第六話・鳴動の怪獣〈ヨウザンオウ〉
第六話・鳴動の怪獣〈ヨウザンオウ〉
◯
トワキとコガネは夏の暑さに苦しみながらも、山に谷を……、野や河を……、長い道のりを歩き、今日まで旅を続けた。
屋根のある場所で身体を横にすることができない日々が続き、心身共に疲労が溜まる。「
トワキはコガネの身を案じた。
鬼を宿した私はともかく、コガネは普通の人間だ──。
どこかで身体を休める必要があると考える一方で、トワキはこの日々を楽しいとも感じていた。空は移ろい、河は澄み、風は時折笛を鳴らしながら草原を走り抜ける。
旅の中で見る景色は、山に閉じ籠っていた頃に味わうそれとは、どこか違って見えた。
前を進むコガネは、薄暗い山道を照らす木漏れ日の斑点を辿るように歩いている。その金色の柔らかな髪が、木漏れ日を受けて真白に染まっている。
◯
今日は朝から曇っていた。
曇天の下は、暑い日差しに晒されない代わりに、別の問題があった。湿気の重さに耐えかねた沢山の羽虫が、空から降りてくる。
「ぺっぺぺぺ! ぺっぺ!」
コガネがそこらに唾を吐く。
「コガネが馬鹿になった」
「ぺっんん! ぺっ! 羽虫が口に入ったんだよっ」
コガネは手に持った笠を振り回して、羽虫を払う。
「別にいいじゃないか、喰べてしまえば。私は既に諦めている。それに、沢山喰べたら胃も膨れるかもしれないよ」
「馬鹿はあなた。人の胃が羽虫なんかで膨らむもんですか。あっ、そうだヤエに喰べてもらうんだ。そうしよう」
コガネは背負っていた葛篭からヤエを引っ張り出すと、顔の前に持ち上げた。思惑通り、獣は口をバクバクとさせて羽虫を喰べる。
「へへ、こりゃいいや──って痛! 私の指を噛むなよ」
白銀の獣は、長い身体をコガネの手に巻き付けると、その指を咥える。
「お腹が減ってるんだよ」
「虫をお喰べ」
暫く羽虫を喰べると、ヤエは腹を満たしのか、自ら葛篭の中へと戻っていった。
山を超え、荒れた道を進んでいると、急にトワキが屈んだ。
トワキは湿った地面に手を当てた。遠方より気味の悪い振動が腕を伝ってくる。ただの地震ではない。
振動は徐々に強まる。
小石が揺れ、砂が跳ねる。
何か途轍もないものが、こちらに近づいている。
「あーあ、獣みたいに変な虫なんか喰ってるから腹を下すんだ。せめて茂みでしてなー」
何も知らないコガネは的外れなことを言う。
「違う! 揺れている。コガネ、何かデカいのが来るぞ!」
「象……とか?」
「何? 象? そんなものじゃない!」
腕を伝わる震動は激しくなる。
トワキは後方から感じる、ただならぬ気配に振り向くが、そこには先程超えた山が、鎮座するだけで、おかしなものは何もない。
しかしトワキは腰に差す刀に手を添えた。
コガネの背負う葛篭の中から、ヤエの怯える声がする。トワキと同じで、接近する脅威を察知したのだろう。
やがて山から飛び立った鳥の大群が、空を埋めた。
疎な影は忙しなく地面を泳ぎ、騒々しい鳴き声が頭上から降ってくる。
「私の後ろに下がれコガネ!」
木々が激しく揺れる。
轟音が鳴り、山が砕けて土砂の血が迸った。
そして巨大な黒い塊が現れる。
「うおおっ⁉︎」
コガネが驚いて声を上げた。
まるで黒い津波のような不定形の怪物は、幾つもの鉤状の爪で地面を掻きながら、山を崩してもなお突き進む。
「
コガネが叫んだ。
「化け物だ。早く私の背に乗れ」
トワキはコガネを背負うと、大地を全力で駆ける。
◯
迫り来る怪物。
その始まりは、血の海を泳ぐ小魚だった。それが
呪いの津波は大地を浸し、今、二人を呑み込もうとしている。
