第2話・肥沃の怪獣〈チタキヒメ〉


 ◯第二話・肥沃の怪獣



 呪いの火を焚べてトワキの故郷、シトウ族の里を滅ぼした荒ぶる鬼神は、破壊の対象をなくすと取り憑いていた少年の身を離れ、この世界から姿を消した。


 しかし、その存在をトワキはなおも感じていた。自身の魂の内から。


          ◯


 トワキは焼け滅んだ郷里からひたすら逃げて……気付いたときには深い森の闇の中に入っていた。

 トワキは少しでも離れたかった。焼けた死臭いがこびり付いたあの場所から。


 上を見ると樹木は重そうに葉を乗せていた。

 トワキは煤に汚れた白蛇鳥ハクジャチョウの衣を身に付けたまま、山を登るでも下るでもなく、ただ痩せた脚を動かしていた。

 その脚を木々が拒む。

 草達が阻む。

 そして土より迫り出した木の根にトワキはつまずき、倒れた。これが何度目か、トワキにももう分からない。


 地に腹を付けたトワキを迎えたのは腐臭だった。

 夜目に映るは獣の死骸か。山狗ヤマイヌにみえるそれは眼窩を窪ませ、顎をずらし、舌を垂らしている。破れた毛皮からは矢張りはらわたこぼれていた。


 ──否定し得ない。これは死だ。


 その骸が蠢いてみえるのは蛆の仕業か、それともトワキの乱心がもたらした幻なのか。

 夜に色を呑まれた草の中、トワキは立ち上がると、急いでその場から逃げた。

 怖かった。死が怖かった。


 草を掻き分けて進むトワキを、森に宿るしゅが追う。黒く立ち込める瘴気は、トワキに宿る災いの鬼神に引き寄せられていた。


          ◯


 死の恐怖から逃げているトワキは、森の中をどれだけ彷徨ったのか、辺りがほのかに白けてきたのが分かった。


 朝日を浴びて森から霞が立ち、群青色の山間に濃い霧が溜まる。

 暫くして、トワキの前に霧の中に動く人影が現れた。

 よろけながら歩くトワキに、その影は何度も話し掛ける。


「誰だお前は? この辺の者じゃあないな」


「お前どこから来た?」


「オゥ、怪我をしているのか?」


「当てはあるのか?」


「うちへ来い、今日は瘴気が濃い」


 気息奄々のトワキは、影より現れた男の問いに答えることなく、遂に気を失った。

 男は倒れたトワキを背負い、再び深い霧の奥に潜っていく。


          ◯


 暗黒を歩くトワキの前にあの顔が現れる。 シトウの里の民を皆殺しにした存在。


 トワキを憑代に魔界より現れた双角の鬼神。


 鬼神は巨大な口を開きトワキを飲み込もうとする。


「兄さんっ!」


 トワキは亡き兄に助けを求めた。


 身勝手だ──そう思ったとき、瞼が涙に押し上げられて、トワキは目覚めた。

 そして、鬼神を介して伝わった、兄・ケイテイの最期が思い起こされた。


「なぜ私が鬼なんだ」


 トワキは自問した。だがしかし、答えは見えない。

 あの夜、鬼の核となったトワキは兄の死を傍観していた。何も感じなかった。無心であった。それが今、悲しくなる。兄の死も、それを無視した自分の心にも。


 トワキが目覚めたことを知り、彼を助けた男が口を開く。


「オゥ、起きたか。二日も寝込んでいたからな、これはダメかもしれんと内心焦ったわ。願掛けが功を奏したかな」


 トワキは男を見た。


 トワキが横目に見る見慣れぬ格好。その紺色の筒袖姿の男は、薄暗い室内に咲く囲炉裏の火を頼りに、小さな木像を彫っていた。


「あばら屋は煙がこもらずにいい」


 そう笑う男が持つ小さな木像は、何を模っているのか、歪な形をしている。

