第九話・海洋の怪獣〈オラゾア〉

 第九話・海洋の怪獣〈オラゾア〉

  

          ◯


 海。無辺際の水の領域。山の切り立つ崖の上で、トワキとコガネはそれを見た。

「コレが海か。初めて見るが本当に凄いな。見渡す限りの青の原っぱだ」

 これ程大量の水が世界に満ちていることに、トワキは驚いた。

 見下ろすと海辺には漁村があり、乾いた色の家屋が沢山並んでいた。

 沖には緑を被った大きな荒削り岩達が、柱のように立っている。何そうかの舟も見える。漁をしているのだろう。

 トワキには海魚を喰べた記憶がない。海が塩っぱいのならば、そこ棲む魚もきっと塩辛いに違いない──と、トワキは想像した。

「へー、トワキは初めて海を見たのか」

 コガネが深く息を吸い込む。

「ここからだと潮の香りはしないねぇ」

「潮の香り? いい匂いか?」

「ううーん、どうかな。よくはないかなぁ?」

 そう言ってコガネは首を少しだけ傾げた。

「下りて自分で確かめなよ」


          ◯


 トワキ達は木々の間の小道を抜けて、漁村へ下りた。家屋の軒下に、棘だられで膨れっ面の、珍妙な魚が吊るされている。魔除けだろうか。トワキはかつて暮らしていたシトウ族の里にも、魚ではないが、似たような風習があったことを思い出した。

「見てトワキ、魚の死骸がある! あ、こっちには猫の死んだ奴がいるよ」

 コガネはあちこちに飛び付く。

「そんなものに興味を示すな。それよりもこの辺に泊めてくれる家がないか、聞いてみてくれよ」

「えー自分で聞いてくればー?」

 コガネは冷ややかな視線を向けてくる。

「……え」

 トワキは言葉を詰まらせた。

 知らない人間に喋り掛けることは、トワキにとっては緊張の極致に達する行為だ。

「うそうそ、お喋りは私の仕事だね。トワキはお供をしてくれてるわけだし、そのくらいは私がしますよだ。あははっ」

 不憫に思ったのか、コガネはわざとらしく笑い流した。


 漁獲を盗みに来たのか、鳥と蜥蜴の中間のような生き物が、板屋根の上に乗っている。 皮膜の翼を広げ「ガァガァ」と鳴くこの生き物の名は蛇鳥ジャチョウだ。雄には立派な鶏冠があり、雌の方は控えめだ。

 トワキとコガネは蛇鳥達に睨まれながら漁村を歩く。魚の選別をする者、網の修繕をする者、昆布を担ぐ者……などなど、コガネは色々な人間に声を掛けたが、「しっし」だの、「うっさい」だの、そもそも無視されたりと、まともな返答は返ってこなかった。

 コガネは初老の男に、擦れ違いざま尻を引っぱたかれた。

 トワキは供をったその男を睨んだ。

 男もこちらを睨み返す。

 一発尻を蹴飛ばしてやろうか──、そうトワキは考えたが、コガネに宥められた為、揉め事が起きることはなかった。

 ここが余所者に排他的なのは、そもそもの土地柄なのか、声を掛ける人選を誤ったのか、あるいは他に理由があるのか。コガネが話し掛けた者達は皆、どこか焦燥している様子だった。

「私、とても、悲しい」

「諦めるな。まだまだ人はいるじゃないか」

「逆に心が折れそうなんだけど」

 コガネは嘆く。


 トワキとコガネは浜に出る。

 広い砂浜には、むしろが何枚も敷かれ、天日に干された魚が整然と並ぶ。奥の方には、沢山の魚が竹竿から吊るされている。砂浜に残る舟を引き摺った痕跡や、漁師達の足跡が、この地の活力を見せ付けてくる。

 トワキの鼻は潮の香りを感じ取るが、その独特な匂いを、好きにはなれなかった。

「はぁー」

 海を前にしたコガネは溜め息を吐くと、腰を反らして、思い切り息を吸い込んだ。

 そしてそのまま大きな声で叫ぶ──と、トワキは思ったが、コガネの口からはまた「はぁ〜」が出てきた。

「どうしたの」と尋ねると、コガネは眉をハの字に答える。

「何か潮風に当たっていると、疲れない? 戻ろか?」

 海を背に力が抜けたようにフラフラと歩くコガネを追って、トワキも広い浜を後にした。


          ◯


 浜から出た先に、重たそうに木箱を運ぶ、小太りの男がいる。男は砂利の上に、乱暴に木箱を置くと、その中に視線を落として、眉間に深い皺を刻んだ。

 コガネが男に話し掛ける。

「あのう、私達は旅の道中、この村に来ました。よろしければ小屋でも何でも構わないので、一晩だけ泊めさせてもらえ──」

 ピシャリと音が跳ねる。

 コガネが喋り終わるのを待たずに、男が木箱から取り出した魚を、地面に投げ付けたのだ。

「わっ」

 驚いたコガネの肩が小さく跳ねた。

「何だこの魚」

 トワキは地面に叩き付けられた、哀れな魚を見て驚愕した。魚の身には幾つもの目玉が、鱗の列を押し退けて見開き、その隙間には、細かな牙が並んだ口が、パックリと裂傷のように開いている。

