第四話・再生の怪獣〈クチナワヌシ〉

 第四話・再生の怪獣〈クチナワヌシ〉


          ◯

 

「えい! えい!」と声を出しながら、コガネはカドダイの家の物を、無遠慮に葛篭つづらに詰め込んでいく。葛篭もこの家にあった物だ。

 これはいる、あれはいらない、などと呟きながら、家の中を物色する少女を背に、トワキは倒れていた土器の壺を起こした。欠けた口の破片は、土の床の上に取り残された。

「あのぅ、早くしないと人が来ないかな?」 

 悠長にするトワキに、コガネは怪訝そうな目を向ける。

「ここに人が訪ねることはないから、詳しい場所を知る者は少ないはずだ。暫くは大丈夫さ」

 コガネの問いにそう答えると、トワキは刀を手にした。カドダイが〈しゅを祓う剣舞〉で使っていたものだ。

「これ、貰うよ。カドダイ」

 トワキは虚空に呟いた。この世にカドダイがいないことがまだ信じられない。


 トワキは刀の他に、銭と水を入れた竹筒を持ち、その他の必要な物は、コガネによって葛篭に収められた。

 コガネは食べ物を探す。

「何かないの?」

「土の下に肉がある」

「何? ツチノシタ? あぁ、土の下ね」

「お酒はないのー?」

「酒? 刀を浄めるのに使っていたものがあるはずだ。呑むのか?」

「私じゃなくて、ヤエがね」 

「獣が酒なんて呑むのか?」

 トワキは疑問に思うも、目の前でむしろの端を噛んで遊んでいるのは未知の獣だ。何を口にしていても不思議ではない。


「よいせ!」と声を出して、コガネは葛篭を背負った。カドダイが山仕事に使っていたこの葛篭には、背負い紐が通されていた。一杯に物を詰め込まれた葛篭の蓋は少し浮いている。その上にヤエが跳び乗り、とぐろを巻くと、浮いた蓋はピタリと閉じた。ヤエはそのまま寝息を立てる。

「重いだろ、矢張り私が持つよ」

 トワキが手を差し出すと、コガネは首を横に振る。薄暗い家の中、金色の髪が光を振り撒いた。

「いいよ。まだ危険でしょ? トキワにはいざって時の為に腰の刀を振り回せるようしてもらわないと」

「トキワじゃなくてトワキな。なるべくそうはなりたくないね」

 トワキは脇に置かれていた、出来立ての竹笠をコガネに渡した。綺麗な山吹色はコガネの髪色にも負けていない。

「カド……、同居人が編んでくれた物だ。器用だよな? これから暑くなるだろうし日除けに被るといい」

「ありがと。あなたのは?」

「古いのがまだ使える。それに……御天道様おてんとうさまが沙汰を下すのなら、それもいい」

 トワキは卑屈になっていた。鬼神となり、シトウの里を滅ぼしてから、何度も自死を考えたが、ついぞ行動には移せなかった。強い恐怖心がそれを止めた。当然、それはトワキ自身の感情でもあったが……。

 トワキはまだ、鬼の気配を身の内に感じていた。〈この世〉から消し去れたものの、鬼神はまだ生きている。そもそも鬼神に人や畜生のように〈死〉があるのか疑問であった。一時的な力の衰弱こそあれど、その存在が消えることはない──。トワキはそう感じていた。

「嫌だな。あなたは私を助けてくれたんだよ?」

 コガネに励まされたが、沸き立つ負の感情は、トワキ自身を支配しようとしている。

「君が私を助けたんだ。君がいなければ私はまた鬼の肉体の核になっていただろう……」

 日が雲に隠れたのか、元々薄暗い家の中が一層暗くなった。


 トワキの肩で魔界の黒煙が燻る。瞳が揺れ動き、息は乱れる。

「昔、私は神の生贄になるはずだった。だがしかし、その夜、私はあの鬼の力で故郷を滅ぼした。兄を殺した。今回も恩人であるはずの友を殺めてしまった。人一人の命を救ったくらいがなんだ。償えぬ罪だ」