 トワキは火に照らされた男の髪に、銀色の筋が走るのに気付いた。見たところ男の歳頃は五十くらいか。

 シトウの里にはない青色を着た男は、「寒くは無いか? 山は、冷えるからなぁ」と、ノミを片手にトワキを気に掛けた。

 男は涙の訳には触れなかった。


 優しい男だ──トワキはそう感じた。


 硬い土に敷かれたむしろの上に、トワキは寝かされていた。

 何枚かの毛皮を掛けてもらい暖かかった。 


「あなたが私を助けてくれたのですか? ……ありがとう。しかし、あの夜から何も覚えてない。ただ酷く疲れている」


「まぁ、寝ておけ。俺はカドダイ。お前、名は?」


「トワキ」


「そうか、トワキ。その衣……お前、何か訳ありだろう? いや、いい」


 カドダイはトワキを詮索しなかった。興味がない訳ではないのだろう。しかし、壮年を超えるこの男は、それが野暮だと思ったらしい。


「下の村には薬医がいるこたいるんだがな。こんな暮らしだ。村へ降りたところで薬なんぞ買える銭はない。擦り傷は俺でもな、薬草を当てる程度はしてやったが……」


 蓄えた髭を掻きながら、カドダイは手狭そうな家の中を見渡す。

 土肌の床には土器や葛篭つづらが置かれ、擦り減った砥石などが散乱している。

 壁際には丸められた毛皮や筵が積み重なり、何の用途があるのか、天井の梁からは枯れ草が吊り下げられていた。

 カドダイの頭上には、陋屋ろうおくには似つかわしくない大層立派な神棚が取り付けらている。そこにはカドダイが彫ったものだろう、沢山の小さな木像が並んでいた。その焦茶色に混じって置かれた、白光りする二つの瓶子へいしはよく目立った。


「ここはなんだかいい匂いがするね。いい場所だ」


 トワキは目を瞑る。顔の周りにはサカキの葉も寝転がっている。榊は神棚に供えられていた。


          ◯


 翌朝、目覚めたトワキは主人のいなくなった家を出た。

 外に出ればすぐに木々が繁っていた。苔の上に足を置く。露を乗せた緑の塊はトワキの足を優しく沈めた。


 トワキは自分を助けてくれた山男・カドダイを探して、森に淀んだ霞の霊界を歩いていく。

 振り向くと杉の巨木の中、茅をかれたカドダイの小屋が一つ置かれている。それは物寂しさを感じる風景だった。

 墨絵の濃淡を思わす世界で霞に浮かび、苔に呑まれて森の一部になりつつあるその塊からトワキは離れた。

 再び振り返り、小さくなる小屋を見ると、先程まであの中で寝ていたことが、何故だか遠い過去のことに思えた。


 苔の禿げた道を辿ってしばらく進むと、トワキはカドダイを見付けた。男は朝霧を相手に剣舞を舞っている。


 山の男、カドダイは森の呪を祓うことを役目としていた。形なきものを相手に、浄めた刀で斬り祓う。斬られた呪は浄化され、清らかな空気と一体となり消えてゆく。


 トワキにはそれがまるで舞に見えた。ゆっくりと、静かに行われる不思議な踊り。それを眺めていると心が晴れた、あの鬼哭を忘れられた。


「オゥ、起きたか! トキワ……ん? トワキだったかな」


 カドダイは細い目を曲げ笑った。

 それを受けて、思わずトワキも微笑んだ。随分と久しぶりに表情を変えた気がした。


          ◯


 昼下がり。カドダイを真似て袴を膝下で括ったトキワは、小屋の周りを散策することにした。カドダイの衣はトワキには大きいが、それでもあの白装束に比べれば幾分動きやすかった。

 

 小屋の裏側から斜面を下っていき、少し先に出ると木々が開けた場所があった。そこにはかどの取れた巨石群が転がっている。おのおのドシリとその場に構え、陽光を弾いている。