「俺達を馬鹿にしてやがる」

 男は日焼けた手で、木箱の中身を掻き回した。木箱の中の魚達も皆、生き物としてのタガが外れてしまったか、醜い外見をしている。

 海の魚って奴は皆こうなのか?──。

 初めて見る海魚の悍ましさに、トワキは思わず眉間を寄せた。

「チッ。〈アレ〉が海に住み着いてからこうだ。時化しけ続きで、揚がってもこげなんばっかじゃ。これ以上よう分からんもんを村に入れたくねぇ」

「アレって……?」

 コガネは男が口にした、〈アレ〉について尋ねるも、男は「ケケケ」と、嫌らしく笑うばかりで何も答えなかった。

「アンタら泊まりたいのかい? 嬢ちゃんなら俺っちの腹の上に寝かせてやってもイイぜ」

 男がそう言うと、コガネは身構え、思い切り顔を引きつらせた。

「うえっなっ……。はぁ〜。もうここヤダ。行こーよ、トワキ」

 コガネに急かされて、トワキは生臭い漁村を後にする。騒がしさに振り向けば、投げ捨てられた魚に蛇鳥ジャチョウが集まっていた。先程まで仲良かった者同士が、餌を求めてつつき合う。魚を呑み込まれてもなおつつく。相手の目玉でも穿り出せれば、少しは飢えを凌げられるのだろう。


          ◯


 昼下がり、沖で漁をする一艘の小舟。

 その上で青年と中年、二人の漁師が、汗を流して働いている。

 突然、若い方が「うわぁ!」と叫び、尻餅をついた。

「何なんだコイツは⁉︎」

 若い漁師が恐る恐る小舟から顔を出すと、右舷に添うように、奇怪な魚が網に絡まり浮いている。大人程の大きさがあるその魚は、衰弱しているのか、あるいは既に死んでいるのか、動くことなく波に身を任せている。