「なら、また救ってよ」

 コガネはそう囁くと、微笑した。そして煙を手で押さえ付けて、トワキの肩に触れる。

「私達を助けてよ。あの鬼が人智を超えた力を持つのなら、今度はその威力で災禍を止めてよ」

 コガネの目付きが変わる。

 更に暗くなった家の中で、その目だけは色をもつ。


 コガネの目から漏れ出た、別天津神コトアマツカミの宇宙の光が、小さな家の世界に炯然けいぜんと輝く。


 トワキの肩に触れるコガネの手に力が籠る。

「これより遥か東にある私の故郷、王陵ノ國。そこにそびえる〈天蓋てんがい伴山ともやま〉には悪しき巫女がいる。神力を使い人々を戯弄ぎろうする悪しき巫女が。その巫女をあなたの鬼神の力を以って倒してほしい……。悪しき巫女・日姫神子ヒメミコを」

 鋭い眼差しを向けるコガネの表情は、とても硬い。しかし、その裏にある、怒り、悲しみ、恐怖……、それらを混ぜ合わさった複雑な感情が、閃光のようにトワキの目に飛び込んできた。

 何だ──。

 トワキは思わず目を逸らした。

「私にまた人を殺せと」 

「あなたは人を殺したんじゃあなく、人を助けたんだ。私を、それに自分を。詭弁みたいに聞こえるかもだけど。私はそう思っているんだ。だからまた……」 

「買い被りさ。さっきの件だってたまたまだ」

「トワキ、私はあなたと出会って確信した。恐怖に打ち勝てれば鬼を制御することもできるはず。そうなればきっと……。それに、私の巫術だってあなたの役に立つかもよ?」

 コガネは得意気に言った。

「巫術? って、君は巫女なのか? まぁ、何でもいい」

 巫女──。その言葉を出したとき、トワキの心の中に嫌な顔が二つ出てきた。

 シトウの里の二人の巫女は、心を持たぬような顔をしていたが、目の前にいる少女の顔からは、人の情を感じ取ることができる。

「分かった……」

 必要とされている。

 今はそれが嬉しかった。

 トワキはこの娘に付き添うことに決めた。

「君一人にする訳にもいかないしな。とりあえず、用心棒なら引き受けるよ」

「決まりだね!」

 コガネはニコリと笑うと、貰った笠を被ると、その頭には少し大きめな山型を、軽く傾げてみせる。

「ふふん、どう? 似合う?」

「籠も背負ってるし、なんだか少し俗になったかな」

「そ。じゃあ、外で待ってるから、トワキも身支度早くね!」

 コガネは心を弾ませた様子で外に出た。

 旅が危険とは、これっぽちも考えていないのだろう。 


          ◯


 古笠を手に取り、トワキは静まり返った家の中を見回した。

 梁から吊るされた枯れ草は、囲炉裏の火種に使われ、壁に吊るされた、少しカビ臭いみのは、カドダイが雨や雪を避けるために着ていた。釣竿があるが、カドダイが魚を一尾釣る間に、トワキは三尾の魚を掴んで獲れた。壁に倒れ掛かるクワは、二人で作物を採ろうと畑作りを企てた際に、里の者から譲り受けた物だ。しかし畑は猪に掘り返されて、荒らされてしまった。一際目立つ青磁の壺は、トワキが初めてこの家に来たときに着ていた、白蛇鳥ハクジャチョウの衣を売ってできた銭で買った物だ。何を入れようか二人で話し合ったが、結局何も入れず置いたままになっている。その横の不恰好な土器の壺は、トワキが作った物だ。倒れて欠けて、ボロボロだ。


 以前カドダイが言った。

「哀れと思いお前をここに置いていたが、助けられたのは俺の方だったかな。山で暮らして長いこと、俺は人との付き合いを避けてきた。だが人は人と関わり合う中で初めて人間らしくなる。長い間忘れていた気持ちをお前が呼び覚ましてくれた。……なんてな」

