第2話
白銀家は国内で有数の、強力な霊力と財力を持つ一族だ。殊に霊力の強さにおいては他に類を見ない。霊力を持つ全ての一族を統べる存在であり、財力の大きさも併せて、国からも重用されている。
その日、白銀家の屋敷は静かな緊張に包まれていた。それは、ある一人の少女を使用人として迎え入れるためだった。しかし、ただの少女ではない。そのことが屋敷の中に緊張感を漂わせていた。
「
そう呟いて、資料を机に置く。溜息が出るような感覚がした。冷静沈着で、普段表情をを崩すこともほとんどない未知弥には珍しいことだった。
紫井森家は白銀家に仕える、強力な霊力を持った上位の一族の一つだった。代々女子が強い霊力を持って生まれえる家系で、一族を統べ、権限を持つのは全て女性であった。その容姿も遺伝が強く、皆、濡れたような黒髪で、それを長く真っ直ぐに伸ばしていた。前髪は顔の半分程を覆い隠し、常に表情が読みにくく暗い印象を与えていた。何を考えているかわからない不気味さ、陰気さを纏い、他の一族の中には関わりを持ちたがらず距離を置く家も少なくなかった。
その紫井森家の一人娘を今日、使用人として迎え入れるのだ。屋敷内に緊張感が漂うのも無理はない。特に、一緒に働くことになる使用人たちからは、以前から不安の声が上がっていた。あの陰の気の強い紫井森家の令嬢と一緒に働くなど、到底うまくやっていける気がしない。令嬢として育てられたのであれば、どんなに気位の高い娘がやって来るのか。そう考える使用人たちからピリピリとした空気がうまれているのは未知弥も把握していた。
紫井森家が、一族を統べる力を持った大切な一人娘を白銀家に差し出すのには理由があった。それは二十年程前に遡る。紫井森家が白銀家に対し、謀反を企てようとしたのである。正確には、紫井森家で最も力を持つ存在である、紋の
白銀家はすぐに妙を捕らえようとしたが、計画が明るみに出るや否や、詠は即座に自害したのだった。
厳罰として紫井森家の解体が考えられたが、紫井森家の持つ力を惜しむ声が聞かれたことと、詠一人の暴走であったこともあり、一族を即刻解体することはやめ、一つの約束をした。それが、「次に生まれる娘が十八歳になる年に、白銀家に使用人として差し出すこと」というものだった。それは紫井森家の力を大きく削ぐことになる。紫井森家はもちろん反発を示した。最愛の妹である詠が自害したことで、妙の白銀家に対する恨みは募るばかりになっていた。その上、一族にとって最も大事な娘を差し出すなど、到底うけ入れられるはずがなかった。
しかし、それからしばらくして、紫井森家の中でどんな心境、考えの変化があったのかはわからないが、即時に一族を解体されるよりはと、紫井森家がその要求を呑んだのだった。
そして、その「娘が十八歳になる年」が今年であり、今日が正に白銀家に差し出される日だった。
どんな娘が来るのか。あの一族の娘であれば、やはり不気味な影を帯びたような娘だろう。紫井森家で大事な令嬢として育てられたのであれば、本当に使用人という立場など受け入れられるのか。そして、本当に信用して仕えさせられるのか…。
懸念材料は様々ある。紫井森家には定期的に娘の情報を提出するよう命じていたが、紫井森家側が頑なに娘の姿を見せることを拒み、肝心な娘本人がどんな人物なのか、皆想像もつかないでいた。
さらには、一つ大きな「問題点」があった。定期報告の中で、娘に「霊力が出現しなかった」という報告があったのだ。それが事実であれば、当初の、紫井森家の力を削ぐという目的が霞んでくる。無論その情報を鵜呑みにするわけではないし、むしろ何かの企みを感じさせる。あの紫井森妙が白銀家に対する恨みを晴らそうと計画していてもおかしくない。
