袖のともがら
桐林才
袖のともがら
「
立会人に小声で呼びかけられて視線の方向を追うと、名人が入室してくるところだった。
「おはようございます」
あわてて挨拶をして時計を見ると、8:40と表示されている。
和服姿の名人が上座に座り、巾着から懐中時計や扇子を取り出し始める。
一通り身の回りを整えた後、将棋盤に手を伸ばした。
少しだけ手前に引き寄せたかと思えば、また元の位置に戻す。
首を傾けて覗き込むようにすると、今度はわずかに左に動かした。
名人のこの種の癖については、事前にまわりの人から聞いていた。
棋士の中でも特殊と言えるほど神経質な彼の、いくつかのルーティーンのひとつだ。
「私は将棋が嫌いでね。全然私の思い通りにならないものだから、ストレスが溜まる」
「せめて盤の位置とか座布団の色くらいはね、自分の味方でいて欲しい」
五十代になって初めて名人の座に就いた彼の言葉は、世間的には温かく迎えられた。
無論、棋士の間でその言葉は、彼の名人位が仮初のものであるという共通認識をより強固なものにすることになったのだが。
記録係の仕事というのは、正直に言うと退屈なものだった。
対局中に人間が判断すべき要素のほとんどは機械に取って代わられ、一時間や二時間も盤面が変わらないのはざらだ。
師匠はタイトル戦の雰囲気に慣れておくことは有意義だと言うが、どこまで本気なのか俺は疑っていた。
自分が将来名人戦に出場するような人間であることは自覚しているが、どんな状況でもやることは将棋ではないか。
「おはようございます」
名人に五分遅れて
足早に下座についた彼は、名人とは対照的に目を閉じて身じろぎ一つしなかった。
名人初挑戦となる柴八段は、棋界の評判に違わぬ豪快な将棋で第一局から三連勝していた。
そして、七番勝負で先に王手をかけながら第四局を不戦敗で落とした。
棄権の理由は体調不良と発表されていたが、コトはそれほど単純ではないだろうと関係者の誰もが考えていた。
何しろ、棋界の最高峰の舞台である名人戦を彼は棄権したのだ。
名人という称号の重みなのか、周囲からのプレッシャーに押しつぶされたのか。
何にせよ、彼が精神面で問題を抱えているのは明らかだろう。
やはりと言うべきか、柴八段の顔は露骨に憔悴していた。
名人が箱から駒を取り出し、両者が盤の上に並べ始める。
ここでも、柴八段の手つきはおぼつかなかった。
立会人を始め周りの人間からは一様に心配そうな視線が注がれていたが、自分は違っていた。
やる気がないなら早く棄権すればいい。
こちらは今すぐにでも名人に挑戦状を叩きつけたいと思っているのだ。
自分が異変に気付いたのは、ちょうど対局開始時刻の一分前だった。
柴八段の視線の方向を何気なく追ったところ、彼の右袖からのぞく紙切れのようなものとそこに書かれた符号らしき文字が見えたのだ。
慌てて周りを見渡すが、目撃したのは私だけのようだった。
混乱している間に立会人が声を発する。
「それでは、時間になりましたので柴八段の先手番でお願いいたします」
「お願いします」
その時、全員が息を呑んだ。
発声したのは名人一人。頭を下げたのも名人だけ。
柴八段は盤を見つめて微動だにしない。
呆気に取られる我々を前にさらに三十秒ほど固まっていた柴八段がおもむろに右手を伸ばす。
駒を持ち上げ、打ち下ろす。
9六歩。
思わず柴八段の顔を見た時、その目は生気に満ちていた。
そして、柴八段はゆっくりと頭を下げた。
「お願いします」
***
「蓮木さん、お待たせしました。」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、スーツを着た痩身の男が立っていた。
「
差し出された右手を見て、指先を軽くつまむ。
年齢は三十代後半のはずだが、彼はそれよりも童顔の印象を与えた。
テーブルを挟んだ向かいに腰掛けると、ウェイターを呼んでコーヒーを注文する。
