第十話・言霊の怪獣〈エゼル〉

 第十話・言霊の怪獣〈エゼル〉


          ◯


 小鳥達が囀る森の中。

 木漏れ日が光芒となって降り注ぐその森で、トワキと恵声流エゼルは出会った──


          ◯


 残暑も過ぎて、緑が色褪せてきた山の中。

 トワキとコガネは、やぶを割って伸びる、荒れた獣道を辿っていた。

「小便」

 トワキは用を足す為、獣道から外れた。


 その後暫く薮の中を歩くと、甘い匂いが一瞬トワキの鼻を撫でた。

 鬼による肉体強化によって、トワキの嗅覚は常人のそれよりも鋭くなっている。

 微かな香りをトワキの鼻は捉えた。

「果実か何か……か?」

 トワキは漂う甘い匂いを頼りに、森の中を進んでいく。

 草葉を掻き分けるのに腰の刀は邪魔になった。

「変なのが襲ってこなければ、こんな物も必要ないのに」

 トワキはぼやく。

 彼岸山ひがんざんの悪しき巫女、日姫神子ヒメミコが振り撒く呪いは、人の世に怪物を作り出す。

 トワキはそれらと戦わなければならなかった。


 緑色の中に、白や黄の花が混じるようになる。

「喰い物……喰い物……」

 薮の中、トワキが更に歩を進めようとした瞬間──背後から声を掛けられた。


「その先には行かない方がいい。古い墓所があって呪いを放っているからね」


 揺らぎなく、トワキまで真直ぐに届いた声。

 その聞き覚えのある懐かしい声音に、トワキは思わず、頭に浮かんだ名を呼んだ。

「ケイテイ!」

 しかしトワキの兄、ケイテイはもうこの世にはいない。振り向いた先に立っていたのは、別人であった。

「ケイテイ? すまないが人違いだよ……僕の名は恵声流エゼル

 その男は優しく微笑んだ。

 トワキの刹那的に強まった心の鼓動は、落ち着きを取り戻す。

 漂う甘い香りは恵声流エゼルのものだった。


 トワキが出会った恵声流エゼルと名乗る長身の青年は、近くの村の長を務めていた。

 長にしてはまだ若いその男は、白の長髪を白の衣に重ねている。肌もまた白かった。

 トワキは恵声流エゼルから、どこか常人ならざる雰囲気を感じた。

 彼の持つザルの上には、色とりどりの花や実が乗っている。

「用途? いや、綺麗と思ったから、少しばかり森から頂いただけさ。元あった場所が変わらぬ程度に、ほん少しだけ摘むんだ」

 トワキと話す恵声流エゼルの表情は常に穏やかだった。


 トワキはコガネと合流する。

「遅ーい。絶対うん──誰?」

 知らない人間を連れたトワキを見て、コガネは目を丸くした。


          ◯


 恵声流エゼルは二人を自分の村に招待した。

 山間にあるその村には名はなかった。

「不便じゃないのか?」

「名前を与えると特別になってしまう。この平和な村が、やがて世の当たり前の姿になって欲しい。そう思って敢えて与えなかった」

 トワキの問いに恵声流エゼルはそう答えた。

 村の中は小さな花が咲き乱れ、奥には大山おおやまが起伏の激しい頭を覗かせている。

彼岸山ひがんざん……?」

 トワキの呟きに、「全然違う」とコガネは首を横に振る。

彼岸山ひがんざんは空にある山だよ」

「蜃気楼の幻じゃないのか?」

「違う! 本当にあるの」

 空に浮く山──トワキはその存在をまだ疑っていた。


 恵声流エゼルを先頭に、花咲く道を三人は歩く。

 微風が谷を抜けるたびに、花が揺れ、恵声流エゼルの甘い香りがトワキの鼻を楽しませる。

「今日は景色がいいほうだ。谷はすぐに霧が立ち込めるからね。村も君達を歓迎しているのだろう」

 恵声流エゼルはそう言って、微笑んだ。

(似ている……ケイテイに)

 恵声流エゼルの顔はどこかケイテイに似ていた。

 トワキには恵声流エゼルの微笑みは兄の笑顔に思えた。

 また香りが吹く。

「静かな村……」

 コガネが呟く。

 家屋は多い。

 子供もいる。

 それでもコガネの言うとおり、とても静かな村だった。

 

