第五話・万雷の怪獣〈ヴァドワギーダ〉

 第五話・万雷の怪獣〈ヴァドワギーダ〉


          ◯


 コガネは闇に包まれた。

 トワキもヤエもいない、広がる暗黒の世界に、一人立っていた。天にはコガネを包囲するように星が撒かれ、燦然と瞬いている。

 ただの星じゃない──。

 緊張の重石おもしが、コガネの心に伸し掛かる。

 まさか向こうから干渉してくるなんて──。

 彼等が来るということは、〈天蓋てんがい伴山ともやま〉に近づいている証だ。


 分裂体・メギドガンデ。 


 箱型の星々。

 その一つがコガネの頭上に落ちてくる。

 落ちる過程で箱の面は割れて、複数枚の三角の板になった。ゆっくりと近づいてくる三角の板達は、先端部を下に、逆三角になる形で立つと、コガネを取り囲む。それらは赤い光を発し、「ウォンウォン」という不気味な音を響かせる。

『ツキミコ』

 闇の中で、充血したように赤く染まる板から鳴るそれは、声というよりも、感情を伴わないただの音に聞こえる。

「今はコガネって名前だよ。まさか、私の心の中に入ってくるなんて──」 

 コガネが言い終わるのを待たず、赤い逆三角形は次々と音を響かせる。

『ナゼ、ヒメミコヲ討トウトスル?』

『彼女ハワレワレニ贄ヲモタラス』

『魂ヲモタラス』

『ヒメミコヲ狙ウナ。共存ヲエラベ。ツキミコ』

 取り囲む逆三角形の輝きが増す。

 闇を埋める眩い光の明滅にコガネは目を細めた。

「それはメギドガンデの総意なの?」

 しかし、コガネが問うと光はハタと途絶え、板達は黙った。

 分かっていたことだ。この程度しかこちらに来ないのだから──。

 所詮、彼等は分身に過ぎない。

 メギドガンデの総意なら、既にコガネは存在していない。

「消えて。興味をもつのは勝手だけど、私の世界にあなた達が干渉することなんて、何もないんだ」

 これ以上の議論は無駄と判断したのか、分裂体・メギドガンデは次々と闇に消えていった。

 一つを除いて。

『コガネ、アナタニ聞キタイコトガアル』

「何?」

「ソッチノ世界ハ楽シイ?」 

 コガネは少し悩み、その問いに答える。

「分からない」

 やがて最後の一つも消えた。


 闇が終わる。

 コガネは自分が寝ていたことを思い出した。

 しかし、先程までの闇の世界は夢ではない。

 隣に置かれた葛篭の中から、白銀の身体を巻いて寝ているヤエの、大きないびきが聞こえてくる。その奥でトワキも寝ている。悪夢でも見るのだろうか……。トワキは寝ているときに、いつも苦しそうな顔をする。

 寝所ねどこに使っている、山の崖端に建つ御堂の、開けっ放し板戸からは、朝日に照らされた薄紫色の空が見える。


          ◯


 数日後。

 トワキ達に旅の仲間ができた。 

 ライチと名乗る盲目の男は、修行の為に各地を行脚している旅僧であった。山道で賊に襲われていたところをトワキが助け、その縁でトワキ達はライチの目指す大寺、雷紋寺らいもんじまで同行することになった。

 ライチはぼやく。

「僧なんぞ襲っても、骨くらいしか手に入らんでしょうに……」


          ◯ 


「目が見えないとは思えないねぇ」

 コガネは感嘆した。ライチの瞼は頭に巻かれた布で封じられ、開くことはない。しかしながら、雨季のしっとりと濡れた山道を、杖を頼りに歩く足取りは迷いなく、踏み場を誤ることもなかった。