「魚の癖に腕がある。肩がある。首まである。かっ、顔なんか、まるで……」

 顔に汗の粒を浮かべたもう一人が、若い方に指示をする。

「ボヤっとせんと、てごせぇ。村さ持って帰っぞ」


          ◯


 トワキ達は漁村を流れる河を伝って、山へと戻る。

 コガネの背負う葛篭から、ヤエが顔を出した。その吻が「スンスン」と音を鳴らして、小刻みに動く。

 山の気の方が獣には合うのだろうか──そんな事を考えながら、トワキはヤエのひくつく鼻を、チョンと指先で触れた。


 河から外れて山の細道を上ると、切り立つ岩壁があった。

 岩壁には大きな裂け目があり、その中の、どっしりと座した巨石の上には、小さな御堂が建っている。

 岩壁に押し込められた古い御堂。その周囲には貝殻が積もっている。

 コガネが御堂の扁額に書かれている文字を読む。

「カイ……ロウ……ドウ?」

 扁額には〈海牢堂〉と書かれていた。

 二人は巨石を上り、御堂の中に入った。

 八角形の古い御堂の床は意外にも綺麗だ。

 トワキは壁に絵が描かれている事に気が付いたが、絵具が薄れていて、何が描かれているのか分かりづらい。ただ一つ、天女だろうか。羽衣を纏う女の姿が、何とか判別できた。

 トワキが壁と睨み合っていると、コガネが声を張る。

「今日はここで寝よ!」

「今晩は小石で背中を痛めないみたいでよかったね」

 コガネは奥の板壁に背を預けて座った。

 トワキも刀を置いて床に腰を落とす。

 開いた引き戸の外にあの湾が望める。

 遠くに眺める海は、絵のように動かぬ景色だった。

「あーあ、お魚が喰べれると思ったのにねぇ。私が喰べられちゃうところだった。あははは!」

「どういうこと?」

 笑うコガネにトワキが問うと、コガネは困ったような顔をした。

「ええと、何でもないよ」

 目を閉じてくつぐコガネは、葛篭から出てきたヤエを撫でている。

 ヤエも甘えてコガネの膝に乗る。

「ヤエ、あなたも何だか成長したね〜。籠も手狭になってきたよ。そろそろ入れなくなるんじゃあ──ンアッウグぎゃああー!」

 安らぎ一転。

 トワキの背後から、静寂を打ち砕くバリバリという破壊音と、コガネの悲鳴が聞こえてきた。

 思わずトワキも叫ぶ。

「おいおいおい! 何事だ⁉︎」

 コガネのいた方へ振り向くと、板壁が割れて、御堂の裏手に隠れていた岩の壁面が露出していた。そして、そこには洞穴の入り口が、黒々とした口を開けている。

 中からコガネの声がする。

「うえぇ、痛いヨーゥ」

 おちゃらけた声の調子から判断して、大事には至ってないのだろう。トワキはひとまず安堵する。

 虚を衝かれたヤエは顔に皺を寄せ、「シャーッ!」と鳴いて、洞穴に向かって威嚇している。

 トワキは穴の中に声を掛ける。

「……穴に落ちたのか? 大丈夫か?」

 壁から斜めに下る洞穴の内部は、多孔質の岩でできており、所々、枝分かれした突起が露出している。

 トワキは折れて落ちていた、その特徴的な突起を拾った。その正体はすぐに分かった。珊瑚だ。

 トワキは子供の頃に屋敷で飾られているのを見たことがある。

 確か珊瑚は海のものだろ? 何故こんな穴の中に生えている?──。

 疑問を抱きつつ、落ちていったコガネを迎えに、トワキは洞穴の奥へと下りていく。

 洞穴の床面は段になっている。

 まるで人を通す為に、誰かが作ったようだ。

「トワキ来て来て! 凄いよー」

 コガネの呼び声が聞こえてきた。

 その声を聞き、トワキはコガネが無事である事を確信した。

 下りるごとに通路は広まり、珊瑚の枝も増えて、まるで森の中を歩いているようになる。

 視線の先の壁面は、最奥に満ちる光を反射している。

 そして。

 トワキの視界を瑠璃色が占領した。

 まさか御堂の裏にこんな空間があるなんて……!──。

 洞穴を下りた先にある間は、まるで光射す海の中のように、青く明るく美しい。そこは海を忘れた珊瑚達が築いた、瑠璃色の空洞だ。


 トワキをいざなう声音が響く。


 美声は反響し、少女は宙を漂う。

 金の髪が柔らかく揺れる。

 胸元から下り、黒の衣を撫でていたコガネの月白色の布が、ゆっくりとなびいた。

「トワキ……」

 どこからか射す光を帯びて、洞の中央に浮かぶコガネは、両腕を広げた。トワキは一歩踏み込んで、その手を取る。途端、身が軽くなる。後ろで結った長髪が持ち上がるのが分かった。まさに水の中にいるような心地。海底を歩くような気分になった。

 踏まれた白砂は湯気のように立ち上がる。隅には切り株と見紛う程の、大きな磯巾着イソギンチャクがいる。その触手は黄色、紅色、紫色と様々に色を変えながら揺れていた。

「コガネ……ここは?」

「分からない。でも楽しい」

「楽しい?」

「楽しい! トワキ踊ろうよ!」

 トワキは思わず苦笑い。

「踊りなんてそんなの、私には分からないよ」

「適当に動くんだよ。ホラ」

 コガネはそう言ってトワキの手を持ち上げ、それを軸に一回りした。広がった衣がゆっくりと、波打つように舞うと、裾が上がり、コガネの太腿が顕になる。

「うへへっ! 見ないでっー」

 笑いながらコガネが飛び跳ね、身体を浮かせた。その両の手を取ってトワキも浮いてみる。


 瑠璃色の空間を、トワキとコガネは漂う。


「近いんですけど」

 トワキが空中で姿勢を崩すと、コガネがそう言った。

「じゃあ離してやる」

 トワキはコガネを掲げて、真白に光が溜まった天井へと投げた。

 コガネは「わぁ」と子供のような顔で笑い、そのまま一回転。背を下にして落ちるコガネを、トワキは両腕で受け止める。

 トワキの一つに結われていた黒髪がほどけ、コガネの切り揃えられた金の髪と交じり合う。


 色とりどりに光を放つ珊瑚礁の筒の中、二人はまた少し踊った。


          ◯

 

