第七話・飛蟲の怪獣〈ゾガ〉

 第七話・飛蟲の怪獣〈ゾガ〉


          ◯


 トワキが目覚めると、連子窓の外は真昼の活気に満ちていた。部屋に籠っているせいか、ここ数日は、寝ている時間が多い。

「まだ若いってのに、まるで隠居した気分だ」

 そう嘆いて、怪我を負った左腕を見ると、包帯が新しい物に変わっている。焼けるような傷の痛みは既に消え、痺れていた指も不自由なく動かせる。身の内に鬼神を宿すトワキの回復力は、常人のそれを遥かに凌いでいた。

 シトウの里のカナドナギ。

 ニギ族の崇めるチタキヒメ。

 ライチを憑代に現れたヴァドワギーダ。

 そして山のような巨体のヨウザンオウ。

 これらの荒ぶる神をねじ伏せた魔界の怪物・鬼神。不完全とはいえ、その怪物を操ることができる。

 トワキは左手の拳を、硬く握り締めた。

 積極的に使いたい力ではないが、この力は誰かの役に立つことできる──。それはトワキに自信を付けた。

 窓の連子の隙間から微風が迷い込む。握り締めていた拳から力を抜き、トワキはその心地のよい風を感じた。


 暫くして……。


「はふ〜ぅ」 

「フルルッ!」

 家の奥から、トワキの寝ている部屋に戻ってきたコガネとヤエは、何故だか妙にさっぱりしている。心なしか、コガネの頬は紅潮しているようにみえる。

 気になったトワキは尋ねる。

「何?」

「わからない? この里は温泉が湧くんだよ。そこの衝立の奥から渡り廊下を進んでいけば、お風呂場があるんだ。あ〜気持ちよかったなぁ」

 確かにこの部屋には衝立があるが、トワキはその先を気にしたことがなかった。

「大きな家なんだな。しかしコガネさん、余所様のうちで勝手が過ぎるんじゃないか」 

「ちゃんと許可もらっているんだけど、トワキさん。オオクラ様が傷に効くからトワキも入ればいいって」

「ほ〜ん」

 トワキが気の抜けたような返事を出すと、コガネが笑った。

「ほ〜んだって、ははっ。ヤエ! 私達は涼みにお外に行こ!」 

「フガッ」

 ヤエは鼻を鳴らして返事をした。

 コガネは笠を被ると、開け放された部屋を出て、戸口へ向かう。

 トワキは不安を感じる。

「不用心だな」

「何が?」

「君さ、ニギの村のこと忘れているんじゃないか? よく一人で外をほっつき歩けるね」

「ここには〈あんなの〉いないよだ。それにヤエもいるしね」

 コガネの言う〈あんなの〉とはチタキヒメのことだ。ニギの里の守神は力を求め、コガネを喰らおうとした。

「ヤエはあのときもいただろ」

「もう、ああ言えばこう言う」

 トワキの心配を余所に、コガネはヤエを連れて外へ出ていく。

 家の中はトワキ一人だけになった。


          ◯


 トワキの傷が癒えてくると、オオクラがこの家に来ることは少なくなった。薬種屋をしていると言っていたので、そちらで暮らしているのだろう。

 そのうち寄ろう──。と、トワキは考えた。


 オオクラの息子、ナザキの方はたまに来ては、トワキと話をする。


「凄いな、透明だ。何だい? ソレは」

 トワキはナザキの目元を指差した。

 ナザキの顔に珍妙な物が張り付いている。

「コレは眼鏡メガネじゃ! オオクラがイコクから取り寄せたんじゃ! わしは目がよくないんじゃ! だけどこれをつければよく見えるんじゃ!」

「ほう、便利な物があるんだな」

 透明な丸い板が、ナザキの両目の前に一枚ずつ、鼈甲べっこうの枠に嵌め込まれ、固定されている。トワキにはこの眼鏡メガネという見慣れぬ物が、とても面白く思えた。子供の顔には些か大きいのも可愛らしい。

