第九話・海洋の怪獣〈オラゾア〉
第九話・海洋の怪獣〈オラゾア〉
◯
海。無辺際の水の領域。山の切り立つ崖の上で、トワキとコガネはそれを見た。
「コレが海か。初めて見るが本当に凄いな。見渡す限りの青の原っぱだ」
これ程大量の水が世界に満ちていることに、トワキは驚いた。
見下ろすと海辺には漁村があり、乾いた色の家屋が沢山並んでいた。
沖には緑を被った大きな荒削り岩達が、柱のように立っている。何
トワキには海魚を喰べた記憶がない。海が塩っぱいのならば、そこ棲む魚もきっと塩辛いに違いない──と、トワキは想像した。
「へー、トワキは初めて海を見たのか」
コガネが深く息を吸い込む。
「ここからだと潮の香りはしないねぇ」
「潮の香り? いい匂いか?」
「ううーん、どうかな。よくはないかなぁ?」
そう言ってコガネは首を少しだけ傾げた。
「下りて自分で確かめなよ」
◯
トワキ達は木々の間の小道を抜けて、漁村へ下りた。家屋の軒下に、棘だられで膨れっ面の、珍妙な魚が吊るされている。魔除けだろうか。トワキはかつて暮らしていたシトウ族の里にも、魚ではないが、似たような風習があったことを思い出した。
「見てトワキ、魚の死骸がある! あ、こっちには猫の死んだ奴がいるよ」
コガネはあちこちに飛び付く。
「そんなものに興味を示すな。それよりもこの辺に泊めてくれる家がないか、聞いてみてくれよ」
「えー自分で聞いてくればー?」
コガネは冷ややかな視線を向けてくる。
「……え」
トワキは言葉を詰まらせた。
知らない人間に喋り掛けることは、トワキにとっては緊張の極致に達する行為だ。
「うそうそ、お喋りは私の仕事だね。トワキはお供をしてくれてるわけだし、そのくらいは私がしますよだ。あははっ」
不憫に思ったのか、コガネはわざとらしく笑い流した。
漁獲を盗みに来たのか、鳥と蜥蜴の中間のような生き物が、板屋根の上に乗っている。 皮膜の翼を広げ「ガァガァ」と鳴くこの生き物の名は
トワキとコガネは蛇鳥達に睨まれながら漁村を歩く。魚の選別をする者、網の修繕をする者、昆布を担ぐ者……などなど、コガネは色々な人間に声を掛けたが、「しっし」だの、「うっさい」だの、そもそも無視されたりと、まともな返答は返ってこなかった。
コガネは初老の男に、擦れ違いざま尻を引っ
トワキは供を
男もこちらを睨み返す。
一発尻を蹴飛ばしてやろうか──、そうトワキは考えたが、コガネに宥められた為、揉め事が起きることはなかった。
ここが余所者に排他的なのは、そもそもの土地柄なのか、声を掛ける人選を誤ったのか、あるいは他に理由があるのか。コガネが話し掛けた者達は皆、どこか焦燥している様子だった。
「私、とても、悲しい」
「諦めるな。まだまだ人はいるじゃないか」
「逆に心が折れそうなんだけど」
コガネは嘆く。
トワキとコガネは浜に出る。
広い砂浜には、
トワキの鼻は潮の香りを感じ取るが、その独特な匂いを、好きにはなれなかった。
「はぁー」
海を前にしたコガネは溜め息を吐くと、腰を反らして、思い切り息を吸い込んだ。
そしてそのまま大きな声で叫ぶ──と、トワキは思ったが、コガネの口からはまた「はぁ〜」が出てきた。
「どうしたの」と尋ねると、コガネは眉をハの字に答える。
「何か潮風に当たっていると、疲れない? 戻ろか?」
海を背に力が抜けたようにフラフラと歩くコガネを追って、トワキも広い浜を後にした。
◯