平日のお昼時だが、喫茶店内の席は半分以上が埋まっていた。
「今日はその、イベントか何かあるんですか?」
俺の格好を上から下までまじまじと見ながら、彼が言った。
「和服で街を歩くのは目立つでしょう?」
「俺もそう思ってましたけど、ここに来るまで誰にも声を掛けられませんでした」
実際、すれ違う人たちはちらっと俺の服装と顔を見比べるぐらいで満足して通り過ぎて行った。
「名人挑戦者になっても、棋士なんて世間的にはその程度のものなんですよ」
グラスからストローに口を付けて、カフェオレを吸い込む。
「今日聞きたいのは柴さんとあなたのことです」
彼の前にコーヒーカップが置かれたのを見て、俺は本題を切り出す。
「どうやって僕のことを?」
カップにミルクを注ぎながら、彼が嘆くように言う。
「僕と彼の関係を知っている人間なんて、ごく一部だと思うのですが」
「それも将棋関係者に至ってはゼロのはずです」
「あなたの情報の出どころを明かす気はありません」
「なるほど」
彼に納得した様子は無かったが、拘泥する気も無いようだった。
「電話でもお話しましたが」
「12年前、俺は第七十期名人戦の記録係を務めました」
「柴が初めて名人を獲った対局、ですね」
俺は黙って頷いた。
あの日から現在に至るまで、彼の名人位は一度たりとも失われることはなかった。
「その対局が始まる瞬間、俺は確かに見たんです」
「彼の袖から覗く白い紙を」
俺はあらかじめ仕込んでいた和服の袖の中のナプキンが彼に見えるように、右手を斜め上に向けた。
男物の和服の袖付け部分は縫われており、袋状になっている。
「思えば、その直前に彼は左手を右手の袖の中に入れていました。そのときは対局前に服を整えているように見えましたが」
「袖の奥にしまっていた紙を袖口まで引っ張り出していたのでしょう」
俺が少し間を置いても、川上は押し黙ったままだった。
「最初はそこに書いてある文字まで判別することはできませんでしたが」
「彼の次の動作を見て、俺は確信しました。」
「そこには彼の初手『9六歩』が記されていた、と」
「それがなんだって言うんですか?」
カップを傾けながら、彼が落ち着いた声で言った。
「柴が袖に隠し持っていたカンニングペーパーを見ていたから、それが不正だとでも?」
彼の調子は、ミステリードラマの犯人役のマネごとを面白がっているようだった。
「そんなたった一つの符号が対局において何の意味も持たないことくらい、ヘボの僕にだって分かる」
「それが不正だなんて俺も思っていません」
「ただ、あの行為にどんな意味があったのかお聞きしたいだけです」
「僕のところに来たということは、察しが付いているんでしょう?」
彼が初めて見せた笑顔には、安堵の色が浮かんでいた。
それを見て、俺は自分の推測が当たっていることを確信し頷いた。
彼は、秘密を抱えている。
「お話ししますよ」
「あなたにはその権利がある」
***
12年前の4月、桜が景色を彩る季節に僕は一年ぶりに彼と会っていた。
ちょうど東京で桜の開花宣言がされた頃だった。
「ここで3三銀だ」
柴はプラスチック製の将棋駒をつまんで盤の上に叩きつけた。
先ほど100均で買ってきたばかりの、打ちつけた衝撃で割れてしまうのではないかと心配になるほどの薄っぺらい盤と駒だ。
時間は午前三時頃とあって、ファーストフードの店内には僕たち二人の他に学生の四人組がいるだけだった。
ちょうど店の対角線上に位置するテーブルで談笑している。
「この辺で変化の余地もあったみたいだけどな。どっちにしても不利だから複雑な方を選んだんだろうが、少し長引かせただけになったな」
彼は高揚した様子で語りながら、よどみなく指を動かす。
「俺がこの手を指した時の顔は分かりやすかったな。名人も人の子だね」
小学校からの幼馴染である柴が将棋のプロ棋士になったことを知ったのは、二年ほど前のことだった。
彼の方から、実家を出て上京することになったから一度会おうと誘ってきたのだ。