「相当高価な物だろう? 盗まれないよう、気を付けなよ」

 そう言ってトワキは眼鏡の縁をチョンと触ると、ナザキに手を振り払われる。

「オオクラ怖いから! 誰がそんなことをするんじゃ⁉︎」

「たとえば私とか」

「お前は馬鹿たれじゃ!」

 トワキが冗談を言うと、小さな拳でポカポカと叩かれた。ナザキは同じ頃のトワキと比べて、百倍元気だった。

「コンニャロ! コンニャロ!」

「ああぁっ。よしてくれ、私は怪我人だから。まったく暴れん坊だな」

 とはいえ、適当にいなしておけばいいナザキの相手は、トワキにとっては楽だった。相手をして楽しいとも思えた。

「ヤエがいねぇんじゃ! アレ可愛いんじゃ!」

 ナザキは頭をキョロキョロと動かして、白銀の獣を探した。しかし、ヤエはコガネと共に外へ出たきり、帰ってこない。

「噛むから見かけても指を出したりはするなよ」

「しつけろや!」


          ◯


 日が落ちてくる。

 ヤエは昼の散歩に疲れたのか、部屋の隅で寝ている。

 トワキはコガネに連れられて外へ出る。ずっと部屋で寝ていた為、この里をゆっくりと歩くのはこれが初めてだった。

「夕餉は喰べた?」

「お連れさんの怪我はもういいの?」

「この先で市が開かれてるよ」 

 人と擦れ違えば声を掛けられる。

 コガネは既に何人もの里の者達と親しくなっているようだ。

(この娘は人と関わるのが、余っ程好きなんだな)

 二人と一匹だけの旅では、知ることができないことだった。


 トワキ達が店で夕食を済ます頃には日は沈みきっていた。

 里のあちこちから上がる湯気を、沢山の灯火が橙色に染めている。

 トワキは初めて火を美しいと思った。

 里の大通りを挟んで、沢山の露店が並んでいる。威勢のいい物売りが人を呼ぶ屋台は、売り物を華やかに着飾り、まるで御神輿のようだ。

 ある店では鼈甲細工の品々が飴色に輝き、別の店では色合い派手な反物や、細かな硝子の飾りが光の粒を乗せている。道に敷かれた黒い布に並ぶ鱗は、何のものだろう。宝石のように、人を惹きつける魅力がある。