「でしょう? もっと褒めてください」

 大きな笠の下から覗く明るい髪色。有髪僧・ライチは広めの口の端を上げて、旅の仲間ができたことを喜んでいた。

「産まれて早三十年。盲てからは二十有余年。人間ってしたたかなもんでねぇ。なぜか光を失った今の方が、面白いことに見えるものが多くなりましたよ」

「目が見えないのに見えるものが増える?」

 コガネの問いに、ライチは口元に手を当てて笑う。

「ふふ、顔に付いてる目ではなく、心の目でね……。ああ、お連れ様ならワタクシの言う意味、伝わりますよね?」

 ライチは前方を歩くトワキに尋ねた。その声音はどこか含みがある。

「さぁね」

 トワキはそれだけ言って、薄暗い山道を足早に進んだ。


 トワキはシトウの里の厄災以降、その身に宿る鬼の力により、肉体の強化を受けた。それにより研ぎ澄まされた感覚は、迫る危機を事前に感知する。

 ライチも同様だ。

 視覚を失った代わりに、その他の感覚が並の人間よりも遥かに発達した。光を失っても、身に付いた直感が歩むべき道を教えてくれる。ライチはその勘を〈心の目〉と呼んでいた。


 トワキの後ろで「おっとと」という声がした。振り返ると、濡れた落ち葉に足を滑らせたライチがよろけている。

 心配するコガネに、ライチは笑ってみせた。

 トワキにはそれがわざとらしく感じた。不気味に思えた。ライチの布で塞がれた目に、自分の正体を見定められているようで、気分が悪かった。


          ◯


 昼下がり。曇っていた空は晴れ、強い日差しが降り注いだ。

 山を越えた先に河が流れている。水の中に鏃烏賊ヤジリイカという、河に棲む烏賊イカの群れが泳いでいる。その名のとおり、小さく鋭い姿の烏賊イカだ。

 三人は脚を止め、しばしの休息を取る。


 炎天の下、岩に腰を掛けたトワキは、河の烏賊イカを眺めていた。烏賊イカ達の泳ぐ様は、魚の類いとはまた違う面白さがあった。ゆっくりと水中を漂っていると思えば、目にも止まらぬ速さで一気に泳ぎ去る。

 烏賊イカ達は時折り触腕を水面から出して、羽虫を捕らえる。雨季の羽虫の飛ぶ位置は低い。烏賊イカはそれを狙って水面に集まる。

 喰べればどんな味がするだろうか──。トワキはそんなことを考える。 

 コガネは河の烏賊イカよりも、ライチが気になる様子だ。

 トワキとコガネが、身に籠った暑さを逃がす為に、河に足を浸けているときも、ライチは一人逍遥しょうようする。

 ライチは歩き回りながら、手に持つ布袋竹の杖で草を掻き分けながら、何やら採取をしている。全くもって盲人の挙動には見えない。

「何してるのー?」

 コガネがライチに声を掛けた。

「んー? 実です。野苺の実がなっていますよ!」

「あの、絶対見えてるよね……?」  

 流石のコガネも訝しむ。

「信じてくださいよぅ。一介の僧として嘘吐きと疑われるのは心外です」

 苦い顔をしつつも、ライチは採取した野苺の実をトワキ達に分けてくれた。

「美味しいですよ!」

 確かに赤く熟れた実は、程よい酸味も残しつつ、甘くて美味しかった。ヤエも気に入ったようで、葛篭から出した吻部を赤い果汁で染めている。

 トワキ達に実を渡してからも、ライチは野苺の実を摘んで、首から下げた頭陀袋ずたぶくろに入れている。

「沢山採ったら、寺の皆んなも喜ぶかな!」

 ライチは楽し気だ。

 だがしかし。トワキの勘はライチの内に、冷たい闇が渦巻くのを感じた。

 危機を感知するこの鋭い勘は、鬼神による身体強化の一端だ。鬼神は憑代であるトワキを失わないように力を与えた。

 つまり。

 鬼神は目の前の僧を、敵と判断した。


          ◯


 日が傾く前に、トワキ達は目的地である雷紋寺の寺内町に着いた。

 トワキは石垣を仰ぎ見る。段状に連なる石垣の上に置かれた町は、中々威圧感がある。境内に入ると、重そうな瓦屋根の伽藍が、そこかしこに建っている。その中で一際大きく目立つ建物が、雷紋寺の本堂だ。その反り返った屋根に伸びる棟には、細かな棘が並び、中々厳しい。

