第3話・魔界の怪獣〈鬼神〉
◯第三話・魔界の怪獣
三十年程昔。山男・カドダイの頭に、まだ白髪が生えていない頃だ。
カドダイが山仕事をしていると、河辺に倒れている壺装束姿の若い女を見付けた。
女の肩は赤黒い血が広く滲んでいた。
すぐに手に持っていた荷物を放り出し、女を背負って、山の小屋まで連れて帰ると、カドダイは傷の手当てをしてやった。幸い女の傷は浅かった。
しかし、やがて目を覚ました女は、あろうことかカドダイを酷く恐れた。
「妾をどうするつもりか! ケダモノめが」
女ははだけた胸元を隠し、そう罵ると、カドダイに対してひどく蔑む視線を向けてきた。
「違う! 傷の手当てをしていただけだ」
カドダイは弁明するも、女はまだ警戒し、眉間に皺を寄せて睨み付けてくる。
しかし傷を負った肩に、
「練り薬か? 妾を助けてくれたんか?」
「オゥ、そうだ。俺はカドダイ、山での仕事が生業さ」
女は
彼女は手に木像を持っている。気を失っていても握り続けていたのだから、余程大切な物なのだろう。気になったカドダイが後になって聞いたところ、
◯
当時のニギの里は、余所者に対し排他的であった。外から来る者は
そのためカドダイは里にある自宅ではなく、山仕事で使う道具を置いていた小屋に、
この小屋は代々祖父から父、そして子のカドダイに継がれてきたものだ。
だが、祖父も父も家族は皆、病や怪我で亡くし、カドダイは独りになった。
そんな中での
「カドダイはよい奴じゃ」が喜んだ
◯
その頃、ニギの里は凶作が続き、皆が飢えていた。
本来であれば呪を恐れ、あまり山に立ち入らない里の者達が、食べ物を求めて山へ入ってくるようになった。
そして遂に、小屋に匿われていた
飢えが里の民達から理性を失わせたのか、余所者を招き入れたカドダイと、呪をもたらすとして
「
集まって来る群衆の中で、必死に食い下がるも、山で暮らす男を誰も助けようとはしなかった。そのとき、
「もし、もしもだ、この里で豊かに作物が実るようになれば、この男は死なずともよいか?」
老婆は暫くしてからゆっくりと頷いた。他の皆は黙ってそれを確認した。
「ならばよし。これより妾は自らを憑代に、無き郷里に伝わる神となる。その神力をもって、立ち所にこの里を豊かにしてみせよう」
異存はないな?──そう言って
「
止めようとするのはカドダイだけだった。そのカドダイも押さえ付けられ、身動きを封じられた。
「カドダイ、お前は本当によい奴じゃったよ」
最期にそう残し、
溶けた
それは
それからニギの里は豊かになった。
◯
黒煙の中。身の内から再びこの世に現れようとする鬼神を抑え込むべく、トワキはもがいた。張り裂けるような痛みがトワキの全身に広がった。
トワキの瞳孔は収縮し、こめかみには汗粒が浮き出る。
最大の力を込めてトワキは叫んだ。
「出るな!」
燃え盛る故郷。シトウの里の姿がトワキの脳裏に浮かんだ。だが、トワキはその思案を否定する。
トワキは更に力を内に収縮させ、絶え間なく漏出する邪気を一点に留めようとした。
だが、何かが押し潰れる感覚と、カドダイの断末魔の叫びが聞こえ、それが途切れたとき、トワキはその全てが徒労とかしたことを理解した。
理解せざるを得なかった。
無駄だった。
抑えることができなかった。
力を失ったトワキの身体からは大量の邪気が抜け出した。そして抜けた分よりも多くまた生まれて、止めどなく溢れ出る。
トワキはその場に
頬を流れ落ちるのが汗なのか、涙なのか、あるいはどちらもか。そんなことに関心をもつ者など、もうどこにもいない。