 夜を飾る活気ある露店の数々には、翡翠色に琥珀色、朱色に瑠璃色……色とりどりの品々が沢山並び、灯火に照らされていた。


 一度にこれ程の色数を見たのは、トワキには初めてのことだった。

「灯火が綺麗だね。いっぱい灯って、夜なのに昼よりも明るくって、とても不思議だよ」

 コガネは目を輝かせている。

「火事が怖いね」

 そう言ったトワキをコガネが睨む。

「あなたすぐに悲観的になるよね〜。でもね、トワキはこの里が好きでしょ? 表情が柔和になった気がするよ。もうここに住んじゃえば?」

「どうかな。旅の途中で君をほっぽり出すなんてこと……そんなことをしたら君は許さないだろ」

「ふふ」と笑うコガネが、何故だかいつもよりも幼く見えた。

「あったりまえだろ! ぜったいに許さない!」

「ほらね」

 行燈あんどんが明々と灯り、店は賑わい人々が歩く。

 声が飛び、笑い、ゲロを吐く。

 暖かい光はどこまでも連なる。

 それを眺めるコガネは、悲しそうな顔をしている。

「ここにいる人達は皆んな、いつかは死んで消えるんだもんね」

「君まで悲観的になるなよ」

 コガネの不意の言葉にトワキは困った。

 しかしコガネは「分かってないな」と言って鼻で笑う。

「コレはそうゆーのじゃあないんだ。むしろ逆で、朝になれば消えてしまう夜の星々を見て、綺麗と思うような、そういう感じだよ」

「星は次の夜にはまた出るだろ?」

「違うね。その夜の星達の光は、その夜だけの輝きだよ」

「よく分からんな。人が死ぬのを見たいってことかい?」

「本当に分かってないんだね……ねぇ、せっかくだし何か食べよ!」

「もう喰べたろ。命と同じで路銀にも限りがあるんだが」

「ねぇ、せっかくだし何か食べよ!」

「分かったから、同じことを繰り返して言うな」

 二人は夜の人混みに入る。

 そして雑多な色の中へと混ざっていく。

 誰がどこにいるのか──

 何があるのか──

 ただ溶けた光のうねりだけが、そこにはあった。


          ◯


 次の日──

「ジャリがぁっ!」

 トワキ達の逗留する里に、オオクラの怒声が轟いた。

「うおっ! 何だぁ⁉︎」

 驚いたトワキは、一瞬高鳴った心臓が破裂するのかと、不安になった。

 薬種屋から、ナザキが飛び出してくる。

 大方悪戯でもして叱られたのだろう。

「こっわいの〜! あっお前は!」

 ナザキは近くを散歩をしていたトワキに気が付いた。

「あっ!」

「今の怒号は傷に滲みたよ。おイタも程々にしろな」

「ゲンコされんかっただけマシじゃ! トキワはもう歩けるんか!」

「トキワじゃなくて、トワキな。別に脚は怪我をしていないからね」

 トワキの頭上を見て、ナザキのつぶらな瞳が眼鏡越しに輝いた。

「ヤエもいるんじゃ!」

 ナザキは両腕を広げて喜んだ。

 トワキは頭に乗せていたヤエを、ナザキの眼前まで下ろした。

 ヤエはナザキの眼鏡に興味を出したのか、触ろうとするも、その短い前脚は届かない。

 ナザキもヤエを撫でようとするが、獣はその手に噛み付こうと吻を突き出す。

 ナザキは一旦はその手を引っ込めるが、またすぐに出して……そして応酬が始まる。

「もうやめとけ」

 トワキはヤエを地面に下ろした。


 茅葺き三階建。オオクラの営む薬種屋はとても大きかった。

 流れるように広がる切妻屋根に開いた煙出しからは、絶え間なく湯気が上がっている。壁には何やら文字が書かれた沢山の看板が並ぶが、トワキにはその文字は読めなかった。

 店の中からは、様々な薬材の匂いが混ざってできた、独特な香りが漂っている。

 身体によさそうなその強烈な匂いに、トワキは「うっ」と呻きつつも、いつもより深く呼吸をしてみた。心なしか活力が湧いた気がする。

 ナザキがトワキの袖をクイと引いた。

「薬買うんか?」

「それもいいかもね。今後も旅で怪我することはあるかもしれないし。病気にもなるかもしれない。でもさっきの怒号で入るのが怖くなった」

「薬ぐらい、そんなもんわしが後でちょろまかしたるわ!」

「絶対やめろよ!」

 トワキは焦った。

 ナザキにトワキの常識は通じない。

「なぁ、わしは今から河に小便しにいくけぇ、トワキもくるんじゃ!」

 唐突に誘われる。

「厠でしろ」

「嫌じゃ! 嫌じゃ! せせこましい! 河でするんがええんじゃ!」

「あぁもう! 分かった。分かったから。面倒くさい砂利め、私の負けだ」 

 駄々をこねるナザキに、トワキは折れた。


 河へ行くついでに、トワキはナザキの案内で里を回る。

 この里は起伏に富み、至る所に石段が連なっている。そんな場所だからなのか、足湯や四阿あずまやきは休憩がてらに談笑している人達がよく目に付いた。

 道の開けた所に大層立派な酒屋があり、人々で賑わっている。

 店の軒先に吊り下がる、とても大きな玉は杉玉というらしく、トワキは初めて見た。

 大量の杉の穂を集めて作られたその玉が、いつか重さに耐えきれずに落下して、下にいる人達を潰しまうのではないか──そんなことを考えると、恐しくなった。

 ナザキは何が楽しいのか、杉玉に小石を投げている。

 小石が杉の穂の間に挟まると、ナザキは「ケケケ!」と笑ってトワキを見る。

(オオクラ様の怒号が響く訳だ)

 呆れたトワキは笑うナザキを無視することにした。

 微かだが酒の匂いが漂っている。

 後でヤエが呑む酒でも買おうか──などとトワキが考えていると、匂いに釣られたのか、ヤエは今にも店の中へ入ろうとしている。

 トワキはヤエを掴み上げ、何とか店への侵入を阻止できたが、「シャー! シャー!」とうるさいので、その場で酒を買ってしまった。


          ◯

 

 トワキとナザキは河に着いて用を足す。

 河のほとりに平たい岩がある。トワキ達はその岩に座り休憩する。

 河は広く、水は澄み、泳ぐ魚が何匹もいる。そして何より涼しく、避暑には最適だ。

 トワキはヤエに酒を酌んでやった。

「コイツ酒を呑むんか? 不気味な獣じゃの〜!」  

 酒を舐めるヤエを見て、ナザキが顔をしかめた。

「可愛いんじゃなかったのか?」

 トワキが聞くと、ナザキは「ソレとコレとは別じゃ」と言って、首を横に振った。

「酒飲みは小便が臭いから嫌いじゃ。わしゃそれを嗅いで吐いたことがある!」

「ヤエのしっこは果物の匂いだよ」

「今に臭くなるわい! トワキも気を付けるんじゃぞ」

 そんなに臭くなるのか──ナザキが余りにも顔を歪める為、不安になったトワキは、酒を舐める獣を見つめた。


          ◯

 