浜から出た先に、重たそうに木箱を運ぶ、小太りの男がいる。男は砂利の上に、乱暴に木箱を置くと、その中に視線を落として、眉間に深い皺を刻んだ。
コガネが男に話し掛ける。
「あのう、私達は旅の道中、この村に来ました。よろしければ小屋でも何でも構わないので、一晩だけ泊めさせてもらえ──」
ピシャリと音が跳ねる。
コガネが喋り終わるのを待たずに、男が木箱から取り出した魚を、地面に投げ付けたのだ。
「わっ」
驚いたコガネの肩が小さく跳ねた。
「何だこの魚」
トワキは地面に叩き付けられた、哀れな魚を見て驚愕した。魚の身には幾つもの目玉が、鱗の列を押し退けて見開き、その隙間には、細かな牙が並んだ口が、パックリと裂傷のように開いている。
「俺達を馬鹿にしてやがる」
男は日焼けた手で、木箱の中身を掻き回した。木箱の中の魚達も皆、生き物としてのタガが外れてしまったか、醜い外見をしている。
海の魚って奴は皆こうなのか?──。
初めて見る海魚の悍ましさに、トワキは思わず眉間を寄せた。
「チッ。〈アレ〉が海に住み着いてからこうだ。
「アレって……?」
コガネは男が口にした、〈アレ〉について尋ねるも、男は「ケケケ」と、嫌らしく笑うばかりで何も答えなかった。
「アンタら泊まりたいのかい? 嬢ちゃんなら俺っちの腹の上に寝かせてやってもイイぜ」
男がそう言うと、コガネは身構え、思い切り顔を引きつらせた。
「うえっなっ……。はぁ〜。もうここヤダ。行こーよ、トワキ」
コガネに急かされて、トワキは生臭い漁村を後にする。騒がしさに振り向けば、投げ捨てられた魚に
◯
昼下がり、沖で漁をする一艘の小舟。
その上で青年と中年、二人の漁師が、汗を流して働いている。
突然、若い方が「うわぁ!」と叫び、尻餅をついた。
「何なんだコイツは⁉︎」
若い漁師が恐る恐る小舟から顔を出すと、右舷に添うように、奇怪な魚が網に絡まり浮いている。大人程の大きさがあるその魚は、衰弱しているのか、あるいは既に死んでいるのか、動くことなく波に身を任せている。
「魚の癖に腕がある。肩がある。首まである。かっ、顔なんか、まるで……」
顔に汗の粒を浮かべたもう一人が、若い方に指示をする。
「ボヤっとせんと、てごせぇ。村さ持って帰っぞ」
◯
トワキ達は漁村を流れる河を伝って、山へと戻る。
コガネの背負う葛篭から、ヤエが顔を出した。その吻が「スンスン」と音を鳴らして、小刻みに動く。
山の気の方が獣には合うのだろうか──そんな事を考えながら、トワキはヤエのひくつく鼻を、チョンと指先で触れた。
河から外れて山の細道を上ると、切り立つ岩壁があった。
岩壁には大きな裂け目があり、その中の、どっしりと座した巨石の上には、小さな御堂が建っている。
岩壁に押し込められた古い御堂。その周囲には貝殻が積もっている。
コガネが御堂の扁額に書かれている文字を読む。
「カイ……ロウ……ドウ?」
扁額には〈海牢堂〉と書かれていた。
二人は巨石を上り、御堂の中に入った。
八角形の古い御堂の床は意外にも綺麗だ。
トワキは壁に絵が描かれている事に気が付いたが、絵具が薄れていて、何が描かれているのか分かりづらい。ただ一つ、天女だろうか。羽衣を纏う女の姿が、何とか判別できた。
トワキが壁と睨み合っていると、コガネが声を張る。
「今日はここで寝よ!」
「今晩は小石で背中を痛めないみたいでよかったね」
コガネは奥の板壁に背を預けて座った。
トワキも刀を置いて床に腰を落とす。
開いた引き戸の外にあの湾が望める。