 森の暗さに慣れていたせいか、その白い光はトワキの目にはいささか眩しかった。

 白い巨石群の先には広い河が流れている。緑を映し浩々と流れる自然に、トワキは圧倒された。

 そして、対岸奥には紫の瀑布と見紛うほどに藤の花。綺麗だが、あの鬼の紫炎しえんを連想する。

 トワキはすぐに視線を逸らし足元の水中に目をやった。               

 河底には大きな鱗を被った魚、甲鱗魚コウリンギョが二匹いる。泳ぎを楽しむにはその鱗は重いのだろう。水中の双影は肉鰭にくきを使い、這うように移動した。


 トワキは石の上を伝って下流へ下る。流木だろうか、樹皮を脱いだ裸の朽木が石と石の間に挟まり、トワキの背丈程の枝を河へ向かって突き出していた。

 近寄ると、トワキは枝に括られ河へと伸びた細縄に気付いた。

 何となしに、それを辿って見るてみると、水の中に獣がいる。

 山の峰のような盛り上がった肩に短な首。蹄のある後脚に縄を繋がれて、河に沈められたその姿は猪だ。

 赤い部分が見える。

 血抜きをされているのだろう。


 予想外の邂逅にトワキは驚き、仰け反った。居場所にしていた巨石の丸みから後ろへ体勢を崩した。


 トワキは咄嗟に石面に触れている唯一、右脚のきびすで思い切り巨石を蹴る。

 空中を浮く身体を転じて、巨石から地面の間を傾斜を描き三回転。

 手と膝を土に付け、トワキは無事に着地した。


 天地を掻き混ぜる感覚に、トワキ自身仰天した。


 トワキは気付く。


 思えばシトウの里から、この森までの、長い距離を休まずに行歩したことも、元来は軟弱なトワキに限らず、人の所業としても超越している。

 トワキは生き物として強くなっているのだ。


「奴め、まだ私には死なれては困るということか」


 トワキは思い知らされた。この身体。この命。もうそれらは自分だけのものではないのだと。あの鬼神にとっても、失いたくない玩具オモチャなのだと。


 木の繁る方からカドダイの声が聞こえてきた。

 カドダイは巨石の間を抜けてトワキに近づく。小脇に抱えられた竹籔たけざるの上には、何かは判別できないが、乾物が乗っているようだ。


「オゥ! そいつぁ昨日獲ったシシだ。スマン、驚いただろう? にっしても今のは凄いなぁ。もうすっかり元気か!」


 カドダイは笑う。彼の頭頂で結われた毛髪は日に焼かれてか、少し茶色い。

 その結われた髪が今、風に揺られた。


          ◯


 数日後。カドダイは一振りの刀をトワキに渡した。


 トワキがそれを受け取ると、カドダイは何か心に決めたかのように長い息を吐いた。

 そして柔らかい笑顔をトワキに向けた。


「長らく開けてない長持ながもちに入っていたものだ。古く、手入れもしていないが、まずはコイツで刃に慣れろ。ここで暮らすには扱えた方がいい。お前さえよければ……ずっとここにいろ」


 カドダイの思いもよらぬ言葉、そして優しさに、トワキはただ頭を下げるしかなかった。喉が震えて何も言えなかった。かたじけないという気持ちが目から溢れてきた。


          ◯


 それから四年後……。


 山の木々が囲う中、対峙する狼と少年。顔に皺を寄せ集め、牙剥き出しの裂けた口から、威嚇の呻きを上げる黒い獣を、刀を構えて真直ぐと見る鋭い横顔。 

 少年の纏う紺の衣目掛けて狼が動く。

 獣の爪が風を切ろうとする刹那に、少年は利刃を振るう。

 辺りの草を獣の血が飾る。黒くなびく長髪は、鞘に刃が収まると共に静まった。


 年月が経ちトワキは成長した。


 年齢も生前の兄・ケイテイと並び。かめに張った水に映る顔も、時折あの夜に再会したケイテイを思い起こさせることがあった。その度に悲しみも湧き出たが、それと同じくらい嬉しさも心に満ちた。