未知弥は何度となくこの件に関しては父と話し合いを重ね、この約束の意義や必要性を問うこともあったし、率直に危険性と中止を訴えたこともある。しかし、どういうわけか、父の知可弥はやんわりと笑って頷くばかりだった。
「さて、どうなるか。」
未知弥は天井を仰いだ。その時、ドアをノックする音がした。
「未知弥様、お時間です。紫井森の娘も到着したようです。」
秘書がそう伝えた。
「わかった。」
未知弥は短く答えて立ち上がると、ドアに向かった。
「何かの間違いではないのか?」
大広間には、そこに居る全ての者がそう考えているとしか思えない、酷く困惑した空気が漂っていた。それは未知弥さえも含まれた。
畳敷きの大広間には、白銀家の親族の中でも要となる者たちが十数名集まっていた。中央を向くように二列に分かれて並び座っていたが、似な隣の者と何かひそひそと囁き合っている。
中央壇上に知可弥が座り、そのわきに未知弥が座った。その知可弥の正面、親族たちにはさまれるように座っているのが、紫井森家の一人娘、紋だった。藍色の地味な着物を着て俯く姿は小さくか細かった。
皆が囁くのを止めないでいる理由は、紋のその容姿だった。髪の色は淡い茶色で、ふんわりと肩の上でカールしている。前髪は短く、クリッとした大きな丸い瞳が純粋そうに輝き、全身からとても愛らしい雰囲気を醸し出していた。
「これが紫井森家の娘なのか?」
そこに居る誰もがそう思っていた。紫井森家の女性像とは似ても似つかない。紋の母親である紫井森妙は真っ黒な髪を腰まで伸ばし、前髪は表情を悟らせまいとするかのように目を覆い隠していた。常に影を背負ったような雰囲気を持ち、人を寄せ付けない不気味さがあった。あまりにも対照的な少女を前に、皆が困惑していた。
普段驚くことなどほぼ無い未知弥も、さすがに意表を突かれた気分だ。しかし、隣の父を見ると、何故か、ほのかに嬉しさを滲ませたような表情で紋を見つめている。それが何を意味しているのか、未知弥は父を訝しがるように見つめた。
「顔を上げなさい。」
穏やかな声で知可弥が言った。紋は緊張していたようで、肩をピクッとさせて顔を上げた。銀色の美しい瞳と目が合った。
「し、紫井森紋と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
そうして、また深々と頭を下げてしまった紋を、知可弥は可笑しそうに見つめた。
「紋、顔を上げなさい。」
紋はそう言われて、慌てたように顔を上げた。頬がほんのり赤くなっている。
「よく来たね。お前が生まれる前の一族間の約束のために、この家に使用人として仕えること、受け入れられないかもしれない。だが、私達はお前を冷遇するつもりはない。ここがお前の第二の家となるよ、少しずつ慣れていって欲しいと思っている。」
紋は知可弥の目を真っ直ぐ見て言葉を聞いていたが、少し目を伏せ、
「いえ、私は生まれた時からこの約束を知らされ、そのつもりで教育を受けて参りました。至らないところが多々あると思いますが、しっかりとお仕えしたいと思っております。」
そう言って、再び頭を下げた。
その姿を見て、想像していた「紫井森家の娘」とのあまりの違いに、皆言葉も出ない様子だった。
未知弥は、紋が一見ふわふわしているようで、内面に芯が通っているように感じた。それに、どこかあのふわふわした柔らかな雰囲気に、懐かしさのようなものを感じるのは何故だろうか?
