第六話・鳴動の怪獣〈ヨウザンオウ〉

 第六話・鳴動の怪獣〈ヨウザンオウ〉


          ◯


 トワキとコガネは夏の暑さに苦しみながらも、山に谷を……、野や河を……、長い道のりを歩き、今日まで旅を続けた。

 屋根のある場所で身体を横にすることができない日々が続き、心身共に疲労が溜まる。「こむらが痛い」が、近頃のコガネの口癖だ。

 トワキはコガネの身を案じた。

 鬼を宿した私はともかく、コガネは普通の人間だ──。

 どこかで身体を休める必要があると考える一方で、トワキはこの日々を楽しいとも感じていた。空は移ろい、河は澄み、風は時折笛を鳴らしながら草原を走り抜ける。

 旅の中で見る景色は、山に閉じ籠っていた頃に味わうそれとは、どこか違って見えた。

 前を進むコガネは、薄暗い山道を照らす木漏れ日の斑点を辿るように歩いている。その金色の柔らかな髪が、木漏れ日を受けて真白に染まっている。


          ◯


 今日は朝から曇っていた。

 曇天の下は、暑い日差しに晒されない代わりに、別の問題があった。湿気の重さに耐えかねた沢山の羽虫が、空から降りてくる。

「ぺっぺぺぺ! ぺっぺ!」

 コガネがそこらに唾を吐く。

「コガネが馬鹿になった」

「ぺっんん! ぺっ! 羽虫が口に入ったんだよっ」

 コガネは手に持った笠を振り回して、羽虫を払う。

「別にいいじゃないか、喰べてしまえば。私は既に諦めている。それに、沢山喰べたら胃も膨れるかもしれないよ」

「馬鹿はあなた。人の胃が羽虫なんかで膨らむもんですか。あっ、そうだヤエに喰べてもらうんだ。そうしよう」 

 コガネは背負っていた葛篭からヤエを引っ張り出すと、顔の前に持ち上げた。思惑通り、獣は口をバクバクとさせて羽虫を喰べる。

「へへ、こりゃいいや──って痛! 私の指を噛むなよ」

 白銀の獣は、長い身体をコガネの手に巻き付けると、その指を咥える。

「お腹が減ってるんだよ」

「虫をお喰べ」

 暫く羽虫を喰べると、ヤエは腹を満たしのか、自ら葛篭の中へと戻っていった。


 山を超え、荒れた道を進んでいると、急にトワキが屈んだ。


 トワキは湿った地面に手を当てた。遠方より気味の悪い振動が腕を伝ってくる。ただの地震ではない。

 振動は徐々に強まる。

 小石が揺れ、砂が跳ねる。

 何か途轍もないものが、こちらに近づいている。

「あーあ、獣みたいに変な虫なんか喰ってるから腹を下すんだ。せめて茂みでしてなー」

 何も知らないコガネは的外れなことを言う。

「違う! 揺れている。コガネ、何かデカいのが来るぞ!」

「象……とか?」

「何? 象? そんなものじゃない!」

 腕を伝わる震動は激しくなる。

 トワキは後方から感じる、ただならぬ気配に振り向くが、そこには先程超えた山が、鎮座するだけで、おかしなものは何もない。

 しかしトワキは腰に差す刀に手を添えた。

 コガネの背負う葛篭の中から、ヤエの怯える声がする。トワキと同じで、接近する脅威を察知したのだろう。

 やがて山から飛び立った鳥の大群が、空を埋めた。

 疎な影は忙しなく地面を泳ぎ、騒々しい鳴き声が頭上から降ってくる。

「私の後ろに下がれコガネ!」

 木々が激しく揺れる。

 轟音が鳴り、山が砕けて土砂の血が迸った。

 そして巨大な黒い塊が現れる。

「うおおっ⁉︎」

 コガネが驚いて声を上げた。

 まるで黒い津波のような不定形の怪物は、幾つもの鉤状の爪で地面を掻きながら、山を崩してもなお突き進む。

しゅの塊だー!」

 コガネが叫んだ。

「化け物だ。早く私の背に乗れ」

 トワキはコガネを背負うと、大地を全力で駆ける。


          ◯


 迫り来る怪物。

 その始まりは、血の海を泳ぐ小魚だった。それがしゅを取り込むうちに成長し、やがて鯨のような怪異となった。鯨の怪異は大地を泳ぎ、戦場いくさばを回遊し、多くのしゅを吸い続けて成長し、やがて津波となる。

