第9話 真実の輝き

 そこに僅かな空白の距離が生まれた時、二人は互いの瞳に宿っている感情を無意識の内に読み取っていた。


 彼女は今確かに何かを終わらせたようだ、とリトラは思った。それは彼女にとって長く続いていた悲痛であり、決別の許されない傷跡だった。


 しかし今、彼女はとうとう決別した。


 それは愛する者への愛を、その心から永遠に失わせるということ。そして、彼女はその決別によって愛に揺らぐことのない心を手にしたのである。


 リトラは彼女の瞳から落涙と共に失われた感情の一つをそっと拭い去った。それだけだった。そうして、彼女は何かを終わらせたのだった。


 彼女もまた、リトラの瞳から何か感じ取った。


 あの頃のあの人によく似ている、彼女はそう思った。しかし、感情の放つ色彩はあの人とは全く違っている。


 見る者の心によって変化するような、見る者が求めるものに変化するような、そんな捉え所のない心。


 彼女はこうも思った。きっと、愛によって捕えられる人ではない、と。


 彼は常に求める人であり、常に与える人なのだろう。そして、一所に留まることの出来ない人なのだろう。


 彼は何処かの何かを求め、誰かに何かを与えるだろう。そしてきっと、与えたものを省みる事はない。この人に何かを与えられたが最後、もう二度と会うことは叶わないのだ。


 それを残酷の人と呼ぶべきなのか、それとも無垢の人と呼ぶべきなのか、彼女にはまだ分からなかった。


 この複雑な感情の交信が一瞬のうちに行われ、また一瞬にして終わりを告げた。すると、彼女の方からリトラに言葉を投げかけた。


「一つ、お願いがあるのです」


「あ、はい。何でしょう」


「もう少しだけ、このままでいさせて下さい」


 リトラは何も答えず、その意味も分からぬまま、そっと身を寄せて左胸に耳を当てる彼女を支えた。


 暫しの静寂の後、彼女が呟いた。


わたくし、ずっと見ていました」


「見ていた?」


「ええ、見ていたのです。〈リトラさん〉、貴方が懸命に私を救おうとするのを」


「えっ?」


 彼女は既に名前を知っているようだった。だが見ていたとは一体どういう意味なのか、リトラには分からなかった。


「何も難しい話ではありません。そのままの意味で、貴方とケフェウスさんが私を救おうとする姿を見ていたのです」


「それは霊魂とか幽体になって上から見てたとかって話?」


「どうでしょう……幽霊とは少し違うのかも知れません。それより、この事を皆にも話さなければなりません。この身に起きた事、私が何故此処にいるのか、一刻も早く……」


「そうは言っても君は〈戻って来た〉ばかりなんだ。今すぐって訳には」


「いえ、そうも言っていられないのです。私にはやるべき事がある。ほんの少しも止まってはならないのです。今はこんな有様ですが、こう見えて気力は漲っているのですよ?」


 彼女の見せた笑顔はまだ弱々しく思えたが、その瞳には確かに強い光が宿っている。そして、その胸元にも。


「一人で立てないのに? あ、ごめん。意地悪く言うつもりはなかったんだ。ただ、本当に辛そうだったから」


「私は大丈夫です。確かにまだ慣れていませんが、それでもやらねばならぬのです」


 彼女の意志は非常に固いようだった。


 聖堂にいた事と言い、きっと何か深い訳があるのだろう。そう察して、リトラはこれ以上を聞こうとはしなかった。


「……あっ、来たみたいだ。ケフェウスが上手く伝えてくれてると良いんだけど」


「大丈夫ですよ、何かあれば私が説明します。任せて下さい」


 彼女はそう言って笑って見せた。


 と同時、すぐそこまで近付いて来ていた足音が聖堂手前でぴたりと止まった。どうやら、場所が場所だけに騒々しく踏み入るのを躊躇ったようだ。


 ややあって、彼等は月明かりに照らされた聖堂に足を踏み入れると早足に玉座を目指した。だが、玉座の前で身を寄せ合う二人の姿を眼にした途端、彼等は一斉にその動きを止めてしまった。


