宇宙怪獣メギドガンデ

伊吹参

第一話・冥府の怪獣〈カナドナギ〉

 第一話・冥府の怪獣〈カナドナギ〉


          ◯


 空に敷かれた雲より上。

 六枚の羽を傾けて、巨大な鳥居は天空を漂う。      

 細かな装飾が施されたこの鳥居は、何者が、何の為に天に浮かべたのか、今となっては誰も知らない神代の遺物だ。 


 空飛ぶ鳥居の脚の間を、真白に日を受けた龍がくぐっていく。

 長大な身をくねらせながら、天空を翔ける聖獣は、しゅを喰らい吉事をもたらす。

 そう語られたのは、もう昔のことだ。


 人が戦で滅んだ。

 人が病で死んだ。

 人が飢餓で死んだ。

 人が怪我で、焼けて、溺れて、打たれて、喰われて……。

 そして、この世に満ちた数多の怨念は、呪いとなって人界を蝕む。

 人々は怯え、異界に祈り、神に近づく。 

 その魂を贄に捧げて。


          ◯


 シトウ族の族長には二人の子供がいる。

 数えで十二歳のケイテイと、三つ下の弟、トワキだ。


 ある日の夕方。

 トワキは広い屋敷から、赤くなっていく里の様子を見ていた。

 それは誰もいない、寂しい景色だった。

 そこへもう一人、トワキよりも背の高い子供がやって来る。兄のケイテイだ。

 ケイテイに手を引かれ、トワキは屋敷を抜け出た。

「トワキ! 父上がお宮で神事を行なっている間にここから出よう。今日は忌み日だから外にも人はいない。だから走り去るんだ! 二人でどこまでも」


 このときの兄の声が、その調子が、今でもトワキの耳から離れない。


 兄に手を引かれ、いつもよりも速く走れたあの感覚。風を切る気持ちよさと、兄の手の温もり、そして伝わる不安は、まだ肌に残っている。

 またあのときのように、いつか兄が迎えに来る──。そう思ってトワキは日々を過ごしていた。


          ◯


 根ノ國にはシトウ族の里がある。

 切り立つ岩山に囲まれた山里だ。

 岩山の一つの、剥き出しの山肌の中腹には、大きく穿たれた穴があり、その中には古いやしろが建つ。

 その社に時期遅れの桜花が迷い込む。

「最後の桜かな」

 そう呟いたトワキが、社に籠ってから既に五年が経つ。

 その間は誰一人とも口を利いていない。そういう仕来りだからだ。

 食事が来る。

 世話係の二人の巫女は、どちらも顔の上に薄布を垂らし、朱色の装束で指先まで覆って肌を隠す。これも仕来りだ。


 トワキは毎日血肉を避けた食事をし、沐浴をして祈祷する。

 それを五年間繰り返した。

 身を浄める為に。

 今夜、数え十四歳のこの少年は、神の生贄になる。


          ◯


 山の崖に作られた板の道は、社の建つ岩窟から西へ伸びて、トワキが身を浄める禊場へ続いている。


 トワキは岩の壁に手を当てて、隙間だらけの崖の道を慎重に歩く。

 ギシリと、足元から乾いた音が鳴り、板を支える骨組みが揺れた気がした。

 目が夜に慣れると、闇に包まれた里の切り立つ岩山が、巨大な人影にみえて恐ろしい。


 純白の衣を身体に纏い、岩肌に沿って起伏する薄板の上を、這うようにしつ進むトワキの姿は、明るい頃ならば目立っていたのだろう。