 呪いの津波は大地を浸し、今、二人を呑み込もうとしている。


〈大地鳴動の怪物・ヨウザンオウ出現〉


 大津波さながらの巨大な怪物は、木々を薙ぎ倒しながら猛進する。長い時間をかけ、数多くの戦場を渡ってきた怪物の体表には、かつてはつわもの達が身に着けていた、幾つもの鎧が取り込まれている。


 トワキはコガネを背負って野を駆ける。

「ダメだ追い付かれる」

 背中からコガネの諦めたような声がする。

「ならばどうしろと⁉︎ あんなものと戦ったって勝てやしない! 逃げるしかない!」

「トワキ……」

 背後より、地響きを立てて迫り来る、怪物の巨大段波。

「あなたにはアレを倒せる力がある。分かるでしょ?」

 コガネが何が言いたいのか、トワキにもすぐに分かった。

「何を馬鹿な。制御なんてできやしない」

「いいやできる。私と初めて出会った日、あなたは鬼の力を制御できたんだ!」

 ニギの里で、現れた鬼神の身体を操り、その力を制したのは間違いなくトワキの意思だった。

 しかし、未だに鬼に対する恐怖を払いきれない。鬼神を制御するだけの強い意志をもつ自信がなかった。今度はコガネを殺してしまうかもしれない──。トワキはそれが何よりも怖かった。

「あのときは君がいて──」

「私なら今だっているだろ! 後は自分を信じるだけだ。トワキ、恐怖を支配して生きろ!」


 コガネの言うとおり、鬼神をこちらに呼び寄せなければ、二人は迫り来る怪物に殺されるだろう。


 コガネはなおも躊躇するトワキを説得する。

「トワキ諦めろ。逃げる道なんてもうないんだ! 死ぬか! 戦うか!」

 トワキは少し黙ったのち、引きつった笑みを顔に出す。

「人に戻れなくなっても知らんぞ」

 コガネも笑う。

「それも一興だ」

「コガネが馬鹿に──」

 トワキから黒煙が噴出する。

 双角を伸ばし、尾を振り上げ、この世に現れる鬼の神。

 鬼神の喉から鳴るトワキの声。

『──なった』


          ◯


 鬼神の肉体の核になっても、トワキは意識を保っていた。不思議と鬼神の操り方が分かった。巨大な身体を支配しているのが分かった。その指先まで感覚が行き届いている。

 トワキは鬼神の手の開閉を繰り返してみた。

 いけた! 鬼を操れる!──。

 鬼神と一体になったトワキは、元の人間の肉体を失ったかのような感覚になった。

「やってやるさ」

 抗わないで受け入れる。自分の意思で鬼となったのなら、それを支配してみせる──。

「それでいいトワキ」

 鬼神の内部でコガネの声がこだまする。それは遠くから響くようにも、近くで囁いているようにも聞こえる。コガネも黒煙に取り込まれ、トワキと同じく肉体の境界を失い、鬼と一つになっているのだろう。


 構える鬼神。曲げた指から鋭い爪が伸びた。

 そこに膨れ上がった怪物の津波が、塊となって突貫する。

 鬼神はその巨体を受け止める。


 激突する二体の怪獣。 


 ぶつかり合う力は空気を震わし、大地に波紋が広がった。

 だがしかし。

 立ち上がった土砂が落ちるのを待たず、巨大な怪物の進行は再開する。

『デカブツがっ……』

 鬼神から漏れたトワキの声は、苦痛に締め付けられている。

 怪物・ヨウザンオウの膨れた巨体は、二十間(約三十五メートル)近くはある鬼神の大きさを遥かに上回り、まるで動く山のようだ。その重圧に鬼神の脚が沈む。踏ん張る鬼神を、ヨウザンオウは圧倒的な力で動かした。