未知弥がその答えを出せないでいるままに、知可弥が話を進めた。
「それから、紋、お前は霊力が出現しなかったと報告を受けているが、それは本当か。」
皆が一斉に、紋に刺すように強い視線を向けた。
「はい、その通りでございます。私は紫井森家の娘でありながら、霊力を持ちません。」
皆その報告を受けてはいたが、改めて紋の口から事実を聞き、落胆を隠せない様子を見せた。紋の表情が翳るのがわかった。
さあ、どちらか。未知弥は目を離すことなく紋が話す様子を見つめていた。霊力を持たないのは真実か、否か。未知弥はその言葉を信用してはいなかった。しかし、事実、紋からは霊力が全く感じられない。少しでも霊力を持つ者同士であれば、近くに居ればお互いの霊力を感じるものだ。それに、嘘を言っているようにも見えなかった。そうは言っても紫井森家の娘だ。あの一族が何を企んでいてもおかしくない。いや、むしろ企んでいないはずがない。
「わかった。」
知可弥は静かにそう言うと、大広間の全体を見回した。
「今日から紋をこの家に使用人として迎え入れる。皆、よくしてやるように。」
大広間に居た皆が、目を閉じて一礼することで、その言葉を受け入れた。
「玄生、藤代、前へ。」
知可弥は後方に座って居た六十代くらいの男女を呼んだ。二人は一礼すると前に移動し、紋の方を向いて座り直した。
「使用人頭の玄生と、女中頭の藤代だ。紋、お前の面倒は二人が見る。親だと思って何でも相談するように。」
紹介された玄生と藤代はにっこりと優しく紋に笑いかけた。
「心細いでしょう。遠慮なく頼ってちょうだいね。」
「は、はい。ありがとうございます。」
紋はまた頭を深く下げた。
「それから。」
知可弥はそう言って、今度は未知弥を見やった。
「私の息子の未知弥だ。私は他の一族や国の関係者とのやり取りで手一杯でね。この屋敷のことは、次期当主である未知弥に全て任せている。困ったことがあれば頼って欲しい。」
紋は、今日初めて未知弥の方を見た。見つめるのも緊張するような端正な顔は無表情なまま、やはり美しい銀色の瞳が真っ直ぐ紋を見つめていた。
思わず紋は目を逸らしてしまった。美しさに対する緊張と、十年前に抱いた想いと…。それを見て、知可弥が可笑しそうに笑った。
「紋、大丈夫だ。無愛想だが悪いやつじゃない。」
その言葉に玄生と藤代がフッと吹き出し、未知弥は面白くなさそうにそっぽを向いた。
「ここが今日から紋の部屋よ。」
そう言って通された部屋は十畳程の広さがあり、シンプルだがかなり質の良い家具が並べられていた。使用人としては十分過ぎるように感じられた。紋は室内をぐるりと見回し、感心しきったような顔をした。
「足りないものがあれば言ってちょうだい。少しずつ居心地の良い部屋にしていきましょうね。」
藤代は紋の様子を見て、優しくそう言った。
「いえ、もう、十分過ぎるくらいです。」
紋は両手をパタパタと振りながら言った。
部屋の入口に小さな段ボール箱が二つ置かれている。それが紫井森家から持ち込んだわずかな荷物だった。
「ここに掛かっている着物が使用人の着る着物よ。明日、これを着て皆に挨拶しましょう。今日は自分の荷物を片付けて、明日からに備えたらいいわ。」
「はい、そうします。」
「後で未知弥様が屋敷の中を案内してくださるから、少しずつ屋敷内のことも覚えていきましょうね。」
藤代はさらりと言ったが、紋はそれを聞いて慌てふためいた。
「えっ…?そんな、未知弥様がですか?使用人の私にはそんな必要は…。」
恐れ多い上に、二人きりの緊張感に耐えられる自信がない。紋は逃げ出したい気持ちになった。紋の表情からそれを察した藤代は、カラカラと笑って言った。
「大丈夫、未知弥様はああ見えて気さくで優しい方よ。使用人とも分け隔てなく接するの。知可弥さまの方針なのだけどね。あなたに早くこの屋敷に慣れて欲しいのよ。」
紋は、それを聞いて知可弥の優しそうな表情を思い浮かべた。全て包み込むような眼差しと、穏やかな口調も。少なからず緊張を抱えて白銀家へやって来た紋だったが、知可弥の柔らかい物腰に安堵を覚えたのは確かだった。