 二人は恵声流エゼルの屋敷に招かれた。

 恵声流エゼルの屋敷は、色鮮やかに花が咲き誇る丘の前に建っていた。

 高床式の屋敷の縁側には、素焼きの壺が並んでいる。

 階段を上り室内に入ると、数人の村人が恵声流エゼルの帰りを待っていた。

 恵声流エゼルがその中の一人、うら若い娘に指示を出す。

「彼等は旅の途中らしい。まだ使われていない家があったね? 疲れているだろうし、今日はそこに泊まってもらおう」

 トワキ達は恵声流エゼルに感謝し、頭を下げた。


          ◯


 トワキは恵声流エゼルに旅の話をした。

「──その日、夜を越そうと洞窟に入ると、奥から私と同じくらいの大きさの蜥蜴トカゲが、ウジャウジャ湧いて出てきた」

「それ程大きな蜥蜴トカゲがいるのかい? 僕が森で見るのは、せいぜい手の平に乗る程度の可愛いものだが……」

「私も初めて見た。近くの村の人間が言うには、唾に毒を持っているらしい。噛まれなくてよかったよ」

「それは益々可愛くないな」

 恵声流エゼルはトワキの話を面白がって聞いている。

(トワキ、今日はなんか変だぞ……)

 柄にもなくよく喋るトワキを、コガネは内心訝しむ。


 日没。

 二人の前に夕餉が置かれる。

「ここで採れたものだ。口に合えばいいが」

「美味い。恵声流エゼルは喰べないのか?」

 トワキの問いに、恵声流エゼルは微笑んで答えた。

「僕の幸福は食事にはないからね」

「そうか……? じゃあ、恵声流エゼルにとっての幸福って何なんだ?」

 トワキがまた尋ねた。

(今日はよく喋るな……)

 いつにない積極的なトワキを見て、コガネは少し驚いた。

「僕にとっての幸福は、全ての人間が争わずに、安寧に生きていくことだ。そうなる手助けを僕はしたい。難しいことだがね……」

 眉を顰めた恵声流エゼルに、トワキは断言する。

「できるさ恵声流エゼルなら!」

 その熱の籠った声を聞いて、コガネは箸で掴んでいた漬物を落としてしまった。

(トワキ本当にどうしたの⁉︎ )

 コガネは心の叫びを口に出しそうになる。


 暫くして。

 恵声流エゼルは思い付いたように手を鳴らした。

『トワキ。コガネ。君達もここで暮らしなさい。新たな友を僕は歓迎する』

 突然の提案に、コガネは驚く。

「すまない恵声流エゼル

 コガネより早く、トワキが答えた。

「──それはできない。私達にはやることがあるんだ」

 トワキに断られた恵声流エゼルは少し俯く。

「そうか、なら仕方がないね」

 そう言うと、恵声流エゼルはまた顔を上げた。

 先程までとは打って変わって、その顔はどこか冷たく見える。


          ◯


 二人は今晩泊まる家に案内される。

 トワキは案内役の娘とはさして喋らない。

 いつものことだ。 

 コガネは疑問に思う。

(やっぱりトワキが変になるのは、恵声流エゼル様のときだけだ!)

 恵声流エゼルの屋敷の後ろにある花咲く丘を下りると、丸みを帯びた茅葺き屋根の住居が沢山並んでいる。

 その中の一つに、二人は通された。

 囲炉裏に火が灯され、橙色の光が広がると、案内をしてくれた村の娘は帰っていった。

「トワキ、何か今日変だよ?」

 案内人が辞して早々コガネは尋ねた。

「何が? 何も変じゃないよ」

恵声流エゼル様に対して……」

「無礼だったか?」

 トワキが不安気に眉を曲げる。

「そうじゃないけど。あんなに積極的に他人とお喋りするトワキ、私初めて見るから驚いちゃった」

 トワキは少し黙ってから、喋り始める。

「……恵声流エゼルは似ているんだよ。兄さんに。雰囲気や声が。恵声流エゼルと話していると、死んだ兄さんに私の声が届いていくような気がする。そんなことはないのだろうけど。〈あの日〉のこと、謝れるんじゃないかと考えてしまうんだ」