遠くに眺める海は、絵のように動かぬ景色だった。
「あーあ、お魚が喰べれると思ったのにねぇ。私が喰べられちゃうところだった。あははは!」
「どういうこと?」
笑うコガネにトワキが問うと、コガネは困ったような顔をした。
「ええと、何でもないよ」
目を閉じて
ヤエも甘えてコガネの膝に乗る。
「ヤエ、あなたも何だか成長したね〜。籠も手狭になってきたよ。そろそろ入れなくなるんじゃあ──ンアッウグぎゃああー!」
安らぎ一転。
トワキの背後から、静寂を打ち砕くバリバリという破壊音と、コガネの悲鳴が聞こえてきた。
思わずトワキも叫ぶ。
「おいおいおい! 何事だ⁉︎」
コガネのいた方へ振り向くと、板壁が割れて、御堂の裏手に隠れていた岩の壁面が露出していた。そして、そこには洞穴の入り口が、黒々とした口を開けている。
中からコガネの声がする。
「うえぇ、痛いヨーゥ」
おちゃらけた声の調子から判断して、大事には至ってないのだろう。トワキはひとまず安堵する。
虚を衝かれたヤエは顔に皺を寄せ、「シャーッ!」と鳴いて、洞穴に向かって威嚇している。
トワキは穴の中に声を掛ける。
「……穴に落ちたのか? 大丈夫か?」
壁から斜めに下る洞穴の内部は、多孔質の岩でできており、所々、枝分かれした突起が露出している。
トワキは折れて落ちていた、その特徴的な突起を拾った。その正体はすぐに分かった。珊瑚だ。
トワキは子供の頃に屋敷で飾られているのを見たことがある。
確か珊瑚は海のものだろ? 何故こんな穴の中に生えている?──。
疑問を抱きつつ、落ちていったコガネを迎えに、トワキは洞穴の奥へと下りていく。
洞穴の床面は段になっている。
まるで人を通す為に、誰かが作ったようだ。
「トワキ来て来て! 凄いよー」
コガネの呼び声が聞こえてきた。
その声を聞き、トワキはコガネが無事である事を確信した。
下りるごとに通路は広まり、珊瑚の枝も増えて、まるで森の中を歩いているようになる。
視線の先の壁面は、最奥に満ちる光を反射している。
そして。
トワキの視界を瑠璃色が占領した。
まさか御堂の裏にこんな空間があるなんて……!──。
洞穴を下りた先にある間は、まるで光射す海の中のように、青く明るく美しい。そこは海を忘れた珊瑚達が築いた、瑠璃色の空洞だ。
トワキを
美声は反響し、少女は宙を漂う。
金の髪が柔らかく揺れる。
胸元から下り、黒の衣を撫でていたコガネの月白色の布が、ゆっくりとなびいた。
「トワキ……」
どこからか射す光を帯びて、洞の中央に浮かぶコガネは、両腕を広げた。トワキは一歩踏み込んで、その手を取る。途端、身が軽くなる。後ろで結った長髪が持ち上がるのが分かった。まさに水の中にいるような心地。海底を歩くような気分になった。
踏まれた白砂は湯気のように立ち上がる。隅には切り株と見紛う程の、大きな
「コガネ……ここは?」
「分からない。でも楽しい」
「楽しい?」
「楽しい! トワキ踊ろうよ!」
トワキは思わず苦笑い。
「踊りなんてそんなの、私には分からないよ」
「適当に動くんだよ。ホラ」
コガネはそう言ってトワキの手を持ち上げ、それを軸に一回りした。広がった衣がゆっくりと、波打つように舞うと、裾が上がり、コガネの太腿が顕になる。
「うへへっ! 見ないでっー」
笑いながらコガネが飛び跳ね、身体を浮かせた。その両の手を取ってトワキも浮いてみる。
瑠璃色の空間を、トワキとコガネは漂う。
「近いんですけど」
トワキが空中で姿勢を崩すと、コガネがそう言った。