「蟲だー!」


 トワキ達が岩に腰を下ろして話をしていると、里から叫び声が上がった。

 それを聞いたナザキが、すかさず立ち上がる。

「トワキ、蟲が出たんじゃ!」

「虫? カブトムシか? しがみ付く力が強いから、気を付けないと虫の爪が皮に食い込んで痛い思いをすることになる」

「違うわ馬鹿タレ! 蟲っちゅうのは人間を喰うバケモンのことじゃ! 最近里近くの森に棲み着いたお化け蟲じゃ!」

しゅか」

 ナザキの言う〈蟲〉とは一体何か──その答えはすぐに分かった。

「来るぞ! ゾガじゃ!」

「ゾガ……! 変な名前だな」

 トワキの視線の先、飛翔する巨蟲がこちらへ向かって来る。

 大人の身の丈程の長さがある四枚翅を、激しく羽ばたかせて空を移動する、蜂のような怪異。


〈巨蟲・ゾガ出現〉


『キュイィーン!』

 蟲の翅が空気を切る音なのか、鳴き声なのか、耳を劈くような甲高い音が聞こえてきた。

 そして──

「ウキャアァー!」

 それに負けず劣らずの金切り声は、ゾガに捕らえられた女の子の叫びだった。

 トワキの目に、蟲の脚が人の子供を掴んでいるのが見えた。

「子供が捕まっているぞ」

「ありゃナポじゃ! わしの友達じゃ!」

「刀を持ってきてよかった」

 トワキも立ち上がる。

「トワキお前、ゾガを倒しに行くんか⁉︎ ケガは⁉︎」

「大丈夫だ。早くしないとあの子が喰われる」

 トワキはそう言って、岩を蹴り──勢いよく跳んだ。

 その背後からナザキの声が追ってくる。

「ゾガは毒針を持っとる! トワキ用心せえー!」


 トワキは家屋の屋根伝いに跳んでいく。

 足が落ちると石置きの屋根が揺れた。置かれた石が跳ねて、板は砕ける。

 それでも足が沈むよりも早く、トワキはまた跳んだ。

 

 トワキは勢い殺さず、飛翔する巨蟲前方に飛び込み、そして身を翻し一撃。

 人々のどよめきが聞こえる。下では里の者達が戦いを見守っている。

 斬られたゾガの体毛が空中を舞う。

 トワキの振った刀は蟲の胸部を裂き、三つの脚を斬り落とした。

 ゾガは怯む。

 その一瞬の隙に、トワキは捕まっていた女の子の襟を掴んで、蟲から引き離す。

 そして降り立った屋根の上に、助け出した女の子を下ろした。

「あ、ありがと」

「いい。下がってろ」

 礼を言う女の子を背に隠し、トワキは刀を持ち直す。

 斬られてもなお、飛翔を止めないゾガ。

 蟲は腹部を曲げ、短刀程の長さがある毒針をその先端から突き出した。 

「針……ナザキが言っていたやつか」

『キイィーン!』

 蟲は甲高い音を鳴らしてトワキに迫る。

 突如ゾガの腹部先端が破裂する。

(なっ⁉︎)