 あの日……トワキが初めて鬼神となった日。

 鬼と化した彼は兄を殺した。

 コガネもそのことは既に聞いていた。

 言葉を出せないコガネに、トワキが微笑む。

「私の気が晴れるだけさ。心配しなくても、ここに残るなんて言わない」

 トワキは挽き板の上に寝転ぶと、そのまま眠ってしまった。

 コガネの背負っている葛篭からヤエが出て、トワキの周りをグルグルと回っている。

 獣は腹を空かせているのだろう。


          ◯


 夜。漆黒に染まる空の下で、恵声流エゼルの屋敷だけは明かりが灯っている。

  灯しを挟み、恵声流エゼルと数人の村人が対面する。

恵声流エゼル様、なぜ?」

 そう尋ねるのはトワキ達の案内をした娘だ。

 疑問を呈しているが、娘の表情は固く張り付いて、感情を表さない。

 恵声流エゼルが口を開く。

「彼は僕に心を開いていた」

「でも、恵声流エゼル様を拒絶した」

「僕の〈言霊ことだま〉が効かないのは、僕と同等の存在が奴の中にいるからだ……」

「あの娘も?」

 別の村人の問いに、恵声流エゼルは首を横に振った。

「娘の方はただの人間のようだが……まだ僕に心を開ききっていないのだろう。瞳を見れば分かる」

 灯火が揺れる。

 恵声流エゼルの影が徐々に肥大する。

「いかにせよ、奴が神になり得る存在ならば、死んでもらわなくてはならないね」


          ◯


 翌朝。

 コガネは目を覚ますと、家の中にトワキの姿がないことに気が付いた。

「トワキ……」

 コガネは荷物を持つとトワキを探し外へ出る。

 その首には、ヤエが細長い身体を巻き付かせている。

 早朝の青みがかった外は少し寒く、コガネにはそれが心地よかった。


 コガネは花咲く丘の上に、トワキとエゼルが立っているのを見付けた。

 恵声流エゼルと別れる前に、トワキは気が済むまで話をしたいのだろう。

 その存在に、兄を重ねて……


 静かな丘を、恵声流エゼルの声が下ってくる。

「発つのかい……? もう少しゆっくりするといい」

 トワキの声も下りてきた。

「本当はそうしたい。でも、私達にはやらないといけないことがある。世に蔓延る、呪いの元凶を討つんだ。急がなくては、いずれこの村にも災いが来る。その前に……」

 風が二人の髪を靡かせる。

 トワキの結われた黒髪と、恵声流エゼルの白い長髪。

 その動きが収まるとき、朝の空気が一段と冷え込んだ。

『ここで暮らせ。トワキ』

 旭光を背に受けた恵声流エゼルの顔を、影が塗り潰した。

「すまない恵声流エゼル。私は──」

「ふん……矢張り効かないか」

 恵声流エゼルの目付きが変わる。

 ──そのとき。

 コガネは恵声流エゼルの睨むような目付きから、無数の針で突かれるような鋭い殺気を感じ取った。

 トワキもそれを感じ取ったはずだった。

 しかし、彼は動かない。

 刀を構えるでも、距離を取るでもなく、ただそこで固まっている。


「トワキ逃げて!」


 コガネの声を聞いても、トワキは動けなかった。

 トワキは信じたくなかった──恵声流エゼルが敵だということを。

恵声流エゼル……君は……」

「トワキ。僕は安寧をもたらす神だ。この世界で唯一の神と崇められるべき存在だ。我が世界に君は邪魔なんだ」

 トワキを包み込むように景色が歪む。

「トワキ!」

 後ろからコガネに呼び掛けられ振り向くも、既にその姿は消えていた。

「これは……幻術か? ……恵声流エゼル!」

 朝日に吸い込まれるように恵声流エゼルはトワキから遠ざかっていく。

『トワキ。この世に金科玉条きんかぎょくじょうを説く神は二つもいらない。人々は僕の言葉だけに従えばよいのだ。ゆえに、同格の存在には消えてもらわねば……な』

 大地は山や森を貼り付けたまま、筒状に折れ曲がる。

 徐々に旭光は遮られ、やがてトワキの視界は暗黒に染まった。


 光が灯る。

 火の明かりだ。

 気付けばトワキは古い家の中に立っていた。  

 それはもう二度と入ることはないと思っていた家だった。


 囲炉裏の側に、男が座っている。

「カドダイ……」

 既に死んだはずの男が囲炉裏の火にあたり、ノミを片手に小さな木像を彫っている。

『トワキ……お前もこっちに来ないか? その世界はお前には生きづらいだろう?』

「私にはしなければいけないことができた。まだそっちには行けない」

 トワキはそう言ったものの、恩人を殺してしまった罪悪感が、身の底から湧き上がってくる。

 トワキはカドダイの片手にある木像を見る。

 かつて男が彫っていたのはチタキヒメという神だった。

 しかし今形作られている木像の姿は、チタキヒメとは似ても似つかない。

 湾曲する角を生やし、顔の窪みには大きな球体が嵌め込まれている。

『悪しき巫女を討つか……お前がいなくとも、いつか恵声流エゼルがやってくれるだろう』

 カドダイが立ち上がる。

 その身はすらりと伸びて、カドダイは恵声流エゼルへと姿を変えた。

 恵声流エゼルは冷たい瞳で、トワキを見下ろす。

「何のつもりだ恵声流エゼル⁉︎」

『僕の幻の世界は君の心を映す……言わば鏡さ。君のことは君自身が教えてくれる。君の心にある闇が、ここに現れたんだ。トワキ、君はただ死を望めばよいのだ。さすれば、この世界で君の肉体と魂は切り離され、安らかに死ねるだろう。苦しむ必要はもうない』

