第二話・肥沃の怪獣〈チタキヒメ〉

 第二話・肥沃の怪獣〈チタキヒメ〉


          ◯


 呪いの火を焚いてシトウ族の里を滅ぼした荒ぶる鬼神は、破壊の対象がなくなると、取り憑いていた少年・トワキの身を離れ、この世界から姿を消した。

 しかし。

 その存在をトワキはなおも感じていた。

 自身の魂の内から。


          ◯


 トワキは焼け滅んだ郷里からひたすら逃げて……、気付いたときには深い森の闇の中に入っていた。

 少しでも離れたかった。生き物の焼けた匂いがこびり付いたあの場所から。

 上を見ると樹木は重そうに葉を乗せている。

 トワキは煤に汚れた白蛇鳥ハクジャチョウの衣を身に付けたまま、山を登るでも下るでもなく、ただ痩せた脚を動かしていた。

 その脚を木々が拒む。草達が阻む。土から出た木の根に、トワキはつまずいて倒れた。これで何度目なのか……、もう分からない。


 地に腹を付けたトワキを迎えたのは腐臭だった。

 夜目に映るのは獣の死骸。山狗ヤマイヌにみえるそれは、眼窩を窪ませ、顎をずらし、舌を垂らしている。破れた毛皮からははらわたこぼれていた。


 否定し得ない──。

 これは死だ──。


 その骸が蠢いてみえるのは蛆の仕業か、それとも乱心がもたらす幻なのか。

 夜に色を呑まれた草の中、トワキは立ち上がると、急いでその場から逃げた。

 怖かった。

 死が怖かった。


 草を掻き分けて進むトワキを、森に宿るしゅが追っている。

 黒く立ち込める邪気は、トワキに宿る災いの神に引き寄せられていた。


          ◯


 死への恐怖から逃げるトワキは、森の中をどれだけ彷徨ったのか、辺りがほのかに白けてくる。


 朝日を浴びた森に霞が立ち、群青色の山間に濃く溜まる。


 暫くして、トワキの前に人影が現れた。

 よろけながら歩くトワキに、霞の中で動くその影は何度も声を掛ける。

「誰だお前は?」「この辺の者じゃあないな」「お前どこから来た?」「オゥ、怪我をしているのか?」「当てはあるのか?」「うちへ来い、今日は瘴気が濃い」……。

 気息奄々のトワキは、現れた男の問いに答えることなく気を失った。


 男は倒れたトワキを背負い、再び深い霞の奥に潜っていく。


          ◯


 暗黒を歩くトワキの前に、巨大な顔が現れる。

 それはシトウの里の民達を皆殺しにした存在。トワキを憑代に、魔界より現れた双角の鬼神。


 鬼神は口を開き、トワキを飲み込もうとしている。

「兄さんっ!」

 トワキは亡き兄に助けを求めた。

 身勝手だ──。

 そう思ったとき、瞼が涙に押し上げられて、トワキは目覚めた。

 そして、鬼神を介して伝わった、兄・ケイテイの最期を思い出す。

「なぜ私が鬼なんだ」

 トワキは自問した。

 しかし、答えは見えない。 


 目覚めてなお、トワキの身体は重く横たわったまま動かない。震える手を顔の前に出し、細い指を曲げて拳を作ると、それが兄を叩き潰した鬼の拳と重なる。


 あの夜、鬼神の肉体の核になったトワキは、兄の死を傍観していた。何も感じなかった。無心であった。それが今、悲しくなる。兄の死も、それを無視した自分の心にも。


 トワキが思案していると、横から男の声がした。

「オゥ、起きたか。二日も寝込んでいたからな、これはダメかもしれんと内心焦ったわ。願掛けが功を奏したかな」

 横目に声の方を見ると、紺色の筒袖姿の男が薄暗い空間に咲く囲炉裏の火を頼りに、小さな木像を彫っていた。

「あばら屋は煙が籠もらないからいい」

 そう言って笑う男が手に持つ木像は、何を模っているのか、歪な形をしている。

 火に照らされた男の髪に、銀色の筋が走る。男の歳頃は四十くらいと、トワキは予想した。