 その様子はまるで、何か神聖不可侵なものの前に立っているかのようだった。


 一方、リトラはケフェウスの姿がない事を不審に思っていた。すると、何処からか聞き覚えのある声が聞こえて来る。


「リトラぁ…」


「ケフェウス?」


 情けない声のした方を見てみると、ケフェウスが近衛兵の一人に生け捕られていた。脚を拘束され、逆さまに吊られている姿は、あまりに無残なものだった。


「な、何があったんだよ……」


「コイツら、全ッ然話聞かねえんだよ。聖堂に王女サマがいるって言ったんだ。そしたら即逮捕、そんでこのザマさ。誘拐だとか言いやがって、こんな辱めまで……」


 今の自分の姿があまりに情けないのか、ケフェウスは涙目になっていた。その時、彼女がリトラに囁いた。


「彼等には私から説明しますわ」


 リトラの脳裏に〈見ていた〉という彼女の言葉が頭を過ぎった。


 誤解を解こうにもケフェウスがあの有様では、自分が何を言っても信じてはくれないだろう。それならば、とリトラは彼女に任せることにした。


「あの、そうは言ったものの一人では立てそうにないのです。ですから、その、支えて下さる?」


「でも」


 と、無理を押してまで立ち上がろうとする彼女に返事を渋ったが、彼女の瞳の必死の訴えを退ける事は出来なかった。


「腕、強く掴むから痛むと思うけど」


「いえ、それくらい平気です」


 リトラは分かったと頷き、彼女の腕を掴み、背中に手を添えて抱き起こした。彼女は少し顔を歪めたが、リトラを支えに何とか立ち上がる事が出来た。


 すると、これまで無言のまま静止していた周囲の近衛兵からざわめきが湧き起こった。


 そりゃそうだろうな、とリトラは心中で呟いた。


 彼等が驚いた理由、その一つは彼女の胸に輝く真紅の女王の心レッド・ダイヤモンド。そしてもう一つは、彼女の姿があまりに異様であったことにある。


 その長髪は複雑に編み上げられ、着用しているドレス、スカートの腰辺りでは襞が高く折り重なっている。その髪型、服装共に半世紀以上前のものであり、現在ではもう見ることのない非常に古風な出で立ちだった。


 第三の理由として、寄り添った二人の立ち姿が宮殿内に飾られた〈ある二人の絵画〉と酷似していたこと。それは先程、二人を前にして彼等が突然静止した理由でもある。


 動揺を隠せない彼等を余所に、彼女は語り出した。


「驚かれるでしょうが、私はつい先程まで胸の鼓動が完全に停止した状態でした。その私を救って下さったのが此方のリトラさん、そして其方にいるみみずくのケフェウスさんです。二人は私を救う為に此処に来たのです。いいですか、誘拐などという許し難い犯罪は起きていないのです。さあ、分かったのなら今すぐに私の命の恩人を解放して下さい」


 死の淵にいた、という彼女の言葉に更なる衝撃が走った。そんな中、ケフェウスを吊していた近衛兵は顔を青くしてそそくさと拘束を解いている。


「ケッ、覚えとけよ」


 それだけ言うと、ケフェウスはリトラの左肩に飛び乗った。


「良かったなケフェウス、羽をひん剥かれなくて」


「全くだぜ。あの、王女サマ、お陰で助かりました」


 と、リトラの肩から顔を覗かせたケフェウスが礼を言うと、彼女は柔らかな微笑みで応えた。


「……意外だ。あんな風に可愛く笑う人だったなんて」


「レセディ様」


 その時、一人の近衛兵が前に進み出た。リトラを追っていた中年の近衛兵である。


「我々が捜索している間にそのような事態に陥っていたとは思いもしませんでした。詳しい事情はともかく、今は一刻も早く宮殿にお戻りになって休まれた方が宜しいかと。リトラ君、後は我々が責任を持って宮殿にお連れする。さあ、レセディ様はこちらに」