 トワキは咄嗟に刀を振おうとするも、帯刀していたはずの刀が、腰から消えている。

『そんな物はもう必要ない。だろ?』

「ここから出せ恵声流エゼル!」

 トワキは固めた拳を放つも、恵声流エゼルはそれを片手で受け止めた。

『助けを期待しても無駄だぞ。この世界の時の流れは現実とは異なる。ここに幾らいようが、向こうでは数瞬にも満たないだろう』

 トワキは鬼を呼ぼうとするも、身体から極めて細い黒煙が、弱々しく数本伸びるだけだった。

『驚いた。鬼の世界はこの夢幻の世界にも繋がるのか。だがしかし、それでは化け物は呼び寄せられまい』

 恵声流エゼルは不敵に笑ってみせた。

『少し旅をしようか』

 恵声流エゼルがそう言うと、カドダイの家は溶けて消える。

 恵声流エゼルの作る夢幻の世界は形を変えた。


 トワキは恵声流エゼルと共に海辺に立っていた。

「旅だと?」

 トワキは拳を収める。

『僕の記憶の旅だ。見たまえ』

 恵声流エゼルが手を示す方へ、トワキは視線を動かした。

 濡れた浜に人が立っている。

 長髪は頭上で結われ、身に纏う装束も異なるが、その顔は正しく恵声流エゼルのものだった。

『遥か昔、僕の憑代になった者だ。名はゾルデという。彼の肉体を元に、僕の姿は形作られている』

「……化け物が」

『違う。僕は神だよ』

 恵声流エゼルが払い除けるように手を振ると、また景色が変わった。


 夜の森の、苔むした岩が囲む中に、火が灯る。

 岩や倒木の上には、先程見たゾルデと同じ白い筒袖姿の男達が座っている。

 炎の照り返しに染まった彼等の胸元には、翡翠の玉や、硝子の装飾が煌めいている。

 奥には、枝が落ち、樹皮も剥げた一本の巨木が屹立しており、その根元にゾルデが立っていた。

 ゾルデが面を着ける。

 玉虫の羽を貼られた面の造形は、先程カドダイが彫っていた木像の顔と似ている。

 光沢のある緑色の中央には、金色の球体が一つ目のように輝いている。

「彼等は何をしている?」

 トワキが恵声流エゼルに問う。

まつりごとさ。神と繋がった彼の言葉が皆を導くのだ』

「お前の言葉で、だろ」

『この頃の僕はまだ自我を持っていない。この精神は、長い時間、多くの人々との繋がりを経て形成されていった』


 目の前の光景が霞となって消える。

 そして、トワキの足元に、傷付いたゾルデの死体が現れる。

「殺されたのか?」

『……ああ。彼等は皆、争いで死んだ。僕を神と崇める集団がいるのと同じく、別の神を崇める集団も存在している。それらは決して相容れないのだ』


 恵声流エゼルの姿が消え、辺りに鬼の黒煙が満ちる。

 それはトワキが出したものではない。恵声流エゼルが作る幻だ。

 巨大な影が、トワキに覆い被さる。

 トワキの見上げる視線の先、黒煙から伸びた鬼神の腕に、ニギの里の神、チタキヒメが掴み上げられている。

 吊るされて伸びるチタキヒメの長い首。

 腕や太い脚も、力無く垂れ下がる。


 恵声流エゼルはトワキがカドダイを殺した日を再現する。


 チタキヒメの顎にカドダイが挟まれている。

 牙に貫かれたカドダイの腹部は血に染まっている。

 カドダイはトワキを蔑むような目付きで睨む。

『お前なら分かるだろう? 我等を受け入れず、姫神様を殺したお前ならば』

 鬼神の強まる握力に、チタキヒメの頭部が軋み始める。

「やめろ恵声流エゼル!」

恵声流エゼル? 俺を殺すのはお前だろ? トワキ』

 鮮血が迸る──鬼神の腕がチタキヒメの頭部諸共カドダイを握り潰した。

『うああああぁっ──』

「カドダイッ!」

 カドダイの叫び声が響く中、トワキは闇に落ちていく。

恵声流エゼル……」


 闇に浮かぶ光球。

 青銅で作られたかのような、緑青色の外殻。

 前方に向けて伸びた二本の角は湾曲し、向かい合っている。

 現れた怪獣の巨大な頭部はトワキを見据える。

「こんなものを見せて……私が死ぬと思っているのか?」

 怪獣の顔に嵌め込まれた球体が明滅する。

 その発光に合わせるように、恵声流エゼルの声が闇にこだまする。

『死ぬさ。何故なら、君はかつてはそれを願っていたからね、トワキ。僕は僕に心を開いてくれた者を操ることができる。〈言霊〉と呼んでいる力だ。全ての人間が僕を神と崇めたとき、僕はこの力で人々を先導する。争いのない静謐せいひつな世が訪れるだろう。その為には僕以外の神は要らない。ゆえに君は僕の世界には邪魔なのだ』

「妄言だ。私は神になどなる気はない」

『君にその気がなくとも、その力を見た人々の中に、君を神と崇める者が現れるはずだ。さあ、死を望めトワキ。君が死を望みさえすれば、その魂は我がものとなり、その身体から引き剥がすことができる。万人が願う、安らかな終わりで死ねる』