 普段は自らを多くは語らない男の言葉を思い出して、トワキは一人呟いた。

「人は人と関わり合う中で人間らしく、か。確かに今、私が孤独となれば、やがて行き着くは本当の鬼かもしれない……」

 言葉と共に、トワキの目から涙がこぼれた。

 カドダイは死んだ──。

 鬼となって殺してしまった──。

 それを覆すことはもうできない──。


「……あの、まだ?」 

 トワキが感傷に浸っていると、首でも括ったと思ったのか……、家の外からコガネの不安気な声がした。

 トワキはすぐに返事をする。

「今行くよ」

 出立を決意する。

 振り向かずに歩いていく。

 この家に人が暮らすことはもうないだろう。

 背にあるものはいずれは霞に呑まれてなくなって、出会いも暮らしも思い出も、全てが自然に喰われて消えるのだ。……永遠に。


 しかし、一言だけは残しておく──。


「さよならだカドダイ」

 それだけ置いて、最後にきびすが外に出た。


          ◯


 それから数日後……。

 小柄な身でありながらも、コガネは健脚だった。

 旅立ってから既に幾つかの山野を超えたが、疲れを知らぬ少女は、今日も元気に歩いている。 

 そして。

「トワキ見て! デッカい蜘蛛の巣! 何で蜘蛛は自分の糸に引っ付かないんだろ?」

 コガネの口は脚と同じくらいに動いた。

 元来無口なトワキは、歩くよりも喋るのに疲れてしまったが、そんなコガネのおかげで、トワキの人嫌いが薄れてきたのも事実だった。  


 ある朝、トワキ達は森を出た先の平原を進んでいた。

 盛る野原には青空を映す小さな池が幾つもあり、風が吹くと水面みなもに光が駆けていく。

 辺りには伸び伸びと酸葉スイバが生える。トワキはそれを千切ってコガネの口に挿してやると、コガネは初めて味わう草の味に「酸っぱいなー!」と驚いていた。トワキはあの独特な味は少し苦手だった。


 平原を進んでいると、大きめの池を越えた辺りで、コガネが何かを見付けて走り出した。

「カタナダ」

 トワキも近づいて見ると、錆びているがそれは確かに刀だった。見渡すと、他にも多くの鎧や兜が散乱している。

 鉄を吸ったか、血を吸ったか、周りの草は赤みがかっている。

「昔、戦があったんだろう」

「なるほど。血気盛んに戦って、皆んな元気にあの世へ逝ったか……。悲しいねぇ」

 コガネは合掌した。

 風の吹く野原の奥には、生きていれば小山程の大きさがありそうな、巨大な生き物の白骨が、その髑髏ドクロの半分を土に埋めている。

「かつてこの地に棲んでいた古い國津神クニツカミか……」

 トワキにはそのうろとなった目が、こちらを見ているように思えた。

 やがて平原に雲翳うんえいが落ち、大地から瘴気が立ち上がってきた。毒の気に触れた草花は枯れていく。この美しい場所ですら呪われている。

 トワキは考える。

 この先、私は安住の地と呼べるものに出会うことができるのだろうか──。

しゅ、だ、早く去ろう」

 二人はもののふの眠る地を後にし、旅を続けた。


         ◯

 

 トワキ達がニギの里を出てから、三つ目に出会った村には、旅籠屋があった。 

 周りを塀で囲った大きな宿は、小さな村の中では窮屈そうだ。

 コガネが喜ぶ。

「よし、泊まろ! さー泊まるぞ!」

「そうするとしようか。休めるときには思いっきし休んだ方がいい」

「あ……路銀はあるの?」

 コガネは懐の心配をする。

「大丈夫だろう」

 当然、宿に泊まるにも銭がいる。

 幸いトワキがかつて着ていた、白蛇鳥ハクジャチョウの衣を売って得た銭は、青磁の壺を買ったくらいでは尽きることなく、それなりに手元に残っていた。


 宿の門をくぐると、一本の大きな松が、太い枝をくねらしていた。入道雲さながらに葉を盛り上げた立派な雄松だ。その荒々しい樹皮の凄みに、トワキは見入った。

 目を下ろすと土間の前におきなおうなが並んでいる。まるでトワキ達が来ることをずっと前から待ちかねていたようなていだ。

 翁が白い顎鬚を撫でながらニコリと笑った。

 滝のような鬚をトワキは初めて見た。


 トワキ達は宿に入る。

 この宿屋を老体二人で切り盛りしているのだろうか?──。

 大変広々とした宿だが、中からは翁と嫗以外の人気ひとけは感じられず、トワキは疑問を抱いた。

 嫗がトワキ達を二階へ案内する。

 七十を超えてそうな嫗だが、しっかりとした足取りで、階段を難なく上る。

 トワキの目の前で揺れ動く、嫗の白く垂れた下げ髪は、さながら蛇骨のようだ。

 