 シトウの里では見ない青色を着た男は「寒くは無いか? 山は、冷えるからなぁ」と、ノミを片手にトワキを気に掛けた。

 男はトワキが流した涙の訳には触れなかった。

 優しい男だ──。トワキはそう思った。


 硬い土に敷かれたむしろの上に、トワキは寝かされていた。

 何枚か毛皮を掛けてもらい暖かかった。 

「あなたが私を助けてくれたのですか?……ありがとう。しかし、あの夜から何も覚えてない……。ただ酷く疲れている」

「まぁ、寝ておけ。俺はカドダイ。お前、名は?」

「……トワキ」

「そうか、トワキ。その衣……、お前、何か訳ありだろう? いや、いい」

 男はトワキのことを詮索しなかった。興味がない訳ではないのだろうが、この男はそれを野暮だと思ったらしい。

「下の村には薬師がいるこたいるんだがな。こんな暮らしだ。村へ降りたところで薬なんぞ買える銭はない。擦り傷は俺でもな、薬草を当てる程度はしてやったが……」

 蓄えた髭を掻きながら、カドダイは家の中を見回す。

 土肌の床には土器や葛篭つづらが置かれ、擦り減った砥石などが散乱している。

 壁際には丸められた毛皮や筵が積み重なり、何の用途があるのか、天井の梁からは枯れ草が吊り下げられていた。

 カドダイの頭上には、大層立派な神棚が取り付けらている。そこにはカドダイが彫ったものだろう、沢山の小さな木像が並んでいる。その焦茶色に混じって置かれた、白光りする二つの瓶子へいしはよく目立った。

「ここはなんだかいい匂いがするね……。いい場所だ」

 そう呟くと、トワキは目を閉じた。

 顔の周りにサカキの葉が寝転がる。

 サカキも神棚に供えられている。


          ◯


 翌朝。

 目覚めたトワキは、主人あるじのいない家を出た。

 外に出ればすぐに木々が繁っている。

 苔の上に足を置くと、露を乗せた緑の塊は、トワキの足を優しく沈めた。


 トワキは自分を助けてくれた山の男、カドダイを探して、森に淀んだ霞の霊界を歩いていく。

 振り向くと杉の巨木の中、茅をかれたカドダイの小さな家が、ポツンと置かれている。

 それは物寂しさを感じる風景だった。墨絵の濃淡を思わす世界で霞に浮かび、苔に呑まれて森の一部になりつつあるその塊から、トワキは離れていく。

 歩きながら再び振り返る。

 歩を進めるたびに更に小さくなっていく家を見ると、先程まであの中で寝ていたことが、なぜだか遠い過去のことに思えた。


 苔の禿げた道を辿ってしばらく進み、トワキはカドダイを見付ける。

 鍔のない刀を手にした男は、霞を相手に剣舞を舞っていた。


 山男・カドダイは森のしゅを祓うことを役目としていた。

 形なきものを相手に、浄めた刀を振る。斬られたしゅは浄化され、清らかな空気と一体となり、消えてゆく。


 ゆっくりと、刀でしゅを斬り払うカドダイの動きが、トワキには舞に見えた。

 静かに行われる不思議な踊り。それを眺めていると、トワキは心が晴れた。あの惨劇を忘れられた。

「オゥ、起きたか! トキワ……、ん? トワキだったかな」

 カドダイは細い目を曲げて笑った。

 それを受けて、思わずトワキも微笑んだ。

 トワキは随分と久しぶりに表情を変えた気がした。


          ◯


 昼下がり。

 カドダイを真似て袴を膝下で括ったトキワは、辺りを散策することにした。

 カドダイの衣はトワキには大きいが、それでもあの白装束に比べれば幾分動きやすかった。

 

 カドダイの家の裏側から、斜面を下って少し先に出ると、木々の開けた場所があり、そこにはカドの取れた丸い巨石が、沢山転がっている。巨石達はおのおのドシリとその場に構え、陽光を弾いている。