「断る」

『ならば生を苦しめ』

 恵声流エゼルの幻が景色を変える。


 煤だらけの大地に立つトワキの周りに、幾つもの黒い塊が現れる。

「これは……?」

 トワキは近づいて塊を見る。

 その途端、強い嘔気に襲われた。

「ぐっ、恵声流エゼルッ!」

 トワキの背後に恵声流エゼルが現れる。

『分かるだろ? 鬼になった君が焼き殺したシトウの民だ』

 黒い塊──それは焼け焦げ、うずくまるような姿勢で死んだ、トワキの故郷、シトウの里の人々だった。

『探してみるか?』

 怪しく笑う恵声流エゼルに、トワキは詰め寄る。

「何を考えている!」

 恵声流エゼルの口角が上がる。

 涼しげだった顔には悪意が満ちる。

『君の母親だよ。ここにいるはずだろ? あの夜、君は恐怖と罪悪感から、この場を立ち去った。君が逃げずに探せば、あるいは助かった命もあったかもしれない』

 恵声流エゼルが左腕を横に伸ばし、指し示した。

 その方向を見ると、鮮やかな着物を纏った女が、焼死体に混じってうつ伏せに倒れていた。

 恵声流エゼルはそこへ近づいていく。

 すぐにトワキは〈それ〉が何かを察した。

「やめろ恵声流エゼル! やめろっ!」

『君が怒りを向けるべきは僕ではない──』

 恵声流エゼルは女の長い髪を掴み上げて、その顔をトワキに見せ付けた。

 眠るように瞑目した、静かな表情。

 それはトワキの幼い頃の思い出に出てくる、母親のものだった。

『君が怒るべきは、君自身だ』

 幻と分かっていても、トワキの気息は乱れていく。

『清算のときだ、トワキ』

 周りがまた変わる。


 室内──トワキ達がヨズモの里に逗留した際、里長のオオクラに借りた家の中だ。

 そこにはコガネが一人座している。

 連子窓から射し込む夕日が、彼女の裾から出た脚を橙色に照らしている。

 夕日はまるですぐ近くにいるように、強い日差しを照り付ける。

『トワキ……もう旅はお終いにしよう』

「何を言っている。私達は日姫神子ヒメミコを倒すと──」

『無理だよ。日姫ヒメと戦う前にきっと死ぬ。あなたも、私も』

「お前はコガネじゃない。全部恵声流エゼルの言葉だ!」

『ええ。でも恵声流エゼルこそ正しい』

 コガネから血が滴る。

 その身体が傷付いて、血が流れ出る。

 トワキは偽りのコガネから背を向ける。

「やめろ。そんなものを私に見せるな!」


 オオクラの家は消え、辺りに草が生い茂る。

 夕日に照らされた草原は、トワキの見覚えのある情景だった。

「何故人を支配しようとする?」

 トワキの問いに、背後から恵声流エゼルの笑い声が返ってくる。

『ハハハ! それは手段に過ぎない。僕はねえ、人々を愛している。ゆえに助け出したいのだ。この不浄な世からね』

「何が不浄だ。お前が気に入らないだけだろ」

『君とてそうだろう? だから天蓋てんがい伴山ともやま彼岸山ひがんざんへ向かうのだろう? 悪しき巫女を殺しに。気に入らぬ者を殺すために。僕とは違い、君のそれは単なる一時の気晴らしに過ぎないがね』

 言い返そうと、トワキは振り返る。 


 だが、そのとき。

 涙が頬を伝った。

 トワキの目の前に立っているのは、死んだはずの兄、ケイテイだった。 


「……兄さん」

『恐れなくていい。死は終わりではない。そこから別の者達が人の世を紡いでいく。俺を殺してここまで旅をしたお前ならば分かるはずだ。お前が死んでも、その魂は恵声流エゼルの糧となり、彼に更なる力を与える。安寧への礎になるのだ』