 背丈も伸びたが、兄とはもう比べることはできない。


          ◯


 木の幹の間を西陽が通る頃、トワキが下処理をした獲物を抱え家へ戻ると、カドダイも里から帰ってきた。

 四年でカドダイの白髪は増え、背は低くなった気がした。無論、それはトワキが成長したからでもある。


「オゥ、山狗を獲ったのか? こりゃ随分と大きい。オ、取ったはらわたはちゃんと埋めたか?」 


「襲ってきた。コイツの肉は、私には臭いが強過ぎて苦手だ」


「俺は好きだがなぁ。まぁ、また干して、ニギの者達と何か交換してくるさ」



 ニギというのはこの山の麓にある里、及びそこに暮らす人々の名である。

 カドダイはよく山で取れた物とニギの里の物を、物々交換して持ち帰ってくる。



「木像が減ったね。また配ったの?」


「いつもの事さ。こうして換え物してくれた奴等に、まぁ、礼ってやつだ。俺みたいなのが山暮らしなんてしていると怖がられるからな。愛想振り撒いとくんだ。お前もたまには里に降りろ。お前がいたほうが女達との取引が上手くいくんだよ。なんてなっ!」


「まだ人は苦手だよ」


 トワキもニギの里へは何度か降りた。深い谷間たにあいにあり、シトウ族の里と比べると小さな村だったが、牛や鶏などの声が鳴り、人々は活気に満ちて、余所者のトワキに対しても人当たりがよかった。

 里のまばらに置かれた家々の間には、大きな杉や柿の木などが生え、往来のない場所は苔で覆われていた。ゆえに森と里との境界は曖昧であった。

 トワキは彼等が崇める神の祭壇へも行った。沢山の平石が並べられた粗い作りの祭壇には、大きな石壁が屏風のように立っていた。

 祭壇には肉や魚などの供物が山と盛られており、離れていても少し臭かった。カドダイもそこへ山から持ってきた干し肉を投げ込んでいた。

 そして供物の小山には、粘り気のある黒いものが絡まり、所々瘤となり脈動している。

 トワキはそれを見て、不気味に感じたことを覚えている。


          ◯


 カドダイの家の中は、トワキが初めて来たときよりも、雑多に置かれていた物が随分と片付き、空いた土間にはむしろが敷かれた。

 ただ一つ、神棚だけは以前と変わらなかった。


 灰で埋まった囲炉裏を前に、カドダイは木像を掘る。毎日繰り返すので慣れた手付きだ。

 トワキは問う。


「それはニギの里の神様を模した物なんだろう?」


「あぁ。ニギの豊穣の神、チタキヒメ様さ」


「神……やはり、そうか。なぁ、今度里に降りたら昔私が着ていた、あの真白の衣を銭にでも変えてくれないか?」 


「いいのか? あれはお前が身に付けた唯一の、故郷の物だろう?」


 カドダイは悲し気に、眉をひそめた。


「だからさ。もうここで暮らすと決めたんだよ。今更出ていけなんて言うなよ」


 それに、手放したところでトワキにはもう、忘れることなどできはしないのだから。


 トワキは神を模った木像を見る。大きな腕に長い首、身体には尾を巻き付けている。

 トワキが来てからは、神棚に乗せきれなかった木像は、葛篭つづらに収められた。

 昔はこの男の他にも人がいたのだろうか……。

 葛篭の中で、ここには釣り合わない美しい漆の器が、ぬめりと光った。


          ◯


 それから二日後の早朝。トワキは叩き起こされた。

 珍しくカドダイが興奮している。落ち着きがなく、幼子おさなごのように忙しない。足元の土器の壺を蹴り倒してもまるで気にしなかった。


「サァ、早く支度をしろトワキ! 里に降りるぞ!」


「何だ、どうしたんだ」


「いいからサッサと行くぞ! 今日はお前も来い! 我儘は聞かんぞサァ! サァ! サァ!」


 カドダイはトワキの腕を引き、「ガハハハ」と笑いながら山を駆け下りる。その手に木像を持って。

    