 森の暗さに慣れていたせいか、その白い光はトワキの目には少しばかり眩しかった。

 白い巨石群の先には広い河が流れていた。 

 トワキは河に近寄る。

 緑を映し、ゆったりと流れる自然に、トワキは圧倒された。

 対岸には紫色の瀑布と見紛うほどの藤の花。綺麗だが、あの鬼の紫炎しえんを連想する。トワキはすぐに視線を逸らし、足元の水中に目をやった。       

 河底には大きな鱗を被った魚、甲冑魚カッチュウギョが二匹いる。泳ぎを楽しむにはその鱗は重いのだろう、水中の双影は肉鰭にくきを使い、這うように移動した。


 トワキは石の上を伝って下流へ下る。

 流木と思われる、樹皮を脱いだ裸の朽木が巨石の間に挟まり、トワキの背丈程の枝を河へ向かって突き出していた。

 近寄ると、枝に括られ、河へと伸びた細縄があることに気が付いた。何となしに、それを目で辿って見てみると、水の中に獣がいる。

 山の峰のような盛り上がった肩に短な首。蹄のある後脚に縄を繋がれて、河に沈められたその姿は猪だ。赤い部分が見える。血抜きをされているのだろう。

 猪⁉︎──。

 予想外の邂逅にトワキは驚き、仰け反った。居場所にしていた巨石の丸みから後ろへ体勢を崩した。

 マズイッ!──。

 咄嗟に石面に触れている右脚のきびすで、思い切り巨石を蹴った。そして空中を浮く身体を転じて、巨石から地面の間を傾斜を描き三回転。手と膝に土に付けたが、トワキは無事に着地した。


 天地を掻き混ぜる感覚に、トワキ自身仰天した。

 トワキは気付く……。思えばシトウの里からこの森までの長い距離を休まずに歩いたことは、元来の軟弱なトワキに限らず、並の人間をも超越している。トワキは生き物として強くなっていた。

 奴め、まだ私には死なれては困るということか──。

 思い知らされた。

 この身体。

 この命。

 もうそれらは自分だけのものではないのだと。あの鬼神にとっても、失いたくない玩具オモチャなのだと。

 

 トワキが袴に付いた土を払っていると、木の繁る方からカドダイの声が聞こえてきた。

 カドダイは巨石の間を抜けて、トワキに近づく。その手に持つ竹笊たけざるの上には、何かは判別できないが乾物が乗っている。

「オゥ! そいつぁ昨日獲ったシシだ。スマン、驚いただろう? にっしても今のは凄いなぁ。もうすっかり元気か! はははっ!」

 カドダイが大口を開けて笑った。

 その頭頂で結われた毛髪は、日に焼かれたのか少し茶色い。

 その髪が今、風に揺られた。


          ◯


 数日後。

 カドダイは一振りの刀をトワキに渡した。

 そして何かを心に決めたかのように、深い息を吐くと、柔らかい笑顔をトワキに向けた。

「長らく開けてない葛篭に入っていたものだ。古く、手入れもしていないが、まずはコイツで刃に慣れろ。ここで暮らすには扱えた方がいい。お前さえよければ……ずっとここにいろ」

 カドダイの思いもよらぬ言葉、そして優しさに、トワキはただ頭を下げるしかなかった。

 喉が震えて何も言えなかった。

 「かたじけない」という気持ちが、目から溢れてきた。


          ◯


 それから四年後……。


 山の木々が囲む中、対峙する山狗ヤマイヌとトワキ。

 鼻筋に皺を寄せ集め、牙を剥き出しした裂けた口から、威嚇の呻きを上げる獣を、刀を構えて真直ぐに見る鋭い横顔。 

 山狗ヤマイヌが動く。

 獣の爪が風を切ろうとする刹那、トワキは利刃を振るう。

 辺りの草を獣の血が飾る。

 トワキの風に乗った黒くなびく長髪は、鞘に刃が収まると共に静まった。

 

 年月が経ちトワキは成長した。

 年齢は数え十八となり、かめに張った水に映る顔は、時折あの夜に再会した兄、ケイテイを思い起こさせることがあった。その度に悲しみも湧き出たが、それと同じくらい嬉しさも心に満ちた。背丈も伸びたが、兄とはもう比べることができない。


          ◯


 木々の幹の間を西陽の光線が通る頃──、トワキが下処理をした獲物を抱えて家へ戻ると、麓の里に出掛けていたカドダイも帰ってきた。

 四年でカドダイの白髪と皺は増えた。背丈も低くなったようにトワキには思えた。無論、それはトワキが成長したからでもあるが……。

「オゥ、山狗ヤマイヌを獲ったのか? こりゃあ随分と大きい」 

「襲ってきた。山狗ヤマイヌの肉はにおいが強過ぎて苦手だ」

「俺は好きだがなぁ。まぁ、また干して、ニギの者達と何か交換してくるさ」

 ニギというのはこの山の麓にある里、及びそこに暮らす民の名である。カドダイはよく山で取れた物とニギの里の物を、物々交換して持ち帰ってくる。

「木像が減ったね。また配ったの?」

「いつもの事さ。こうして換え物してくれた奴等に、まぁ、礼ってやつだ。俺みたいなのが山暮らしなんてしていると怖がられるからな。愛想振り撒いとくんだ。お前もたまには里に降りろ。お前がいたほうが女達との取引が上手くいくんだよ。なんてなっ!」