 近寄る兄はトワキの手を取り、草原を歩いていく。

 手を引かれるままに、トワキは黙って歩く。


 赤い夕日はいつまでも沈むことなく、二人を見つめている。


 無限に続く草原。

 だが、ケイテイが向かう先には闇が蠢いている──無限の中の唯一の終わり。

 そこから甘い香りが漂った。

 闇に呑まれたら最後、自分は死ぬ──そう気付いて、トワキは兄の手を振り解く。

 ケイテイは落胆の声を出した。

『何故だトワキ。何故心を閉ざす……』

 トワキは答える。

「兄さんの手は、そんなに冷たくはなかった」

 ケイテイは振り解かれた手を見た。

『そんなことで……』


 草原が消える。

 辺りに満ちるのは鬼の黒煙だ。

 夢幻の世界に再びニギの里が現れた。


 だがその幻は恵声流エゼルが作ったものではなかった。


 偽りのケイテイは驚く。

『何と。僕の能力に干渉したのか。こんなことは初めてだ』

「ここは私の記憶を元に作られた偽りの世界だ。ならば支配してやる! 恵声流エゼル! 私の思い出をお前の武器にはさせない!」

 トワキは夢幻の世界に恵声流エゼル同様、カドダイを殺めた日のニギの里を再現した。

『ほう、結構な意気込みだ。だがそれがどうした? ここにいる鬼は形だけの飾り物に過ぎないぞ。君が操れるものではない』

「ああ、そうだな──」

 トワキは黒煙の中で何かを拾った。

「鬼より扱いやすい物がここにある!」

 トワキは腕を振るう──その手には〈刀〉が握られている。

 それはいつかカドダイから譲り受けた物だ。

「ずっと。ずっと心残りだった忘れ物だ」 「なっ⁉︎」

 ケイテイの身体から血液が迸る。

 カドダイを殺めた日。ニギの村に取り残された刀を、トワキは記憶の淵から手繰り寄せた。

 その刀の刃を受けたケイテイは狼狽する。

『何故だ! これはお前の愛する兄のはずだ! 何故斬れる⁉︎』

 トワキは笑顔を作った。

「本物はとうの昔に、殺したよ」

 偽りのケイテイ──恵声流エゼルは血を吹きながら怒りに叫んだ。

『おのれ! トワキィィィッ!』

 夢幻の世界に終わりがくる。

 幻は綻んで、眩い光となって消えていく……


          ◯


 トワキは幻術から覚める。

 その手には刀が握られていた。 

 トワキは無意識に腰から刀を抜いていた。

「帰ってこれたのか……?」

 血に濡れた刀身。

「くっ」

 幻術による影響か、トワキを激しい頭痛が襲った。

 痛みを堪えて薄目を開けると、眼前には首元を押さえ、地面に膝を落とした恵声流エゼルの姿があった。

「トワキ! そいつから離れて!」

 花咲く丘の下。トワキの背後よりコガネの澄んだ声がする。

 トワキはそれが現実のものだと確信できた。

『やれやれ……』

 恵声流エゼルが立ち上がる。

 白い衣は血に染まっている。

『血の気の多い小僧だ……そんなことだからお前の周りでは人が死んでいく』

 恵声流エゼルの殺気に満ちた視線に、トワキは思わず後退りした。

 恵声流エゼルは左腕を伸ばし、虚空から面を掴み取る。

 褪せた緑に、輝く一つ目。

 古くなっているが、その面は幻の中でゾルデが着けていた物と同じ物だった。