〈大地鳴動の怪物・ヨウザンオウ出現〉
大津波さながらの巨大な怪物は、木々を薙ぎ倒しながら猛進する。長い時間をかけ、数多くの戦場を渡ってきた怪物の体表には、かつては
トワキはコガネを背負って野を駆ける。
「ダメだ追い付かれる」
背中からコガネの諦めたような声がする。
「ならばどうしろと⁉︎ あんなものと戦ったって勝てやしない! 逃げるしかない!」
「トワキ……」
背後より、地響きを立てて迫り来る、怪物の巨大段波。
「あなたにはアレを倒せる力がある。分かるでしょ?」
コガネが何が言いたいのか、トワキにもすぐに分かった。
「何を馬鹿な。制御なんてできやしない」
「いいやできる。私と初めて出会った日、あなたは鬼の力を制御できたんだ!」
ニギの里で、現れた鬼神の身体を操り、その力を制したのは間違いなくトワキの意思だった。
しかし、未だに鬼に対する恐怖を払いきれない。鬼神を制御するだけの強い意志をもつ自信がなかった。今度はコガネを殺してしまうかもしれない──。トワキはそれが何よりも怖かった。
「あのときは君がいて──」
「私なら今だっているだろ! 後は自分を信じるだけだ。トワキ、恐怖を支配して生きろ!」
コガネの言うとおり、鬼神をこちらに呼び寄せなければ、二人は迫り来る怪物に殺されるだろう。
コガネはなおも躊躇するトワキを説得する。
「トワキ諦めろ。逃げる道なんてもうないんだ! 死ぬか! 戦うか!」
トワキは少し黙った
「人に戻れなくなっても知らんぞ」
コガネも笑う。
「それも一興だ」
「コガネが馬鹿に──」
トワキから黒煙が噴出する。
双角を伸ばし、尾を振り上げ、この世に現れる鬼の神。
鬼神の喉から鳴るトワキの声。
『──なった』
◯
鬼神の肉体の核になっても、トワキは意識を保っていた。不思議と鬼神の操り方が分かった。巨大な身体を支配しているのが分かった。その指先まで感覚が行き届いている。
トワキは鬼神の手の開閉を繰り返してみた。
いけた! 鬼を操れる!──。
鬼神と一体になったトワキは、元の人間の肉体を失ったかのような感覚になった。
「やってやるさ」
抗わないで受け入れる。自分の意思で鬼となったのなら、それを支配してみせる──。
「それでいいトワキ」
鬼神の内部でコガネの声がこだまする。それは遠くから響くようにも、近くで囁いているようにも聞こえる。コガネも黒煙に取り込まれ、トワキと同じく肉体の境界を失い、鬼と一つになっているのだろう。
構える鬼神。曲げた指から鋭い爪が伸びた。
そこに膨れ上がった怪物の津波が、塊となって突貫する。
鬼神はその巨体を受け止める。
激突する二体の怪獣。
ぶつかり合う力は空気を震わし、大地に波紋が広がった。
だがしかし。
立ち上がった土砂が落ちるのを待たず、巨大な怪物の進行は再開する。
『デカブツがっ……』
鬼神から漏れたトワキの声は、苦痛に締め付けられている。
怪物・ヨウザンオウの膨れた巨体は、二十間(約三十五メートル)近くはある鬼神の大きさを遥かに上回り、まるで動く山のようだ。その重圧に鬼神の脚が沈む。踏ん張る鬼神を、ヨウザンオウは圧倒的な力で動かした。
地中に抉り込んだ鬼神の脚が、地面を引き裂きながら滑っていく。ヨウザンオウの
怪物が山野を穿つ。
小さな山が丸ごと崩れた。
土砂が逆立ち拡散する。
迫り上がる土煙は尾を引いている。
ヨウザンオウの勢いは加速する。大地の鳴動が止むことはない。
トワキは焦る。
「駄目だ止まらない! このままでは押し潰される!」
そのとき、記憶の奥に押し込んでいた、紫に染まったあの光景が蘇った。
嫌な思い出だ。
しかし。
