2-5 ケンヂの朝
「愛してるって言われると私は自分が分からなくなるの」
ユリナはそう言った。
そう言ってから、訥々と独り言のように語り始めた。
ずっと付き合ってきてようやく俺に、身の上を話してくれる気になったみたいだった。
ユリナは私立大学に通うために地元から出てきて、花屋でアルバイトをしていた。実家は金持ちだそうだが、社会経験を積んでおきたかったそうだ。当時のユリナは擦れたところがない明るい性格だったらしい。
芸能界に憧れたり、声優になろうか迷ったり、アナウンサーを目指して頑張っていたり、恥ずかしくて口には出さないが素敵な王子様に出会える日を待ち焦がれていたりしたそうだ。
両親から大切にされ、友人もたくさんいて、出会うみんなから蝶よ花よで
ユリナはやはり美人だった。大学のミスにも選ばれたらしい。そうなると望んでいたアナウンサーの路線が見えてくる。将来の自分の設計像が固まりだし、初めて彼氏もできたりして、そんな花が咲き乱れる順境の中にユリナの人生はあった。
そして、いつものように花屋でアルバイトをしていた。
週3で通う花屋の仕事にも慣れてきて、店主から多くの仕事を任されるようになっていた。
ユリナが笑顔で接客する花屋は、彼女のおかげでどんなに明るかっただろう。
彼女に包んでもらう花束は生き生きと色づいていたに違いない。
「‥146番目に愛してる」
「‥145番目に愛してる」
運命が変わってしまったその日、ユリナは信じられないくらい美しい男に出会った。
花々が咲き乱れる小さな花屋の店先で、––––そいつに出会ってしまった。
「その人は天使のように美しかった。でもその美しさは魔性を持っていて、‥なんだろう。陳腐な表現だけど、そう、悪魔のようでもあった」ユリナは俺の体に顔を埋めながらそう言った。
その美しい男はユリナと同い年だと言った。偶然出会った可愛い子が同い年だから運命だねと言ってきたそうだ。口説き文句としてどうなのと思うけど、それでユリナは呆気なく落ちた。かけがえのない運命なのだと感じてしまったそうだ。
自分は身持ちが固い女だと思っていた。最近、初めて彼氏ができたはずだったのに、店中にあった(自分の名前にも付けられている特別な花である)白百合を慌てながら両腕にいっぱい抱えて、顔を真っ赤にして(その
信じられないくらい素敵だった、とも言った。
「‥76番目に愛してる」
「‥75番目に愛してる」
俺は正直その話を聞いていてイライラしていたけど、惚気はすぐに終わった。ユリナはすぐに捨てられた。抱かれた後、すぐにだ。
泣き縋るユリナにそいつは変なリストを見せたらしい。ユリナはそいつにとって444人目の女だった。『444人目の愛している』なのだと言った。意味わかんねぇ。クソが。
固まるユリナを、そいつは「仕方ないな」と困ったように言い。
もう一度抱いて、–––もう一度、捨てた。
そして二度と現れなかった。
「‥56番目に愛してる」
「‥55番目に愛してる」
悪い男に騙される話はよく聞く話だ。
世の中を俯瞰すれば、日常にあり溢れている。
小説やドラマなどでも予習できるし、たいしたことではないと言えば確かにそれまでだ。
相談を持ちかけられたら同じような事を誰だって言うだろう。辛いのは一時的なもの。あとは時間が解決するものだ。そんなもの切り替えてむしろ人生の糧にすればいい。男女の仲などそんなものだろうと。
もっと言えば、今時は貞操観念がないことの方が自慢であるかのようにしている女も多くいる。考え方によっては経験値が一つ増えただけだ。全部、笑い飛ばして、いい女にでもなればいい。
でも、ユリナにはできなかった。
「‥‥愛してるって言うと私は消えてしまう。私はその男に自分を渡してしまったから、自分の中にあった、かけがいのない唯一無二の特別を捧げてしまった」ユリナは俺の胸ですすり泣いていた。
そして、虚な瞳で俺を見て、「きっとあの白い花は私の魂そのものだったんだ」と言った。
「‥45番目に愛してる」
「‥44番目に愛してる」
ユリナは発作のように、夜になるとその男の事を思い出す。
思い出し、それからずっとこんな風に一晩中震えている。
男がただ美しかったという理由で、何で一人の女がこんなにも壊れてしまうのだろう? ぜんぜん分からねぇ。クソが。
俺はユリナを少しだけ強く抱きしめる。
チクショウ。誰なんだよ、そいつ。
こいつをこんなにしやがって。
こいつに涙も流させないで、こんなに泣かせやがって、チクショウ。
あの時、ユリナは言った。「それから、たくさんの人に抱かれた。普通、男の人は行きずりの女に心を求めない。興味ないの。みんな、私をモノとして扱った。そう扱われてでも、私は見失った自分の存在を確認したかった。抱かれる事で手がかりにしてたの。肉体だけになってしまった自分に、生きているって言う実感が欲しかった。彼が去ってから私は、半分生きているようでいて、ずっと半分死んでしまっていたのだから。‥‥‥でもケンヂ、あなただけだった。私をもう一度探してくれようとしたのは」
