第三話・魔界の怪獣〈鬼神〉

 第三話・魔界の怪獣〈鬼神〉

          

          ◯


 二十年程昔……。

 山の男、カドダイの頭にまだ白髪が生えていなかった頃のこと……。


 ある日の昼下がり、カドダイが山仕事をしていると、河辺に若い女が倒れているのを見付けた。壺装束姿のその女は気を失っており、着物の肩は赤黒く血が滲んでいる。

 カドダイは持っていた荷物を放り出すと、女を背負って山の小屋へ連れて帰り、肩の傷の手当てをした。幸い女の傷は浅かった。

 しかし、やがて目を覚ました女は、あろうことかカドダイを酷く恐れた。

「妾をどうするつもりか! ケダモノめが」

 女ははだけた胸元を隠し、そう罵ると、カドダイに対して、ひどく蔑む視線を向けた。

「違う! 傷の手当てをしていただけだ」

 カドダイは弁明するも、女はまだ警戒し、眉間に皺を寄せて睨み付けてくる。

 だが傷を負った肩に膏薬こうやくが塗られているのに気付くと、女はようやく気を鎮めた。

「これは練り薬か? お前、妾を助けてくれたんか?」

「オゥ、そうだ。貴重な薬を塗ってやったんだから感謝しろよ!」

 そう言って、笑ってみせると、女は衣の襟を整えながら、「フン」と無愛想な返信をした。


 暫くして。

 飯炊きの用意をしていたカドダイに、女が声を掛けた。

「そなた名は?」

「俺はカドダイ。山での仕事が生業さ。あんたの名は?」

 カドダイが尋ねると、女は大気姫オオゲヒメと名乗った。

 大気姫オオゲヒメは戦で郷里を追われ、この地まで逃げ延びて来たらしく、整った顔立ちをしているが、その表情は硬く曇っている。

 大気姫オオゲヒメは手に、小さな木像を持っている。厳しい顔に長い手脚。身体に絡まる鱗の尻尾。それは大気姫オオゲヒメの故郷で崇められていた神の姿を模しているらしく、見たことのない生き物の形をしている。気を失っていても握り続けていたのだから、余程大切な物なのだろう。 

 

          ◯

 

 当時のニギの里は、余所者に対して排他的であり、外から来る者は、しゅを招くと考えられ、避けられていた。その為、カドダイは里にある自宅ではなく、山仕事の道具を置いていた小屋に、大気姫オオゲヒメを住まわせた。

 大気姫オオゲヒメは木像を磨いたり、語り掛けたりなどして、とても大事に扱っていた。あまりに大事にしていた為、カドダイは大気姫オオゲヒメの為に、小屋の中に神棚を作り、そこに木像を祀った。

 大気姫オオゲヒメは毎日神棚に祝詞を上げ祈る内に、この場所のことを気に入った様子であった。


 カドダイの山の小屋は、代々祖父から父、そして子のカドダイに継がれてきたものだ。

 だが祖父も父も、他の家族も皆、病や怪我で死んでしまい、カドダイは独りになった。そんな中での大気姫オオゲヒメとの生活は楽しく、子こそ成せなかったものの、二人はやがて夫婦めおととなり、山の小屋は家になった。


 大気姫オオゲヒメ我儘わがままだったが、その願いを叶えるのは、カドダイの楽しみになった。大気姫オオゲヒメもそれを分かっているようだった。「カドダイはよい奴じゃ」は、喜んだ大気姫オオゲヒメの口癖だった。

    