 夜なのが幸いだ──。トワキはそう思いながら、この細い木道を毎夜歩いていた。

 疏水の流れる音が聞こえてくる。沐浴場が近づいている証拠だ。

 更に進むと暗黒の中に小さな光が見えてきた。

 トワキの心に安堵と恐れが同時に湧いた。

 光の正体は洞穴を塞ぐ扉の隙間から漏れた、禊場の明かりだ。

 赤く錆びた錠を外し、トワキは鉄の扉を開いた。禊場には人気ひとけはなく、水の音がする以外はとても静かだった。

 トワキは草履を脱ぐと、湿った石畳をひたひたと進んだ。

 そしてそのまま足は水に落ちた。

 トワキは顔をしかめて呟く。

「私はこの冷たさに、ついぞ慣れることはなかった」

 最後の沐浴に入る。

 半身浸かり、顔や腕に水を掛けていく。

 水中の段を下りていくと、身体は次第に水と一体になる。

 湛える水は深く、トワキは沈むでも浮かぶでもなく、ただ心を無に……。

 やがて深淵に白装束が舞い、長い黒髪が溶けるように広がるのが分かった。

 まるで自分自身を俯瞰しているかのような感覚になった。 


 突如、いつか聞いた兄の言葉が、水中の暗黒にこだまする。

「すまないトワキ……。俺が甘かった。この世は誰かの犠牲なしには生きていけない。たとえそれが唯一の兄弟とて殺し合わねばならぬ世界だ。二人だけで生きても、いずれはどちらかがもう片方を殺すだろう。ならばせめてこの里のため、俺がお前を殺す。すまないトワキ。愛する弟」

 トワキの開いた口からあぶくが吹き出る。 

 大量の水を飲んでしまい咳き込んだ。

 トワキは石でできた水中の段に寝ると、水から顔を出した。

「あなたは正直過ぎる」

 浴室の壁に掛かった灯火は風が吹くでもなく一人揺れ、緩やかに波打つ水面みなもを橙に照らしている。

 もう長く見ていない兄の顔を思い描き、瞼を閉ざした。

 遠くの方から太鼓のが聴こえてきた。均一な音は刻を伝える拍だ。


 トワキが水から細腕を出すと、白装束の袖の皺を、流れる涙のように水が伝い落ちる。

 社に籠って五年、今日まで一度も兄が顔を見せなかったのが悲しかった。


 白装束の袖には、一粒の水も残らない。


 シトウの里に棲む白蛇鳥ハクジャチョウの被膜はよく水を弾く。トワキが袖を通す白装束は、その被膜で仕立てられた。

 蛇にも似た純白の鳥は神の使いといわれ、穢れを寄せ付けないと、里の者達には信じられていた。

 トワキが生まれ育ったシトウの里。

 神の加護により支えられた営み。

 それを守るため、この夜トワキは生贄になる。短な命を捧げ、永遠の里の安泰を祈願する。


 トワキが瞼を開くと、また灯火が揺れた。


          ◯


「トワキ……」

 誰かが名を呼ぶ。女の声音だ。

 この私を呼んでいる?──。

 トワキは一瞬幻聴かと考えた。

 しかし声は続いた。

「口を利いてはならぬとの仕来り、理解しております。それでも我が息子との死別……、この不信心をどうかお許しください」

 どうやら幻聴ではない。

 トワキはすぐに水から上がる。

 扉越しに聞こえる声は、間違いなく母の声だった。

「愚弄されたと気を害すとも、あなたには生きていてほしいのです。できることなら今ここを離れるのです。死神・〈カナドナギ〉なんぞに喰われないでおくれ。どうか、どうか、どうか」