「じゃあ離してやる」
トワキはコガネを掲げて、真白に光が溜まった天井へと投げた。
コガネは「わぁ」と子供のような顔で笑い、そのまま一回転。背を下にして落ちるコガネを、トワキは両腕で受け止める。
トワキの一つに結われていた黒髪が
色とりどりに光を放つ珊瑚礁の筒の中、二人はまた少し踊った。
◯
日が傾き、空の色が青から赤へと移る頃、漁村の薄暗い小屋の中に、漁師達が集まる。
何かを見下ろす漁師達は皆、眉間に皺を寄せ、剣呑な顔付きをしている。その視線の先には、大きな魚が横たわっている。
魚──しかしその頭部から腹鰭辺りにかけては、人の上半身に似ている。
昼下がりに網に掛かった魚は人魚だ。
人魚はまだ生きているらしく、バクンバクンと音を立てて、胸に切り込まれた
「コイツだ! コイツ等が俺達の海を駄目にしたんだっ! 返せ! 海を返せぇ!」
男はそう怒鳴ると、人魚の頭目掛けて櫂を振り下ろす。
それが合図となった。
◯
「嫌な気配がする」
トワキは解けた髪を結い直すと、コガネを残して瑠璃色の間から出た。不思議な空間から出た途端に、身体が重さを取り戻し、トワキはつんのめるが、何とか段に手を当てて、体制を立て直す。
御堂の外を睨むヤエが見える。獣も迫り来る異様な気配を察知したのだろう。トワキは洞穴を出ると、そのまま御堂を飛び出して、赤くなりつつある空の下を走った。木々の隙間から湾を見ると、沖の方に黒い帯状のものが、一直線に連なっている。
津波だ──。
巨大な津波が漁村に迫っている。
「逃げろ津波だ! 皆死ぬぞ! 逃げろぉ!」
災厄の接近を、トワキは山の上から漁村に呼び掛けるも、荒ぶる海は人の声など容易く掻き消す。
津波が漁村を襲う。
ドス黒い渦巻きが幾つも生まれる。
家屋の砕ける音と人の悲鳴が鳴り響き、やがて全てを乱流が呑み込む。漁村は一瞬にして海に沈んだ。
「なんという……」
トワキの肩で、鬼神の煙が燻る。
◯
「なに?」
コガネは外のただならぬ雰囲気に気が付いた。しかし、それはすぐに別の違和感に塗り潰された。
人の気配⁉︎──。
振り向くと白砂の上に、朱色の袿を纏った若い女が座っている。先程までは存在しなかったはずだ。
「嗚呼、遂にこのときが来よった。もはや我にも止められぬ」
女は俯き嘆いている。
吸い込まれる程に黒い
その切れ長の目は刀の切先に似ている。
「あなた、一体?」
コガネが尋ねると、その女は自らを
その背はコガネの頭一つ分程高い。
コガネが警戒して一歩下がると、
「なんの、取って喰いはせん。ほう、小娘や、お主も巫女か? 成程、それも大した力を持つのぉ。ちょうどよい、お主の力で我を殺せ」
「え?」
◯
トワキは鬼神の姿になって、夕焼けの海を歩き、生存者を探していた。
漁村があった場所は、元のトワキの三十倍はある巨大な鬼の、膝辺りまで浸かる程に、海水が満ちている。
鬼神は辺りを見渡すも、家屋の残骸が浮くだけで、人の姿はどこにもない。
海の中を、沢山の細かな光りが泳いでいる。怪訝に思ったトワキが鬼神の目でそれを追っていると、遥か前方、沖合より
怪獣だ。
アイツの仕業か──。
鬼神は勢いよく振った両腕から風神・イオラ戦にて会得した骨の白刃、〈
対して現れた怪獣は花のような尾鰭を更に広げる。その中心には、ゴツゴツとした鱗を張り付けた細長い胴体が伸び、その先端には、馬のように長い骨ばった頭部が、大きく裂け、牙が整然と並ぶ口を開けている。