          ◯


 その頃、ニギの里では凶作が続き、皆が飢えていた。本来であれば森に淀む悪い気を恐れ、あまり山に立ち入らない里の者達が、食べ物を求めて山へ入ってくるようになった。

 そして遂に、山の家にかくまわれていた大気姫オオゲヒメが、里の者に見付かってしまう。


 そして……。


 飢えが里の民達から理性を失わせたのか、余所者を招き入れたカドダイと、しゅをもたらすとして、大気姫オオゲヒメに処刑の沙汰が下った……。

 首斬りの刑だ。


 拘束されたカドダイに、ニギの族長の老婆は、しわがれた声で語り掛ける。

「里を見ろ。作物は枯れて、畜生も痩せこけている。しゅのせいだ。カドダイ……、お前がこの女を娶るからだ。余所から来たこの女が、呪いを連れて来たのだ」

大気姫オオゲヒメは不作とは関係ねぇ! 呪いなんぞもってくる訳があるか!」

 集まって来る群衆の中で、カドダイは必死に食い下がるも、山で暮らす男を、誰も助けようとはしなかった。

 そのとき。

 大気姫オオゲヒメが族長に尋ねた。

「もし、もしもだ、この里で豊かに作物が実るようになれば、この男は死なずともよいか?」

 大気姫オオゲヒメの問いに、族長の老婆はゆっくりと頷いた。他の者達も黙ってそれを確認した。

「いいだろう。今すぐに、そんなことができるのならな」

「ならばよし。これより妾は自らを憑代に、無き郷里、地多気ノ國に伝わる神となる。その神力を以てこの里を豊かにしてみせよう」

 異存はないな?──そう言って大気姫オオゲヒメは、故郷に伝わるという古い祝詞を上げ始めた。

 大気姫オオゲヒメの身体が、黒く変わり始めた。

大気姫オオゲヒメ、お前何をしている! 神になるだと⁉︎ 止めろっ!」

 大気姫オオゲヒメを止めようとするのはカドダイだけだ。そのカドダイも押さえ付けられ、身動きを封じられた。

「カドダイ、そなたは本当によい奴じゃったよ」

 最期にそう残し、大気姫オオゲヒメは泥のようになって溶けて消えしまった……。


 溶けた大気姫オオゲヒメの身体は大地に染み入り、土壌の地力ちりょくを富ませ、瞬く間に作物を実らせる。

 それは大気姫オオゲヒメの故郷に伝わる神の業だ。

 のちに、その神は大気姫オオゲヒメの故郷の名を冠し、地多気姫尊チタキヒメノミコトと呼ばれるようになる。


 それからニギの里は豊かになった。


 大気姫オオゲヒメの犠牲により、命を繋げたカドダイは、姫神のいるこの里を守る為に、しゅを祓うことを務めとした。

 大気姫オオゲヒメが大切にしていた木像は、今でも山の家に置かれている……。


          ◯


 黒煙の中。トワキは抗う。 

 再びこの世に現れようとする鬼神を抑え込むべく、身の内に力を込めた。

 目を見開く。

 震える手には血管が走る。

 漏れる息の音は、獣の唸り声のようだ。

 張り裂けるような痛みが全身に広がった。

 トワキは最大の力を込めて叫ぶ。 

「出るなぁっ!」 

 燃え盛るシトウの里の姿が頭に浮かぶ。

 トワキはその思案を否定する。

 ダメだ! いらんことを考えるな!──。


 トワキは更に力を内に収縮させ、絶え間なく漏出する邪気を一点に留めようとした。だが何かが押し潰れる感覚と、カドダイの断末魔の叫びが聞こえ、それが途切れたとき、トワキは全てが徒労とかしたことを理解した。理解せざるを得なかった。無駄だった。抑えることができなかった。力を失った身体から、大量の鬼の黒煙が、外に出てくる。

 トワキはその場にひざまずく。

 もう、それしかできなかった。

 頬を流れ落ちるのが汗なのか、涙なのか、あるいはその両方か。そんなことに関心をもつ者など、もうどこにもいない。 

 悲しみが身体に孔を開けたのか、黒煙の噴出は止まらない。闇が身近になる。自分自身も煙となっていく感覚と、この世の者ではなくなる恐怖、そして恩人を殺めた悔恨。トワキの心はトワキのもとを離れる。黒煙に沈むトワキから、周りの騒がしさが徐々に遠退いていく……。


 魔界の煙は辺りに満ちる。


 そのとき。

 暗黒を切るように、銀の筋がしなやかに駆けた。

 その正体は全長一尺程の小さな獣だ。

 漂う暗黒に迷い込んだ白銀の獣は、トワキの顔を仰ぎ見る。獣の顔は小狐のようだが、耳はそれよりもずっと長い。身体付きはイタチテンに似ているが、背には一対の羽ような、小さな突起が生えていた。トワキの知らない美しい獣。「クルクル」と鳴く声にはどんな意味があるのか。しかし、今のトワキにはどうでもいいことだった。