 破裂の勢いで放たれた毒針は音が伝わるよりも速く、トワキに向かって飛んできた。


 そのときトワキの瞳孔が縦に割れる──鬼神の目だ。


 トワキは飛んでくる針を見切り、左手で掴み取った。

「遅い!」

 毒針の矢を受け止めたトワキはゾガ目掛けて走る。

 ゾガの鋏のような顎がトワキの喉に触れる──寸前。

 鋭い音が鳴る。

 白刃の軌跡が三日月模様をえがいた。

 トワキは大顎の攻撃を躱し、そのまま流れるような動きでゾガの頭部を斬り落とすと、左手に掴んでいた毒針を、ゾガの胸部の傷口に思い切り突き刺した。  


 蟲が屋根に落ちる。


 ゾガは頭を失ってもまだ動き、傷口から緑色の体液を撒いている。

 トワキは刀を振り上げる。

 ──しかし。

 トワキが刃を下ろすまでもなかった。

 自らの針の毒に侵されたゾガの動きは、徐々に鈍り……やがて静止する。


 巨蟲・ゾガは死ぬ。


 ゾガは体液に濡れた屋根から滑り落ちた。

 それを見て、下から勝負を見届けていた人々が一斉に歓声を上げた。

「いやったぞぉ!」

「遂に蟲を討ったっ!」

「ナポは大丈夫か?」

「彼がやってのけた!」

「ありがとう旅人さん!」

 持て囃されたトワキは照れ臭くなり、捕まっていた女の子を道に下ろすと──すぐに逃げた。

「あれはそーいう人だから!」

 走るトワキの後ろから、聞き慣れた笑い声がした。


          ◯

 

 トワキは河に戻りヤエを拾うと、ナザキと共に帰路につく。

 トワキがゾガを討ったことは、既に里中に広まっていた。

「お若いのに凄いねぇ君」

「ねぇお団子は好き?」

「今度はウチの旦那を締めておくれ!」

 歩いていると人が寄ってくる。

 酒の入った徳利を持っていることが、急に恥ずかしくなった。

 トワキよりも、何故かナザキの方が胸を張っている。

 そんなナザキが、トワキに憧れの眼差しを向ける。

「凄いんじゃトワキは! それだけ強いと怖いものなしなんじゃろ!」

「そんなことないさ。でも、ナザキが窮地の時は私が助けてあげてもいいよ」

 トワキは得意げに言った。

 嬉しそうな顔をするナザキは可愛らしくみえた。

 しかし、その顔はすぐにいつもの腕白小僧に戻ってしまった。

「トワキのくせして調子にのるな! コンニャロ!」

 脛を蹴られたが、トワキは笑う。

 人の為に鬼の力を役立てたことが、とても嬉しかった。

「トワキも〈ヨズモ〉で暮らすんじゃ。うん、それがええ!」

 ナザキは腕を組んで頷いた。

「ヨズモ……? 何だそれ?」

 トワキは首を傾げた。

 いきなり知らない言葉を出されても困る。

「馬鹿タレ! この里の名前じゃ! トワキは強いのに無知なんじゃのぉ」

「そうか……嬉しい誘いだけど、まだ旅をしないとな」

彼岸山ひがんざんなんて崩せんわ! 馬鹿タレ」

「崩せるさ。何故ならコガネがそう言った」

「やっぱりあの娘に〈ほの字〉じゃ!」


          ◯


 日が暮れてくる。

 ヒグラシの鳴き声が、何処からともなく鳴っている。

 トワキはその鈴の音に似た鳴き声を聞くと、昔から切ない気持ちになった。音に包まれていると、外界から切り離され……やがて一人で死んでしまうようで、不安に駆られる。

 暫く歩いて、ナザキと別れる。

「またな! トワキ! ヤエ! わしは寝るけ!」

「じゃあなナザキ」

 ナザキはオオクラのいる、広い薬種屋の方で暮らしているらしい。


 今日の黄昏はいつもよりも赤かった。


 トワキが借家に戻ると、夕焼け色が射し込む部屋には、コガネが一人、ぽつんと座っている。

「ただいま」

「おかえり」

 部屋に入るなり、ヤエはすぐにコガネに擦り寄った。

 やはりヤエが一番懐いているのは、コガネなのだ。

「トワキ、今日はよくやったね。奥の山からヒグラシの唄が聴こえるでしょ? あれはきっと、あなたを讃えている唄なんだ」

「蟲を倒したら虫から褒められるのか? 変だね。でもまあ、いい音色だ。ヒグラシ達にはヤエに喰われないようしてほしい」

 コガネが小さく笑った。

 その眉に、トワキは哀愁を感じた。

「私ね、今日はオオクラ様の薬種屋でお手伝いをしたんだ。そしたら急に怒号を上げるからびっくりしたよ」

「それはおっかないね」

「そう、おっかないね」

 コガネはそう言うと、連子の窓を見つめながら、ヤエを優しく撫でる。

 そして、それきり何も喋らない。

 虫達が鳴らす鈴の音だけが、トワキを耳を通ってくる。

 物悲しい気持ちはこの音のせいだろうか……


          ◯


 夜。トワキは手に持った灯火を頼りに、暗い渡り廊下を進む。昨日コガネが言っていた衝立の奥だ。

 浴室に着く。

「これがそれが」

 石で組まれた広い湯船は、溢れんばかりに湯を湛えている。

 トワキは灯火を置き、湯に浸かる。

(……温かい)