簡単な説明を終えて部屋を出ようとした藤代は、思い出したように紋に尋ねた。
「そういえば、学校はどこに通っているの?学園?ここからの通い方はわかるかしら?」
「え…。学校ですか…?」
紋は、戸惑いを隠せない顔でそう答えた。
「どう思った?」
一族の者が皆帰った後、未知弥は知可弥の部屋に呼ばれていた。向き合って座り、知可弥の第一声はそれだった。
未知弥は暫く空を見つめ、考えを巡らせているようだった。
「正直なところは、驚きましたね。本当にあれが紫井森の娘なのかと。とても血が繋がっているようには見えなかった。」
未知弥はそう言いながら、紋の容姿を思い返していた。小柄で華奢な体に、ふんわりとした柔らかな髪。瞳は純粋さをそのままつたえるように優しく潤んでいた。母親の紫井森妙とは何度となく顔を合わせていたが、まるで似つかない。醸し出す雰囲気が違い過ぎている。
「霊力を持たないというのも、信じ難いですね。確かに、あの娘本人からは全く霊力を感じない。けれど、紫井森家のことだ、何を企んでいてもおかしくない。」
霊力を感じない以上は、報告が正しいとするしかないのだろうが、しかし、紫井森家の持つ不気味さや、妙の白銀家に対する恨みを思うと、未知弥は警戒心を解く気にはならなかった。
さらに怪しむべき点はいくつもある。長らく紋を頑なに表に出さなかったこともその一つだった。それに、今日に関しても、予定通りに紋を寄越したが、一族にとって大事な一人娘を差し出すというのに、紫井森家からは付き添いどころか一言の言伝もない。あの一族が何を考えているのかあまりにも見えて来ない。
しかし、今日、紋の容姿を見て納得したこともある。あの、同族とは思えない容姿のためにひた隠しにしていたのはあり得ることだ。さらに霊力が無いというのが事実だとすれば、紫井森家にとっては大事にする理由など無いと、あの一族なら考えそうである。それは、紋にとってあまりにも酷な気がするが…。未知弥はいくら考えても推測でしかなく、考えが堂々巡りするばかりだ。
「お前の考えはもっともだ。私も正直なところ、見えないことが多くて迷いがある。警戒は怠らないで欲しい。」
未知弥は、正面から父を見つめ、「珍しいな」と思った。白銀家を常に穏やかに統率している知可弥が、「迷いがある」などと言うのを初めて聞いた。それだけに、事の難しさが窺える。何も起こらなければいいが。未知弥はそう思った。
知可弥は暫く組んだ手を見つめていたが、その手を解いて、目線を未知弥に向けた。
「しかし、紋自身に罪はない。不安も大きいだろう。藤代たちが付いているが、お前も目をやっていてくれ。」
「もちろん。ある意味、目を離せないですからね。」
未知弥はにこりともせずにそう言い、知可弥はそれを見て苦笑した。
ふと、未知弥は思い出したように言った。
「そうだ、何故でしょうね、あの娘を見た時、どこか懐かしい感じがしたのです。あれは何だろう。」
それを聞いて、知可弥はまじまじと未知弥の目を見つめると、優しい笑みを浮かべた。その笑みの意味が何なのか?未知弥は父が何かまだ自分に伝えていないことがあるのではないかと感じた。
それを尋ねようとした時、ドアをノックする音がした。
「入れ。」
知可弥が言い、ドアが開いて入って来たのは藤代だった。
「お話のところ申し訳ありません。紋のことで少し…。」
知可弥は藤代に座るよう勧め、話を聞いた。
「紋ですが、高校に通っていないと言うのです。母親から必要がないと言われていたようで。少し話をしたのですが、それどころか小中学校も通っていなかったようです。あれだけの家柄の娘があの控えめな様子ですし、一体、紫井森家はあの子をどのように育ててきたのか、甚だ疑問です。」
それを聞いて、知可弥も未知弥も言葉を失った。言われてみれば、大抵の霊力を持つ一族の子供は皆、決まって同じ学園に通うのが常だったが、紋がそこに通っている報告は確かに無かった。一般的な学校にも通わせていないとなれば、紫井森家は紋をずっと屋敷の中で過ごさせていたのだろうか?