 何か返事をするべきなのは分かっていた。

 しかしトワキは沈黙した。

 口が開かなかった。

 瞼を閉じると、水の滴りがよく感じ取れた。

 暫くすると震えた声が聞こえてきた。

「……覚悟、しているのですね」

 母の声はそれが最後だった。

 トワキは置かれていた麻布で濡れた身を拭く。不思議なことに、いつの間にか水の冷たさを忘れていた。


 禊場を出る。既に声の主はいない。しかし、足元の岩は濡れている。トワキにはそれだけで十分だった。

「母よ、私は覚悟なんてしてはいないのです。ただ何をするのも怖い。逃げ出すこともできぬ程に、私は臆病なんだ」


          ◯


 トワキは社に戻り、背に垂らしていた長髪を縛る。

 これで最後か──。

 五年続いた禊ぎは終わった。随分と長いと感じていたものが、今となってあっという間に思えた。


 戸を閉め切った板間にトワキは一人座り、時が来るのを待った。


 太鼓の音が止まると、静寂が身を包み込んだ。

 すぐに二人の巫女がトワキのもとにやって来た。巫女達は今日まで顔を覆っていた面布を外している。

 トワキは二人の顔を初めて見た。双子なのか、よく似た顔付きをしている。灯火に照らされた二人の顔から、人間らしい情を感じ取ることはできなかった。

 色白のよく似た顔が揃って口を開いた。

「トワキ様、祭祀の用意が整いました。宮籠りは今終わります」

 巫女から渡されたさかづき御神酒おみきが注がれた。

 今日まで何度も呑んできたものだ。

 喉を焦がすような味は、沐浴の冷たさ同様、最後まで慣れることができなかった。

 波打つ酒に灯光が弾かれて、光の筋が飛んで来る。

 漆塗りの酒杯の中では、水と焔とがうねりとなって楽しそうに混ざり合っている。

 トワキは酒を飲みきると、静かに立ち上が

る。

 死ぬ覚悟などできなかった。


          ◯


 トワキは巫女達に連れられて社から出た。

 社から伸びる階段と、そこから続く道の両端には、幾つもの篝火が直線に連なっている。

 トワキの耳に届く木の爆ぜる音は、まるで柏手かしわでを打っているように聞こえる。

 篝火の並ぶ果てに見える大祭壇に今、大きな炎が上がった。

 闇の中で明かりが揺らめき、人々の歓声が風に乗ってやって来た。

 皆が私の死を喜んでいる──。

 トワキはその事実を受け止める。

 名誉なのだと心に言い聞かせた。


 幾本もの太い柱に支えられた階段。 

 トワキはそこを龍の背の上を歩いているような心持ちで下りていく。

 龍ならば自分をその背中に乗せたまま、どこか遠くへ飛び去ってほしい──。段を下りながら、トワキはそんなことを考える。


 階段を下り、トワキは土を踏んだ。

 久しい感覚だが、それに対して心は微動もしなかった。

 死が目前に迫っている。

 家屋を横切ると、板壁の木目が不気味に笑っているようにみえた。

 闇より舞い落ちる煤達は、まるで自分を死地へと誘っているように思えた。

 道を進むごとに、トワキの心拍は激しくなった。恐怖で今にも気がおかしくなるようだ。


 やがて祭壇の前で巫女達の脚が止まった。

 揃って腕を伸ばし、トワキを壇上へ促した。

「さあ」

 催促され、トワキは一人石段を上がる。

 周囲に群れる人々の歓声が激しさを増した。

 誰が何を叫んでいるのか、まるで分からない程の沢山の音が、そこかしこで上がっている。


 トワキは大岩で作られた祭壇に足を乗せた。

 そこは〈大祭壇〉と呼ばれるだけはあり、とても広く、炎の明かりがあるとはいえ、夜闇の中では果てが見えない。

 足もとには大小様々な波紋をえがく赤黒い線が走っている。

 周囲にも幾つもの同様の線が、炎の照り返しに浮かび上がっていた。

 下でまた皆が熱狂した。

 皆が掲げる松明は揺れ動き、光の糸が散り散りに飛んだ。

 この光の下に、母はいるのだろうか?──。

 揺れる光の草原を見て、トワキは思案する。

 しかし分かるはずもなかった。 


 祭壇の奥。

 吹き乱れる火の粉の中。

 激しく燃え上がる炎の前に、長身の男が一人立っている。


 男の名はケイテイ。

 神の憑代よりしろとなる者。

 トワキの兄だ。


 ケイテイはトワキの記憶の姿よりも成長しているが、それでもトワキにとっては懐かしいと思える、数少ない顔をしていた。

「禊ぎが終わったか。遂に今日という日が来たなトワキ。古くよりこのシトウの里で受け継がれてきた儀式が今始まる。血族の魂を捧げるのだ。里のためお前は供物になり、俺は神の加護を継承する……。トワキよ、お前は死ぬのが怖いか?」