眼窩からは袋状の目が露出し、
〈海神・オラゾア出現〉
オラゾアの袋に包まれた大きな両眼。
その瞳孔が渦を巻く。
それに呼応して、海より迫り上がった水柱が、鬼神に襲い掛かった。
『グォッ』
水の勢いは、鬼神の巨体を、海面に生える岩に叩き付けた。
更に激浪が襲う。
岩礁を砕きながら、海底を流される鬼神。
オラゾアは海の水を操る怪獣だ。
海中が紫色に染まり、爆発する。
口に紫炎を溜めた鬼神が、海水を跳ね除けて起き上がった。
鬼神は紫炎をオラゾアに向け吹き掛けるも、そそり立つ水の壁がそれを阻む。
鬼神は蒸気に包まれた海を走る。
操られた津波を飛び越え、オラゾアを剣の間合いに収めた。
しかし。
『まさか⁉︎』
鬼神は剣を納めた。
オラゾアはその隙を突き、激浪で鬼神を押し流す。波の中にはオラゾアの刃物のような鱗が大量に混じり、鬼神に触れる度にその身体を傷付ける。
夕日の色は鬼神の血と混じり、海はもっと赤焼ける。
トワキはこの怪獣を斬ることができなかった。
なぜならオラゾアの体内に、そこにはあり得ない気配を感じたからだ。
『コガネ……』
鬼神の口から漏れたトワキの声を封じるように、オラゾアに操られた海の水が鬼神を包み込んでいく。
◯
「殺せって何? あなた何者?」
コガネはいきなり現れて、滅多な頼みをする女を睨んだ。
「ああ、我も元々は巫女でな。お主がここへ来れたのも、我と同様、お主が巫女だからだろう。だから道が開かれたのじゃ」
「何せこの洞は、我の力を封じるための牢獄。封じるしかない。並の者では我を殺すことはできんからの……。情けないが、我自身でも」
そう言って、
怪奇な存在を前に、コガネは困惑する。
気付けば先程まであったはずの、この瑠璃色の間への入口もなくなっていた。
トワキもいない──。コガネは急に心細くなった。
「……死ねないって?」
そう問われて、
まるで遥か遠くを見つめるように、目を細め、
昔……。
「巫女であった我は、村人の願いで海神・オラゾアと繋がり、その力を得た。そして我は飢えて苦しむ人々を救うために、時化続きの海を豊かにした」
だが、海の國津神と繋がった百代姫の神力は強すぎた。
やがて海に棲む生き物達の姿が変わってきた。魚の姿が海の神に近づいた。中には海から上がり、人々を襲うものまでいた。
魚達が海神に似るのと同様、
海の生き物達は更に荒れる。
舟を沈め、人を喰らい、村々を襲った。
初めは崇められていた
かつてこの辺りにあった社に、海の神を鎮めるといわれていた神器の短刀があった。
巫女である
ある朝、
堂を出ると、積み重なる腐った死体の山の上で赤子が泣いていた。まだ産まれて間もないであろう、小さな赤子だ。
赤子の身体を見て
赤子の身体には鱗が並び、手足の指には水掻きが張っている。片目は魚のそれと同じく瞼をもたず、眼球が剥き出しになっていた。
御堂の中に駆け戻った
この力、何としても止めなくては──。
気息を整えると、再び外へ出て、蛆の集る山積みの死骸から、赤子を拾い上げた。
海牢堂の中、醜い赤子を前に座した
そうして長きの間、
「しかし最近は神の力が増しておる。我が意に反し海が荒れている。その訳は、お前がここへ来てようやく分かった」
コガネを見据える
「ほぅ、
〈
「なぜそれを? あなたいつからここにいるの……?」
コガネが問うと、
「はてな。もうずっと、ずっと……長い時間じゃ。我のことなぞ知る者は、もうおらん程に。いいや、それでも足らん程に長い時間じゃろうな。数えることなどできぬ程に長い長い時間」