 かつてシトウ族の里でしていた沐浴とは、随分と違う。死ぬ為ではない、生きる為の入浴をしている。

 天井には太い丸太梁が、湯気越しに薄すらと見える。

「本当に大きな家だ……」

 トワキが湯に浸かっていると、その左手、引き戸を隔てて声がする。

「トワキ」

 コガネの澄んだ声だ。

「あなたに話したいことがある」

「君か……どうしたよ? 改まって」

「私ね……昔は月姫神子ツキミコって名前だったんだ」

「はぁ、ツキミコ? 君にはコガネの方が似合っているよ」

「そうだね」

「ふーん……月姫神子ツキミコか……響きが、似ているな」

「そう。私達が討つべき悪しき巫女──日姫神子ヒメミコと私は双子の姉妹」 

「成程……」

日姫ヒメはあなたと同じで、その身を憑代に天津神アマツカミを呼び寄せることができる……その神の名は〈メギドガンデ〉」

「メギドガンデ……いつか聞いた名だな」

「でも聞いて。本来メギドガンデの力は私のもの。私の魂をメギドガンデの身体に入れることができれば、その力を一時的には止められるはず。だからそのときが来たら、あなたは迷わずメギドガンデを倒すの」

「それは君ごとって意味か? 私は君の用心棒だよ」

「それでも、何でも。殺すの」


 ……その後、沈黙が続く。


 耐えかねたトワキが口火を切る。

「風呂、気持ちいいな。お姫様も入るか?」

「ドスケベ」

「冗談さ。私はドスケベじゃない」

「……トワキ、灯があるなら消して」

「なぜ? 何も見えなくなる」

「それでも、何でも。消すんだよ」

 トワキは灯火を消した。途端、闇に包まれ何も見えなくなった。少しすると、引き戸の開く音がする。横で湯が波打つ。そして、肩と肩とが触れ合った。

「本当に来るなんて。スケベは君だったか」 

 コガネと共に湯に浸かっている。それなのにトワキの心は不思議と平静だった。

「うるさい。こっち見ないでね」

「何も見えないよ?」

「もしかしてこっち見てるの⁉︎」

「み、見てないよ。暗いって話し」

「そう……まぁ、いいや。ねぇ、傷に触っていい?」

「どうぞ」

 トワキは怪我をしていた左腕を上げる。

 その表面を、細い指がなぞった。

 光のない世界で、トワキは指と傷とが触れ合う感覚だけが、現実のもののように感じられた。

「ざらざらしている。カサブタか。痛くない?」 

「全然。でも少し痒い。もう大分治ってきたし、この調子なら傷跡も残らないかもしれないな」

「あーあ、トワキには箔が付かなかったか」

「そうだな」

 それから暫く二人は湯に浸かった。


          ◯

 

 月夜に輝く彼岸山ひがんざん──水晶の塊のようなその山は、天より生えて、地に向かって伸びている。

 煌めく結晶で作られた山のいただきには、血油が淀む。

 この世のことわりから解かれた場所。

 かつては神域とされたその山頂は、今や呪いの儀式場と化していた。

 彼岸山ひがんざんの頂、天地が逆転した赤い床の上を、白く光る衣が駆けていく。

 月光を刻むようになびく、銀色の長髪。

 瞳は血を見過ぎたのか、鮮やかな紅色に染まっている。


 日姫神子ヒメミコ

 悪しき巫女と呼ばれる姫だ。


 周りには、数多の人の首が転がっている。

 日姫神子ヒメミコが声を張る。

「聞きなさい首達! 奴が近付いているよ。願を掛けてよかったね。随分と待ったわ、コガネ……偽りの月姫神子ツキミコ。お前が神の世界へ行ったから、今生の別れとなったらどうしようと、幾度も案じたことよ」

 日姫神子ヒメミコは首の一つを拾い上げた。血の床に張り付いていた毛髪が、ベリベリと音を立てて頭皮ごと剥がれた。

「あぁ、もう可愛くなくなってしまったね。ねえ、コガネ……私、お前の力で沢山の人を殺して、沢山の人を呪ったわ……ふふ、悲しむかな?」

 日姫神子ヒメミコは笑う。

 生首に溢れた彼岸山ひがんざんからは、呪いの瘴気が立ち昇る。



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