 日が傾き、空の色が青から赤へと移る頃、漁村の薄暗い小屋の中に、漁師達が集まる。

 何かを見下ろす漁師達は皆、眉間に皺を寄せ、剣呑な顔付きをしている。その視線の先には、大きな魚が横たわっている。

 魚──しかしその頭部から腹鰭辺りにかけては、人の上半身に似ている。

 昼下がりに網に掛かった魚は人魚だ。

 人魚はまだ生きているらしく、バクンバクンと音を立てて、胸に切り込まれたえらを開閉させた。それに慄き、下がる者達を退けて、かいを持った日焼けた男が現れる。昼間にコガネと話した男だ。

「コイツだ! コイツ等が俺達の海を駄目にしたんだっ! 返せ! 海を返せぇ!」

 男はそう怒鳴ると、人魚の頭目掛けて櫂を振り下ろす。


 それが合図となった。


          ◯


「嫌な気配がする」

 トワキは解けた髪を結い直すと、コガネを残して瑠璃色の間から出た。不思議な空間から出た途端に、身体が重さを取り戻し、トワキはつんのめるが、何とか段に手を当てて、体制を立て直す。

 御堂の外を睨むヤエが見える。獣も迫り来る異様な気配を察知したのだろう。トワキは洞穴を出ると、そのまま御堂を飛び出して、赤くなりつつある空の下を走った。木々の隙間から湾を見ると、沖の方に黒い帯状のものが、一直線に連なっている。


 津波だ──。


 巨大な津波が漁村に迫っている。

「逃げろ津波だ! 皆死ぬぞ! 逃げろぉ!」 

 災厄の接近を、トワキは山の上から漁村に呼び掛けるも、荒ぶる海は人の声など容易く掻き消す。

 津波が漁村を襲う。

 ドス黒い渦巻きが幾つも生まれる。

 家屋の砕ける音と人の悲鳴が鳴り響き、やがて全てを乱流が呑み込む。漁村は一瞬にして海に沈んだ。

「なんという……」

 トワキの肩で、鬼神の煙が燻る。


         ◯


「なに?」

 コガネは外のただならぬ雰囲気に気が付いた。しかし、それはすぐに別の違和感に塗り潰された。

 人の気配⁉︎──。

 振り向くと白砂の上に、朱色の袿を纏った若い女が座っている。先程までは存在しなかったはずだ。

「嗚呼、遂にこのときが来よった。もはや我にも止められぬ」

 女は俯き嘆いている。

 吸い込まれる程に黒い垂髪すべらかしを、真白の砂に広げた美しい女。

 その切れ長の目は刀の切先に似ている。

「あなた、一体?」

 コガネが尋ねると、その女は自らを百代姫モモヨヒメと名乗った。

 百代姫モモヨヒメは立ち上がると、物悲しい目付きで、コガネを見下ろした。

 その背はコガネの頭一つ分程高い。

 コガネが警戒して一歩下がると、百代姫モモヨヒメは微笑した。

「なんの、取って喰いはせん。ほう、小娘や、お主も巫女か? 成程、それも大した力を持つのぉ。ちょうどよい、お主の力で我を殺せ」

「え?」

 百代姫モモヨヒメの唐突な申し入れに、コガネは面喰らう。


          ◯


 トワキは鬼神の姿になって、夕焼けの海を歩き、生存者を探していた。

 漁村があった場所は、元のトワキの三十倍はある巨大な鬼の、膝辺りまで浸かる程に、海水が満ちている。

 鬼神は辺りを見渡すも、家屋の残骸が浮くだけで、人の姿はどこにもない。

 海の中を、沢山の細かな光りが泳いでいる。怪訝に思ったトワキが鬼神の目でそれを追っていると、遥か前方、沖合より山茶花サザンカの花に似た、巨大な物体が宙を泳ぎ、こちらに迫っていることに気が付いた。

 怪獣だ。

 アイツの仕業か──。

 鬼神は勢いよく振った両腕から風神・イオラ戦にて会得した骨の白刃、〈十拳とつかの剣〉を伸ばした。

 対して現れた怪獣は花のような尾鰭を更に広げる。その中心には、ゴツゴツとした鱗を張り付けた細長い胴体が伸び、その先端には、馬のように長い骨ばった頭部が、大きく裂け、牙が整然と並ぶ口を開けている。