『君の意思で死ねたものを……こうなれば僕自ら叩き潰すしかなくってしまった。〈エゼルの世界〉にお前は要らない』

 恵声流エゼルは面を装着する。

『顕現』

 そう言うと恵声流エゼルは人の形から、本来の姿へと変わる。

 トワキの前に聳え立つ緑青色の巨躯。

 青銅で作られたような身体には、深い溝が走っている。

 湾曲し、環状になるように向かい合った二本の角が頭部に生える。

 顔面の中央、満月のように丸い剥き出しの単眼が、妖光を浮かべた。


 怪獣体・エゼル出現。


 トワキから鬼の黒煙が溢れ出る。

「神だなんだ言って、結局は化け物だなエゼル!」

 怪獣となったエゼルは、長い指を広げ、頭を押さえる。

『ああ、嫌だ。この姿になると昂ってしまう』

 トワキは丘の下にいるコガネに平手を向けて、ここから離れるように促した。

「何があったか知んないけど逃げるよヤエ!」

 コガネは巨大な怪獣に威嚇するヤエを拾い上げて、急いで距離をとる。

 エゼルの爪がトワキに向けられる。

『潰れて死ね!』

 迫る爪を防ぐべく、黒煙は鬼神の腕となり、エゼルの手首を掴んだ。

『ふん、矢張り出るか。鬼め』

 エゼルは鬼神の手を振り解く。

 強い力で掴まれたエゼルの腕には、無数のヒビが走っている。

 黒煙は盛り上がり、トワキも怪獣の姿へと変わる。


 鬼神出現。


 二体の怪獣が対峙する丘から花弁を乗せた風が吹き下りて、コガネの髪を靡かせる。

「トワキ気を付けて……」

 コガネの見上げる先、鬼神がエゼルに近づいていく。

『エゼル、お前は非力だ。こうなった以上は、お前は私には勝てない』

 エゼルの単眼が明滅する。

『笑えぬ冗談だ。僕はこの世にただ一つの神となる存在。お前なんぞ、何の障壁にもならない!』

 エゼルは手刀放つ。

 しかし鬼神はそれを容易く受け止めた。

『ほらな。この程度だ』

 鬼神はエゼルの手を握り潰し、そのまま拳を顔面に叩き込む。

 エゼルの単眼は潰され、内部の光源が露出する。

 『グオォ!』

 苦悶の叫びを上げるエゼルに、鬼神となったトワキは更に追撃を加える。

 打ち込まれる拳に、エゼルの外殻が砕かれていく。

『脆いなエゼル! こんなものか! 所詮お前は口だけだ』

 鬼神は振り上げた前腕から〈十拳とつかの剣〉を伸ばした。

 ──そのとき。

 エゼルの環状の角が発光する。

 角に蓄積された熱は光となって、単眼の光源から放たれた。

 発射された高熱の光線は鬼神の胸部で爆発する。

『死ねぇ! お前はこの世にいらん存在だ!』

 光の筋が幾本も走り、爆発を繰り返す。

 ──しかし、それでも鬼神を止めることはできなかった。

『オラァ!』

 鬼神は十拳とつかの剣をエゼルの右肩に突き刺すと、そのまま腕を斬り落とした。

『グアァァ!』

 エゼルが咲き誇る花の丘に倒れた。

 鬼神の口腔に紫炎が溜まる。

『やめろぉ……やめろトワキ……』

『それも〈言霊〉か? だが私には効かないぞエゼル!』

 鬼神は容赦なく紫炎を吹き掛けた。

『ぐおおおぉ!』

 叫ぶエゼルを紫の炎が包み込む。

 高熱の火は周りの花も焼いていく。

『私の……私の世界が……崩れていく……』