「人と話すのは苦手だよ」

 トワキもニギの里へは、何度か下りたことがある。そこは深い谷間たにあいにあり、シトウ族の里と比べると小さな里だったが、牛や鶏の鳴き声が鳴り、人々は活気に満ちて賑やかだった。ニギの民は余所者のトワキに対しても愛想よく接してくれた。

 里のまばらに建つ家々の間には、杉や柿の木などが生え、往来のない場所は苔で覆われていた。ゆえに森と里との境界は曖昧であった。

 トワキはニギの民達が崇める神を祀った祭壇にも行ったことがある。沢山の平石が並べられて作られた祭壇には、大きな石壁が屏風のように立ち、その前に肉や魚などの供物が山と盛られ、離れていても腐臭が漂っていた。

 カドダイも山から持ってきた干し肉を、そこへ投げ込んでいた。

 そして供物の山には、粘り気のある黒い物体が絡まり脈動していた。トワキはそれを見て、不気味に感じたことを覚えている。


          ◯


 カドダイの家は二人で暮らすには少し手狭だ。それでもトワキが初めて来たときよりは物が片付いている。空いた土間にはむしろが敷かれ、寝る分には困らない。

 ただ一つ、神棚だけは以前と変わらなかった。


 灰で埋まった囲炉裏を前に、カドダイは木像を彫っている。毎日繰り返しているので慣れた手付きだ。

 トワキが問う。

「それはニギの神様を模した物なんだろう?」

「あぁ。ニギの豊穣の神、地多気姫チタキヒメ様さ」

「神……。やはり、そうか」 

 神という言葉に思うことはある。しかし、トワキは決心した。ここで生涯を過ごそうと。

「なぁ、今度里に降りたら昔私が着ていた、あの真白の衣を銭にでも変えてくれないか?」 

「いいのか? あれはお前が身に付けた唯一の、故郷の物だろう?」

 カドダイは少し悲しげに眉をひそめた。トワキの故郷で何があったのか、カドダイはまだ知らない。

「だからさ。もうここで暮らすと決めたんだよ。それに私には白より紺の衣のが似合ってるだろ? カドダイと一緒さ。だから今更出ていけなんて言うなよ」

 それに、手放したところでトワキには、忘れることなどできはしないのだから。


 暫くして。


「よし!できたぞぉ!」

 カドダイは叫んで、彫り終えた木像にくちづけをした。

「髭に木屑が付いてるよ」

 トワキは呆れながらも、カドダイの彫った木像を見る。

 しかし、よくできているな──。

 木像は、大きな腕に長い首、身体に尾を巻き付けた不思議な生き物の形をしている。

 これがニギの里に伝わる神、チタキヒメの姿らしい。


 トワキが来てからは、神棚に乗せきれなかった木像は葛篭に収められた。

 カドダイが葛篭の蓋を開くと、美しい朱色がトワキの目に留まる。

 昔は他にも人がいたのだろうか?──。

 葛篭の中で、ここには釣り合わない朱漆しゅうるしの器が艶かしく光るのを、トワキは何度も見てきた。


 それから二日後の早朝。

 トワキは叩き起こされた。

 珍しくカドダイは興奮している。まるで幼子おさなごのように忙しなく、足元の土器の壺を蹴り倒しても、まるで気にしなかった。

「サァ、早く支度をしろトワキ! 里に下りるぞ!」

「何だ、どうしたんだ?」

「いいからサッサと行くぞ! 今日はお前も来い! 我儘は聞かんぞサァ! サァ! サァ!」


「ガハハハ」と大笑いしながら、カドダイはトワキの腕を引いて山を駆け下りた。

 その手に木像を持って。

    