 赤い雷光の明滅と共に、黒煙の内部で鼓動する巨大な影。

 盛り上がる黒煙は、木々の高さを超えても、更に膨らむ。その中では、徐々に鬼神の鋭い頭部が形作られ、瞳孔の割れた目を開けた。


 そして再来する。


 鋭く尖った頭部の左右から、後方に向かって伸びる二本の角。

 幾つもの骨の板が張り付いた太い腕に、血の気のない灰色の表皮。


〈鬼神顕現〉


 止まらない。もう、止められない──。

 トワキは既に諦めていた。

 そんなトワキの丸めた背を、誰かが優しく触れる。そして澄んだ声音で語り掛けてくる。

「恐れないで、この怪物はあなたの恐怖の形。恐怖を支配したときに怪物の力はあなたの刀となる。扱えるはず」

 トワキには少女が何を言っているのか分からなかった。

「無理だよ。何もかもが、もう終わったんだ。ここにいる皆が死ぬ。奴は人が操れるものではない。荒ぶる……神なんだ」


 里が黒煙に埋まる。

 シトウの里を滅ぼしたときよりも、更に大量に溢れ出た鬼の煙は、ニギの里を侵していく。

 鬼神の上半身が幽谷ゆうこくの霧に浮かぶ。その巨躯は以前現れた際の倍を超え、なおも膨れ上がる。

 脚が形成される。その爪が地面に食い込む。

 空中を流れる長い尾が、木々を薙ぎ払った。

 鬼神はより大きく、より強く成長する。


「人が交われる力なんてのは所詮は下等なもの。あなたが恐れるその神は、あなたが思うほど絶対の存在じゃあないんだよ。だから少し、ほんの少しだけその恐怖を払えばいい……。ね?」

 少女は黒煙に呑まれることを恐れていなかった。

「恐怖を払う……」

「私を見て」

 トワキは横目に少女を見る。

 そして少女の長い睫毛まつげに飾られた瞳と見つめ合う。トワキはその瞳の内に、鬼の神をも凌駕する力を持つ、大いなる存在を感じ取る。この少女をただの人間とは思えない。

「君は一体……。いや、今はいい」

 トワキは気息を整える。

 そして意識を内に向けた。

 流れ出る黒煙を無視して、ただ落ち着いた。

 ほんの少しだけ恐怖が消えた。

 少女はトワキに微笑み掛ける。

畢竟ひっきょう、この怪物はあなた自身から抜け出たものだ。人一人の魂とだけ繋がりをもつ存在。天を拡げるでも地を固めるでもない、ただ人世じんせいに災いをもたらす怪獣。完全でなければ全能でもない」

 そう言うと少女は遥か遠くを見据えた。

 その視線は鬼の黒煙も、森も、あらゆるものを貫いて、果てにある何かを見つめているようだ。

 少女は再びトワキを見る。

「人智の及ばぬ力はあれど、人との繋がりをもつのであれば、所詮それは同じ世界の存在。干渉されるのであれば干渉できる」

 少女の言葉を聞いて、トワキのもつ鬼への恐怖は薄れていく。そしてそれに伴い、身体から溢れ出る黒煙が、減っていくが分かった。

 少女はトワキに手を向けると、その指先から柔らかな光を発した。

「そのままだよ……そのまま」

 少女は光る指をトワキの額に当てる。

 その柔らかな光は、トワキに取り憑く、鬼の邪気を祓っていく。

 トワキは瞑目する。

 この娘を信じろ……。そして、自分を──。

 光はとても暖かかった。

 

 黒煙の息吹は終息し、怪物の膨張が止まった。

 何が起きたのか理解が及ばない鬼神は、自らの有様を確かめるように、広げた両腕を見ている。


 開眼するトワキ。

「キサマが私の恐怖の具現ならば、この恐怖は私のものだ。キサマの力は私が操る」

 それと同時に、鬼神の左腕が屈折し、その鋭く尖った頭部を鷲掴みにした。トワキが鬼神の片腕を操った。トワキは恐怖を抑え込み、鬼神の力を制御した。


 鬼神はすぐさま操られた左腕を右手で掴んだ。

 反抗する左手を頭部から引き離すべく、鬼神はその力を自らの左腕に向けている。

 相反する力と力の境界、左腕の皮膚は徐々に裂けて……。

 そして力の均衡が崩れた。

 トワキの〈意思〉によって操られた鬼神の左腕は、その皮ごと右手のいましめを振り解くと、鷲掴みにした頭部を凄まじい力を以て引き千切る。そして勢いそのまま、左腕は千切り取った頭を、大地に叩き付けた。


 大きな地響きがニギの里を揺らした。


 鬼神の身体は崩れ、黒煙に戻る。

 山をも超えて立ち昇る、真夏の入道雲さながらに膨れた黒煙の柱は、やがて薄まり消えていく。


 張り詰めていた気力が抜け、トワキの意識も、闇に吸われるように、うつつから離れていく。それでも最後に声を振り絞る。

「カドダイ……すまない。すまなかった」


          ◯

 