俺はすでに壊れちまっていた自分の女を抱きしめ続ける。
「ねぇ、ケンヂ。あなたは私にとって、本当に光で、
こんなにも大切で、いつも笑っていて欲しいのに。
自分が何もできず、無力である事の悲しみが。
どうしようもなく、胸を痛めつける。
「‥31番目に愛してる」
「‥30番目に愛してる」
ふと、部屋の隅に飾られているあの黒い百合の造花が視界に入った。
あの黒く染まった花が、こいつを縛っている呪いのように見えて、忌々しく感じられた。
「‥24番目に愛してる」
「‥23番目に愛してる」
ずっと震えているユリナを抱きしめながら、幾つもの同じ夜を繰り返し、こうして過ごしてきた。
ユリナは俺にしがみついて呟く。
「‥怖い。‥‥‥怖いよ、ケンヂ」
俺にはこいつを変えられない。弱くて、情けなくて、吠えてるだけのガキで、力が本当にない。俺では、‥‥やっぱりダメなんだ。
取り戻せない、こいつを。
抱きしめることしかできない。
無力だ。
無力だ。
無力だ––––––。
––––俺は知っている。
この女の本当の姿は、白い花なんだ。
俺の心の中ではユリナは、こんなにも綺麗に咲いているというのに。
「‥12番目に愛してる」
ユリナには、愛していると言えない。
お前が特別だと言うと、どうしようもなく取り乱してしまう。だから、444番目から順繰りに特別でない愛を囁くんだ。
「‥11番目に愛してる」
ユリナは、愛していると言えない。
こいつはそれを言うと、本当に魂が抜かれたみたいに放心となる。
その後、意識を取り戻すと、俺に決まって「ごめん。ケンヂ。ごめんね」と謝る。
‥なんで俺に謝るんだよ。
「‥3番目に愛してる」
「‥2番目に愛してる」
「‥‥‥1番目に愛してる」
なんで俺がこいつに愛してるって言えないんだよ。
チクショウ。俺はお前を‥‥‥、チクショウ。
––––––愛してるよ。
けして口に出して言えない言葉を唇に込めて、目を瞑っているユリナの唇に重ねる。
唇を離して、しばらくユリナの顔を見ていた。
静かな寝息が聞こえてくる。
やっと寝た。いま何時だよ。‥チクショウ。
–––––––––––––––––––––––––––––
「やっと起きた。ケンヂ、今日出勤だよね」
そう言うと、ユリナは軽く俺にキスをした。
良かった。明るい声だ。
「‥ん? ん〜〜‥、ねみー」
俺は背伸びして、わざと二度寝するふりをする。
「あはは、ダメだよ」
このこのこの、とユリナは俺に絡んできて抱きつく。俺たちはしばらく戯れあった。笑い合いながら、寝ぼけ眼で、ユリナの表情を伺う。–––大丈夫だ。今日は、いい1日になりそうだ。
さあ、目を覚ますことにしよう。
「あ、ご飯、作っといたよ」
そう言い、ユリナは立ち上がると、キッチンにコーヒを入れに行った。
サンキューと言ってから、俺はスマホを開き、いつも習慣で見ているニュース番組を視聴する。
するとコメンテーターがいきなり捲し立てていた。
⬛︎『しかし、なぜ政府が警察、消防まで締め出し、エナジー・サイエンス社の火災の隠蔽工作をしたのでしょうね。政府関係者からの説明も到底納得できるものではありませんよ!』
⬛︎『そうですよ。こんなのデタラメじゃないですか! これはただの火災ではないなんて、誰の目にも明らかです。重大な問題が隠匿されたのは間違いありません』
⬛︎『現在まで安否不明となっている職員の親族が、情報公開求めています。いつまでも隠し通せるはずないものを、政府の対応はなぜこうまで頑ななのでしょうか。理解に苦しみます』
これってあのニュースか? エナジー・サイエンス社でバイオ事件が起きたかもしれないとかなんとかで、それを政府が隠蔽してるとか言う。今の時代に公然と陰謀論かよ。でも使えそうだな。話のネタにはなるかな。
「はい、ケンヂ」
ユリナはコーヒーを差し出して、スマホを覗き込んでくる。
「それもホストの先輩からのアドバイス? えっと、キョウヤさん、だっけ?」
俺はユリナからコーヒーを受け取り、一口する。
「うん、キョウヤさんが、話を盛り上げる為のネタを普段から集めとけってさ」
店のNo.1から教えられた事を実践して、忠実に勉強する。俺たちホストってのは、知識は広く浅く漁っておけばいいらしい。会話を作るなら何も知らないんじゃダメだ。でも知りすぎる必要もない。要は話を広げたり、きっかけを作ったり、繋げたりのためだ。
客があまり喋れないタイプなら、こっちが会話を投げ続けて、気分よく話してもらえるようにする。客が知識が深かったりするなら、相手が喋りやすい土台を作って、あとは聞き役になればいい。