「だがそれも終わるだろう。お主の力なら我を殺し、この呪いを解けるはずじゃ」
コガネは胸騒ぎがしてきた。
この女はただの人間じゃない──。
「ほれ、おあつらえ向きにこんな物まであるわ」
すると、珊瑚で出来た天井が割れ、その隙間から一振りの刀が、水に沈むように落ちてきた。
トワキの刀だ。
トワキの刀が、瑠璃色に輝く洞穴の中に、落ちてきた。
コガネはトワキの身を案じた。
「それはトワキの物だ。彼に何をした⁉︎」
「何も、ただ海牢堂に置いてあった物を借りただけじゃよ」
「これで我を斬れ。刃に巫女たるお主の力を込めれば、我を殺せよう。さあ! 我をこの呪縛より解放してくれ」
しかし、コガネは刃を抜くことを躊躇する。どんな事情があれ、人を殺めたくはなかった。
そしてコガネの考えを察したのか、「ああ」と納得したように言って、珊瑚の壁へ片手を向けた。
その細長い指が広がると、同時に、壁面の珊瑚が割れて、外に向かって開いていく。
射し込んだ斜陽の赤色と、洞穴の青が混ざり合い、柔らかな紫の光となって二人を包み込む。
コガネは目を見張る。
開かれた珊瑚の壁の奥には、夕日を透かした巨大な水の球が浮いている。その中央に浮かぶ巨影は、トワキの鬼神だ。
大量の水が塊となり、鬼神を捕らえて宙に持ち上げている。
奥には海牢堂が建っているはずの山がある。
法螺貝の音に似た怪獣の咆哮が、すぐ近くで鳴り響く。
コガネは気付いた。この瑠璃色の間は巨大な怪獣の体内だ。
怪獣の能力!──。
空間が歪められた。そうでなければ、洞穴のある山を、その洞穴の中から眺めるなどありえない。今、コガネと
オラゾアの胸部を覆っていた甲皮が、花が咲くように開いていく。
コガネの視界は更に広がる。
「トワキ!」
水に浮かぶ鬼神に向かって、コガネは叫んだ。しかし鬼神は動かない。
コガネは
「どういうことだ⁉︎ トワキに何してる⁉︎」
コガネは受け取った刀を抜くと、その切先を
「オオッ! ようやく刀を抜いたのぉ! 巫女ならば気付かんか? ここは神……化け物の身体の内じゃ。海神・オラゾアを止め、トワキとやらを救いたくば我を殺めろ」
膨れる水の球の中には、細かな光の粒が無数に泳いでいる。海神・オラゾアの鱗だ。
オラゾアの操る鋭い鱗の群れは、すれ違いざまに、鬼神の皮膚を切っていく。
切られた鬼神が水泡を吐いた。
「止めろ!」
コガネは刀の切先を更に突き出すも、
「お主との巡り合いはまさに運命なのじゃ。さぁ、とっとと我を殺せ。さもなくばあの鬼は死ぬ……。我では止められん」
刀を持つコガネの手には力が籠るも、刃はその位置を動かない。
鬼神を包む水は徐々に血の色に染まっていく。
「気付かぬか? 我は人の心が読める。名はコガネか。お主は人間が好きなのじゃな。だから我を殺すのを逡巡している。哀れじゃが、我もこの好機を逃す訳にはいかぬ」
「我は死にたい。早く永遠を終われせてくれ。かつては〈神〉であったお主ならばこの気持ち、少しは分かるのではないか?」
コガネは確信する。
この人は本気だ!──。
「ああっ! なんてこと!」
コガネは動転するも、刃の突き刺さる胸の傷からは、一滴の血も流れ出ていない。
「まだ死なんよ」
柄を離そうとしたコガネの手を、
「よい刀じゃのぉ。随分と祓い清められておる。だが、足りぬ。この程度で死ねるのなら、我は一人でとうに死んでおるわ。さぁ、お主の巫術を発揮せい。あるのじゃろう?