今は使えるものは何でも使うしかない──。
トワキは、鬼神の最大の攻撃である
辺りを紫色に染め上げる高熱の炎が、巨大な怪物を包み込んだ。
鬼の目を通じて、トワキにも焼けた怪物の表皮が、弾け飛ぶのが分かった。怪物の小山程ある巨体にも、鬼神の紫炎は効くようだ。
しかし、その高熱は鬼神の身体をも容赦なく攻撃した。
「熱っ!」
「クソッ敵が近すぎる」
トワキとコガネ、二人だけではない。ヤエも一緒に鬼神の身体に取り込まれている。紫炎の熱に「キュン!」という悲痛な声を上げた。
すぐに紫炎の放射を止める。
大地を鳴動させ、爆走する怪物を前に、トワキはなす術がない。
鬼神の背が小山を突き砕いた。
強い痛みに、二人と一匹は苦しむ。
「やはり鬼と感覚を共有しているようだ。それよりマズいな、人里が近いぞ」
振り向いた鬼神の視線の先には、沢山の建物が並ぶ大きな里がある。
背に衝撃が走る。
『ぐぁっ』
また山が崩れた。
◯
警鐘が絶え間なく鳴り、里に迫る危機を知らせている。
遠方より迫り来る土煙の嵐を、里の者達は不安気に見つめる。
女の声が皆を先導する。
「高台なんて意味がないぞ! 皆できるだけ左右に散るんだ!」
地響きは激しくなる。二体の怪物の姿が里に近づいてくる。
鬼神の中でコガネの声が響く。
「トワキと初めて会ったとき……、ニギ族の里であなたが出した鬼は、今よりも遥かに巨大だった」
澄んだ声音は、トワキに覚悟を決めろと言ってくる。
「本当に……、戻れなくなるぞ」
「荒ぶる神を鎮めるは、荒ぶる神のみ」
コガネが笑っているのがトワキにも分かった。信頼してくれている。その気持ちが伝わってきた。
このままで逡巡していても、訪れるのは破滅か──。
トワキは覚悟を決めた。
「トワキ、やれ!」
「分かったよ。君を信じて、己を信じる」
猛進するヨウザンオウを、黒煙の爆発が撥ね上げる。
力を増し巨大化する鬼神。角の先まで入れたその高さは、三十間(約五十五メートル)を優に超える。
鬼神の大木のような腕が、ヨウザンオウの巨体にめり込んだ。
『ヴォオオウゥ!』
地獄の底から轟くような鬼神の咆哮は、里を震わせ、人々を戦慄させる。
黒煙を纏い強大化した鬼神は、圧倒的な力でヨウザンオウを押さえると、その巨体に鋭利な頭部を勢いよく打ち付けた。
頭突きの衝撃は波紋となって広がり、ヨウザンオウはその威力に大きく仰け反った。
鬼神はヨウザンオウの腹に、固めた拳を打ち込む。怪物の身体は大きく陥没した。
「うああぁ!」
人々の悲鳴が上がる。強打の衝撃は里にまで届いた。
更に拳が放たれた。
弾けるような衝撃が突風と化して、里にぶつかった。人々は轟音に耳を押さえ、振動に膝を折り、地面にうずくまる。
皆が恐怖に慄くなか、一人の女が鬼神に強い眼差しを向けている。
打ち込まれる拳は加速する。
鬼神の両腕が風を切る度に生まれる赤熱の軌跡が、ヨウザンオウの山のような巨体を徐々に削っていく。
そして鬼神は渾身の力を乗せた強烈な一撃を叩き込み、ヨウザンオウの巨体を天に突き上げた。
鬼神の身体を紫の光が迫り上がる。
「私だけじゃあない。コガネ、君も覚悟を決めろよ」
「当たり前だ」
トワキとコガネ、それにヤエは、伝わる高熱にひたすら耐えた。
ゴウッという音と共に、紫色の火柱が立ち上がる。
放たれた紫炎に、ヨウザンオウは徐々にその巨体を焼失させながら、空へと昇る。やがて焼かれた死骸は、塵芥となって地上に降り積もる……。
地響きは消えてなくなった。
だがしかし。
『ヌアアァアッ!』
鬼神の咆哮はなおも里を震わせる。
◯
鬼神が里に向かってくる。