悲しみがトワキの身体に孔を開けたのか、溢れ出る鬼の黒煙は止まらない。
トワキから噴き出す魔界の煙は初めは血よりも赤いが、昇ぼるにつれて黒々と染まり、辺りを埋めていく。
黒煙に埋まるトワキから、周りの騒がしさが遠退いてゆく……。
◯
煙を切るように、銀の筋がしなやかに駆けた。
漂う暗黒に迷い込んだ美しい獣は、トワキの顔を仰ぎ見た。大きな鼠にも小さな狐にも、龍の子とも言われたらそう見えてくるような、燻した銀の色をした細長い体躯。
トワキの知らない美しい獣だった。
「クルクル」と鳴く声にはどんな意味があるのだろうか。だが、今のトワキにはそんなことはどうでもいいことだった。
赤い雷光の明滅と共に、黒煙の内部で鼓動する巨影。
黒煙の胎内で、徐々に鬼神の鋭い頭部が形作られていく。
盛り上がり、木々の高さを超えても更に膨らむ黒煙が、瞳孔の割れた大きな目を開いた。
──止まらない。もう、止められない。
トワキは既に諦めていた。
そんなトワキの丸めた背を、誰かがそっと、優しく触れた。
そして澄んだ声音で語り掛けてくる。
「恐れないで、この怪物はあなたの恐怖の形。恐怖を支配したときに怪物の力があなたの刀となる。扱えるはず」
トワキには少女が何を言っているのか分からない。
「無理だよ。何もかもが、もう終わったんだ。ここにいる皆が死ぬ。奴は人に御せるものではない。荒ぶる……神なんだ」
里に黒煙が満ちる。シトウ族の里を滅ぼしたときよりも大量に溢れた鬼の煙は、ニギの里を侵していく。
そして再来する。
鋭く尖った頭部の左右から、後方に向かって伸びていく二本の角。
幾つもの骨の板が張り付いた長い腕。
血の気のない灰色の表皮……。
鬼神顕現。
出現した鬼の上半身は幽谷の霧に浮かぶ。その巨躯は以前現れた際の倍を超え、なおも膨れ上がる。少女の言う通りまさに怪物だ。
「人が交われる力なんてのは所詮は下等なもの。あなたが恐れるその神は、あなたが思うほど絶対じゃあないんだよ。だから少し、ほんの少しだけその恐怖を払えばいい……ね?」
少女は黒煙に呑まれることを恐れない。
「恐怖を払う……」
「私を見て」
トワキは言われた通り、横目に少女を見る。
頭を傾げて、少女もトワキの顔を覗き込んだ。
少女の頬を逸れて流れる金糸の髪は黒の世界に不思議と映えた。長い
トワキは瞼を閉じ、気息を整える。そして意識を内へと向けた。
流れ出る邪気を無視して、ただ落ち着いた。
ほんの少しだけ恐怖が消えた。
少女がトワキに微笑み掛けた。
「
そう言うと少女は遥か遠くを見据えた。その視線は黒煙も、森も、あらゆるものを貫いて、果てにある何かを見つめているようだ。
「人智の及ばぬ力はあれど、人との繋がりをもつのであれば、所詮それは同じ世界の存在。干渉されるのであれば干渉できる」
トワキから溢れ出る黒煙が薄まってくる。
「そのままだよ……そのまま」
トワキの背に触れていた少女の指先が光を発した。その柔らかな光は、トワキの穢れを取り祓う。
トワキの恐怖が徐々に薄れてきた。
黒煙の息吹は終息し、怪物の膨張が止まった。
何が起きたのか理解が及ばないのか、鬼神は自らの有様を確認するかのように、広げた
開眼するトワキ。
「キサマが私の恐怖の具現ならば、この恐怖は私のものだ。キサマの力は私が操る」
トワキが宣言すると同時に、鬼神の左腕が屈折し、その鋭い頭部を鷲掴みにした。トワキが鬼神の片腕を、あたかも自分のものにしたかのように操ったのだ。
鬼神はすぐさま右手でトワキに操られた左腕を押さえる。
反抗する片手を頭から引き離すべく、鬼神はその力を自身の左腕へと向けている。