 眼窩からは袋状の目が露出し、水泡すいほうのように揺らいでいる。


〈海神・オラゾア出現〉


 オラゾアの袋に包まれた大きな両眼。

 その瞳孔が渦を巻く。

 それに呼応して、海より迫り上がった水柱が、鬼神に襲い掛かった。

『グォッ』

 水の勢いは、鬼神の巨体を、海面に生える岩に叩き付けた。

 更に激浪が襲う。

 岩礁を砕きながら、海底を流される鬼神。

 オラゾアは海の水を操る怪獣だ。


 海中が紫色に染まり、爆発する。


 口に紫炎を溜めた鬼神が、海水を跳ね除けて起き上がった。

 鬼神は紫炎をオラゾアに向け吹き掛けるも、そそり立つ水の壁がそれを阻む。

 鬼神は蒸気に包まれた海を走る。

 操られた津波を飛び越え、オラゾアを剣の間合いに収めた。

 しかし。

『まさか⁉︎』

 鬼神は剣を納めた。

 オラゾアはその隙を突き、激浪で鬼神を押し流す。波の中にはオラゾアの刃物のような鱗が大量に混じり、鬼神に触れる度にその身体を傷付ける。

 夕日の色は鬼神の血と混じり、海はもっと赤焼ける。


 トワキはこの怪獣を斬ることができなかった。

 なぜならオラゾアの体内に、そこにはあり得ない気配を感じたからだ。

 『コガネ……』

 鬼神の口から漏れたトワキの声を封じるように、オラゾアに操られた海の水が鬼神を包み込んでいく。


          ◯


「殺せって何? あなた何者?」

 コガネはいきなり現れて、滅多な頼みをする女を睨んだ。

 百代姫モモヨヒメは一瞬首を傾げたが、はたと頷くと口元を緩めた。

「ああ、我も元々は巫女でな。お主がここへ来れたのも、我と同様、お主が巫女だからだろう。だから道が開かれたのじゃ」

 百代姫モモヨヒメは、軽く眉をひそめると、微苦笑を見せた。

「何せこの洞は、我の力を封じるための牢獄。封じるしかない。並の者では我を殺すことはできんからの……。情けないが、我自身でも」

 そう言って、百代姫モモヨヒメは指で自分の首を刎ねるような仕草をした。

 怪奇な存在を前に、コガネは困惑する。

 気付けば先程まであったはずの、この瑠璃色の間への入口もなくなっていた。

 トワキもいない──。コガネは急に心細くなった。

「……死ねないって?」

 そう問われて、百代姫モモヨヒメは視線を移す。

 まるで遥か遠くを見つめるように、目を細め、百代姫モモヨヒメは自らの過去を語った。


 昔……。


 百代姫モモヨヒメは初めにそう置いた。

「巫女であった我は、村人の願いで海神・オラゾアと繋がり、その力を得た。そして我は飢えて苦しむ人々を救うために、時化続きの海を豊かにした」

 だが、海の國津神と繋がった百代姫の神力は強すぎた。

 やがて海に棲む生き物達の姿が変わってきた。魚の姿が海の神に近づいた。中には海から上がり、人々を襲うものまでいた。

 百代姫モモヨヒメは何度も力の制御を試みた。だが結局、力を抑えることはできなかった。


 百代姫モモヨヒメは「そして」と続ける。彼方を見る刀の目付きは更に尖った。


 魚達が海神に似るのと同様、百代姫モモヨヒメの身体にも異常が起きた。何年、何十年経てど、老いることはなく、何も喰わずとも飢えを感じず、首を吊ろうが、頭を落とされようが、元通りの姿に再生する。百代姫モモヨヒメは〈死ねない身体〉となってしまった。