終わらぬ脅威に、里は騒然となった。絶大な力を以て、ヨウザンオウを倒した鬼は、新たな破壊の対象へと進んでいる。
トワキは鬼神を消し去ろうとするも、上手くいかない。
「やはり戻れない、意識も眩んできた」
「あのときのように恐怖を払え! 鬼神はあなたの恐怖が作り出したものならば、それを支配するんだ!」
「一度上手くいったからって何度もできる訳じゃない!」
鬼神の脚はトワキの意思に反して、動き続けている。地を踏む感覚は、破滅までの刻限を刻んでいるようだ。
トワキの心に焼け付いた、シトウの里での惨劇の記憶が、更なる恐怖を生む。鬼神に潰された兄の最期が眼前に広がる。
「ケイテイ……。私はまた……」
「トワキ!」
「駄目だ恐怖なんて払えやしない。目の前で人が焼けて死ぬ」
「つまらないことを考えるな! そんなことを考えていたら何もできない。上手くいくことだけを、幸せだけを思え!」
コガネはそう言うも、トワキの過去に根付いた死の呪いは、既に抗えぬ呪縛となっていた。
「幸せなんてそんなモノ──」
鬼神による悪夢が再現されようとしている。
そのとき。
「じゃあさ」とコガネが囁いた。
しかしその後……、コガネは考え込むように黙ってしまう。続きが出てこない。
「何だ早く言えよ!」
トワキは焦る。
コガネの沈黙は続く。
だが遂に、コガネの声がトワキのもとにやって来た。
「鬼を消したら……後で、私の〈胸〉を触らせてあげるね」
「はぁっ⁉︎」
不意の一撃にトワキは仰天する。
そしてその瞬間、鬼神が霧散した。先までのの恐怖は、一瞬でどこかへ行ってしまった。
鬼神が消えたことにより、肉体を取り戻したトワキ達は宙に放り出された。
「嘘だぁっ!」
「コガネッ!」
トワキは手を伸ばすも、コガネはそれを避け、胸元を両手で隠した。
「嫌っ! 触らんでっ!」
「違うっ!」
地面が近づいてくる。
トワキはやっとの思いで、コガネを引き寄せると、そのまま抱きすくめた。
地面との激突から守る為、コガネの頭を手で覆う。
地面にぶつかる。
強い衝撃がした。
全身に痛みが広がる。
瞬間、目の前が真白に変わる。
そして、意識が徐々に遠退くいていく。
「トワキッ!」
意識が消え入るなか、この旅の間幾度となく聞いた呼び声が、また聞こえてくる。身体は冷えるのに、左腕だけは暖かい。熱いくらいだ。コガネは無事だろうか? ヤエは……?──。
確認する間もなく、トワキは眠ってしまった。
◯
どれくらいの時間を、眠っていたのか……。トワキは、両目の上に重く被さっている瞼を開けた。
「起きた?」
目の前にコガネの顔がある。らしくなく随分としおらしい表情をしている。その頭上にぼやけて見える焦茶色は、板張りの天井のようだ。
トワキは誰かの家の中で、
その顔を心配したコガネが覗き込んでいる。
「腕痛い? 岩にぶつけて凄い血が出てたから」
言われて初めて左腕の負傷に気付く。
布が巻かれているが、余程酷い傷なのだろうか。目に刺さる程に赤く、血が滲んでいる。
「私は気を失っていたのか……。ここどこだ?」
トワキは少し痛む首を回して、周りを見てみた。
コガネの後ろには、光を取り込む連子窓がある。落ち着いた室内には、細長い花器が置かれており、そこに生けられた百合らしきの花は、仄かに陽光に照らされている。
「ここはオオクラ様の家だよ。オオクラ様はこの里の長で薬種屋をしてるんだってさ。トワキの腕もオオクラ様が手当てしてくれたから、人嫌いでも後で礼くらい言っときなよ」
「私は別に人嫌いじゃない。君もヤエも無事か?」