夕焼けを背負い、黒く影を帯びる
コガネの気息が荒くなる。動悸は重なった手を通じ、
「震えているのぉ。隠せはせんぞ、我は人心が読める。ふん、卑怯者めが。お主はトワキには人殺しを頼んでおきながら、自身はそれを拒むか。一方的に利用するだけでお主は
「違う……」
「我には分かるぞ、あの鬼は──、トワキはお主のことなんぞ、これっぽっち、どうとも想っておらんわ!」
コガネの動悸が激しさを増す。
「嘘を吐くな!──」
コガネの瞳が、そして心が揺れるのが、
「──そんな訳がない! お前に何が分かる!」
「あまり
コガネの手は震える。玉のような目には涙が浮かんでいる。今まで幾つもの苦難を、共に乗り越えてきた者のことを、いきなり現れた知らない女に利いた風に言われ、コガネは悔しかった。
そして、その心を
◯
オラゾアは尾鰭を広げ、激しく揺さぶる。
振り乱れる尾鰭の表面から、細かな鱗が剥がれていく。
オラゾアの瞳孔の形が様々に変わり、その動きに呼応するように、剥がれた鱗は宙を泳ぐ。桜吹雪のように舞い散る大量の鱗は、鬼神を閉じ込める水の球の周りを、取り巻くように浮遊する。そして鱗は螺旋を描きながら集まると、一つに纏まり、鋭い槍となった。オラゾアは鬼神にトドメを刺すつもりだ。
「コガネよ、もうあの男は諦めてしまえ。生かしたとて、お主と
着物の袖で隠しているが、
「あの男……、トワキも海神・オラゾアの体内に取り込めば、我と共に永遠を生きられる。陰気な男とて、側におれば我も少しは退屈を凌げるわ」
それを見て、コガネは身の内から熱く沸き立つような感覚を覚えた。
怒りだ。
そのとき。
コガネの潤んだ瞳の奥が光を放つ。
涙が泡のように天井へ昇っていく。
そしてそれはやがて固まって、透き通った結晶へと変化した。
「お主の心で見たぞ! それがメギドガンデの〈無限結晶〉か!
煌めく結晶の涙を流して、コガネは巫女としての力を発現させる。
刀の刃を巫術の輝きが上っていく。
「たとえ想われてなくても! 嫌われていても! こんな所でトワキを死なせはしないっ!」
コガネの叫びと共鳴するように、刀身は更に光り輝いた。その光は刃を越えて
放たれる光は最大となる。
一瞬、コガネは眩い光の中で、笑みを見た。それは先程までの、人を挑発するような顔ではなく、
呪いが消えると共に、
「ふん、そうか……。ならば、いつか、告げることだな……」
そう残すと、呪いを取り払われた
「最期まで人に疎まれた人生だった……」
力を出し切り、へたり込んだコガネの耳に、
「……ごめん」
コガネはそう呟いて、刀を鞘に収めた。
◯
オラゾアが絹を裂くような叫び声を上げて、血を吹いた。
巨大な鰭は千切れ落ち、鱗の槍は霧散する。
鬼神を捕え、持ち上げていた水の球も崩壊し、ただの海水に戻った。
鬼神は水から開放される。灰色の皮膚には幾つもの傷ができ、身体中が血に
『何が起きている?』
鬼神は身構える。
しかし、すでに戦いは終結している。
憑代である
鬼神は咄嗟に、崩れゆくオラゾアの血肉の中に手を差し入れた。
そういうことか──。
鬼神の手を開くと、その中には刀を持ったコガネが座っている。
トワキは理解した。
この怪獣はコガネが倒したんだ──。
巨大な手に乗るコガネは、少しばつの悪そうな顔をしている。
『どういう訳かは知らないが、まさか本当に怪獣の体の中に入っていたとは。私の勘は当たるもんだな……。コガネ、君がこの怪獣を倒したのか?』
トワキが問うとコガネは頷く。
「人を殺した。神の憑代だった。殺すしかなかった。多分……」
コガネは刀の鞘を強く握り締め、震えていた。
『……そうか。ありがとう』
トワキは鬼神の大きな指を曲げて、コガネの頭を軽く小突いた。
「ふふ、あんた、絶対わたしのこと好きだろ」
コガネは笑った。
荒ぶる海は鎮まったが、波音は小さく鳴っている。
◯
星空の下、トワキとコガネは海牢堂に戻る。
御堂に入るとヤエが寝息を立てていた。
「あっ!」と声を上げて、コガネが驚く。
トワキ達が通った洞穴への入り口が、跡形もなく消えてなくなっていた。
翌朝。
津波に呑まれた漁村は荒れ果てて、水こそ引いたものの、その原形はなくなっている。
村人達の水死体も見当たらない。
そこにあるのは沢山の打ち上がった奇妙な大魚。人魚だ。
半人の形を取る人魚達の顔に、コガネだけは見覚えがあった……。
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