          ◯


 トワキは久しぶりにニギの里へ下りた。 

 人々の活気が消えている。

 いや違う!──。

 よく見ると里の奥、祭壇がある辺りを中心に、黒山の人集りができていることに、トワキは気が付いた。

「カドダイ! あそこで一体何があるんだ⁉︎」

 カドダイは獣の如く叫ぶ。

「ハハッハハハッ! ウゥー! ハァー!」

 この男、興奮していてまるで話ができない。

 奇声を発しながら駆けるカドダイに、トワキは少し気味の悪さを感じた。まるで何かに取り憑かれたかのように、いつもとは様子が異なる。こんなカドダイを見るのは初めてだ。


 トワキ達は盛場へ入った。

 家屋の屋根や木の枝の上にまで人がいる。

 人の重みで屋根の板が抜け、悲鳴が上がった。

 大人も子供も老人も、老若男女が集まり一箇所を眺めている。

 様子がおかしい。

 皆が落ち着きがない。

「退け退けー!」と喚き散らしながら、カドダイはトワキを引っ張って、強引に人々の間を抜けていく。

 前方を阻む、人々の壁が薄まり、遂に先頭が見えた。

 トワキの前にあの石作りの祭壇が現れる。

 その上に乗るのは山のように盛られた供物と、それを覆う黒い粘体。

 そして、美しい少女だった。


 トワキは動悸する。


 やがて供物に纏わり付いた黒い粘体が動き始める。

 広がる粘体の表面が、煮え立つ湯の如く暴れ出した。

 瘤が隆起する。

 ゆっくりと螺旋をえがき、一つに纏まりながら上へ上へと伸びていく。

 粘体が天と地の間を、逆流する滝のように、祭壇にそそり立つと、人々の歓声が上がった。

 普段は大人しいカドダイが、誰よりも大きな雄叫びを上げる。


「いでよ姫神様ぁ!」


 黒い滝が旭光を遮り、少女の身体に巨影を落とした。

 その影の輪郭が変化する。左右に割れたそれは、腕だ。

 粘体は変形を続ける。

 身体の部位となるべき箇所を突出させ、脚部や尾を形成させる。

 巨大化に伴い、粘体の黒はせて鈍色へと変わった。

 巨大粘体内部から、大きな鼓動が聞こえてくる。底気味悪い気配を感じたトワキは、腰に差していた刀に手を添えた。


 あの夜と同じ空気をトワキは感じ取る。

 シトウの里での生贄の儀式だ。


 粘体から伸びる長い首。

 褐色の長髪を垂らした醜悪な顔がトワキを見た。カナドナギ同様、醜くおぞましい顔だ。 

 体表から粘性が消え、甲皮の鎧が現れた。

 少女の横に現れた乳垂ちだれの巨体は、トワキにとっては見慣れた形だった。


〈豊穣神・チタキヒメ出現〉

 

 少女が俯く顔を上げた。

 トワキと少女の目と目が合う。

 ぎょくのように美しい瞳は、長い睫毛まつげの下にうれいを湛え、短く切り揃えた金色の髪は、柔らかく揺れ動く。

 首元から胸を撫で、腰帯の内を通る月白色の一枚布は、そのまま曲がった膝下へと続く。

 この娘はどこの國から来たのだろうか?──。

 トワキからしてみれば、少女は風変わりな格好をしてみえた。

 少女は短い袖から出た腕を後ろ手に縛られ、その場に身を伏せて動かない。見たところ、トワキとそう変わらぬ歳頃の娘だ。


 トワキは不快感を乗せた声音で叫んだ。

「あの娘はどうなる⁉︎」

 それを聞いて、カドダイの髭に隠れた口が不気味に動く。


「オゥ、あれは特別な魂をもつ……生贄だ」


 過程は覚えていない。

 その言葉を聞いた途端トワキの身体は動き、気付けば少女の前、現れた神との間に割って入っていた。

 少女の拘束を解くも疲弊しており、すぐには動けそうになかった。

 その行動に、カドダイが怒号を上げる。 

「ヌオゥウ! ト、トワキ! お前は何をしているんだ⁉︎ 今お前がいるのは神への贄を捧げる為の神聖な祭壇だぞ!」

「しかし! カドダイ、私は……」

「チタキヒメの御前だ! 早よ退けっ!」

「私にはこの娘を見殺しにするなどできな

い!」

 カドダイの激昂は止まらない。

 最も尊い存在を、最も身近な存在が否定するとは、思いもしなかったのだろう。

「姫神様の生贄となるのだ! その娘も幸せな筈だ!」

「この娘がそう言ったのか! 違うだろ。この顔を見れば分かるはずだ。死への恐怖が見てとれる! 恐れを浮かべた表情だ!」

 チタキヒメが尾を振るう。

 楔形の鱗を連ねた長い尾がトワキに襲い掛かる。

 トワキは帯刀していた刀を抜き、迫る尾の先端を斬り落とすと、乱髪を広げて叫ぶチタキヒメに跳び掛り、肩から胸までを袈裟斬りにした。崇める神を傷付けられた、人々の悲痛な叫び声が、周囲から聞こえてくる。