高校を卒業してから会っていなかったので七年ぶりの再会だったことになるが、その時に印象的だったのは彼の表情だった。
高校生の頃、普段一緒に登校していた僕は、彼の顔が日に日にやつれていくことに気付いていた。
元々学校を休みがちだった上に、どこか殺伐とした雰囲気を醸し出していた彼にはほとんど友達がいなかった。
後から聞いたところでは、『プロ棋士を目指すとは、そういうこと』らしい。
その頃に比べたら、憑き物が落ちたようにスッキリした顔をしていた。
「お前、今日の夕方くらいまで対局してたんだろ?」
僕はあくびを噛み殺しながら、うんざりした気分を思い切り込めて話しかけた。
「終局は19時過ぎだな。その後、インタビューやら何やらで22時頃まで拘束されて」
「それで、何でそんなに元気なんだよ」
「対局の後は目も頭も冴えてるものなんだよ。布団に入ってもどうせ眠れない」
「だからって素人相手に試合の自慢するほど暇なのか?プロ棋士は」
「ずっと盤と向き合って大河みたいに壮大なドラマがあったのに、誰とも共有できない気持ちを想像してみろよ」
「他の棋士とやればいいだろ」
一戦交えてきた彼は、一通り吐き出さなければ落ち着かないようだった。
僕がなんとなく調べた限り、彼の業界での評判は芳しくないようだった。
と言っても、それは
「生意気だ」
「素行が悪い」
「人として尊敬できない」
彼の将棋に対する評価を探すのに一苦労する程度には、そういう批評が湧いているようだ。
しかし、それらの批判の言葉には
「将来、この業界の上に立つ者でありながら」
という言葉が隠されているような気がしてならなかった。
そういう評判を知っていた僕の目には、ファーストフード店で素人相手に対局について自慢気に話す彼の姿は哀れに映った。
僕はといえば、数十分前から意識を手放すことに躍起になっている。
もちろん彼の『ご指導』からいち早く逃れるために、だ。
しかし、その度にジャンクフード特有の嫌な油の匂いが鼻を刺激し、胃の内容物がせり上がってきていた。
「この分だと、七番勝負の一局目にして勝負アリって感じだな。何回やっても勝つぜ、俺」
完全に無視を決め込んでいた僕はテーブルに突っ伏したまま、何とかシャットアウトを試る。
その甲斐あってか、いつものベッドで眠る時のような浮遊感を得始めていた。
あと少し、もう少し。
環境音や話し声が浮かび上がり、そして遠ざかっていく中、柴の声がやけに明瞭に響いた。
「川上、俺、名人になるわ」
***
土曜日の朝、僕は均一に冷やされたアパートの自室で目を覚ました。
今年、初めて冷房のスイッチを入れたのだ。
懐かしい倦怠感を覚えながら今日が燃えるゴミの日であることを思い出し、無理やり体を起こす。
サンダルを履いてドアノブを回すと同時に「ジジジジジ」という不気味な音が僕の耳を貫く。
その音量に驚いて思わずゴミ袋を手放し後ろに飛びのいた。
跳ねる心臓を落ち着けながら、事態を少しずつ飲み込む。
蝉だ。
ドアの前に横たわっていた蝉を引きずってしまったのだろう。
このアパートに住み始めてから、何度か経験していたことだった。
今度はゆっくりとドアを押すと、何事もなく開いた。先ほどの蝉はすでに飛び立ったのだろう。
ホッとしてゴミ袋を握り直し体を入れ替えると、ドア横に座り込んでいる人間が見えた。
今度は驚くよりも先に、その人物を認識した。
柴だ。
道路を挟んで向かいの電柱脇にゴミ袋を置いた後、部屋に招き入れた彼とテーブルを挟んで向かい合う。
くたびれたスーツを着た彼は、黙って俯いている。
「こんなところで何してんだよ」
言葉を選んだ末にドラマのようなセリフを発した僕に向けられた彼の目は、助けを求めるようだった。
「今日、対局だろ」
確か、都内郊外にある旅館で9時からのはずだ。
柴は黙ったままだった。
僕が次にかける言葉を模索している時、彼は突然口を開いた。
「呼び鈴が……」
