第10話 昔話の中の人


 女王の声が聖堂に響く中、彼女の傍ら、リトラの肩の上で、ケフェウスは非常に焦っていた。


(もしかしなくても俺が彼女を殺しちゃったのか!? 彼女が息を吹き返したのは良かったけど、この事がバレてリトラにもしもの事があれば、俺は母様に消されちゃうんじゃないか!?)


 ケフェウスは頭を悩ませた。うら若き乙女の命を奪ってしまった事が一つ、もう一つはそれが発覚した場合、リトラが処刑台に立つ事も十分に考えられると言うこと。


 ただ、幸いな事に近衛兵の中に目撃者はいないようだった。このまま黙ってさえいれば発覚することはないだろう。しかし、問題はそれだけではない。


(王女の魂がどこかに行って、女王サマが乗り移ったみたいな話だったけど、そんな事が本当に……でも、俺が原因って事なら無くは無いのか)


 彼女の胸元、その女王の心ピンク・ダイヤモンドに宿った紅い輝き、それが自分の力の一部であるとケフェウスははっきりと感じていた。


 ケフェウスは夜の生み出した存在である。リトラ無しでは発揮出来ないとは言え、その身に宿す力は神話の如き強大な力である。ただ、ケフェウス自身、その身に宿っている力を完全に把握出来ている訳ではない。


 その為、紅榴石の星ガーネット・スターの光弾がレセディの魂に予期せぬ異常を引き起こしたと考えると、彼女ウルリーカが語ったような現象が起きたとしても不思議ではなかった。


(……どうしよう。おかしくなった彼女をこのまま放って置くなんて出来ないし。でも、これ以上面倒な事になったら女王の心なんて言ってられないし……そ、そうだ、リトラはどうするつもりなんだ!?)


 ちらりと横を見ると、相変わらず何を考えているか分からないリトラの顔があった。


(コイツだって気付いてるはずなのに、何でこんなに落ち着いてんだよ)


 すると、その視線に気付いたリトラはケフェウスを横目に見て、片目を閉じて合図した。大丈夫さ、そう言っているように思えたが、何が大丈夫なのかケフェウスにはさっぱり分からなかった。


「お話は済みました。さあ、参りましょうか」


 先程までの張り詰めた表情とは打って変わって、彼女は柔やかに微笑んでリトラを見上げた。


「リトラさん、宮殿までお願い出来ますか? 皆もいますし、庭園を歩くくらいは問題はないでしょう?」


「うん、俺は良いんだけど……近衛兵の皆さんはそれで大丈夫かい? 一度報告に戻って医者を呼んで、担架を用意したりとかさ。皆はそうしたいんじゃないかなぁ、と思うんだけど……」


 リトラが跪く彼等にそう問うと、彼等が反応する前にウルリーカが口を開いた。


「そう心配なさらないで? 私なら本当に平気です。実際、痛みや苦しさなどは無いのですよ? 一人で立てないと言うのも、まだ体の動かし方に慣れていないというのが大きな理由です。ですから、早く慣れる為にも少し歩きたいのです。皆、駄目かしら?」


 その溌剌とした声や表情を見ると何ら問題無いようにも思えるが、彼女自身がそう言っているだけで容態の確かめようはない。


 リトラは少し困ったように頬を掻いて、近衛兵達に目配せをした。すると、二人の正面、中年の近衛兵が遠慮がちに面を上げて進言した。


「私は宮殿に戻り報告して参ります。レセディ様を捜索していたのは我々だけではありませんので、無事発見した事は伝えねばなりません。その際、貴方様がウルリーカ様であることは伏せておきます。我々は無論信じておりますが、又聞きでは余計な混乱を生むだけでしょう。直に貴方様のお声を聞き、そのお姿を見れば、自ずと理解するはずです。庭園を歩かれるのであれば、無理はせずにゆっくりとお願い致します。それから、万一の為に医師を此方に向かわせます。ウルリーカ様は問題無いと仰いますが、我等や宮殿の皆を安心させる為と思って、何卒、ご理解下さい」


 平に頭を垂れる彼に、彼女はとても穏やかな声色で語り掛けた。


わたくしったら、自分の事ばかりでしたね。我が儘を言って申し訳なかったわ。そんなつもりはないのだけれど、きっと先々の事を思って焦っていたのでしょう……そうね、貴方の言うようにして下さい。その方がきっとよいでしょう。では、頼みましたよ、ケルネールス」