「紋には兄がいるが、確か学園に通っていたはずだ。当然、紋もそうしていると思っていたが…。」
さすがに知可弥もそこまでは気にしていなかったよおうだ。紋には、どうにも見えない部分がまだ多くあるようだ。
「いや、いくら使用人とhして仕えるとはいえ、普通に学校には通わせてやりたい。しかし、この様子だと学園よりは一般の高校の方が良いだろう。すぐに学校を選び、手続きを進めさせよう。」
「わかりました。快とすぐに取り掛かります。」
珍しく溜息をついた父を見て、未知弥はすぐにそう言って立ち上がった。
ノックの音がしたので紋がドアを開けると、未知弥と、その後ろにもう一人西南が笑顔で立っていた。未知弥より少し背が高く、金色に近い色素の薄いに大きな瞳が穏やかに輝き、やはり端正な顔をしている。
「屋敷の中を案内するが、大丈夫か?」
未知弥にそう訊かれ、紋は緊張で上手く答えられず、こくこくと頷いた。それを見ていた青年が可笑しそうに笑った。
「初めまして、紋ちゃん。可愛いなぁ。俺は未知弥様の秘書をしている快です。よろしく。」
そう言った後も「可愛い」を連呼し、紋の頭をポンポンと撫でるので、紋は心の中で「ヒーッ!」と叫び、ひたすらオロオロしていた。
「お前は本当に馴れ馴れしいな。」
苦々しい顔で未知弥が言っても、
「打ち解け易いと言ってください。」
快は一向に気にする様子はない。
「相手が怯えているのに打ち解け易いはないだろ。」
未知弥は呆れたように言った。
「紋ちゃんは高校三年生だったね。俺の弟も齢が同じだから、よろしくね。」
快がそう言うのを聞いて、未知弥は自然と学校の話を始められた。恐らく、快はわかっていてこの会話を出したに違いなく、未知弥は快のそういった抜け目のなさに信頼を寄せている。
「紋、お前は母親に学校に行く必要はないと言われていたようだが、白銀家としてはお前を学校に通わせたいと思っている。お前自身はどう思う?学校に行きたいか?」
未知弥は真っ直ぐに紋の目を見て言った。
紋は衝撃を受けたように目を見開いて固まっていたが、やがて震えるように声を絞り出した。
「私は、学校に行って、いいのでしょうか…。」
その言葉には、未知弥も快も、心打たれるものがあった。
「もちろんだ。お前にはその権利がある。」
未知弥が優しく、しかしきっぱりと言うと、紋は肩を震わせ、その瞳から大粒の涙がこぼれた。
「ありが…とう、ございます…。」
肩を震わせながら深々と頭を下げた紋は、とてもか弱く小さく、未知弥は即座に抱き締めてやりたいような愛しさを感じた。そして同時に、そんな感情を抱いたことに酷く動揺した。自分が他者に対し愛しさを感じることなど、これまでに一度たりとも無かったからだ。
未知弥は動揺を振り払うように紋から目を逸らし、
「快、手続きを進めてくれ。落ち着いたら屋敷の案内をする。」
そう言って紋の部屋を出た。
「さっきは取り乱して申し訳ありませんでした。」
紋は未知弥の少し後ろを歩きながら謝った。
「気にすることはない。」
未知弥は短く答えただけだったので、紋もそれ以上は何も言わず黙って歩いた。
広い屋敷だ。一体どれだけの敷地を有しているのかわからない。部屋の数も膨大で、また廊下も入り組んでおり、自分が今どこにいるのかわからなくなるようだった。今日案内してもらっても、一人ではすぐに迷ってしまうに違いない。
未知弥は紋が使用人として出入りする場所から大まかに屋敷の中を案内してくれた。大広間や食堂に厨房、浴室、倉庫など。
一階を一通り説明すると、次は二階へ向かった。階段を上ると大きな窓が並び、外の消し買いが遠くまで見渡せた。どこまでも木々が生い茂っており、どこまでが敷地かわからなかった。
紋が窓の外に視線を向けていることに気付いた未知弥は足を止め、自分も窓の外を見た。
「あそこ、少し気配が違うのがわかるか?」
未知弥は、窓から見て左奥の方を指差した。紋は未知弥の指差す方向に目を凝らした。遠く、かなり奥の方、茂った木が周りと違う色をしている箇所があった。色が違うと言うよりも、暗く影を帯び、どんよりとしているように見える。紋がこくっと頷くのを見て未知弥は続けた。
「あそこには近付くな。『禁忌の森』と呼ばれている。白銀家に恨みを持った者たち、怨霊のようなものだが、それらがあの森の中に無数に封印されている。危険だから、決して中に入るな。」