 トワキとコガネは客室に通された。

 光沢のある板床に、足の色がほのか映る。

 トワキは部屋の中を見る。

 板壁の一部が少し奥まり、達筆が走る古い掛け軸が掛かっている。その下には小さな丸い花器が置かれ、草花が生けてある。その辺で摘んだであろう野花も、こうして飾られているのを見ると、可愛らしく思えた。

 頭上を見ると絵が掛けてある。絵の世界には、鶏とも違う、鶏冠を持った二羽の鳥が、松の枝に止まっている。

 トワキが何となしに絵を鑑賞していると、翁が水を汲んできた。深山幽谷に暮らす仙人を思わせる、白くて長い鬚が、湯呑みの中に浸かりそうになっている。

 トワキ達に水を渡すと、翁も絵を仰いだ。

「本来鶴は松に止まらんもんですが、絵に描かれる鶴は松が好きのようですな。不思議ですな」

「この辺りの鶴には鶏冠があるの?」

 コガネが尋ねる。

「さあて、この辺に鶴は来ませんからな。しかし、松に止まっているのなら、これは鶴なんでしょうな」

「なるほどだねぇ……?」

 翁はお喋りが好きなようだ。連子窓の隙間から外を指差して、客人のトワキ達にあれこれと説明する。小さく見える祠には、無邪病ムジヤ様という神様が祀られているらしい。

「この村の者は皆、無邪ムジヤ様のおかげでしゅに祟られることもなくて、へえ、オイもこの歳まで生きてこれた訳で。ありがたや、ありがたや」

 合掌して拝む翁の両手を見ると、薬指と小指がない。両手揃って同じ指をなくしているのは珍しい。翁の脇に立つ無口な嫗も、同じように指がなかった。

 トワキが不思議に思ったのを察したのか、翁が説明する。

「これですかい? 無邪ムジヤ様に捧げたんですわ。足指の方はホレ、みな捧げましたです。これでもうしゅに苦しめられることはないですじゃ。はっはっは」

 翁は呵呵かかと笑った。

 死ぬよりは余程〈マシ〉ということなのだろう。

 現に翁は老いてなお矍鑠かくしゃくとして、こうして元気に笑っている。

 笑う翁のハの字の眉毛は更に垂れる。

 

 暫くして、二人は揃ってお辞儀すると、部屋から出ていった。

「立派な鬚だったねぇ」

 コガネは翁の髭を褒めた。 

 仙人の鬚はコガネの目にも珍しく映ったようだ。


          ◯  


 トワキは外を見る。

 静かな村だ──。

 連子の隙間から見る風景は、音を感じさせない。まるで止まった時間に閉じ込められたような気持ちになる。

 コガネが腕を枕に寝転がる。

「私は横になるから、トワキは静かにねー」

「はいはい」

 黙って景色を見ていると、後ろから小さな寝息が聞こえてきた。表に出てないだけで疲れが溜まっていたのだろう。コガネは昼寝をした。

 切り揃えられた金色の髪の間から、少し尖りある耳が見える。

 寝ているときは静かな娘だ──。

 今日の昼は少し暑いので、トワキは葛篭の蓋を取り、寝ているコガネを扇いでやった。

 開いた葛篭の中ではヤエも寝息を立てている。

 旅をする中で詰め込まれていた荷物が減ったため、小さな獣は空いた隙間を寝ぐらにしていた。

 噛みさえしなければ可愛い獣だ──トワキはそう思いながら指を見た。既に六つ程、ヤエの牙の跡が付いている。無闇に手を出した自分が悪いと思いつつ、つい額を撫でてみたくなる。