 地中に抉り込んだ鬼神の脚が、地面を引き裂きながら滑っていく。ヨウザンオウの驀進ばくしんは止まらない。巨体の両端より太い爪を形成し、大地を切り刻みながら突き進む。


 怪物が山野を穿つ。

 小さな山が丸ごと崩れた。

 土砂が逆立ち拡散する。

 迫り上がる土煙は尾を引いている。

 ヨウザンオウの勢いは加速する。大地の鳴動が止むことはない。


 トワキは焦る。

「駄目だ止まらない! このままでは押し潰される!」

 そのとき、記憶の奥に押し込んでいた、紫に染まったあの光景が蘇った。

 嫌な思い出だ。

 しかし。

 今は使えるものは何でも使うしかない──。

 トワキは、鬼神の最大の攻撃である紫炎しえんを放った。

 辺りを紫色に染め上げる高熱の炎が、巨大な怪物を包み込んだ。

 鬼の目を通じて、トワキにも焼けた怪物の表皮が、弾け飛ぶのが分かった。怪物の小山程ある巨体にも、鬼神の紫炎は効くようだ。

 しかし、その高熱は鬼神の身体をも容赦なく攻撃した。

「熱っ!」

「クソッ敵が近すぎる」

 トワキとコガネ、二人だけではない。ヤエも一緒に鬼神の身体に取り込まれている。紫炎の熱に「キュン!」という悲痛な声を上げた。

 すぐに紫炎の放射を止める。

 大地を鳴動させ、爆走する怪物を前に、トワキはなす術がない。

 鬼神の背が小山を突き砕いた。

 強い痛みに、二人と一匹は苦しむ。

「やはり鬼と感覚を共有しているようだ。それよりマズいな、人里が近いぞ」

 振り向いた鬼神の視線の先には、沢山の建物が並ぶ大きな里がある。

 背に衝撃が走る。

『ぐぁっ』

 また山が崩れた。

       

          ◯


 警鐘が絶え間なく鳴り、里に迫る危機を知らせている。

 遠方より迫り来る土煙の嵐を、里の者達は不安気に見つめる。

 女の声が皆を先導する。

「高台なんて意味がないぞ! 皆できるだけ左右に散るんだ!」

 地響きは激しくなる。二体の怪物の姿が里に近づいてくる。


 鬼神の中でコガネの声が響く。

「トワキと初めて会ったとき……、ニギ族の里であなたが出した鬼は、今よりも遥かに巨大だった」

 澄んだ声音は、トワキに覚悟を決めろと言ってくる。

「本当に……、戻れなくなるぞ」

「荒ぶる神を鎮めるは、荒ぶる神のみ」

 コガネが笑っているのがトワキにも分かった。信頼してくれている。その気持ちが伝わってきた。

 このままで逡巡していても、訪れるのは破滅か──。

 トワキは覚悟を決めた。

「トワキ、やれ!」

「分かったよ。君を信じて、己を信じる」


 猛進するヨウザンオウを、黒煙の爆発が撥ね上げる。

 力を増し巨大化する鬼神。角の先まで入れたその高さは、三十間(約五十五メートル)を優に超える。


 鬼神の大木のような腕が、ヨウザンオウの巨体にめり込んだ。

『ヴォオオウゥ!』

 地獄の底から轟くような鬼神の咆哮は、里を震わせ、人々を戦慄させる。

 黒煙を纏い強大化した鬼神は、圧倒的な力でヨウザンオウを押さえると、その巨体に鋭利な頭部を勢いよく打ち付けた。

 頭突きの衝撃は波紋となって広がり、ヨウザンオウはその威力に大きく仰け反った。

 鬼神はヨウザンオウの腹に、固めた拳を打ち込む。怪物の身体は大きく陥没した。


「うああぁ!」

 人々の悲鳴が上がる。強打の衝撃は里にまで届いた。

 更に拳が放たれた。

 弾けるような衝撃が突風と化して、里にぶつかった。人々は轟音に耳を押さえ、振動に膝を折り、地面にうずくまる。

 皆が恐怖に慄くなか、一人の女が鬼神に強い眼差しを向けている。


 打ち込まれる拳は加速する。

 鬼神の両腕が風を切る度に生まれる赤熱の軌跡が、ヨウザンオウの山のような巨体を徐々に削っていく。

 そして鬼神は渾身の力を乗せた強烈な一撃を叩き込み、ヨウザンオウの巨体を天に突き上げた。

 鬼神の身体を紫の光が迫り上がる。

「私だけじゃあない。コガネ、君も覚悟を決めろよ」

「当たり前だ」

 トワキとコガネ、それにヤエは、伝わる高熱にひたすら耐えた。

 ゴウッという音と共に、紫色の火柱が立ち上がる。

 放たれた紫炎に、ヨウザンオウは徐々にその巨体を焼失させながら、空へと昇る。やがて焼かれた死骸は、塵芥となって地上に降り積もる……。

 地響きは消えてなくなった。

 だがしかし。

『ヌアアァアッ!』

 鬼神の咆哮はなおも里を震わせる。


          ◯

 