 枝葉からこぼれ落ちた真昼の日差しが、寝かせられたトワキの顔に、まだら模様を描いている。


 木漏れ日に照らされた瞼が開く。


 どれほどの時間を闇に呑まれていたのか……。トワキが気が付いたときには、ニギの里を埋めていた黒煙はすっかり消えていた。

 トワキの傍らにはあの少女がいる。

 辺りを睥睨へいげいする顔には緊張が見える。

 籔の外からは騒がしい喧騒も聞こえている。

 どうやら余り面白い状況じゃないようだな──。

 トワキはすぐに上体を起こした。

「ここは?」

「あっ、起きた? ここはね、私があなたをおぶるなり引き摺るなりして運び込んだ茂みだよ。煙に紛れて行き着いたから、詳しい場所は分かんないけど」

「すまない」 

「なんの。でも刀は置いてきちゃった」

「……そうか。気にしないでくれ」

 そうは言ったものの、トワキはカドダイから貰った刀のことが気掛かりだった。

 しかし、それどころではなさそうだな──。

 聞こえる喧騒は収まらない。

 トワキ達を隠している辺りの木々には、藤葛が絡まる。よく見ると枝葉に紛れ、色褪せた藤の房も垂れている。

 トワキは気付いた。

 ここはかつて河辺から見た、一面の紫の瀑布があった場所だ。少女の息は少し荒い。華奢な身で、祭壇から随分離れたこの場所までトワキを運び、相当疲れたのだろう。

「ふぅ、動けるのなら動きましょか。私達、というか、あなたを奴らが探しているから」

「仕方がないさ。私は、この里の神を……、チタキヒメを殺めたから。ニギの民は私を討たねば気が晴れぬだろう」

 少女が首を横に振る。

「それは違うみたいだね。彼らは自分達の崇める神を倒したあなたを、あなたが出す怪物を新たなる信仰の対象にしたいみたいだ」

「まさか、そんなことが」

「茂みの陰から見てみんさいな、奴らの蛮行を」

 言われたとおりに、トワキは茂みに開いた僅かな隙間から、里の様子を見た。

 茂みのある斜面の上からは、ニギの里がよく眺望できる。奥に破壊された祠が見える。その前で人々が奇声を上げながら、クワだの石だのを、何かに打ち付けている。

 よく目を凝らして見ると、恐らくそれはチタキヒメを模ったあの木像だ。

 カドダイが彫った木像を皆が破壊している。

 散らばる木片を、さらに人々が踏み躙る。

 唾を吐き掛ける。

 燃やしている者もいる。

 なおも愚像を握り締め、たっとく扱う老人が、棒で打ちのめされている。

 誰かが声を上げる。

「いでよオニガミサマァ! きええぇいっ!」

 それを聞いた少女の顔は引きつる。

「こっわー。あんなのに捕まったら喰べられちゃうな」 

「なぜ、あれだけ崇め祀っていた姫神を……、なぜ卑しめるのだ」

 少女は冷徹に答えた。

「そりゃ、死んだからでしょ? 役に立たなくなったから。信じていたのに期待外れだったから。新しい神を迎えるに邪魔になるから」

「もういい。見つかる前にさっさと移動しよう」


          ◯


 茂みの裏を抜けるとすぐにあの大河。

 トワキは少女を抱え、石から石へと跳び移り、河を渡った。少女は時折、「うおお」とか「ぬおっ」などと叫びながらも、それを楽しんでいる様子だった。

「あなた凄いね!」と、少女はトワキを褒めたが、トワキはそれ聞いても嬉しいとは思わなかった。

 少女の腰帯に取り付けられた金物かなものの装飾が、光を弾きチカチカと輝く。その輝く銀色の円盤は満月を連想させる。


          ◯


 主人を亡くそうが、カドダイの家はいつもと変わらない。少女は自然に埋もれつつある家を見て「わあ」と感嘆した。

「あなたの家? 一人で暮らしてるの? こんな山の中で苦労するよね?」

「私は余所から来た居候さ。苦労はあるが楽しかったよ。ここの主人は、もう、いなくなった」

「そう」

「追っ手が来るまでに必要な物だけ取っていこう」

 トワキが家の中に入ると、早朝、カドダイが蹴って倒した土器の壺がそのままにある。

 土器の口は欠けていた。

 矢張りいない……。あれは現実だったのだな──。

 時が止まってしまったかのように静かな家に入り、トワキは改めてカドダイが死んだことを呑み込んだ。すると込み上がる悲しみに蓋をするように、少女がトワキの前に出て微笑みを向けた。