 久しぶりに兄の言葉を受けて、トワキは思わず瞑目した。

 兄の声音は堅固で、揺れ動かない意思を感じさせる。

「怖い。私は今日まで死ぬために生きてきたようなもの。常世への身支度は今夜終えた。それなのに、我が身の根幹からは恐怖が消えない。今、私はあなたが怖い」

 ケイテイの声音に対して、トワキの出した声は弱々しく震えていた。

「兄さん……、私は〈死〉が怖くて堪らない」

「そうか……。だがトワキ、恐怖はすぐに消えるだろう。お前の死は、贄となるお前の魂は、この里に百年の安泰を約束するだろう。今、俺はお前をこの世で最も愛しいと思う」

「ならば……なぜ、あなたはこの五年間、一度も声を聞かせてくれなかったのですか? あなたはこの五年、一時でも私のことを想ってはくれたのですか? 私が死ぬことを憂いては──」 

「よせ。それ以上は不信心だ」

 トワキは黙ったが、それでも真直ぐに兄を見据える。

 だがケイテイはトワキに背を向けた。

 一瞬、その鋭い横顔を炎が照らした。

 炎に向かってケイテイは歩く。

 ケイテイが纏う直垂ひただれの背には、死神の顔が紋としてえがかれている。

 死を司る神の頭だ。

 それが兄の、里の長となる者の覚悟を物語っているように思えた。

 風がケイテイの黒髪をなびかせる。

 ケイテイが手の平を炎へ向け突き出すと、火は更に立ち上がる。 

 トワキが目を凝らすと、焚べた炎の内に、重なり合う黒いものが見えた。

 それは燃えて、溶けて、塊になったもの。

 それぞれの魂が宿っていた個体は一つの肉塊となって業火を吹く。

 人が人の為に死んでいる。


 トワキは目を見張る。


 炎が兄を包み込んだとき、トワキは思わずその名を叫んだ。

「ケイテイ!」 

 炎の帯が螺旋をえがいて夜空に昇るのを見て、心臓の拍動は最大になった。 

「本当だ。俺はトワキ、お前を愛している。だからな……、たとえその身が失せようとて……我等は兄弟……。魂は常に共に……ある……」

 炎の中から兄の声が聞こえる。

 しかし、それはどこか遠くへと、離れていくようだ。


 炎火の中から何かが出て来る。

 ケイテイではない。

 その姿は異形の怪物だ。

 火は熱を忘れ、冷気を吐く。

 現れた怪物はトワキの兄、ケイテイの身体を憑代にこの世に呼び寄せられた。

 憑代を肉体の核にし、冥府より人界に現れた異形の存在。

 高さ十間(約十八メートル)余りの、幅広く扁平な巨体の表面を、浮き上がった内臓が蠢いている。

 剥き出しの頭蓋。

 その窪みに四つの眼光を焚き、口元からは無数の触手をくねらせている。

 腕は巨体に対しては小さいか、それでもトワキの背丈の四倍程の長さはある。


 トワキの眼前に聳え立つ神。

 それは深い悪夢から出て来たのかと思う程、醜く、おぞましく、不気味な姿をしている。

 これが神だと⁉︎──。

 トワキは心の内で叫んだ。


 神の巨体が紅蓮に染まる。

「……カナドナギ」

 トワキは古くからこの里に伝わる、神の名を口にした。

 そのこうべは一族の家紋で見慣れている。厳しい骸の形相だ。


〈死神・カナドナギの出現〉

 