 山間やまあいに立つ双角の巨影。

 鬼神が里に向かってくる。

 終わらぬ脅威に、里は騒然となった。絶大な力を以て、ヨウザンオウを倒した鬼は、新たな破壊の対象へと進んでいる。


 トワキは鬼神を消し去ろうとするも、上手くいかない。

「やはり戻れない、意識も眩んできた」

「あのときのように恐怖を払え! 鬼神はあなたの恐怖が作り出したものならば、それを支配するんだ!」

「一度上手くいったからって何度もできる訳じゃない!」

 鬼神の脚はトワキの意思に反して、動き続けている。地を踏む感覚は、破滅までの刻限を刻んでいるようだ。

 トワキの心に焼け付いた、シトウの里での惨劇の記憶が、更なる恐怖を生む。鬼神に潰された兄の最期が眼前に広がる。

「ケイテイ……。私はまた……」

「トワキ!」

「駄目だ恐怖なんて払えやしない。目の前で人が焼けて死ぬ」

「つまらないことを考えるな! そんなことを考えていたら何もできない。上手くいくことだけを、幸せだけを思え!」

 コガネはそう言うも、トワキの過去に根付いた死の呪いは、既に抗えぬ呪縛となっていた。

「幸せなんてそんなモノ──」


 鬼神による悪夢が再現されようとしている。

 そのとき。

 「じゃあさ」とコガネが囁いた。

 しかしその後……、コガネは考え込むように黙ってしまう。続きが出てこない。

「何だ早く言えよ!」

 トワキは焦る。

 コガネの沈黙は続く。

 だが遂に、コガネの声がトワキのもとにやって来た。

「鬼を消したら……後で、私の〈胸〉を触らせてあげるね」

「はぁっ⁉︎」

 不意の一撃にトワキは仰天する。

 そしてその瞬間、鬼神が霧散した。先までのの恐怖は、一瞬でどこかへ行ってしまった。

 鬼神が消えたことにより、肉体を取り戻したトワキ達は宙に放り出された。

「嘘だぁっ!」

「コガネッ!」

 トワキは手を伸ばすも、コガネはそれを避け、胸元を両手で隠した。

「嫌っ! 触らんでっ!」

「違うっ!」

 地面が近づいてくる。

 トワキはやっとの思いで、コガネを引き寄せると、そのまま抱きすくめた。

 地面との激突から守る為、コガネの頭を手で覆う。

 地面にぶつかる。

 強い衝撃がした。

 全身に痛みが広がる。

 瞬間、目の前が真白に変わる。

 そして、意識が徐々に遠退くいていく。

「トワキッ!」

 意識が消え入るなか、この旅の間幾度となく聞いた呼び声が、また聞こえてくる。身体は冷えるのに、左腕だけは暖かい。熱いくらいだ。コガネは無事だろうか? ヤエは……?──。

 確認する間もなく、トワキは眠ってしまった。


          ◯


 どれくらいの時間を、眠っていたのか……。トワキは、両目の上に重く被さっている瞼を開けた。

「起きた?」

 目の前にコガネの顔がある。らしくなく随分としおらしい表情をしている。その頭上にぼやけて見える焦茶色は、板張りの天井のようだ。

 トワキは誰かの家の中で、しとねに寝かされていた。

 その顔を心配したコガネが覗き込んでいる。

「腕痛い? 岩にぶつけて凄い血が出てたから」

 言われて初めて左腕の負傷に気付く。

 布が巻かれているが、余程酷い傷なのだろうか。目に刺さる程に赤く、血が滲んでいる。

「私は気を失っていたのか……。ここどこだ?」

 トワキは少し痛む首を回して、周りを見てみた。

 コガネの後ろには、光を取り込む連子窓がある。落ち着いた室内には、細長い花器が置かれており、そこに生けられた百合らしきの花は、仄かに陽光に照らされている。

「ここはオオクラ様の家だよ。オオクラ様はこの里の長で薬種屋をしてるんだってさ。トワキの腕もオオクラ様が手当てしてくれたから、人嫌いでも後で礼くらい言っときなよ」

「私は別に人嫌いじゃない。君もヤエも無事か?」

「私は見てのとおり大丈夫だ。ヤエも無事。ちっちゃいけど羽があるからね。高い所から落ちてもへっちゃらなんだよ。きっと」

 コガネが視線を移すと、そこには笠の中で丸まっているヤエの背が見える。小さな羽がパタパタと動いた。

「ほらそこ、私の笠の中で寝ているよ。最近は大きくなって、葛篭が手狭に感じるのかもね。トワキの笠は……壊れちゃった」

 コガネは申し訳なさそうな顔をした。

 ニギの里に捨て置いた〈一本目の刀〉に続いて、トワキはカドダイとの思い出の品をまた一つ失った。少しだけ悲しくなったが、ヤエの無事を確認し、コガネには余計な心労を掛けたくないゆえ、笑顔を繕った。