          ◯


 トワキはニギの里へ久しぶりに降りた。 

 人の活気が消えている。


 ──いや違う。


 ここにいた人間が一箇所に集中しているのだ。 

 よく見ると、里の奥、祭壇がある辺りを中心に、黒山の人集りができていることに、トワキは気付いた。


「カドダイ! あそこで一体何があるんだ⁉︎」


 カドダイは獣の如く叫ぶ。


「ハハッハハハッ! ウゥー! ハァー!」


 この男、興奮していてまるで話ができない。奇声を発しながら駆けるカドダイに、トワキは少し気味の悪さを感じる。


 トワキ達は盛場へと入った。家屋の屋根や木の枝の上にまで人がいる。その重みで屋根の板が抜けて悲鳴が鳴った。

 大人も子供も老人も、老若男女が集まり一箇所を眺めている。様子がおかしい。皆が落ち着きがない。

「退け退けー!」と喚き散らしながら、カドダイはトワキを引っ張って強引に人々の間を抜けていく。トワキはこんなカドダイを見るのは初めてだった。

 人々の壁が薄まっていく。遂に先頭が見えた。

 そして、トワキの前に現れたあの歪な石の祭壇。

 その上に乗るのは、山のように盛られた供物と、美しい少女だった。


 トワキは動悸する。


 供物に纏わり付いついついた黒い粘体が動き出した。

 粘体は山と積まれた供物全体を覆い尽くす。

 動く粘体は更に広がり、表面の瘤は煮え立つ湯の如く泡立ち、暴れ出す。

 瘤が隆起する。ゆっくりと螺旋をえがきながら、やがて纏まって、上へ上へと伸びていく。

 粘体は天と地との間を、逆流する滝のように、祭壇にそそり立つ。


 人々の歓声が上がる。いつもは大人しいカドダイが、誰よりも大きな雄叫びを上げた。


「いでよ姫神様ぁ!」


 黒い滝が旭光を遮り、少女の身体に巨影を落とした。

 その影の輪郭が変化する。左右に割れたそれは、腕だ。

 粘体は変形を続ける。さらに身体の部位となるべき箇所を突出させ、脚部や尾を形成する。

 巨大化に伴い体色の黒も褪せて鈍色へと変わった。

 粘性の消えた体表には、堅牢な甲殻の鎧が現れた。


 巨大粘体内部より大きな鼓動が聞こえてきた。底気味悪い気配を感じたトワキは、腰の刀に手を添える。

 あの夜と同じ空気をトワキは感じ取る。

 粘体の最初に分かれた腕部の間から、長い首が生え、現れた醜悪な顔がこちらを見た。

 カナドナギ同様、醜く悍ましい顔だ。

 少女の横に現れた乳垂ちだれの巨体は、トワキにとっては日常に見慣れた形だった。


 ニギの里の豊穣神・チタキヒメが現れた。

 