 大祭壇を揺らし、カナドナギが這い寄って来る。

 トワキは恐怖にたじろいだ。

「ケイテイ……」と無意識に兄の名を呼ぶも、そこにいるのは兄ではない。怪物だ。

 死神の手指が生贄トワキを捉えた。

「ウグッ!」

 強い力に絞められてトワキは呻く。

 神を目の当たりにした人々の熱狂が祭壇を包み込む。

「カナドナギ! カナドナギ! カナドナギ!」

 死神・カナドナギは口を開くと、その黒々とした虚の大穴にトワキを放り込もうとする。


 恐怖に蝕まれたトワキの意識は、闇の底へ遠退いていく。


          ◯


 五年前……。

 トワキが数えで九つの頃。その身体をしゅに蝕まれ、命を落としかけていた。

 そして朦朧とする意識の、深い、深い、淵の奥で、トワキは〈ソレ〉と邂逅した。

 この世とは異なる魔界の存在。

 ソレはしゅを喰い尽くし、トワキは一命を取り留めた。

 しかし、その存在はトワキの魂を穢した。

 神の供物となるには相応しくないものにした。

 ゆえにトワキはその身と、その魂を浄めていた。……はずだった。


          ◯


 里の果てに続く赤焼けの野原を、二人の子供が駆けていく。トワキとケイテイだ。

 兄に手を引かれた弟は、離れていく里を背に、不安げな顔をしている。

「どこへ行くのですか兄さん!」

 ケイテイは笑顔で答えた。

「ずっと行ける所までだ。屋敷の中に囚われていては馬鹿になる! 里の皆を思い出せ。里から出ないから馬鹿になってしまった。何の役にも立たない神に願を掛けている。命を捧げている。馬鹿ばかりだ」

「神を、金土那岐尊カナドナギノミコトを愚弄しては……」

「父上に叱られるか? そうだな。だがトワキよ、俺とお前はもう屋敷に戻らなくてもよいのではないか? 我等兄弟はこの里を抜け出て、二人で暮らしていけるはずだ」

「里を? そんなことをしては……。兄上は父上から神の力を継ぎ、この里の長になるはず。しゅを祓う役目があるはず。里を、皆を見捨てるのですか?」


 ケイテイの脚が止まる。

 同時にトワキの脚も止まった。


 このとき、トワキには兄の背がいつもより広く見えた。


 風が吹く。

 草が揺れる。

 夕日に燃える野原に佇み、二人は黙り込む。

 やがてケイテイが口火を切る。

「トワキは知らんのだ。俺達の血族がカナドナギの神の世と繋がれたのは、神の魂と我等血族に宿る魂が呼応したからだ。魂と魂が繋がり、この世と異界を跨ぐ架け橋となったのだ」