 それでもトワキは刀を振るい続ける。

 チタキヒメの腕や膝には、黒い血の糸が引いている。


「あぁ、トワキ。お前……、なんでだ」

 騒ぐ群衆の中で、カドダイは右腕を上げた。

 その手は姫神の木像を掴んでいる。

 それに呼応して周りのニギの民達も腕を高くに上げる。皆が手に持つのはカドダイが彫った木像だ。

 次々に掲げられるチタキヒメの偶像。

「ニギの民よ姫神の糧となれ!」

 永い山暮らしを経て、カドダイが刻み込んだ鑿の痕、幾千万が今ここに集まる。


 チタキヒメは尾を振り回す。

 しかし攻撃の対象はトワキではない。

 失った先端部から血を撒きながら、暴れる尾はあろうことか自らの信者達を薙いでいく。

 整然と並ぶ鱗はヤスリとなり、人々をすり潰した。

「化け物めが!」

 悪態を吐くトワキとは裏腹に、荒れ狂う姫神に潰されたニギの民達は、大きな歓声を上げた。

「姫神様!」

「あなた様の血肉になれる!」

「愚かな冒涜者に死を!」

「この男、トワキに死を!」

 しなやかに風を切る尾が、人々に叩き付けられるたびに、地面には血溜りが広がる。吐き気を催すほどの鉄臭さが、トワキの鼻を刺した。

 突然起きた神の暴虐に、トワキは震えた。

「なぜ……、こんなことを」

 辺りに撒かれた赤い汁を、チタキヒメは長い腕で掻き集めて啜る。擦り潰した肉は舌で巻き取る。まだ人の形を残すものも、長い指で摘んで喰べていく。

「カドダイ!」

 トワキは愕然とした。

 チタキヒメの口に並ぶ細い牙にカドダイが貫かれている。牙で腹を破られても痛みを感じていないのか、カドダイは顔に笑みを浮かべた。

「さぁ、早く、早く……、私をあなた様の中へ……。糧としてください」 

 カドダイの鮮血はチタキヒメの口にべにをさす。

「カドダイッ! カドダイッ!」

 トワキは傷付いた恩人を案じて、何度も呼び掛ける。

 その声が届いたのか、カドダイは恍惚に曲げた細い目を、ゆっくりと開いた。そして姫神を傷付けたトワキに対して、侮蔑の視線を向けた。

「なんだトワキ、まだ生きていたのか。お前は、もう……死ね」


 信者達の肉を喰らった神は強大化する。

 チタキヒメは体勢を維持するために、祭壇の石壁に手を乗せた。

 二回りほど膨れた巨体は、なおも肥大化をやめない。こうなればもう刀は役には立たないだろう。

 ダメだ、殺される──。

 トワキは悲観した。

 そのとき。


「あなたには神を殺す力があるんでしょう?」


 その声はトワキの背後、あの少女から発せられたものだった。その澄んだ声音は、トワキの心の深部、魂にまで言の葉を届ける。怪物の眠る魂の底まで。


 チタキヒメの血に染まった顔面が二人に迫る。

 そのとき。

 トワキからあの黒煙が立ち昇ぼる。

 カドダイが驚く。

「何だ〈ソレ〉は⁉︎」

 今明らかになる少年の秘密に、カドダイは狼狽した。

 怪物の叫び声が上がる。

 牙を向けるチタキヒメの顔面を、凄まじい勢いで形成された鬼神の手が掴んだ。

 チタキヒメは持ち上げられ、長い首が真直ぐに伸びた。腕は力なく下がり、踵も地を離れて宙を浮く。

 膨れ上がる鬼神の腕はチタキヒメの巨体を吊るしたまま、天に向かって伸びていく。

 チタキヒメの尻尾が垂れ下がる。

 軋む顎に挟まれたカドダイは徐々に強まる圧力から逃れるべく、必死に抵抗している。

「やめろっ! トワキッ! やめてくれ! 姫神を放してくれ!」

 しかしトワキにその声は届かなかった。

 そして。

 鬼神の剛力はチタキヒメの頭を握り潰す。

「うああああぁっ──」

 ニギの里にカドダイの悲鳴が響いた。

 姫神は死ぬ。

 一人の男と共に。





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