 少女が少し顔を上げる。

 トワキと少女の目と目が合った。ぎょくが如く美しい瞳。長い睫毛まつげの下にうれいを湛え、短く切り揃えた金色の髪は柔らかい。

 首元から胸を撫で、腰帯の内を通る月白色の一枚布は、そのまま曲がった膝下へと続く。

 目の前にいる娘は、どこか遠い國から来たのだろうか。トワキからしてみれば、風変わりな格好をしてみえた。

 短い袖から出た腕を後ろ手に縛られ、恐らく脚も同様だろう、その場に身を伏せ動かない。


 何故だかトワキは、捕えられたその少女から、どこか温かみのある光が射した気がした。


「あの娘はどうなる⁉︎」


 トワキはその声音に不快感を乗せて叫んだ。

 カドダイの髭に隠れた口が不気味に動く。


「オゥ、あれは特別な魂をもつ……生贄だ」


 過程は覚えていない。その言葉を聞いた途端、トワキの身体は動き、気付けば少女の前、現れた神との間に、割って入っていた。

 少女の拘束を解くも疲弊しており、すぐには動けそうになかった。

 見たところ、トワキとそう変わらぬ歳頃の娘だ。

 トワキのその行動に、カドダイが怒号を上げた。 


「ヌオゥウ! ト、トワキ! お前は何をしているんだ⁉︎ 今その場に御座おわすは神なんだぞ!」


「しかし! カドダイ私は……」


「チタキヒメの御前だ! 早よ退けっ!」


「私にはこの娘を見殺しにするなどできな

い!」


 カドダイの激昂は止まらない。


「姫神様の贄となるのだ! その娘も幸せな筈だ!」


「この娘がそう言ったのか! 違うだろ。この顔を見れば分かるはずだ。死への恐怖が見てとれる。恐れを浮かべた表情だ!」


 チタキヒメが尾を振るう。楔形の鱗を連ねた長い尾がトワキ達に襲い掛かる。

 トワキは帯刀していた刀を抜くと鬼人の如き剛力で刃を払い、迫る尾の先端を斬り落とす。

 そして乱髪を広げ叫ぶチタキヒメに跳び掛り、肩から胸までを袈裟斬りにした。


 神を傷付けられた人々の、悲痛な叫び声が周囲から聞こえてくるが、なおもトワキは刀を振るい続ける。

 チタキヒメの掌や膝には、黒い血の糸が引いている。



「あぁ、トワキ。お前……なんでだ」


 騒ぐ群衆の中に、一人カドダイが右腕を上げた。その手には姫神の木像を持つ。それに呼応した、周りのニギの民達も腕を高くする。

 皆が手に持つはカドダイの掘った木像だ。

 次々に掲げられる、チタキヒメを模った姫神像。

 永い山暮らしを経て、カドダイが刻み込んだ鑿の痕、幾千万が今ここに集まる。


 チタキヒメは尾を振り回す。失った先端部から血を撒いて、暴れる尾は自らの信者達を薙いでゆく。

 整然と並ぶ逆鱗はヤスリとなり、木々や家屋諸共、人々をすり潰す。


 そして荒れ狂う姫神により潰された、ニギの民達の歓声が辺りに響いた。


 しなやかに風を切る尾が、人々に叩き付けられるたびに、地面には血溜りが広がる。

 吐き気を催すほどの鉄臭さが、トワキの鼻を刺した。

 突然起きた神の暴虐に、トワキは愕然とした。


 辺りに撒かれた赤い汁を、チタキヒメは長い腕で掻き集めて啜る。

 擦り潰した肉を舌で巻き取る。

 まだ人の形を残すものも、摘んで喰べていく。

 もたげた姫神の頭の、その口に並ぶ細い牙に、カドダイが貫かれている。

 牙で腹を破られても、痛みを感じていないのか、男はその顔に笑みを浮かべた。


「さぁ、早く、早く……。私をあなた様の中へ……。糧としてください」 



 男の鮮血はチタキヒメの口に紅をさす。紅に飾られた姫神の顔は、美しくなるどころか、トワキにはその邪悪さが更に際立ってみえた。


「カドダイッ! カドダイッ!」


 トワキは傷付いた恩人を案じて、何度も呼び掛けた。

 それを聞いて、カドダイの恍惚に曲げた細い目が、ゆっくりと開いた。

 姫神を傷付けたトワキに対して、カドダイは侮蔑の視線を向けた。


「なんだトワキ、まだ生きていたのか。お前は、もう……死ね」


 信者達の肉を喰った神は強大化する。

 チタキヒメは体勢を維持するために、祭壇の石壁に手を乗せた。二回りほど膨れた巨体は、なおも肥大化をやめない。

 こうなればもう、刀は役には立たないだろう。


 ──殺される。


 トワキは悲観した。


 そのとき。



「あなたには神を殺す力があるんでしょう?」


 その声はトワキの背後、あの少女から発せられたものだった。


 少女の澄んだ声音の波紋は、トワキの心の深部、魂にまで言の葉を届ける。奴の眠る魂の底まで……。


 血に染まった顔面が二人に迫る、そのとき。トワキから再びあの黒煙が立ち昇ぼる。

 カドダイが驚く。


「何だ〈ソレ〉は⁉︎」


 今明らかになる少年の正体に、カドダイは狼狽した。

 牙を向けるチタキヒメの顔面を、凄まじい勢いで形成された鬼神の腕が掴む。

 チタキヒメは持ち上げられ、長い首が真直ぐに伸びていく。腕は力なく下がり、踵も宙を浮く。

 姫神の巨体を吊るす鬼神の腕は、ますます天に向かって伸びていく。

 チタキヒメの尻尾が垂れ下がる。

 軋む顎に挟まれたカドダイは徐々に強まる圧力から逃れるべく、必死に抵抗している。


「やめろっ! トワキッ! やめてくれ!」


 しかしトワキにその声は届かなかった。

 鬼神はその剛力で掴んでいたチタキヒメの頭を握り潰した。


「うああああぁっ──」


 ニギの里にカドダイの悲鳴が轟いた。姫神は死ぬ。一人の男と共に。





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