 突然名を呼ばれ、中年の近衛兵〈ケルネールス〉はびくりと肩を震わせた。


「レセディが記憶していた事は全て知っています。ケルネールス・メイイェルでしたわね。メイイェル……祖父の名はリキャルド?」


「は、はい、そうですが……」


「祖母はアンですね!」


 透き通った青い瞳を輝かせて声を弾ませる彼女に、彼は少し圧倒されながら頷いた。


「やっぱり! アンはわたくしの侍女でしたのよ? あの時は反乱鎮圧の直後で、まだあちこちで混乱が起きていたの。そんな中で、アンは大変よく尽くしてくれました。自分の家庭も大変だったでしょうに……それに、そう、中々子に恵まれなくて悩んでいたわ。だから、彼女から妊娠したと聞いた時は自分の事のように嬉しかった! 私、アンに名前を決めて欲しいと頼まれて、裏返した五枚の札から一枚を引いたの。ケルネールス、エイルマー、ハーマン、ベルトルドにグスタフ……私は後からグスタフの方が良かったんじゃないかと言ったのだけど、女王の直感が選んだ名前に間違いないと言って、アンは笑っていたわ。何で女の子の名前は用意していないのかと聞いたら、お腹を撫でながら、この子は絶対に男の子だって言うのよ? まだお腹がそんなに大きくなっていない頃にですよ? そんな事が本当に分かるものかしらと思ったけれど、生まれてみたら本当に男の子だったの。あの時はとても驚いたわ。彼女は本当に分かっていたのね」


 ケルネールスは更に驚愕した。彼女が今語った事は、幼い頃に祖母から何度も聞かされた話そのままであったからだ。


 メイイェル家は裕福で由緒正しい家柄という訳ではない。祖母自身、ウルリーカの侍女になったのは当時だからこそ起こり得た幸運な出来事だと言っていた。平和な時代であれば関わる機会などなかったであろうと。


 その後に何か深い交流があった訳ではない。仕えたのはほんの数年の間だったとも聞いた。女王ウルリーカも四十代の若さで亡くなっている。よって、曾孫のレセディが知り得るはずがないのだ。


 そこで彼は、内心疑いを抱いていた自分にはたと気が付いたが、それ以上の驚きによってそれもすぐに消え失せてしまった。


 五枚の札、そこに書かれた他の名前まで知っている者などいるはずがないからである。ケルネールス自身でさえも即座に言えるか怪しいのだ。何度も話した妻も言えないだろう。酒の席で親しい友人にも幾度か話したかも知れないが、ここまで克明に記憶している事など有り得ない。その時代の、その場にいた者、つまり当事者でもない限り。


「ごめんなさい、つい懐かしくなってしまったの。でも、そうだったのね、貴方がアンの孫……父の名を継いだのですね。その、アンは……」


「はい、亡くなりました。もう随分と前になります」


「……そう。安らかな最期でしたか?」


「ええ、苦しみはなく眠るように逝きました。ウルリーカ様に仕えられた事を何よりの誇りとして、私にもよく話してくれました。父もその名を誇っておりました。無論、この私もです」


 ウルリーカは少し蹌踉めき、リトラは咄嗟に抱き留めた。彼女はリトラの胸に顔を埋めると、悲しみを堪えるようにして何度も頷いた。


「教えてくれてありがとう、ケルネールス。引き留めてしまってごめんなさいね? 他の皆は今もレセディを捜しているというのに……」


「いえ、私が急げば良いだけの事です。こうしてウルリーカ様から祖母の名を聞く事が出来て、私は幸せです。遠く空の向こうにいる祖母も、きっと今頃喜んでおりましょう……では、私は行きます」


「待って、貴方に一つ頼みがあります。グンナル・バーリクヴィストは知っていますね? 彼に子供達の勉強部屋で待っているように伝えて欲しいのです。そこで相談したいことがあると。頼みましたよ?」


「はっ!」


 彼は短く返事をすると数名を引き連れて寺院の大扉を潜り、庭園へと出ると大きく一呼吸吐いた。


(落ち着け、逸るな。ただ声を聞いただけ、話を聞いただけ、頼み事一つ言い渡されただけだ。舞い上がるな、落ち着くんだ)


 ケルネールスの体は酷く震えていた。名乗ってもいない名を呼ばれたからではない、それにも確かに驚いたが、それ以上に、全身に驚くほどの力が漲るのを感じたからだ。


 頼みました、彼女にそう言われた時、彼の全身を何かが駆け巡った。それは歓喜だった。王族から頼りにされて喜ばない者、少なくとも気を悪くするはいないだろうが、あの時に感じた歓喜は異常だった。血が、いや、もっと小さな一つ一つが血の中で沸き立つのを感じた。


 身に余る光栄だとか、そういった言葉が頭から消し飛ぶ程の喜び、これが天にも昇るという感覚なのだろうか。そんな事を考えながら、ケルネールスはふと思った。


(出来ることならば、女王となったレセディ様から賜りたい言葉だった。あの方は素晴らしい女王になれる御方だった。だがそれはもう望むまい。レセディ様は私の名を覚えていてくれた、それだけでいいのだ。今はあの御方、ウルリーカ様の為に……)


 ケルネールスは皆がここまで使命感に燃え、高揚している気持ちが今になって良く分かった。彼女の声は、まさしく女王の声だったのである。


「おそらく迎えが来るでしょうが、それまで少し歩きましょう。新しい空気を吸って、頭をすっきりさせなければなりません。一刻も早く考えをまとめなければ……」


 ケルネールス達の背中を見送りながら、ウルリーカが真剣な面持ちで呟いた。リトラは残った近衛兵達と視線を通わせると、扉の破壊された門を潜り、庭園をゆっくりと歩き出した。