 ライチは被っていた笠を脱ぐと、コガネに耳打ちした。

「本当はここ女人禁制なんですよ」

「ふーん……。大丈夫なの私? 僧兵とか出て来たりしない? 殴られたりしない?」

 コガネが不安そうに眉を顰める。

「はははっ、出るかもしれませんね。でもきっと、トワキさんが何とかしてくれますよ」

 ライチは怯えるコガネに笑いつつ、トワキを〈見た〉。無論、ライチの封じられた眼がものを見ることはない。しかし、トワキは見られた気がした。

「そうだな。変なものが出たら、私が叩き切ってやる」

 そう言って、トワキもライチを見る。

 その様子が穏やかでないせいか、コガネは少し怪訝な顔をした。


 境内を進んでいると、小舟を立てたような形のいしぶみがある。残念ながら、刻まれた文字はトワキには読めない。

「何が書いてあるんだ?」

「うん? あぁ、これはそうですね……、金言ってやつです。……深いなあ」

 気になってライチに尋ねてみたが、はぐらかされてしまった。どうやらライチにも読めないらしい。

 碑と擦れ違う坂を上った先で、トワキ達を数人の僧侶が迎えた。   

 僧侶達は皆、黒の衣を着て、頭髪を剃り上げている。有髪僧はライチだけだ。

「トワキさん、コガネさん、暫くそこで待っていてください」

 ライチはそう言って、僧侶達と共に伽藍の中の闇に消えた。


 どれくらい時が経ったか……。

 ライチが僧侶達を引き連れる形で、伽藍から出てきた。

 トワキとコガネに向け、僧達が合掌をする。皆、柔和な表情をしている。コガネも緊張した様子で僧達に合掌する。トワキもそれを真似て手を合わせる。

 ライチが一歩前に出る。

「ようこそ雷紋寺へ」 

 トワキとコガネは、ライチの計らいで、雷紋寺に泊めてもらうことになった。

 ライチに対する疑念が、杞憂に終わることを、トワキは願った。


          ◯


 トワキとコガネの前に夕餉が来た。

「遅なりましたなぁ」と言って笑いながら、ライチ自ら持て成す。焼いた茄子、お豆腐の味噌田楽、瓜の煮物などなど……、トワキの目の前に置かれた小鉢の上は、なかなか豪勢だ。元々こうなのか、山賊に襲われたところを助けられた礼も込められているのか……。何にせよ美味しい料理を喰べられることは、トワキにとっても幸せだった。ヤエの前にも水と、味噌のような赤茶色の塊が出された。獣はペロペロとそれを舐めた。トワキにはヤエの夕餉は余り美味しそうには見えなかった。

 トワキが黙々と喰べていると、「お口に合ったようでよかった」と、ライチは喜んだ。


 腹八分となった頃合い。最後に漬け物が出てきた。


          ◯


 トワキ達は伽藍の二階にある小部屋に通された。今晩眠る部屋だ。

 小部屋には積まれた円座や細長い木箱、他にも朽木のような物が幾つか棚に置かれていた。

「何だか物置きみたいなで、すまないねぇ」

 ライチが謝る。

 部屋に入るやいなや、ヤエが円座に飛び乗った。

「ヤエは気に入ったって」

「ならよかった!」

 トワキは開けた引き戸から外を眺めた。

 複雑に張り巡らされた回廊が見える。向かいの堂宇も大層立派な建物だ。その先に雷紋寺本堂の、反り返った瓦屋根が見える。西日に照らされたその荘厳な佇まいに、トワキは少し緊張する。まるで巨大な怪物が、町の中心に陣取っているようにみえた。

「凄い……」

 思わず声が出た。

 部屋の中ではヤエが円座の上で丸くなって寝ている。獣の気楽さが少し羨ましい。

「ワタクシも使うかもしれないから、その上で粗相はよしてね」

 ヤエに釘を刺してから、ライチは部屋を後にした。


 それから少しすると、鐘の音と僧達の唱えるお経が聞こえてきた。


          ◯


 日が沈む。

 暗くなっても、聴こえてくるお経は途切れない。その調子に合わせてコガネも唄う。

「うーにゃーうーにゃーうんたら、うーにゃー」

「よせよ、バチが当たるぞ」

 ふざけるコガネを、トワキは微笑みつつ注意した。


 戸を開けていれば、夜でも室内は月明かりで割と明るい。

 コガネが部屋を物色する。

 トワキは気にせず横になっていたが、「変わった物がある」と、コガネに呼ばれる。

 促され、棚の朽木に顔を近づけると、微かだがいい香りがした。

 朽木の正体は香木。物によっては燃やさなくとも香りを味わえるようだ。中にはトワキがかつて暮らしていた、シトウ族の族長の屋敷を思い起こす匂いもある。二人であれやこれや嗅いでみると、強烈なものがあり、咽せたりした。