 赤熱し、溶けてゆくエゼルの巨体。

 単眼の光も徐々に弱まり、やがてエゼルは静止した。


 戦いに勝利したトワキの鬼神は、その身体を徐々に煙に戻していく。


          ◯


 エゼルを倒してなお、受難は去らない。

恵声流エゼル様を、よくも……」

 先程の戦いを見守っていたコガネの周りに、包丁や鍬など、武器になりそうな物を持った村人が集まってきた。

 彼等の目は怒りに満ちている。

「痛っ」

 コガネに石が投げられた。

 ヤエが長い耳と毛を逆立てて威嚇するも、村人達は止まらない。

「エゼルの洗脳が続いているのか⁉︎」

 人の身に戻ったトワキは、紫色に燃える丘の上からコガネの元へと駆け下りる。

 トワキはコガネに迫る村人の一人を蹴り飛ばすと、もう一人、得物を持った男を峰打ちで叩き伏せた。

「無茶するよね!」

「彼等には悪いが、加減などしてられん!」

 村人達はまだ迫る。


 崇める神を倒された憎しみが、彼等を突き動かしていた。


 再びトワキを頭痛が襲う。

「チッ……こちらにも余裕はない。次からは斬る。いいな?」

 トワキはコガネの瞳を見る。

 コガネは少しばかり瞑目する。

 そして目を開き、黙って頷いた。

恵声流エゼル様の仇ぃ!」

 鎌を向けてくる男をトワキは斬った。

 続いて女が振り下ろした鍬を避け、その腕を切断した。

 トワキは次々と襲い掛かる村人を撫で斬りにする。

 足元には血溜まりが作られる。

 返り血が顔や衣を赤くする。

(エゼルの言うとうりだ。私の周りでは人が死んでいく)

 トワキの心に、闇が広がる。

 ケイテイを殺し、カドダイを殺し、今、ここで暮らす村人達を殺している。 


 トワキに切先が迫る。


 小刀を掴んでいるのはまだ子供だ。

 それを見て、トワキの刃が止まった。

 小刀がトワキに刺さろうとする。

 その直前──燃える丘の上から声が響く。 


『もうよせ……』


 その声を聞いて、子供の手から小刀が落ちた。

 他の村人達も皆、武器を下ろした。

 村人達は燃えるエゼルを見上げる。

『僕は負けた……もう死ぬだろう。これ以上の争いは……死人を増やすだけだ……僕の望みは……安寧……の世界』

 エゼルは途切れ途切れに言葉を紡いでいく。

 最期の言葉を絞り出すエゼルに、人々は跪き、祈るように手を合わせる。泣いている者も少なくなかった。

『傷付いた者を手当てし……間に合わな……かった者は、埋めなさい……そして、その上には、花を……植えるのだ……全てが終われば……僕……恵声流エゼルのことは忘れて……皆、好きに暮らしなさい……』

 やがて、紫の炎はエゼルの巨体を焼き尽くした。

 エゼルの言霊を受けて、村人達は立ち上がる。


          ◯


 村から神が消えて、数日が経つ……

 静かだった村で今は子供達が喧嘩をしている。

 この村にはもう恵声流エゼルを知るものはいない。言霊は村人の記憶から恵声流エゼルの存在を消した。 


 やがてはこの村にも名前が付くだろう。

 

 






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