 海の生き物達は更に荒れる。

 舟を沈め、人を喰らい、村々を襲った。

 初めは崇められていた百代姫モモヨヒメも、やがて漁村の民達から、疎まれるようになった。

 かつてこの辺りにあった社に、海の神を鎮めるといわれていた神器の短刀があった。

 百代姫モモヨヒメはその短刀を胸に刺した。何度も、何度も……。しかし無駄だった。

 巫女である百代姫モモヨヒメは、自らの巫術で不死の呪いを祓おうと試みたが、しゅが消えることはなかった。

 百代姫モモヨヒメが籠る海牢堂の前には見せ付けるように、怪物と化した海の生物に殺された人々の無残な骸が置かれるようになった。

 ある朝、百代姫モモヨヒメは外から聞こえる稚児の泣き声で目を覚ました。

 堂を出ると、積み重なる腐った死体の山の上で赤子が泣いていた。まだ産まれて間もないであろう、小さな赤子だ。

 百代姫モモヨヒメはすぐに駆け寄り、咽せ返る程に腐臭満ちる死体の山から、赤子を取り上げた。すると赤子を包んでい赤い布がずり落ちて、その身体が露わになった。


 赤子の身体を見て百代姫モモヨヒメは驚愕した。


 赤子の身体には鱗が並び、手足の指には水掻きが張っている。片目は魚のそれと同じく瞼をもたず、眼球が剥き出しになっていた。

 百代姫モモヨヒメは思わず赤子を死体の中に落とした。


 御堂の中に駆け戻った百代姫モモヨヒメは恐怖に蹲った。海神の力が人間にまで影響を及ぼすとは、思いもしなかった。

 この力、何としても止めなくては──。

 百代姫モモヨヒメは決心した。

 気息を整えると、再び外へ出て、蛆の集る山積みの死骸から、赤子を拾い上げた。

 海牢堂の中、醜い赤子を前に座した百代姫モモヨヒメは、それまで何の役にも立たなかった神器の短刀を抜き、その刃を赤子に突き刺した。

 百代姫モモヨヒメは赤子の命を贄に、海神・オラゾアに干渉する。その身をオラゾアに捧げる代わりに、呪いの力が外に及ぶのを防ぐ為に。

 そうして長きの間、百代姫モモヨヒメは海神・オラゾアの牢獄に一人閉じ籠っていた。

 

「しかし最近は神の力が増しておる。我が意に反し海が荒れている。その訳は、お前がここへ来てようやく分かった」

 コガネを見据える百代姫モモヨヒメは、曲げた指を顎に当て、「ふむふむ」と、わざとらしく頷く。

「ほぅ、彼岸山ひがんざんから日姫神子ヒメミコなる者が呪いを放っている……か」


 〈日姫神子ヒメミコ


 百代姫モモヨヒメの口から、悪しき神子の名がハッキリと出てきた。

「なぜそれを? あなたいつからここにいるの……?」

 コガネが問うと、百代姫モモヨヒメは頭を左右に揺らしながら答える。どこか楽しげに過ぎていった時を指折り数えた。

「はてな。もうずっと、ずっと……長い時間じゃ。我のことなぞ知る者は、もうおらん程に。いいや、それでも足らん程に長い時間じゃろうな。数えることなどできぬ程に長い長い時間」

 百代姫モモヨヒメは再びコガネを見据える。

「だがそれも終わるだろう。お主の力なら我を殺し、この呪いを解けるはずじゃ」

 コガネは胸騒ぎがしてきた。

 この女はただの人間じゃない──。

「ほれ、おあつらえ向きにこんな物まであるわ」

 百代姫モモヨヒメはにこりと笑い、天井に手を伸ばす。

 すると、珊瑚で出来た天井が割れ、その隙間から一振りの刀が、水に沈むように落ちてきた。


 トワキの刀だ。


 トワキの刀が、瑠璃色に輝く洞穴の中に、落ちてきた。

 コガネはトワキの身を案じた。

「それはトワキの物だ。彼に何をした⁉︎」

「何も、ただ海牢堂に置いてあった物を借りただけじゃよ」

 百代姫モモヨヒメは落ちた刀を拾い上げる。

「これで我を斬れ。刃に巫女たるお主の力を込めれば、我を殺せよう。さあ! 我をこの呪縛より解放してくれ」

 百代姫モモヨヒメはそう言うと、手に取った刀をコガネに渡してきた。

 しかし、コガネは刃を抜くことを躊躇する。どんな事情があれ、人を殺めたくはなかった。

 百代姫モモヨヒメがまた首を傾げた。

 そしてコガネの考えを察したのか、「ああ」と納得したように言って、珊瑚の壁へ片手を向けた。

 その細長い指が広がると、同時に、壁面の珊瑚が割れて、外に向かって開いていく。

 射し込んだ斜陽の赤色と、洞穴の青が混ざり合い、柔らかな紫の光となって二人を包み込む。


 コガネは目を見張る。

 