静かだが、有無を言わせない重みのある口調だった。紋は遠く離れているにも関わらず、背筋が寒くなるような感覚を覚え、ごくりと唾液を飲み込んだ。
「近付かなければ大丈夫だ。怨霊が出られないよう強力な結界が張られている。」
紋の怯えた様子を察して、未知弥は優しく言うと、再び歩き出した。
「ここが俺の部屋だ。まぁ、用事を頼むこともあるだろうから覚えておいてくれ。それから、この廊下の突き当りに父親の居る別棟に続く扉がある。父が許可したも者しか中に入れないようになっている。」
そう言われた廊下の突き当りは、まだかなり先にあるようで、そこからは見えなかった。
「それから、最後にここを教えておこう。」
未知弥は自分の部屋の前を離れ、少し先にある大きな扉の前に立った。紋もついて行き、その扉の前に未知弥と並んで立った。
扉には美しい彫刻が施されていた。花が溢れるように咲き、蝶が舞っている。とても手の込んだ彫刻だ。未知弥が扉を開けると、自然光が明るく差し込む美しい空間が広がっていた。中央に祭壇があり、たくさんの花が美しく飾られている。その花にかこまれるように、一人の美しい女性の写真が額に入って飾られていた。
「キレイ…。」
紋は思わず呟いていた。
金に近い色をした柔らかそうな髪が長く伸び、優しそうな笑みを湛えた顔は、まるで聖女のようだ。紋はすっかり見惚れてしまい、目が離せなかった。「白銀志穂乃」と名前がある。
「俺の母親だ。十八年前に病で他界した。」
未知弥もその写真を真っ直ぐに見つめながらそう言った。紋はハッとして未知弥の方を見た。
「優しい人だった。誰にでも愛情を持って接して、皆に愛されていた。」
未知弥は祭壇に近付くと、飾られた花にそっと触れた。
「いくら強力な霊力を持っていても、人一人の病も治せないのだから、虚しいものだ。」
そう言った未知弥の顔は無表情なままだった。
紋は切なさで言葉も出ず、ただ改めて未知弥の母親を見つめた。十八年前ということは、まだ紋が生まれる僅かに前のことだ。どんなに素敵な方だったのだろう。お会いしてみたかった…。でも、何故だろう、紋は知っていいるような気がした。志穂乃という人のやさしさ、温かさを。包まれたことがあるような、そんな感覚がする…。
自然と、紋の目から涙がこぼれていた。
「どうしてお前が泣くんだ?」
未知弥は紋の涙に気付き、困惑と呆れとが混ざったような表情で言った。
「すみ…ません…。どうしてでしょう。懐かしくて…。」
「懐かしい?」
会ったこともないのに、おかしなことを言うものだと思いながら、自分も紋に懐かしさを感じたことを思い出す。
不思議な娘だ。まだ何を隠しているかもわからない警戒すべき相手なのに、何故か感情を動かされる。
「泣いてばかりだな。」
未知弥は少し笑って、紋の頭をポンポンと撫でた。紋は驚きすぎて涙が引っ込んでしまった。顔が赤くなり、鼓動が激しくなる。未知弥もハッとして手を離すと、
「快のことを言えたものじゃないな。」
と、気恥ずかしそうに言った。
「母さんは花が好きだったから、この部屋も花が絶えないように毎日手入れをしている。使用人の仕事になっているから、お前今に任されるだろう。」
部屋を出ながらそう言われ、紋は改めて祭壇を見つめた。美しい花々に囲まれて、生前も、今現在も、どれ程皆に愛されているかが伝わってくる。紋は深々と頭を下げて部屋を出た。
一階に戻り、庭を抜ける廊下を通ると、庭にも花々が美しく咲いていることに気付いた。
「わぁ、可愛い!」
八重のチューリップが咲き乱れているのを見て、紋は思わず足を止めた。
「ここは、玄生が園芸を趣味にしていて色々と植えているんだ。お前も花は好きか?」
「はい、私も家で育てていました。少しですけど。」
そう言った紋の表情は、少し寂しそうに見えた。未知弥はそこには触れず、
「そうか。玄生に色々訊いてみるといい。喜ぶだろう。」
とだけ言った。
やがて二人は使用人の部屋が並ぶ棟の入口に着いた。
「簡単に案内したが、少しずつ覚えればいい。父さんも言ったが、お前を冷遇するつもりはない。少しずつこの屋敷に慣れてくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
紋は深々と頭を下げた。
「今日はゆっくり休むといい。」
未知弥がそう言って背を向け歩き出した瞬間、
「あのっ…。」
紋が思い切ったように何か言いかけた。未知弥は足を止めて振り向いた。
『あの時は、ありがとうございました。』