相反する力と力の境界から、左腕の皮膚は徐々に裂けていき……力の均衡が崩れた。
トワキの〈意思〉で操られた鬼神の左腕は、
地響きと共に鬼神の身体は崩れ、黒煙に戻る。
真夏の入道雲さながらに膨れた黒の煙柱は、山の背をも超えて立ち昇る。
張り詰めていた気力が抜け、トワキの意識も闇に吸われるように消えてゆく。
それでもトワキは最後に声を振り絞る。
「カドダイ……すまない。すまなかった」
◯
どれほどの時間を闇に呑まれていたか……トワキが気付いたときにはニギの里を埋めていた煙はすっかり消えていた。
枝葉から
トワキの傍らにはあの少女がいる。辺りを
籔の外からは騒がしい喧騒も聞こえている。
どうやら余り面白い状況ではないようだ。
トワキはすぐに上体を起こす。
「ここは?」
「起きた? ここはね、私があなたをおぶるなり引き摺るなりして運び込んだ……まぁ、普通の茂みだな。煙に紛れて行き着いたから、詳しい場所は分かんないけど」
「すまない」
「なんの。でも刀は置いてきちゃった」
「そうか。気にしないでくれ」
そうは言ったものの、トワキは刀のことが気掛かりだった。しかしそれどころではなさそうだ。トワキは何となく状況を理解した。
トワキ達を隠す辺りの木々には藤葛が絡む。よく見ると枝葉に紛れ、色褪せた藤の房が垂れている。
トワキは気付いた。ここはかつて見た、一面の紫の瀑布があった場所だろう。
華奢な身で、祭壇より随分離れたこの場所までトワキを運んだものだから、相当骨が折れたのだろう。少女の息は少し荒い。
「ふぅ、動けるのなら動きましょか。私達、というか、あなたを奴らが探しているから」
「仕方がないさ。私は、この里の神を……チタキヒメを殺めたから。ニギの民は私を討たねば気が晴れぬだろう」
「それは違うみたいだね。彼らは自分達の崇める神を倒したあなたを、あなたが出す怪物を新たなる信仰の対象にしたいみたいだ」
「まさか、そんなことが」
「茂みの陰から見てみんさいな、奴らの蛮行を」
少女に言われたとおりに、トワキは茂みに開いた僅かな隙間から外を見た。
茂みのある斜面の上からは、ニギの里がよく眺望できた。
奥に破壊された祠が見える。
人々が奇声を上げ、
よく目を凝らして見ると、恐らくそれはチタキヒメを模ったあの木像だ。
カドダイが彫った木像を皆が破壊している。
散らばる木片を、さらに人々が踏み躙る、唾を吐き掛ける。燃やしている者もいる。なおも愚像を握り締め、
誰かが声を上げる。
「いでよオニガミサマァ! きええぇいっ」
それを聞いた少女の顔が引きつる。
「こっわー。あんなのに捕まったら喰べられちゃうな」
「なぜ、あれだけ崇め祀っていた姫神を……なぜ卑しめるのだ」
「そりゃ、死んだからでしょ? 役に立たなくなったから。信じていたのに期待外れだったから。新しい神を迎えるに邪魔になるから」
「もういい。見つかる前にさっさと移動しよう」
◯
茂みの裏を抜けるとすぐにあの大河。
トワキは持ち上げた少女を抱え、石から石へと跳び移り、河を渡った。
少女は時折、「うおお」とか「ぬおっ」などと叫びながらも、それを楽しんでいる様子だった。
彼女の腰帯に取り付けられた
「あなた凄いね!」と、少女はトワキを褒めたが、トワキは嬉しいとは思えなかった。
◯
主人を亡くそうが山奥の小屋はいつものどおりであった。
少女は自然に埋もれつつある家を見て「わあ」と感嘆した。
「あなたの家? 一人で暮らしてるの? こんな山の中で苦労するよね?」
「私は余所から来た居候さ。苦労はあるが楽しいよ。ここの主人は、もう、いなくなった」