          ◯

 

 その頃──。闇に包まれた本堂の中に、ライチは一人立っていた。

 ライチは頭に巻いていた布を解くと、封じられていた双眸を開いた。その目が見上げる先には雷紋寺の本尊、雷蹄王菩薩像らいていおうぼさつの黄金の顔が、暗闇に浮かんでいる。

 人の上半身と馬の身体をもつ、半人半馬の黄金の巨像。文字通り人馬一体の形態を取る菩薩像に、ライチは合掌をした。

「では、参りましょうか」

 そう呟くと、ライチは本堂を後にした。


          ◯


 唄う虫も眠りに就くような深い夜。

 夏の割には涼しいその夜に、ライチは二人のいる小部屋の、閉ざされた戸の前に立つと、深い溜め息を吐いた。

「はぁ……。何で起きているのでしょうかねぇ? 眠っていれば楽に死ねたでしょうに。トワキさん」

 戸を隔てた先からトワキの返事がくる。

「アンタの殺気に起こされた。僧というのに、あんたの心中は随分と雑念にまみれている。真っ黒だ」

 ライチはまた溜め息を洩らす。

「はぁ、そうですか。あなたの〈心の目〉にはそう映りましたか。雑念ねぇ……。確かにワタクシの心中には相反する思いがある。それを雑念と言われればそうかもしれない。ワタクシはあなた方のことを好いていますし。……いやいや、本当に。その証拠、最後の夕食も美味だったでしょう? 毒だって刺してない」

 どうせあなたには効かんでしょうが──。そう溢して、ライチは一層深い溜め息を吐く。

 閉めた戸を挟み、トワキとライチは睨み合う。

「ですがねぇ、鬼はいけない。トワキさん、ワタクシの心の目はあなたの身の内に悪鬼を見た。途轍もなく醜悪。消し去りたい」

 ライチは双眸を見開く。

「ワタクシがまだ幼い歳の頃。故郷に荒ぶる神が現れた」


 ライチの言う荒ぶる神。

 それは鬼だ。


 二十数年前……、ライチが暮らしていた村に鬼が出た。

 青みがかった鎧の皮膚をもち、眉間から黄色い角を生やしたその鬼は、村の家々を薙ぎ倒し、次々に人を殺した。その中にはライチの家族、友人もいた。

 村を焼き払い、人々を惨殺すると、やがて鬼は煙となって消えた。

 生き残ったのはライチだけだった。

 そして……。

 もうあのような残逆は見たくない──。

 そう願ったライチは、光と引き換えに雷神の力を得た。悪鬼を消し去る為に。


 引き戸の先のトワキを睨むライチの瞳孔が、鋭く割れる。

「ワタクシはこのまなこの光と引き換えに、金色雷蹄王こんじきらいていおう・ヴァドワギーダの力を得ています。破邪のいかづちは鬼であるあなたの身体を、芯まで焼き払うでしょう」

 