 開かれた珊瑚の壁の奥には、夕日を透かした巨大な水の球が浮いている。その中央に浮かぶ巨影は、トワキの鬼神だ。

 大量の水が塊となり、鬼神を捕らえて宙に持ち上げている。

 奥には海牢堂が建っているはずの山がある。

 法螺貝の音に似た怪獣の咆哮が、すぐ近くで鳴り響く。

 コガネは気付いた。この瑠璃色の間は巨大な怪獣の体内だ。

 怪獣の能力!──。

 空間が歪められた。そうでなければ、洞穴のある山を、その洞穴の中から眺めるなどありえない。今、コガネと百代姫モモヨヒメは怪物の身体の中に立っている。


 オラゾアの胸部を覆っていた甲皮が、花が咲くように開いていく。


 コガネの視界は更に広がる。

「トワキ!」

 水に浮かぶ鬼神に向かって、コガネは叫んだ。しかし鬼神は動かない。

 コガネは百代姫モモヨヒメに詰め寄る。

「どういうことだ⁉︎ トワキに何してる⁉︎」

 コガネは受け取った刀を抜くと、その切先を百代姫モモヨヒメに突き付けた。

「オオッ! ようやく刀を抜いたのぉ! 巫女ならば気付かんか? ここは神……化け物の身体の内じゃ。海神・オラゾアを止め、トワキとやらを救いたくば我を殺めろ」

 膨れる水の球の中には、細かな光の粒が無数に泳いでいる。海神・オラゾアの鱗だ。

 オラゾアの操る鋭い鱗の群れは、すれ違いざまに、鬼神の皮膚を切っていく。

 切られた鬼神が水泡を吐いた。

「止めろ!」

 コガネは刀の切先を更に突き出すも、百代姫モモヨヒメは呆れた口調でコガネを煽る。

「お主との巡り合いはまさに運命なのじゃ。さぁ、とっとと我を殺せ。さもなくばあの鬼は死ぬ……。我では止められん」

 刀を持つコガネの手には力が籠るも、刃はその位置を動かない。百代姫モモヨヒメの心臓には半歩足りない。


 鬼神を包む水は徐々に血の色に染まっていく。


「気付かぬか? 我は人の心が読める。名はコガネか。お主は人間が好きなのじゃな。だから我を殺すのを逡巡している。哀れじゃが、我もこの好機を逃す訳にはいかぬ」

 百代姫モモヨヒメは瞑目する。

「我は死にたい。早く永遠を終われせてくれ。かつては〈神〉であったお主ならばこの気持ち、少しは分かるのではないか?」

 コガネは確信する。

 この人は本気だ!──。

 百代姫モモヨヒメが刀を掴んだ。そしてそのまま引き寄せると、自身の左胸に刃を突き刺した。

「ああっ! なんてこと!」

 コガネは動転するも、刃の突き刺さる胸の傷からは、一滴の血も流れ出ていない。

 百代姫モモヨヒメが軽く笑った。

「まだ死なんよ」

 柄を離そうとしたコガネの手を、百代姫モモヨヒメは強く握る。

「よい刀じゃのぉ。随分と祓い清められておる。だが、足りぬ。この程度で死ねるのなら、我は一人でとうに死んでおるわ。さぁ、お主の巫術を発揮せい。あるのじゃろう? 月姫神子ツキミコしゅを祓う力じゃ。さすれば我は死に、海神を止めることもできよう」


 夕焼けを背負い、黒く影を帯びる百代姫モモヨヒメ。その背後に浮かぶ、鬼神を捕らえた巨大な水の球は、真っ赤な血の色に満たされた。


 コガネの気息が荒くなる。動悸は重なった手を通じ、百代姫モモヨヒメに伝わる。

「震えているのぉ。隠せはせんぞ、我は人心が読める。ふん、卑怯者めが。お主はトワキには人殺しを頼んでおきながら、自身はそれを拒むか。一方的に利用するだけでお主は彼奴きゃつを見捨てるか?」

「違う……」

 百代姫モモヨヒメは更にコガネの心を読む。自らを殺させる為に、コガネを操るすべを探す。

「我には分かるぞ、あの鬼は──、トワキはお主のことなんぞ、これっぽっち、どうとも想っておらんわ!」

 コガネの動悸が激しさを増す。

「嘘を吐くな!──」

 コガネの瞳が、そして心が揺れるのが、百代姫モモヨヒメには分かった。

「──そんな訳がない! お前に何が分かる!」

 百代姫モモヨヒメは満面の笑みを見せる。

「あまりを押し付けると、お主みたいなのはその内嫌われるぞ! アレはお主とは違い人嫌いだしのぉ。しかし……、そのくせに孤独が怖いときた。ただ共にいてくれる存在ならば、お主でなくとも誰でもよいのじゃろう。たとえば我でもなぁ!」

 コガネの手は震える。玉のような目には涙が浮かんでいる。今まで幾つもの苦難を、共に乗り越えてきた者のことを、いきなり現れた知らない女に利いた風に言われ、コガネは悔しかった。

 そして、その心を百代姫モモヨヒメは利用する。


          ◯


 オラゾアは尾鰭を広げ、激しく揺さぶる。

 振り乱れる尾鰭の表面から、細かな鱗が剥がれていく。

 オラゾアの瞳孔の形が様々に変わり、その動きに呼応するように、剥がれた鱗は宙を泳ぐ。桜吹雪のように舞い散る大量の鱗は、鬼神を閉じ込める水の球の周りを、取り巻くように浮遊する。そして鱗は螺旋を描きながら集まると、一つに纏まり、鋭い槍となった。オラゾアは鬼神にトドメを刺すつもりだ。