「私は見てのとおり大丈夫だ。ヤエも無事。ちっちゃいけど羽があるからね。高い所から落ちてもへっちゃらなんだよ。きっと」
コガネが視線を移すと、そこには笠の中で丸まっているヤエの背が見える。小さな羽がパタパタと動いた。
「ほらそこ、私の笠の中で寝ているよ。最近は大きくなって、葛篭が手狭に感じるのかもね。トワキの笠は……壊れちゃった」
コガネは申し訳なさそうな顔をした。
ニギの里に捨て置いた〈一本目の刀〉に続いて、トワキはカドダイとの思い出の品をまた一つ失った。少しだけ悲しくなったが、ヤエの無事を確認し、コガネには余計な心労を掛けたくないゆえ、笑顔を繕った。
「もともとオンボロさ」
そして。
トワキは最も気になることを、恐る恐る尋ねる。
「鬼は……私は、誰も殺していないか?」
その問いに、コガネは深く頷いた。
「大丈夫だ。トワキはみんなを守ったよ」
「そうか……」
安心したトワキは、上体を起こすと、腕に巻かれている包帯を解いた。
「えっ何で取るの⁉︎ 馬鹿なんじゃない! ちょっと傷見せないで! やだやだやだやだ」
「うわっ、……成程。結構深いな」
コガネが顔をしかめるのも、無理はなかった。トワキの左腕はひどく掘り込まれ、肉の溝が刻まれている。
傷の周りに付いた黄色の粉は薬だろうか。
傷を見ていると、トワキは急に鋭い痛みに襲われた。腕が壊れるようだ。指の先まで痺れてくる。
これ程の痛みが傷の内に潜んでいたとは。
包帯を解いたことが悔やまれる。
「うっ」
トワキは呻き声を上げ、再び褥に背を付けた。
暫くすると引き戸が開き、部屋に背の高い女性が入ってきた。知らない人間の顔を見て、トワキは少し緊張する。歳は二十半ばくらいだろうか、黒い髪で、凛とした顔付きをしている。
その女性を見てコガネが慌てた。
「ごめんなさい、この人馬鹿なんです! せっかくオオクラ様が巻いてくれた包帯とっちゃって」
この女性が里長の〈オオクラ様〉のようだ。
オオクラはトワキの傷付いた左腕を診て、少し険しい顔をした。
トワキは不安になってきた。
「いいよ。血が完全に止まっている。その腕、もう動くのか? そう、よかった。待ってな、新しいの布をもってくる」
「あ、ありがとう」
口から出た礼がぎこちないのが、トワキ自身にも分かった。
「こちらこそ、里を守ってくれてありがとう。荒ぶる
「あっ、え」
礼を言ったはずが向こうからも感謝され、トワキは虚を衝かれた気分になった。
そして。
この人は私が鬼であることを知った上で、助けてくれた──。
トワキはそのことにも驚いた。
「俺は殆ど店の方に居るし、この部屋は好きに使ってくれて構わない」
トワキが口籠っていると、オオクラは部屋を出ていってしまった。
「嫌いじゃないぃ? 全然喋れてないじゃん……」
コガネが呆れた風に言う。
「嘘ではない。嫌いじゃあなくて、得意じゃないだけさ」
「あそ、どっちでもいいけど……。あと、あのね、私からもトワキにお礼を言うよ。ありがと! その傷、私を庇ったからできたんでしょ?」
「関係ない、それに多分すぐ治る」
ここまでの傷を負ったことは初めてだが、トワキは自身の傷の治りが早いことは、山暮らしで知っている。これも鬼による身体強化の一つだろう。今回は
「それでも、何でもありがとう……。じゃあ、私オオクラ様のお手伝いしようかな。……あ、そうだ、もう一つ言いたいことがあった!」
コガネはハタと手を叩いて、トワキに顔を近づけると、その耳元で囁いた。
「……スケベ」
トワキが弁解する間もなく、ピシャリと戸が閉まる音が鳴り、コガネは部屋から出て行ってしまう。
「あ、あれは、君の不意打ちだろ! 私は、スケベでは、ない……」