 閉ざした戸の内。

 トワキはコガネの側に寄る。

「ヤエは籠に詰めたな? しっかり持ってろ」

 頷くコガネをトワキはそっと脇に抱く。

 室内の空気が砂利が擦れるようなチリチリとした音を立て始め、肌が痺れてくる。


 何か危険が来る──。トワキの勘がそう告げた。


 二人の髪が徐々にばらけて逆立っていく。

 トワキのこめかみに緊張の汗が滲み、コガネが髪を抑えたそのとき。

 ライチの双眸が発光する。


おん鳴神なるかみ!」


 ライチの声と同時に、二人のいる室内に雷光が炸裂する。

 ライチの眼力が雷を放った。


 刹那。

 吹き飛ぶ戸を従えて、コガネを抱えたトワキがライチの横を擦り抜けた。

 間一髪でトワキは爆ぜる雷撃を躱すことに成功した。

 ライチが振り向くと、トワキはすでに向かいの堂宇の、瓦屋根の上に降り立っていた。

 焼け焦げた部屋を背に、ライチは眉間に皺を寄せる。

「まさか、雷尊の眼力を避けるなんて……。鬼人めが」

 トワキはコガネを連れて闇に消えた。


          ◯


 落雷に怯えた僧達の叫び声が広がる。

 静かな夜は疾うに去った。

「火事です! 火事です!」

「カミナリが落ちました! 雷尊の怒りだ!」

 僧侶達が慌てふためく境内を、ライチだけは力強い足取りで進む。

 そして本堂に戻ると、闇に聳える雷蹄王菩薩像に語り掛けた。

「あなた様より頂戴した眼力だけでは鬼は狩れませなんだ! 総身を差し出します。どうかワタクシに代わり、あの鬼を人の世から駆逐してくだされ! ワタクシには分かる、あの鬼は大くの人々を殺している悪鬼だ! 消し去らねば! ヴァドワギーダの力で」

 ライチの言葉に答えるように、雷蹄王菩薩像が発光する。 

 そしてその瞬間。

 明光と轟音を伴い、雷紋寺本堂に太い雷が突き刺さった。


          ◯


 降り頻る雨は夜が明けたことを隠すようだ……。


 トワキはコガネを連れて走った。

 篠突く豪雨が、軍馬の爪音さながらに音を立てて襲い掛かる。被った笠に打ち付ける雨が重たく感じる。

 開けた土地の至る所で、焼け焦げた家屋の骨が、豪雨の中に黒く浮いていた。大きな火災に見舞われたのだろうか。

「あっ」

 コガネが雨の奥を指差した。

 その細い指の先を辿って見れば、大きな楼門が建っている。


 トワキとコガネはその楼門を目指して、無限の雨の中を走り抜ける。

 

「まるでもののけの根城だな……」

 トワキは門を見上げて呟いた。

 雨の中、やっとの思いでたどり着いた楼門は、辛うじてその大きさを保っているものの、見るも無惨に朽ち果て、腐って崩れた木材が、骸骨のように隙間を空けていた。

 吹き抜ける風に門の骨が揺らされた。

 幸いにも雨の直撃を防げるだけの瓦屋根は、まだ残っている。かつては荘厳だったであろう楼門も、長く人々に忘れられ、今は旅人の雨宿りに使われる。トワキは少しだけ虚しさを感じた。

「何ぼうっとしてる、早く入ろう!」

「ああ、分かっている」


 屋根から流れ落ちる雨水の瀧を避けて、楼門に入るや否や、コガネは背負っていた葛篭を床に置き、腰を下ろした。

 コガネの纏っていた雨水が石の床に広がっていく。

 二人は笠を脱ぐ。

 コガネの衣の短い袖から出た腕に、水が艶を走らせた。濡れた少女は、普段とはどこか違う印象をトワキに与える。その長い睫毛が水滴を抱いているのを見て、綺麗だ──。トワキはつい、そう感じてしまった。


          ◯


 コガネが安堵の息を吐く。

「ふぅ……。大変だったね」

 しかし、雨を睨むトワキの目付きは鋭い。

「いや、大変なのはこれからだ」 

 視線の奥。豪雨を隔てて巨影が聳え立つ。

 天に向かって一角を伸ばしたその姿は、二十間(約三十六メートル)程はある巨大な怪獣だ。人の上半身を馬の首元から生やしたような異様な姿。半人半馬の巨影。それが何か、トワキには分かった。

「ライチ……、そいつがヴァドワギーダか」


〈雷神・ヴァドワギーダ出現〉


「怪獣……、いつから」

 コガネも警戒する。こちらを見る怪獣は、まるで気配を発することなく、いきなり現れた。

 ヴァドワギーダが巨体を持ち上げ、後脚で立ち上がる。剣のような鋭い前脚を掻くように動かし、天を突く程高く上げた頭から、嘶きを轟かせた。


 そして、ヴァドワギーダの姿が突如として消えた。

 