「コガネよ、もうあの男は諦めてしまえ。生かしたとて、お主と彼奴きゃつは相慣れぬ陰と陽よ。むしろ、心の機微を読める我のような女が、あのような男の伴侶にはよいのかもしれんしのぉ」

 着物の袖で隠しているが、百代姫モモヨヒメが会心の笑みを放つのが、コガネには分かった。

「あの男……、トワキも海神・オラゾアの体内に取り込めば、我と共に永遠を生きられる。陰気な男とて、側におれば我も少しは退屈を凌げるわ」

 百代姫モモヨヒメは嫌らしく瞼を曲げる。

 それを見て、コガネは身の内から熱く沸き立つような感覚を覚えた。

 怒りだ。


 そのとき。


 コガネの潤んだ瞳の奥が光を放つ。

 涙が泡のように天井へ昇っていく。

 そしてそれはやがて固まって、透き通った結晶へと変化した。

 百代姫モモヨヒメが歓喜する。

「お主の心で見たぞ! それがメギドガンデの〈無限結晶〉か! 月姫神子ツキミコの力を閉じ込めているな! 遂にその気になったか! コガネ!」

 煌めく結晶の涙を流して、コガネは巫女としての力を発現させる。

 刀の刃を巫術の輝きが上っていく。

「たとえ想われてなくても! 嫌われていても! こんな所でトワキを死なせはしないっ!」

 コガネの叫びと共鳴するように、刀身は更に光り輝いた。その光は刃を越えて百代姫モモヨヒメを包み込み、その身の内に宿った呪いを祓っていく。


 放たれる光は最大となる。

 一瞬、コガネは眩い光の中で、笑みを見た。それは先程までの、人を挑発するような顔ではなく、百代姫モモヨヒメの喜びに満ちた笑顔だった。


 呪いが消えると共に、百代姫モモヨヒメの黒い髪も、朱色の袿も、全てが真白に色を落とした。 

「ふん、そうか……。ならば、いつか、告げることだな……」

 そう残すと、呪いを取り払われた百代姫モモヨヒメは、細かな鱗となって、崩れて、散って、そして消えていった。

「最期まで人に疎まれた人生だった……」

 力を出し切り、へたり込んだコガネの耳に、百代姫モモヨヒメの最後の言葉が聞こえた。

「……ごめん」

 コガネはそう呟いて、刀を鞘に収めた。


          ◯


 オラゾアが絹を裂くような叫び声を上げて、血を吹いた。

 巨大な鰭は千切れ落ち、鱗の槍は霧散する。

 鬼神を捕え、持ち上げていた水の球も崩壊し、ただの海水に戻った。


 鬼神は水から開放される。灰色の皮膚には幾つもの傷ができ、身体中が血にまみれている。

『何が起きている?』

 鬼神は身構える。

 しかし、すでに戦いは終結している。

 憑代である百代姫モモヨヒメを失ったオラゾアは、空中で血潮を撒いて砕け散った。


 鬼神は咄嗟に、崩れゆくオラゾアの血肉の中に手を差し入れた。

 そういうことか──。

 鬼神の手を開くと、その中には刀を持ったコガネが座っている。

 トワキは理解した。

 この怪獣はコガネが倒したんだ──。

 巨大な手に乗るコガネは、少しばつの悪そうな顔をしている。

『どういう訳かは知らないが、まさか本当に怪獣の体の中に入っていたとは。私の勘は当たるもんだな……。コガネ、君がこの怪獣を倒したのか?』

 トワキが問うとコガネは頷く。

「人を殺した。神の憑代だった。殺すしかなかった。多分……」

 コガネは刀の鞘を強く握り締め、震えていた。

『……そうか。ありがとう』

 トワキは鬼神の大きな指を曲げて、コガネの頭を軽く小突いた。

「ふふ、あんた、絶対わたしのこと好きだろ」

 コガネは笑った。


 荒ぶる海は鎮まったが、波音は小さく鳴っている。


          ◯


 星空の下、トワキとコガネは海牢堂に戻る。

 御堂に入るとヤエが寝息を立てていた。

「あっ!」と声を上げて、コガネが驚く。

 トワキ達が通った洞穴への入り口が、跡形もなく消えてなくなっていた。


 翌朝。

 津波に呑まれた漁村は荒れ果てて、水こそ引いたものの、その原形はなくなっている。

 村人達の水死体も見当たらない。

 そこにあるのは沢山の打ち上がった奇妙な大魚。人魚だ。

 半人の形を取る人魚達の顔に、コガネだけは見覚えがあった……。



 

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