまして。こんなに可愛いなら、仕事をした甲斐があったってもんですね、未知弥様。」
そう言われて、未知弥は快を軽く睨んだ。
その夜、紋は眠れず庭に面した縁側にぼんやりと座っていた。皆寝静まったように音も無く、月が静かに庭を照らしている。
その時、不意に頭上から声がした。
「眠れないのか?」
未知弥だった。足音も気配も感じなかったので、紋は飛び上がる程驚いた。
「は、はい。寝付けなくて。ここは子持ちが良かったので…。」
未知弥は紋の隣に胡坐をかいて座った。
「未知弥様は、お休みじゃないのですか?」
「ああ、そろそろ寝ようと思って、たまたま窓の外を見たらお前が見えた。」
紋は何と答えていいかわからず、もじもじして下を向いた。初めて会ったあの宴の夜から、未知弥に対する想いは変わらず、思いがけず二人きりになったので緊張が強くなった。
「何か心配事か?」
未知弥が訊いた。紋はハッとして顔を上げた。それを気にしてくれたのだろうか?紋は視線を下に戻すと、おずおずと話した。
「あの、学校がはじめてで、嬉しいのと上手く馴染めるのか心配なのとで、頭がいっぱいになってしまって…。」
ずっと紫井森家の敷地から出ることなく過ごしてきたのだから無理もない。学校という、誰もが当たり前に通う場所が、紋にとっては未知の世界なのだ。白銀家に来ることも相当緊張しただろう。そう思うと、このか細い少女がとても不憫に思えた。
「お前なら大丈夫だろう。ここ数日の屋敷での様子を見ていればわかる。すぐ友だちもできそうだ。」
未知弥は穏やかに言った。
「そ、そうでしょうか。でも、未知弥様にそう言ってもらえると、大丈夫な気がします。」
紋もそう言って、漸く笑顔を見せた。
「学校に行かず、紫井森家の中で、どんな風に過ごしていたんだ?」
未知弥は紋に訊いた。問いただすと言うより、単純に疑問だった。紋は少し黙ってから話し出した。
「勉強は専属の教師が数人いたのでその人たちから教わりました。使用人として困らないよう必要なことを、紫井森家の使用人から教わりました。それから、紫井森家の娘としての振る舞い、礼儀作法なども。」
「外に出ることは?」
その質問に、紋は少し目を伏せた。
「未知弥様はよくおわかりだと思いますが、私は紫井森家の人間とは思えない容姿です。皆が、外に出したがらなかったのです。だから、屋敷の中や、敷地内の森などで遊んでいました。」
「すまない。嫌なことを訊いたな。」
「いえ、紗喜さんにも言ったのですが、気を遣わず訊いてくださった方が嬉しいです。」
紋はニコッと笑うと、話を続けた。
「それ以外は、家の者は皆良くしてくれていましたから。」
未知弥は数秒間黙って紋を見つめ、訊いた。
「本当か?母親も、父親や兄も、本当にお前を大切にしてくれたのか?」
一瞬、紋の肩がピクッと揺れたようだった。しかし、次の瞬間にはしっかりとした笑顔で言った。
「ええ、勿論です。」
嘘をついている。未知弥は直感的にそう思った。しっかりとした笑顔が無理な作り笑いに見える。しかし、それ以上追及するのは酷なことに思われた。
「そうか。変なことを訊いてすまなかった。そろそろ寝よう、明日に響くぞ。」
「はい、そうですね。」
二人は立ち上がってそれぞれの部屋の方に向かおうとしたが、
「未知弥様、ありがとうございます。」
紋が振り返ってお礼を言った。
「何がだ?」
未知弥も振り返って、不思議そうに言った。
「学校、大丈夫だと言ってくださって、安心しました。頑張ります。」
紋は笑顔でガッツポーズをして見せた。
「それは良かった。良く休め。」
未知弥はフッと笑って、背を向けると歩き出した。
「おやすみさんさいませ。」
紋もそう言って、改めて自分の部屋に向かった。
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