 怪獣の嘶きは尾を引き、辺りに響き渡る。

 雨足は更に強まる。

 邪な雲は何処までも広がり、雷が二人のいる楼門の上空に溜まる。

 そして。

 この世を真二つに割るかのような太い稲妻が、楼門を直撃した。

「わあっ──」

 コガネの悲鳴はすぐに掻き消される。

 轟音を伴う雷撃は長く続き、揺れる門の太い柱には雷光が絡み付いて火花が爆ぜる。

 異常な雷に、トワキがいつにない大声を出した。

「ただの雷じゃあない! さっきの怪獣が襲ってきたんだ!」

 火花の飛沫しぶきを上げる瓦屋根。

 楼門に伸し掛かる雷は、すでに怪獣の形を成している。


 再び嘶きが鳴り、二人の鼓膜を劈く。


 燃えながら崩れる楼門。

 コガネに覆い被さったトワキに、門の破片が容赦なく降り掛かかった。

「トワキ!」

 楼門がヴァドワギーダに破壊される。

 そのとき、トワキの身体から、魔界の黒煙が立ち昇る。

 辺りを塗り潰す禍々しい黒煙は、怪物の姿に変化する。

 双角を伸ばした鋭い頭部。

 骨の鎧を張り付けた太い腕。

 筋肉とも瘤ともつかない、肉の塊を纏った巨大な身体。

 トワキを呑み込んだ黒煙は、鬼の肉体を形成した。


 圧壊した門の残骸から飛び出したしなる尾が、ヴァドワギーダを打ち払う。

 強烈な尾の一撃に倒されたヴァドワギーダの巨躯が泥濘でいねいを滑り、泥水の波が広がった。

 楼門の残骸を払い除け、鬼の神が現れる。

 起き上がるヴァドワギーダの前に、仁王立ちする鬼神。その巨体は、カナドナギと戦ったときよりも大きく、二十間はあるヴァドワギーダと並ぶ高さだ。


 敵を睨む鬼神の目は闘志に満ちる。


 雨の御簾みすが垂れる中、ヴァドワギーダがライチの声を響かせる。

『あなたはやっぱり鬼でしたねぇ、トワキさん。知っていますか? 怪物は怪物でも別の世界から来た天津神アマツカミよりも、元来こちらの世界にいる國津神クニツカミの方が強いのですよ』

 ヴァドワギーダの頭部、真直ぐと伸びる一角が、雷の力を溜めて青白く発光した。

『──なぜなら本体をこちら側に置く國津神とは違い、天津神の本体は異なる世界にある。この世への干渉は限定的なんです。だからこそ國津神の力により天津神が抑えられて、この世に定まった摂理が成り立つのです』

 鬼神がヴァドワギーダに向かって歩き出す。

 その重圧な一歩が落ちる度に、地面の泥が飛び跳ねる。


 トワキに庇われて無事だったコガネが、砕かれた門の残骸を押し除けて這い出てくる。破片で額を切った顔には血が垂れる。

 コガネは鬼神を仰ぎ見る。

「あれはトワキの鬼。……トワキ忘れないで。恐怖に呑まれなければ、それはあなたの武器となるはず」

 葛篭から出てきたヤエが、コガネの肩に飛び乗った。怯える獣の小さな身体は震えている。


 ヴァドワギーダが再び後脚で立ち上がる。

『雷尊は國津神です。対して鬼は魔界より現れた天津神だ。トワキさん、あなたはワタクシには勝てません! 雷尊の放つ雷に焼かれて、死んでください!』

 ヴァドワギーダが嘶きを上げ、刹那に消えた。後には幾つもの光の筋だけが残される。

 雷神の気配を察知し、鬼神は空を見上げた。

 空は雨を溜めた暗雲に支配されている。

 そのとき。

 閃光が爆ぜる。

 天空の彼方から伸びる一筋の稲妻が、鬼神の身体に突き刺さった。更に二本、三本と、鬼神に刺さる閃光は増えていく。


 この異常な雷はヴァドワギーダが操る武器だ。

 