「遅ればせながらお礼を言うね。さっきは助けてくれてありがと」

「よせ、いいんだ礼なんぞ。身体が勝手に動いただけさ」

「それでも、なんでも、嬉しかった」

「そうか……」

 トワキが暫く沈黙していると、「もういいよ」と、少女が唐突に言った。怪訝に思ったトワキは「何が?」と尋ねる。

「あなたに言ったんじゃない」

 少女は笑って、そう返すと、身に纏う月白色の布の内から、美しい獣を出した。

 少女の広げた腕から、肩の上に流れていく白銀の毛並み。長い身体をくねらせ、クンクンと鼻を鳴らす顔に、トワキは見覚えがあった。

「はいはいはいはーいはい!」

 執拗に顔を舐めてくる獣に、少女は大きな目を半分閉じて、少々鬱陶しそうな反応をした。

「たしか、煙の中で見た顔だな。その獣は君のなのか?」

「私の友達だよ。面白いよね? 不思議だよね?」

「美味いのか?」

「は? いやっ食べないよ!」

 少女は目を丸くして叫ぶ。

 確かに喰べるにしては獣は痩せている。

 獣の背に小さな羽のようなものがある。

 飛べるのだろうか?──。

 不思議に思って、トワキは獣を見ていたが、時折その羽をクイと伸ばしたりはするものの、獣は結局、その身を宙に浮かせることはなかった。

「私、名前、教えてなかったよね? 改めまして私はコガネ。よろしくだよ。んで、こっちの小さなのはヤエ」

「ヤエン?」

「ンはいらないよ。ヤエ!」

「発音の問題だよ。まぁ、呼びやすい方で呼ぶさ」

「ちゃんと呼んであげてよ、〈ヤエ〉だからね。まっ、とりあえず仲良くしてやってよね。ちょっといきなり指出さないで! 噛むんだからっ!」

 トワキはヤエに噛まれそうになった指をすぐに引っ込める。美しい見た目によらずに気性の荒い獣のようだ。

「うぉっ。……で、君等はどこから来たんだ?」

 ニギの里の住人ではないことは、トワキにも分かる。金の髪色。見慣れぬ装い。よく見ると耳の先も尖っている。コガネの佇まいは、これまでトワキが出会った誰とも異なる。

 トワキは昔聞いた、遠方には異なる人種族が住むという話を思い出したが、コガネがそうかは分からない。

「私が来たのは、ずっと遠くの國からだよ。色々あってね。私達は、〈神の世界〉を抜けてこの地へ逃げ延びて来たんだ。……信じてくれる?」

「ああ。神の世界……か。では、またそこを通り抜けてここから離れるか?」

 コガネは首を横に振った。

「ううん、ここからじゃあそれは無理だよ。それに私の力も随分落ちたし、今はメギドガンデ本体とは交感できない」

 一瞬、トワキの身体に悪寒が走る。


〈メギドガンデ〉

 

 聞き慣れないその名に、トワキはなぜだか畏怖いふを覚えた。鬼神とは一線を画す、遥か始原より伝わる恐怖。触れてはならない不可侵の領域。そういった感覚が、トワキの心中に漠然と湧いた。

 この感覚……、まさか鬼が恐れている……?──。

 いつからかヒグラシが一匹、寂しそうに鳴いている。

 土から目覚めるにはまだ早い。

 狂った虫はただ一匹、虚しく泣いて死ぬのだろう。

 コガネが困ったような顔でトワキに尋ねる。

「んで、あなたは、名無しでいいかね?」

「トワキだ。私にも名くらいはある」

「ははは、なんだ、全然名乗ってくれないから教えたくないのかと思った。よかったね、名無しのゴンベーじゃあなくって」

 コガネの笑顔に、ヤエが「ケフンッ」と返事をする。 

「ま、よろしくねー。トワキ」 

「ああ、よろしく。コガネ」

 花が咲いたように笑うコガネの瞳の底で、何かが光るのをトワキは見た……。

 しかし、トワキは何も言わなかった。

 言わない方がいいと思った。

 言えば何か不吉なことが起きる。

 それが何かは分からない……。

 それでもトワキはそう思った。

 

          ◯


 輝く海。

 そこに無数の結晶が煌めき漂う。

 海は輝きを増し、やがて光そのものへと変わる。

 正六面体の結晶の星々が、その身を砕いたり、結合したりしながら、時間も空間も全てのことわりが破綻した光の世界を流れていく。


 無限神・メギドガンデの宇宙は果てなく広がる。





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