「真面目だね。でもそういう難しいニュースを、って話じゃないと思うんだけどね」
「今時、馬鹿じゃ。ヤクザもできねーて聞くぜ。ホストもおんなじだ。俺は何も知らない馬鹿女を狙う気なんてないんだよ。知識とか教養を拾い集めておけばさ。ランクの高いキャリアウーマンとか女社長とか狙えんだろ。俺はいずれNo.1になる男だからよ。自分がお高いって自慢してる女を負かして、骨抜きにしてやるぜ。金持ちバカ女どもを骨の髄までしゃぶってやるんだ」
「悪ぶっちゃって、ケンヂは誰も傷つけることなんてできないよ」
「ああ? 何言ってんの? 俺はドクズだぜ」
「ケンヂは優しいよ。誰よりも優しい」
そう言って笑いながら背中に乗りかかってくるユリナを、俺はうるせぇと言いつつ、そのままにした。そして一緒に遅めの朝食を取った。
それからスーツに着込んで、クラブに出勤しようと玄関まで出ると。
ユリナが「待って」と一輪の白い造花を持ってきた。そしてそれを胸元のポケットに挿し込んで飾る。
俺が驚いた表情で「お前、これ」と言うと、ユリナは少し俯いてから顔を上げ「頑張って」と微笑んでくれた。
⚪︎
「‥でもこれって、キザったらしくない? 俺、今日、これで出歩くの?」と言うと、ユリナは「すっごく似合ってるよ。カッコいい」と笑った。
「いってらっしゃい」
そう明るく見送られると、なんだか自分の鬱屈とした人生のすべてが一瞬でひっくり返り好転してしまった気がした。
俺はマンションから出て、空があまりにも綺麗で快晴だったから、–––それで俺は決意した。
今日ホストを辞めて、あいつと一緒になろうと。
実を言うと俺はユリナ以外の女を知らない。女に貢がす才能なんてこれっぽっちもないんだ。
無理して変なテンションになって、騒いで酒を飲むだけの仕事なんてもういいや。辞めちまおう。
何よりも、ようやくあいつが変わろうとしてくれている。
だから今だ。今なんだ。
俺も変わるんだ。仕事を辞めて、逃げてきた過去を終わらすために、一度、実家に戻ろうと思った。
それで、俺も一からやり直すと決めた。
–––ああ、青いな今日の空はどこまでも青い。
今まで抱えていたのは、何の劣等感だったんだろう?
もともと俺にプライドなんて呼べる大層なものはなかっただろう。
あの頃の自分が大事だと言ってきたものは戦う価値のないくだらないものだった。ただ親父に獲れ、守れと命じられただけの価値観で、俺の誇りではなかった。俺も内心ではそう知っていたから、いざ困難に見まわれると立ち向かえなかった。中身のないプライドばかりデカくなっていただけで、それを得るためや、守るために命を賭けれなかった。
だが、––––俺にもそれが見つかった。
この街に来た時、あの頃のくだらないプライドに代わるものとして、漠然とビックになってやろうと思っていた。
だったらさ。戦利品はあいつでいいじゃないか。
俺はもう、とんでもなくビックになったんだよ。
実家に帰って、あいつらに見せつけてやろう。
自慢してやるぜ。クソ兄貴ざまあみろ。
あんないい女連れて帰ったら、顎外してひっくり返るぞ。
親父にも立ち向かって真正面から言ってやる。
そして、––––。
‥‥大丈夫だ。あいつなら、お袋にも喜んでもらえるはずだ。
そうだ、それからの人生も決めてあるんだ。
金貯めて、あいつと花屋でも始めればいいじゃないか。
ああ、そうだ。そうしよう。
いつも満開にしよう。
俺たちの店を。
あいつの匂いがするあの花で。
空は澄み渡るようにどこまでも青かった。
胸元に挿してある気取った造花を見て、俺は笑った。
⚪︎
『事件です。今日未明、⚫︎⚫︎区、⚫︎⚫︎の路上にて首のない若い男性と見られる遺体が見つかりました。遺体の付近にはおびただしい血痕が撒き散らされており、鋭利な刃物のようなもので殺害されたものと思われます。現場には争った形跡はなく、付近の住民の話によりますと‥』
午後のお茶の間にセンセーショナルなニュースが飛び込んだ。
人々は政治や芸能の小さな事件などよりも、よほどこちらのニュースに飛びついている。
ニュース映像には殺害現場となった場所が映されており、たくさんの野次馬がつめかけていた。シートに被せられた遺体が警察によって運ばれて行っている様子が映し出されている。
『‥‥これで3人目の被害者となります。ハローウィンから始まる。連続の猟奇殺人として警察は緊急対策チームを結成し、迅速に捜査にあたるとの発表がありました。なお、付近の住民たちから不安の声が‥‥』
死体を発見した目撃者の話によると、首なし死体はホスト風の若い男性であり、胸元には一輪の白百合の造花が飾られていたらしいとの話だった。
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