「旅館の呼び鈴が、押しても鳴らなくて。誰も出てこないから、だから」
彼の様子は、喋り方こそ淡々としているが錯乱していると言ってもよかった。
子供の頃から目指してきた「名人」という称号。
畏敬の念と勝利への確信が彼の枷となり、牢獄となっている。
その精神的幽閉から解放されない限り、彼が将棋を指すことはできないだろう。
「勝つのが怖い」
棋士がそんなことを言えるはずがない。
自分の気持ちを必死に否定した結果が、今の彼の姿なのだ。
そんな彼の強がりを嘘だと指摘することは、何の意味もない。
そこから、僕は自分の決意を固めるための時間を空けた後、努めて明るい声で言った。
「小学生の頃、僕と指してたのを覚えてるか?」
柴が顔を上げて僕と目を合わせる。
「僕はお前に勝てなくて辞めたけどな。将棋は好きだ」
「一回くらい名人になってみるのも悪くないと思ってる」
「お前と一緒にってところも目をつぶってやる」
柴は意味が分からないのか、固まったままだ。
「和服は持ってきてるのか?」
「……ああ」
今日初めてまともな会話が成立したことに、少し安堵する。
立ち上がり、棚の引き出しからボールペンとメモ帳を取って彼の前に戻る。
メモ帳から空白のページを破り取り、ボールペンで書き付ける。
その紙を内側に四つ折りにして、彼に手渡した。
「これを持って、対局場に行け。中を見るのは開始直前だ」
僕はいたずらっぽく笑って見せた。
「僕に一手くれよ。柴」
長い逡巡の後、彼は縋るような目で紙を受け取った。
***
柴を送り出した後、僕はひたすら自問していた。
「なぜ、あんなことをしたのだろう」
思い出すのは、小学校の教室での風景だった。
窓から差し込む陽光の中、二人で小さな将棋盤を挟んで向かい合っている。
「世界で一番強い人を名人っていうんだ」
「名人はたった一人なんだ。すごいだろ」
彼はいつも盤と駒の前で目を輝かせていた。
僕は、そんな彼と仲良くなるために駒の動きを覚えた。
彼とできるだけ長く一緒にいたくて、戦術を覚えた。
今まで封印していた記憶が頭の中をぐるぐると駆け巡る中、ニュース番組で名人戦の映像が目に飛び込んできた。
初手、9六歩。
彼が『僕の一手』を指す様子を確認した後、僕は恐怖と充実感に体をしばらく震わせていた。
***
「おはようございます。柴さん」
背後から声を掛けられたのは、庭の池を泳ぐ鯉をぼんやりと眺めていたときである。
振り返ると、立っていたのは蓮木八段だった。
「おはよう。ずいぶん早起きだね」
名人戦第一局の開始時刻の午前9時までは、まだ二時間ほどある。
「君も鯉の餌やりかい?」
「柴さんと話がしたいんです」
私の軽口にも、彼の表情は神妙なままだった。
「へえ。盤外戦とは」
私は彼から目線を外し、池の方に向き直る。
「らしくないね」
「今日の対局、初手の端歩突きをやめてもらいたい」
彼の言葉に被せるように、一匹の鯉が跳ねて水音が庭園に響いた。
辺りが静寂に戻るのを待ってから、私は口を開く。
「怖いのかい?」
「名人戦を十二連覇した私の端歩が」
私はわざと芝居がかった口調で話した。
「あれは、あなたの手ではない」
「あれでは、俺に勝てない」
彼の声がゆっくりと明瞭に響いて快晴の空に吸い込まれいく。
私はその余韻にしばらく浸ってみる。
「川上と、会ったのか?」
私の絞り出した質問に答える気は、彼には無いようだった。
「盤の外になんか、将棋はない」
「あなたが縋っている、その袖の中にも」
「俺が証明しますよ」
彼が言い終わると同時に、地面を踏みしめる足音が遠ざかっていった。
私は、自分の右腕を握りしめていた左手により力を込めながら、ゆっくりと立ち上がる。
「川上、俺たち、負けるかもな」
また、一匹の鯉が跳ね上がった。
袖のともがら 桐林才 @maruhito
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