◯
次の日、トワキが寝ていると、腹の上で何かが忙しなく跳ねている。「起きろ! 起きろ! 起きろ!」と騒いで、とてもうるさい。
「子供?」
目を開けると七つか八つくらいの子供が、トワキの腹の上で遊んでいた。
「けけ、怪我してるから、降りてぇ!」
隣ではコガネが、わなわなと焦った様子だ。コガネは人好きに見えるが、子供には慣れていないのだろうか。
そのとき、勢いよく戸が開く。
「ジャリがっ! 怪我人に何狼藉働いてんだ!」
叫んだのはオオクラだった。
オオクラは子供をトワキから引き離すと、部屋から摘み出した。その剣幕に、コガネは唇を真一文字にし、目を丸くしている。背筋まで張って、相当驚いたのだろう。
「済まないね。俺の子だ。名前はナザキというのだが、誰に似たのか……、身体の丈夫さだけが取り柄の馬鹿息子だよ。すこし目は悪いがね」
オオクラはトワキの傍に座ると、左腕の布を丁寧に解いた。
「やはり傷の治りが早いな。うん、大丈夫だ、後は自然に治るだろう。傷跡は残るかもしれないが、男はそのくらいが箔が付くってものだよ。まあ女もだがな」
そう言って微笑むオオクラの左頬にも傷跡がある。凛とした顔に張り付いた、落ち葉のような傷跡は可愛らしくみえる。
「君たちは旅をしているのか? どういう訳か、最近は國津神共が荒れている。
それを聞いて、コガネが首を横に振った。
「いえ、
「ねっ」と言われて、ヤエは「クルル!」と返事をしたが、山を崩すなど、トワキは初めて聞いた。
鬼神の力を以てすれば、小さな山くらいなら崩せるのかもしれないが──。
当然、オオクラも驚いている様子だった。
なんて馬鹿なことを言う娘だ──。そう思われても仕方がない。トワキですら少し思った。
「
難しい顔をするオオクラに、コガネは頼もしく答える。
「大丈夫。私はその道を知っています」
その後、トワキを残し二人は部屋を出た。
コガネはオオクラの店の手伝いをするつもりらしい。
◯
二人が部屋を出た後、オオクラの息子、ナザキが懲りずにまたやって来る。また腹の上で跳ねられてはかなわないので、トワキは褥から上体を起こした。
左腕の傷か痛む。包帯を巻いても、痛みは隠れてはくれない。
「兄ちゃん、
「らしいね」
ナザキはさっきの話を聞いていたらしい。
「
「みたいだね」
「あんな大山どうやって崩すんじゃ?」
「さぁね。君は
トワキが尋ねると、ナザキは品のない大声で笑った。
「ひゃひゃひゃ! 聞いたことがあるだけじゃ! どデカい山じゃけぇ崩せるもんか! あの姉ちゃんもお馬鹿さんじゃの〜」
トワキも笑う。
「ははは。そうかもね。でも私はコガネを信じるよ。何か策があるんだろう」
トワキはそう言うと膝で立ち、光を取り入れている連子の間から、何気なく外を見た。そこには、道の窪みに敷かれた板を踏み抜き、
トワキは急に不安になった。
「大丈夫かあの姉ちゃん」
「可愛いだろ?」
トワキが聞くと、ナザキがニヤリと笑った。
「なんじゃ兄ちゃん、〈ほの字〉か?」
少し考える。
トワキはコガネに対する自分の気持ちを、上手く言葉に落とし込むことができない。恋情、友情、どちらも違う気がした。ただの旅の仲間では寂しく感じる。
「うーむ、どうだろうね?」
「わしに聞くない! ハッキリせん男は嫌われるって前にオオクラが言ってた!」
「ふーん……」
コガネに自分への気持ちを問えば、彼女は何と答えるのだろうか──。トワキは少し気になってきた。
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