 暗雲から生まれた大量の雷が、鬼神に向かって一斉に襲い掛かった。

 万雷が巨体を焼く。

 雷撃を喰らう鬼神の前に、黄金の輝きを放つ雷神・ヴァドワギーダが現れる。


 断続的に続く落雷に泥が爆ぜる。


 強烈な光と爆音から身を守る為、コガネとヤエは崩れた楼門の残骸の中に、急いで戻っていく。

「うわー! 死ぬ!」

「グルルッ!」

 先程までの雨天の薄暗さが嘘のように、周りが真白に塗り替わる。

『鬼め! 鬼め! 醜悪な邪鬼めが!』

 雷光の明滅に合わせて、格闘する二体の巨影が現れては消えてを繰り返す。

 ぶつかり合う攻撃の嵐。

 ヴァドワギーダが手首に付いた刃で鬼神に斬り掛かる。

 次の影、鬼神の強打がヴァドワギーダの顎を破砕する。

 飛び飛びに映る影の戦い。


 雷鳴は収まらない。


 コガネは耳を塞いで疼くまる。

 ヤエもコガネの衣の内に隠れて、身体を震わせた。

 落雷に耐えていると、風に吹かれて異臭が漂ってきた。何かが焼け焦げる匂い。絶え間なく続く雷の猛攻に晒され、鬼神の肉体にも限界が近づいているのだろうか。

 コガネはトワキの身が気掛かりだった。


 鬼神は雷撃に怯むことなく攻撃を続ける。

 その威力にライチは取り乱す。

『雷尊の攻撃を喰らい続けて、なぜ倒れぬ!』

 鬼神の拳がヴァドワギーダの身体を穿つ。

『グアァ──』

 ライチの叫びは雷鳴に掻き消された。

 ヴァドワギーダの一角が力を溜める。

『今のワタクシは雷蹄王! 悪鬼なんぞに負けることが、ある訳がない!』

 雷神の双眸が光を放った。

『御・鳴神っ!』

 ライチの振り絞るような声に呼応し、まるで天地を繋ぐ柱のような一本の太い雷が、鬼神を直撃した。

 そして。

 真白に染まった世界の中で、何かが砕ける音が鳴った。


          ◯


 のべつ幕なく放たれていた雷が、ピタリと止まった。

 暫くすると雨足も落ち着いてくる。

 雲が割れて、辺りに日の光が射した。

 静かになった地上には蒸気が立ち込め、仄かに熱を持っている。

 勝敗が決したことを悟ったコガネは、耳鳴りのする頭から手を離すと、門の残骸から再び這い出た。

 視線の先に、雷撃の残光を帯びた鬼神が立っている。

 その足もとには、顎と胸部を潰され、角をへし折られた無残な姿のヴァドワギーダが倒れていた。

 勝ったのはトワキの鬼神だ。

 しかし流石に限界がきたのか、雷に全身を焼かれた鬼神は、地面に膝を落とすと、すぐに黒煙となって消えた。

 身体を取り戻し、倒れたトワキに、コガネはすかさず駆け寄った。

「トワキ大丈夫? 火傷してる」  

「この程度、平気さ。今回は鬼もすぐに消えたみたいだ。良いのか悪いのか、鬼の力が馴染んでしまった」

「無事でよかった。……本当に」

 コガネはトワキの震える手を握った。

「まだ怖いんだね。仕方がないよ」

「もう大丈夫だ」

 トワキが立ち上がると、その後ろ、ヴァドワギーダの死骸の中から、ライチのか細い声がする。

「まさか、金色雷蹄王ヴァドワギーダが……負けるなんて……」

 トワキはふらつきながら声のもとへと近寄っていく。

 瀕死のライチはぐったりとした様子で、潰されたヴァドワギーダの胸部から半身を出していた。

「ライチ、矢張りお前がこの怪物の憑代だったか……」

「あぁ、そうさ……トワキ……」

 ライチはトワキに呪いの眼差しを向ける。

「ワタクシは死ぬ……。お前が殺したであろう……数多の人々と、同じく、お前を恨んで……なぁ……」

 鬼めが──。最期にそう残して、ライチは瞼を閉じた。もう二度と開くことはないその瞼から、一筋、血が流れる。

「そうだよライチ。如何にも私は鬼だ。私はまた恐怖に呑まれた。無我夢中で……お前を殺した」

「トワキ違う」

 コガネがトワキの側に寄る。

「トワキは私とヤエを命懸けで守ってくれた。そんなあなたが〈鬼〉な訳がない」

 コガネの衣から出てきたヤエも、その意見に同意してか、トワキの肩に飛び移ると頬を擦り付けた。

「ありがと」

 そう言って、トワキはヤエの頭を撫でた。




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