「もともとオンボロさ」

 そして。

 トワキは最も気になることを、恐る恐る尋ねる。

「鬼は……私は、誰も殺していないか?」

 その問いに、コガネは深く頷いた。

「大丈夫だ。トワキはみんなを守ったよ」

「そうか……」

 安心したトワキは、上体を起こすと、腕に巻かれている包帯を解いた。

「えっ何で取るの⁉︎ 馬鹿なんじゃない! ちょっと傷見せないで! やだやだやだやだ」

「うわっ、……成程。結構深いな」

 コガネが顔をしかめるのも、無理はなかった。トワキの左腕はひどく掘り込まれ、肉の溝が刻まれている。

 傷の周りに付いた黄色の粉は薬だろうか。

 傷を見ていると、トワキは急に鋭い痛みに襲われた。腕が壊れるようだ。指の先まで痺れてくる。

 これ程の痛みが傷の内に潜んでいたとは。

 包帯を解いたことが悔やまれる。

「うっ」

 トワキは呻き声を上げ、再び褥に背を付けた。


 暫くすると引き戸が開き、部屋に背の高い女性が入ってきた。知らない人間の顔を見て、トワキは少し緊張する。歳は二十半ばくらいだろうか、黒い髪で、凛とした顔付きをしている。

 その女性を見てコガネが慌てた。

「ごめんなさい、この人馬鹿なんです! せっかくオオクラ様が巻いてくれた包帯とっちゃって」

 この女性が里長の〈オオクラ様〉のようだ。

 オオクラはトワキの傷付いた左腕を診て、少し険しい顔をした。

 トワキは不安になってきた。

「いいよ。血が完全に止まっている。その腕、もう動くのか? そう、よかった。待ってな、新しいの布をもってくる」

「あ、ありがとう」

 口から出た礼がぎこちないのが、トワキ自身にも分かった。

「こちらこそ、里を守ってくれてありがとう。荒ぶる國津神クニツカミを倒した、あの鬼の神の正体は、君だろう?」

「あっ、え」

 礼を言ったはずが向こうからも感謝され、トワキは虚を衝かれた気分になった。

 そして。

 この人は私が鬼であることを知った上で、助けてくれた──。

 トワキはそのことにも驚いた。

「俺は殆ど店の方に居るし、この部屋は好きに使ってくれて構わない」

 トワキが口籠っていると、オオクラは部屋を出ていってしまった。

「嫌いじゃないぃ? 全然喋れてないじゃん……」

 コガネが呆れた風に言う。

「嘘ではない。嫌いじゃあなくて、得意じゃないだけさ」

「あそ、どっちでもいいけど……。あと、あのね、私からもトワキにお礼を言うよ。ありがと! その傷、私を庇ったからできたんでしょ?」

「関係ない、それに多分すぐ治る」

 ここまでの傷を負ったことは初めてだが、トワキは自身の傷の治りが早いことは、山暮らしで知っている。これも鬼による身体強化の一つだろう。今回は深傷ふかでだが、安静にしていればすぐに塞がると考える。