「そう」
「追っ手が来るまでに必要な物だけ取っていこう」
トワキと少女が中へ入ると、早朝、カドダイが蹴って倒した土器の壺がそのままにある。
土器の口は欠けてしまった。
──矢張りいない……あれは現実だったのだな。
時が止まってしまったかのように静かな小屋に入り、トワキは改めてカドダイが死んだことを呑み込んだ。
込み上がる悲しみに蓋をするように、少女がトワキの前に出て微笑みを向けた。
「遅ればせながらお礼を言うね。さっきは助けてくれて、ありがと」
「よせ。いいんだ礼なんぞ。身体が勝手に動いただけさ」
「それでも、なんでも、嬉しかった」
「そうか……」
暫く沈黙していると、「もういいよ」と少女が唐突に言った。
トワキは怪訝に思って「何が?」と尋ねた。
「あなたに言ったんじゃない」
少女は笑ってそう返すと、身に纏う月白色の布の内から、美しい獣を出す。
少女の広げた腕から肩の上に流れていく燻銀の毛並み。長い身体をくねらせクンクンと鼻を鳴らす顔に、トワキは見覚えがあった。
「はいはいはいはーいはい!」
執拗に顔を舐めてくる獣に、少女は少し鬱陶しそうにしている。
「たしか、煙の中で見た顔だな。その獣は君のなのか?」
「わたしの友達だよ。面白いよね。不思議だよね?」
「美味いのか?」
「は? いやっ食べないよ!」
よく見ると獣の背には小さいが羽もある。
飛べるのだろうか。トワキは不思議に思って見ていた。
時折その羽をクイと伸ばしたりするが、結局トワキの前でその身を宙に浮かせることはなかった。
「私、名前、教えてなかった、よね? 改めまして私は〈コガネ〉。よろしくだよ。んで、こっちの小さな怪獣はヤエ」
「ヤエン?」
「ンはいらないよ。ヤエ!」
「発音の問題だよ。まぁ、呼びやすい方で呼ぶさ」
「ちゃんと呼んであげてよ、ヤエだからね。まっ、とりあえず仲良くしてやってよね──ちょっといきなり指出さないで! 噛むんだからっ!」
トワキはヤエに噛まれそうになった指をすぐに引っ込める。美しい見た目によらずに気性が荒い獣のようだ。
「うぉっ……で、君等はどこから来たんだ?」
「ずっと遠くの國だよ。色々あってね。私達は、〈神の世界〉を抜けてこの地へ逃げ延びて来たんだ……信じてくれる?」
「信じるよ、神の世界……か。では、またそこを通り抜けてここから離れるか?」
コガネは首を横に振る。
「ううん、ここからじゃあそれは無理だよ。それに私の力も随分落ちたし、今はメギドガンデ本体とは交感できない」
〈メギドガンデ〉。
聞き慣れないその名に、トワキはなぜだか
鬼神とは一線を画す、遥か始原より伝わる恐怖。触れてはならない不可侵の領域。
漠然とした感覚がトワキの心中に湧いた。
いつからか
「んで、あなたは、ゴンベーでいいかね?」
「トワキだ。私にも名くらいはある」
「なんだ、全然名乗ってくれないから教えたくないのかと思った。よかったね、名無しのゴンベーじゃあなくって」
「ケフンッ」とヤエが返事をする。
「ま、よろしくねー。トワキ」
「ああ、よろしく。コガネ」
笑うコガネの瞳の底の、更にその奥の輝く海に、無数の結晶が煌めき漂う。
海は輝きを増し、やがて光そのものへと変わる。
煌めく結晶は増えていく。
正六面体の結晶の星々は、その身を砕いたり、結合したりしながら、時間も空間も全ての理が破綻した、光の世界を流れていく。
無限神・メギドガンデの宇宙は果てなく広がる。
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