 彼女は暫く無言のまま思案を巡らせ、リトラとケフェウスは固く沈黙を守った。二人にも話したい事は山ほどもあったが、ここで話す訳には行かなかったからだ。


 月光は幾らかも翳っておらず、辺りはよく見えた。高く聳える木々の影が此方にまで伸びている。時折吹く夜の風は冷えていて、少し火照った頬には心地が良い。虫の鳴らす鈴の音と芝を踏む微かな音に耳を傾けながら、リトラは彼女にしっかりと寄り添って夜を歩いた。


 二人を中心として円を描く灯りが一定の距離を保って追従する。彼等はよく統率されていて、その足音は常に一つだった。


「貴方にお願いがあるのです」


 それは悩んだ末に絞り出した声だった。彼女は立ち止まり、自身を支えるリトラの手を取って正面にしっかりと立つと、その瞳を静かに見つめた。


「今はまだ詳しくはお話出来ませんが、事が成るまではわたくしの傍にいて欲しいのです。傍が無理でも、せめて近くには。こんな言い方は私もしたくないのですが、お礼は致しますわ。どうか望むものを仰って?」


 その懇願するような切なる声に、リトラとケフェウスは顔を見合わせた。


「頼みは引き受けるけど、お礼なんて要らないよ? だろ、ケフェウス」


「おう、勿論だ。お礼だなんてとんでもない。女王サマのお傍に居られるだけで光栄さ。第一、俺達はお礼なんて受け取れる立場じゃないしな。寧ろ平身低頭謝罪する立ヴぁ!」


 と早口に捲し立てる嘴をリトラが素早く閉じた。


「お聞きの通り、俺もケフェウスも喜んで引き受けるよ。でも、大丈夫? こんなのが宮殿にいたら怒られたりしない?」


「そうですわね。一先ずは……」


 と言って、ウルリーカはその唇に指先を添えると、さっと視線を走らせてリトラの頭から足下までを見た。


 まだ髭の生えていない顔に汚れはなく、自分を支える手、その指先も綺麗なもので爪は短かった。羽織っているコートに多少の汚れはあるものの、穴などは空いていない。履いている作業服のような物、そして靴もその程度の汚れだ。つまりは清潔と言えた。


 長めの髪を整え、場に相応しい服装に着替えさえすれば問題はないだろう。彼女はそう判断して短く頷いた。


「そうですね、宮殿に相応しい服装に着替えて頂くとは思います。今言えるのはそれくらいです」


「そっか。あっ、そうだ、俺からも一つだけ君に頼みというか、お願いがあるんだけど……」


「私に? 何でしょう?」


「もう分かってるとは思うけど、俺は君と並んで歩けるような生まれじゃない。だから、もし俺が何か〈しでかして〉も多少は目を瞑って欲しいんだ。勿論気を付けるけど、君も知っての通り、俺は礼儀作法なんて分からないからね。迷惑を掛ける前に言っておこうと思ったんだ」


「それについては私が何とか致します。けれど、そう心配しなくても大丈夫ですよ? 無茶なお願いはしませんから、安心して下さい」


「それは助かるよ。あ、もし不安なら見張りでも何でも付けていいよ? 手錠とかは嫌だけど、余程の事じゃない限りは俺もケフェウスも受け入れるからさ」


 そう言って笑みを浮かべるリトラの表情は無邪気なもので、その裏に企みがあるようには思えなかった。それよりも、先程の〈礼儀作法が分からない〉という言葉の方がウルリーカには引っ掛かっていた。


 彼女にはリトラに全く教養がないようには思えなかったからだ。此処に来る間も、支え方や歩き方に不自然な所はなかった。負傷者を支えるというのを抜きにして、女性との歩き方を心得ている、そう思えた。より正確に言えば、高い身分にある女性との歩き方、である。


 リトラは何らかの理由でその身分を隠しているのではないか、彼女は当然それを疑った。しかし、もしそうであるならおかしい点がある。


 何故なら、彼は侵入者であるからだ。何者かに依頼するならまだしも、高い身分にある者、安全圏にいる者がそれを投げ打ってまで危険を犯す真似はしないだろう。まして王墓に侵入するとなれば、その危険度と利益の釣り合いが取れない。


 これらの事実によって、彼女には益々リトラの事が分からなくなった。寺院に現れたのは何故なのか、その目的は何であるのか。


 おそらく、リトラに聞けば素直に答えるだろう。彼女はそう確信していた。しかし、だからこそ聞く事が出来なかった。どのような答えがリトラの口から飛び出してくるか分からないからである。少なくとも、今此処で聞くべきでは無い、そう判断した。


 彼女は再びリトラに支えられて傍らに立つと、宮殿から此方に向かってくる多くの灯りを眺めながら、先々の事柄について思いを巡らせるのだった。

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