そう、もう少しで出掛かったが、紋は勇気が出せず、その言葉を呑み込んだ。
「いえ、今日はありがとうございました。」
紋が微笑んでそう言うと、未知弥は不思議そうな顔をして、再び歩き出した。
十年も前の小さな出来事など、未知弥が覚えているはずもないだろう。ましてあれが自分だったことなど気付くわけもない。黒髪のウィッグを被った幼い自分が思い浮かんだ。
「馬鹿ね…。」
紋は心の中でそう呟き、自嘲するように微笑んで自分の部屋に戻った。
部屋に入ると、急に疲れを感じて紋はベッドに座り込んだ。かなり緊張していたようだ。でも、こんな風に迎え入れて貰えるなんて思ってもいなかった。紋はそう思いながら、溜息をついた。もっと冷たく、敵意を持って迎えられるのだろうと思っていた。謀反を企てた一族の娘だ。そうでなくとも紫井森家は霊力を持つ一族の中でも特異な雰囲気を持っており、嫌悪されることが多い。それに、紋は幼い頃から常に白銀家の無慈悲さ、残忍さを教え込まれて生きて来た。紋は会ったこともない相手をどうしても恨むことはできなかったし、十年前のあの未知弥との出会いは一層紋を困惑させた。しかし、かと言って白銀家に対する恐れは拭えなかったし、立場的にも冷遇されることを覚悟していた。
紫井森家の白銀家に対する恨みは強かった。特に一族で最も力を持つ存在である紋の母、妙の恨みは凄まじく、毎日白銀家を呪わんばかりの調子だった。
「紋、お前が白銀家を滅ぼすのだよ。お前にはそれが出来る。全てはお前に掛かっているのだからね。」
そういう時の妙は気味が悪い程優しかった。紋を優しく撫でて、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。しかし、ある時は、紋の顔を見るだけで気が狂ったように取り乱した。
「あの女、私の娘に何をした?お前は一体誰だ?」
そう言って紋の肩を掴み、酷い時には首を絞めんばかりの勢いで詰め寄った。そんな時、紋は訳もわからないまま「ごめんなさい、ごめんなさい。」と謝り続けるしかなかった。ただただ、嵐が過ぎ去るのを待つように。
学校にも行かなかった。妙が必要ないと決めた他、突然変異のように紫井森家の人間と思えない容姿に生まれた紋を外に出すことを、一族の者が極端に嫌がったからだ。
勉強や礼儀作法など必要なことは専属の教師が付き、屋敷内で全て教え込まれた。そして、霊力に関すること全ては、妙が直接指導した。そう、紋は霊力を、それも非常に強い霊力を持って生まれた。霊力の使い方を、妙は厳しく紋に教え込んだ。全ては白銀家を滅ぼすために。基本的な攻撃に留まらず、どこからか手に入れた古い文献を持っており、その中に載っている、現在では使える者がいないような古い術まで紋に教えたのだった。能力を感じさせないよう隠せるのも、その中の一つだった。
紋は見事に全てを身に付けた。中には教えなくともすぐに身に付けることができたものもあった。紋にはそれだけの才能があり、そのことは妙を満足させた。ただ、紋は何故その相手を憎まなければならないのか納得出来ず、ただ人を傷付けるために能力を高めていくことがいつも辛かった。普通に外に出て学校に通いたかったし、外に憧れていた。しかし、それは決して叶わず、自分で育てる小さな植物に癒しを求めた。
叱咤された時は勿論、褒められた時でも、いつも紋は夜一人になれば泣いていた。小さな体は悲しさと苦しさで押し潰されそうだった。けれど、たった一人だけ、そんな紋を支えてくれる存在が居た。
「紋様。」
囁くような声がして、紋は目を覚ました。気付けばベッドで眠ってしまっていたようだ。起き上がると、目の前に人影があった。
「
紋はホッとしたように名前を呼んで微笑んだ。呼ばれた相手も、穏やかに微笑んだ。ふわりと柔らかい髪が揺れ、長い睫毛を湛えた瞳が優しく煌めいている。全身がほのかに光り、透けているように見える。無論、人間ではない。
「紋様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「ここに来ても、私は変わらず紋様の側に居りますから。安心してくださいね。
そう言って雪珠と呼ばれた人影は、そっと紋の顔に手で触れた。
「ありがとう、雪珠。いつもありがとう。」
紋はそう言いながら、安心したように再び眠りについた。
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