 寝ている隙に撫でてみようと試みたが、唸り声を上げたので、トワキはすぐに手を引っ込めた。「グル、グル、ガルルッ」と、こちらは寝ていてもうるさい。

 睡眠を邪魔されたコガネが眉を顰める。

「静かにしてぇ」


          ◯


 二人の前に馳走が出た。

 料理も結構だが、絢爛けんらんな器達を見てトワキは驚いた。

 各々が美しい釉薬に染められている。

 小さな村の宿だが随分と儲けているようだ。

「この宿には沢山旅人が来るの?」

 トワキと同じ疑問を持ったのだろう、食後に白湯を持って来た翁にコガネが尋ねた。

「へえ、まあ、昔は寂れた宿でしたがお陰様で……。あんたらはどこへ行かれるんですかいな?」

「私達は天蓋てんがい伴山ともやまに向かっているところです」

「ほぉー随分と遠くへ行かれるんですなぁ」

 翁は口を大きく開き、驚いた様子だ。

「ほーですか、ほーですか。でしたら……、村を東にずうっと行くとですな、二股に道が分かれとるんですわ。左は荒れ果ててイカン。綺麗な方、右を進むとよいですじゃ」

「わざわざ親切ありがと、お爺ちゃん」

「へえ、へえ」

 翁は頷くと、白鬚を掻きながら呵呵と笑った。


          ◯


 翌朝。

 トワキとコガネは宿を発つ。

の原は右ですよ」

 嫗が初めて口を開いた。巳の原というのが、進むべき道の名らしい。

 門を出る際にトワキが振り向くと、二人の老人の姿は既になかった。

「なんだか寂しいな」と呟くコガネは、短い時間だが翁と話すのが楽しかったのだろう。トワキはあまり喋らぬ嫗の方が好きだった。

 