「それでも、何でもありがとう……。じゃあ、私オオクラ様のお手伝いしようかな。……あ、そうだ、もう一つ言いたいことがあった!」

 コガネはハタと手を叩いて、トワキに顔を近づけると、その耳元で囁いた。


「……スケベ」


 トワキが弁解する間もなく、ピシャリと戸が閉まる音が鳴り、コガネは部屋から出て行ってしまう。

「あ、あれは、君の不意打ちだろ! 私は、スケベでは、ない……」


          ◯


 次の日、トワキが寝ていると、腹の上で何かが忙しなく跳ねている。「起きろ! 起きろ! 起きろ!」と騒いで、とてもうるさい。

「子供?」

 目を開けると七つか八つくらいの子供が、トワキの腹の上で遊んでいた。

「けけ、怪我してるから、降りてぇ!」

 隣ではコガネが、わなわなと焦った様子だ。コガネは人好きに見えるが、子供には慣れていないのだろうか。

 そのとき、勢いよく戸が開く。

「ジャリがっ! 怪我人に何狼藉働いてんだ!」

 叫んだのはオオクラだった。

 オオクラは子供をトワキから引き離すと、部屋から摘み出した。その剣幕に、コガネは唇を真一文字にし、目を丸くしている。背筋まで張って、相当驚いたのだろう。

「済まないね。俺の子だ。名前はナザキというのだが、誰に似たのか……、身体の丈夫さだけが取り柄の馬鹿息子だよ。すこし目は悪いがね」

 オオクラはトワキの傍に座ると、左腕の布を丁寧に解いた。

「やはり傷の治りが早いな。うん、大丈夫だ、後は自然に治るだろう。傷跡は残るかもしれないが、男はそのくらいが箔が付くってものだよ。まあ女もだがな」

 そう言って微笑むオオクラの左頬にも傷跡がある。凛とした顔に張り付いた、落ち葉のような傷跡は可愛らしくみえる。

「君たちは旅をしているのか? どういう訳か、最近は國津神共が荒れている。しゅを祓うといわれる此岸山しがんざんの霊力が落ちているのかもしれないね」

 それを聞いて、コガネが首を横に振った。

「いえ、此岸山しがんざんは何も変わってない。変わったのは彼岸山ひがんざん。悪しき巫女の呪いで、彼岸山ひがんざんの方の力が増しているんだ。だから私たちは彼岸山ひがんざんを崩しに天蓋てんがい伴山ともやまへ向かう。ねっ、トワキ、ヤエ」

「ねっ」と言われて、ヤエは「クルル!」と返事をしたが、山を崩すなど、トワキは初めて聞いた。

 鬼神の力を以てすれば、小さな山くらいなら崩せるのかもしれないが──。

 当然、オオクラも驚いている様子だった。

 なんて馬鹿なことを言う娘だ──。そう思われても仕方がない。トワキですら少し思った。

天蓋てんがい伴山ともやま……。地より聳える此岸山しがんざんと天より下がる彼岸山ひがんざん。神の力を宿した双子の山か。あそこへは特別な道でしか行けないと聞く……」  

 難しい顔をするオオクラに、コガネは頼もしく答える。

「大丈夫。私はその道を知っています」

 

 その後、トワキを残し二人は部屋を出た。

 コガネはオオクラの店の手伝いをするつもりらしい。


          ◯


 二人が部屋を出た後、オオクラの息子、ナザキが懲りずにまたやって来る。また腹の上で跳ねられてはかなわないので、トワキは褥から上体を起こした。

 左腕の傷か痛む。包帯を巻いても、痛みは隠れてはくれない。

「兄ちゃん、伴山ともやまに行くんか?」

「らしいね」

 ナザキはさっきの話を聞いていたらしい。

彼岸山ひがんざんを崩すんか?」

「みたいだね」

「あんな大山どうやって崩すんじゃ?」

「さぁね。君は彼岸山ひがんざんを見たことがあるのかい?」

 トワキが尋ねると、ナザキは品のない大声で笑った。

「ひゃひゃひゃ! 聞いたことがあるだけじゃ! どデカい山じゃけぇ崩せるもんか! あの姉ちゃんもお馬鹿さんじゃの〜」

 トワキも笑う。

「ははは。そうかもね。でも私はコガネを信じるよ。何か策があるんだろう」

 トワキはそう言うと膝で立ち、光を取り入れている連子の間から、何気なく外を見た。そこには、道の窪みに敷かれた板を踏み抜き、つまずいて転けるコガネがいた。

 トワキは急に不安になった。

「大丈夫かあの姉ちゃん」

「可愛いだろ?」

 トワキが聞くと、ナザキがニヤリと笑った。

「なんじゃ兄ちゃん、〈ほの字〉か?」

 少し考える。

 トワキはコガネに対する自分の気持ちを、上手く言葉に落とし込むことができない。恋情、友情、どちらも違う気がした。ただの旅の仲間では寂しく感じる。

「うーむ、どうだろうね?」

「わしに聞くない! ハッキリせん男は嫌われるって前にオオクラが言ってた!」 

「ふーん……」

 コガネに自分への気持ちを問えば、彼女は何と答えるのだろうか──。トワキは少し気になってきた。




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