「人の魂には違いがあるのですか?」

「ああ、神からすればな。俺がカナドナギの神子みことなるとき、生贄を捧げる。神の求める魂と引き換えに力を得るのだ。その生贄とは、トワキ……、お前なのだ」

「私が贄……」

「だから逃げる。トワキを連れてどこまでも。里も、里の者達も。父も母も、私にはどうだっていいトワキさえいれば──」

 振り向いたケイテイの表情が急に強張った。

 その顔からみるみる血の気が引いていく。


 トワキの背後の草の中から、腐った骸が立ち上がる。

 それは死した人々の恨みや辛み、様々な念がしゅとしてこの世に残り、やがてそれらが集まり形を成したもの。


 この世にしゅはどこにでもある。


 立ち上がる骸の頭は伸び伸びと上がり、すでに二人を見下ろす程高くから、苦しげな呻き声を漏らしている。

 その身体からは毒々しい邪気が溢れ出る。


 ケイテイが叫ぶ。

「トワキ逃げろっ!」

 その瞬間トワキの意識は飛んだ。

 目の中が真っ赤に染まった。

 トワキはしゅの化身である骸に襲われた。


 そしてトワキのしゅに侵された魂は、やがて魔界へと繋がる……。


          ◯


 燃え盛る大祭壇。

 轟くは化け物の悲鳴。

 降り頻るは雨。

 否、血だ。

 トワキを掴んでいたカナドナギの右腕が千切れ飛び、血飛沫を上げる。

 見上げる群衆が慄く中、カナドナギの拘束を解いたトワキは、すでに祭壇に降り立っていた。

 トワキは俯き、瞑目し、意識を失っていた。

 よろりと揺れたその身体を媒介に、魔界の黒煙が溢れ出てくる。

 トワキの恐怖が再びこの世と〈ソレ〉が棲む魔界とを繋げた。

 黒煙の中から子供の笑い声が響く。それに呼応するように、黒煙は膨れたり縮んだりを、まるで踊るように繰り返している。


 そして。

 トワキを呑み込んだ黒煙は怪物に変わる。


 人型の巨大な身体。

 ヤジリのような鋭利な頭。

 左右に生えた長い角は、後方へ伸びていく。

 立ち昇る黒煙。その形が鬼となる。

 人々の頭上を流れる長い尾の先には、突き出た骨が鰭のように広がっていた。

 太い腕には幾つもの骨の板が張り付き、堅牢な鎧を形作る。

 トワキを憑代に、シトウの里に現れたもう一つの異形。

 その瞳は憎悪に染まり、その喉からは鬼哭が漏れる。


 邪悪なる存在・〈鬼神キシン〉顕現。 


 現れた鬼の神は、死神・カナドナギを見下ろしている。鬼神の身長は、カナドナギのそれを三間(約五メートル)ばかり上回る。

 片腕を失い怒り狂ったカナドナギは、鬼神に喰らい付こうと、その厳しい頭部を突き出した。

 鬼神は腕に張り付いた幾つもの骨板でそれを防ぐと、カナドナギの顎を振るった拳の一撃で砕いた。

 カナドナギは血を吐きながらも、割れた口腔から、冷気を帯びた白炎を吹いた。  

 祭壇は霜に覆われていく。

 鬼神は物ともしない。

 吹雪く冷気を、鬼神の発する高熱が跳ね除けた。

 鬼神は鋭く尖った頭部を開くと、口から紫色の炎を放出する。 

 ぶつかる二種の炎。

 炎と炎は絡み、互いに喰らい合う。

 やがてカナドナギの冷気の白炎を、鬼神の紫炎が喰らい尽くした。

 更に激しさを増す怨毒の紫炎は、カナドナギの表皮を焼き払う。

『ギシャアァ!』

 全身を襲う火傷の激痛に、死神は叫ぶ。

 攻撃を続ける鬼神は、痛みに怯んだカナドナギの腹を蹴破る。頭蓋を殴り破砕する。

 骨片が飛び散り、血も肉も判別なく、祭壇にばら撒かれる。

 血飛沫に侵された炎が、悲鳴を上げて消え失せた。


 血肉の中で微かな気息が鳴っている。

 神の崩れた残骸の中に、おぼつかぬ脚のケイテイが立っていた。

 そして、既に生きることを諦めた様子で最期の言葉を呟いた。

「父上よ……、里の春を、我が代で散らすこと……、申し訳が……ありま……せん……トワ──」

 言い終わる前に、鬼神の拳はケイテイ諸共大祭壇を打ち砕いた。


          ◯


 敵を倒しても鬼神の怒りは収まらない。

 激昂の鬼は逃げる人間を踏み潰し、握り潰し、大地に叩き付ける。

 目に付く者達を皆殺しにする。

 口から紫炎しえんを吹けば、燃える炎の光が辻を駆け、光柱が里を引き裂いた。

 逃げる人々を炎が焼く。

 熱風が家屋を吹き飛ばす。

 全てが燃える。

 全てを殺す。

 鬼神の炎は人も家屋も畜生も、何もかもを焼き尽くす。

 闇を照らす紫炎の海は芥を舞わせ、その中心にはただ一つ、鬼の神のみが立っている。


 シトウの里は今滅ぶ。







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