 翁の言うとおり、村を出て東へ進むと分かれ道があった。

「よし、左行こう……。って、早く私を止めてーな」  

 ふざけて左へ進もうとするコガネを無視して、トワキは翁達に言われたとおりに分かれ道を右へ進む。


 やがて道は緩い下り坂となる。広々とした坂の一面には、背の高い雑草が生い茂り、幾つもの岩が、ゴツゴツとした黒い頭を覗かせている。

 翁の説明との齟齬そごに、トワキは歩みを止めた。

「草ぼーぼーだね。もしかして本当に左だったんじゃないの?」 

 コガネが不安気に尋ねる。

 トワキは少し考えてから答える。

「戻るのも億劫だし進んでしまおう。今まで歩いてきた所の中じゃあ、マシな方だろ」

「まぁ、日姫神子ヒメミコの位置は大体分かるから、どっちに行ったって天蓋てんがい伴山ともやまには着くとは思うけど……」

「じゃあ決まりだな」

 トワキ達は坂を下る。草は朝露に濡れていて、歩くと脚が湿って気持ちが悪い。

 少し進むとコガネが歩を止めて、両脚をモゾモゾと動かし始めた。

「悪いけどちょ、ちょっとそこで待ってて!」

「どうした? 小便か?」 

 コガネはムッとした顔でトワキを睨んだ。

「分かってるなら口にしないで」

 坂を駆け上がるコガネに、トワキは声を掛ける。

「待っているからゆっくりしてこい」

「うーるーさーいー……」

 どれ程離れるのか、コガネの姿は草に埋もれて見えなくなった。

 静かな草原の中にトワキは一人になった。


          ◯


 急に雨が降る。

 トワキはコガネを気に掛けたが、杞憂に終わる。生暖かい風と共に、雨は草原を一撫でして去っていった。

 しかしその瞬間。辺りの雰囲気が変わり、重々しい空気が背中に乗る。

 トワキは腰の刀に手を添えた。


 辺りに瘴気が立ち込める。


 トワキは草の中に視線を向ける。

「来い」

 生い茂る草に隠れて、何かが移動している。艶めかしく光沢を滑らせるのは、褐色の蛇体。その大きさ、あばらを広げなくとも、人など一呑みできるだろう。 

 蛇体が伸び上がる。

 高い位置から光る黄色い目には、縦に裂けた鋭い瞳孔が張り付いている。トワキの眼前に、しゅの化身が鎌首をもたげた。

 鎌首の先端、複数の蛇の頭が組み合わさって、一つの巨大な蛇頭を作っている。その付け根には、四本の人の腕が生えて、大蛇の上体を支えていた。


蟒蛇うわばみ・クチナワヌシ出現〉


 トワキに向かって突き出す大蛇の頭部。

 トワキはそれを素早く横へ避けて、擦れ違いざまに斬る。巨木ような蛇体が血を噴いた。

 裂けた胴からあふれ出る臓物。強い腐臭がトワキの鼻を刺した。

「うっ!」

 トワキは衣の袖で鼻を押さえる。

 クチナワヌシは斬られてなお、四本の腕で地面を掻いて、草むらを泳いでいく。

 トワキは刀を逆手に持ち変える。

 再び襲い掛かる大蛇の毒牙を避け、刹那。蛇体に刃を滑らせた。大量の蛇の血が坂を流れる。


 しかし、トワキが付けた傷を、辺りに満ちる瘴気が、立ち所に集まって埋めてしまう。

 蟒蛇うわばみ・クチナワヌシは深傷を負っても瘴気を取り込み再生する。


「成程、キリがない」

 トワキを蛇体が取り囲む。

 マズイな──。

 徐々に狭まる蟒蛇うわばみの檻。満ちた瘴気を吸っているせいなのか、トワキは自身の感覚が鈍るのを感じていた。

「あの鬼を出せば……。くそ、ありえない。近くには村も、コガネだっている」

 制御できなければ、鬼神の炎は再び人々を燃やすだろう。

 考えている内に、蛇体の牢獄はトワキから光を奪う。

 斬れども斬れども大蛇にできた傷口は、瞬く間に瘴気によって塞がれる。

 そのとき。

「トワキー!」

 呼び声が大蛇の檻を通り抜けて、トワキの耳に届いた。草の斜面を下り、コガネが駆け寄って来る。

「コガネ来るなっ!」

 トワキの制止を無視して、駆け付けたコガネは蛇体に触れた。

 檻の外で光が灯る。

 コガネの指先が発光すると、大蛇を取り巻く瘴気が、衝撃と共に弾け飛ぶ。蛇体の檻が綻びた。

「これは⁉︎」

 コガネの不思議な能力を前に、トワキは困惑した。

「馬鹿! 何惚ほうけてるほら! 今だ早く斬ってよ!」

「あ、ああ!」

 コガネに急かされて、トワキは振り上げた利刃を、大蛇の頭部に叩き込む。

 血飛沫が爆ぜる。

 トワキは咄嗟にコガネを抱えて、その場を離れる。


          ◯


 殺された蟒蛇うわばみ・クチナワヌシの身体は、ボロボロと崩れ落ち、やがて土に溶けて消滅する。それと同時に、草原全体に漂っていた瘴気も、徐々に薄まっていく。


 トワキに抱えられたコガネがニヤリと笑う。

「あんた、私のこと好きだろ〜」

「まあね」

 トワキは草から頭を出している岩の上に、コガネを下ろすと、先程の力について尋ねた。

「さっきのは何だ?」

「私はもともと巫女だからね……。力を使えばあのくらいのしゅなら祓えるよ。それより後ろ見な」

「後ろ?」

 振り向くと、坂の上に二つの影法師。

 トワキが見ていると、その人影は去ってしまった。

「周りを見てみ。人の骸が数多あまただよ。何にも身に着けてない、骸骨丸出しのね」

 コガネが指差す先、草の中に骸が見える。

「何が言いたい?」

「あそこ、随分豪華な宿だったよね……」

 コガネが言いたいことを、トワキは理解した。あの翁と嫗は蟒蛇うわばみが殺した人々から、金品を奪い取っていたのだろう。

 二人は無邪様ムジヤサマという神を崇めていた。それがどういう神なのか、詳しくは分からない。しかし、その加護に守られていると、蟒蛇うわばみに襲われないのかもしれない──。全ては憶測だが、トワキは恐ろしくなって、すぐにここを離れたくなった。

「……行こう、済んだことだ」

 トワキは進もうとしたが、コガネはなぜか動かない。

「私さっきので疲れたんだ……。悪いけどおぶってくんない?」

 そう言って、コガネはトワキに向けて両手を突き出した。

「はいはい」

 トワキはコガネを背負う。

 暫くして。

 背中から小さな寝息が聞こえてくる。









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