 その言葉を前に、彼女は自身を支えるリトラを見上げると目で何かを訴えかけた。それは彼を頼っているようにも、試しているようにも見えた。


 リトラはただ頷くと、彼女に向かって手を差し伸べる近衛兵に言った。


「もう少しだけ待ってくれないかな」


 何を馬鹿な、王女様がこのような状態だというのに貴様は何を悠長な事を言っているのだ。口には出さずとも彼の目はそう言っていた。


「いや、俺がって話じゃなくて、彼女が今すぐ皆に話したい事があるみたいなんだ。で、それはきっと俺達にも関係がある」


「え、そうなの?」


 どうやらケフェウスは分かっていないらしい。


 リトラはすぐそこで輝きを放つ真紅の宝石から目を離すと、その持ち主である彼女を見た。すると、彼女はどこか満足そうにリトラの顔を眺めている。


「もし許してくれるなら、俺達にも聞かせて欲しい。何が起きたのかを知りたいんだ」


「許すも何もわたくしは最初からそのつもりでしたよ? 第一、貴方の支えを無しにどうやって立てと言うのです?」


 さもリトラが自分の傍にいて当然であるかのように言うが、リトラには彼女が何を思ってそのような事を言うのか分からなかった。


 何故なら、そう口にする彼女からは何一つ感情らしいものを感じ取れなかったからだ。確かに彼女の表情は豊かだ、その声も活き活きとしている。


 しかし、こうして体を支えていても、彼女がそこにいないような得体の知れない違和感があった。


 そう感じ始めたのは、ケフェウスが聖堂を離れた直後に訪れたあの一瞬、あれ以降からだった。あの時、リトラは確かに彼女の心に触れた。


 だからこそ、今の彼女は不明瞭な存在とでも言うのか、リトラには彼女が朧で儚く思えた。


「どうかしましたか?」


「ごめん、何でもない。君は大丈夫かい?」


「ええ、私は平気です。気力が漲っていると言ったではありませんか」


 彼女は口元に手を当ててくすくす笑っている。


「オイ、いつの間にそんなに王女サマと仲良くなったんだよ。何かしたんじゃねえだろうな」


「勘弁してくれよ……せっかく誤解が解けたばかりなんだからさ」


 リトラはそう言ってすぐに前を見たが、ケフェウスは未だ怪しむようにその横顔を見ていた。


「その、レセディ様、それは本当に今でなくてはならないのでしょうか……」


 未だ二人の前に立ち尽くす中年の近衛兵が躊躇いがちに声を掛ける。


 せっかく見つかった王女にもしもの事があったら、そう考えると気が気ではないのだろう。


「まさに〈それ〉についてです。皆に早急に伝えなければならない事があるのです」


 〈それ〉とはどの事だろうか、まさか王女様を死に追いやった犯人がいる、そういった話なのだろうか。と中年の近衛兵は身を固くして言葉を待った。


 と同時に、この場の誰もが強い違和感を覚えていた。それは今そこにいる彼女が、彼等の知る〈心の砕けた王女〉とは違っていたからである。


 朗らかで表情豊か、心身に活力の満ち溢れた女性。それはまるで、彼を失う以前の彼女を見ているかのようだった。


 明らかに動揺し、戸惑う彼等を前に、


「この身に起きた事を出来るだけ簡潔に説明しますが、あまりに不可思議な出来事なので不審に感じるでしょう。しかし、今から話すのは真実です」


 と前置きして、彼女は語り出した。


「私は、彼女レセディが玉座を前にして祈っているのを見ました」


 その場の全員が、一体何を言っているのか分からず唖然とした。


 当然彼女もこの反応を予想していたが、この先に話すことを思うと一々中断して説明する訳には行かなかった。


「突然大きな物音が聞こえ、彼女が振り向くと〈紅い光〉が迫っていました。その直後に凄まじい光の爆発が起きたのです。その瞬間、私と彼女は初めて互いを認識しました。とても長い間話していたように思いますが、実際は一瞬だったのでしょう」


 リトラがちらりと左肩を見ると、ケフェウスは目を見開いて体を硬直させている。


 おそらくその羽根の下では顔が青ざめ、大量の冷や汗を掻いているに違いない。


「そして、光が収まると鼓動の止まった私一人が残されていました。そこからは先程話した通りです。彼によって救われ、私は此処で目覚めたのです。私にとっての〈此処〉とは場所を差しての事ではなく〈現世〉ということです。正直なところ、私にも今以て全く理解出来ていません」


 聖堂内に大変などよめきが起きたが、彼女は更に続けた。


彼女レセディは私に祈り、助けを求めていたのです。悪意ある者から王家を守って欲しいと。そして彼女はその心を私に託して消えてしまった。しかし、こうして託されたからには何としても成し遂げねばなりません。そして、それを成し遂げるには信じる者が必要なのです。ですからどうか、私の言葉を信じて欲しいのです」


 彼女の声は一段と強い力を帯び、その意志と共に聖堂を満たした。


 その声はまるで一人一人の耳元で直接語り掛けているかのような、そんな不思議な響きを持っていた。


「皆、今一度私を見て下さい」


 その声は誰一人として逃さない。


 母が我が子に聞かせるような柔らかな声色、その耳に心地良い抱擁は、今や聞く者の心を安息の中にすっかり捕らえてしまっている。


 そして彼女は真実を告げた。その胸に輝く真実を。


「私は此処にいます。私の心は、確かに此処にあるのです」


 その時、持ち主の声に呼応するかのように、彼女の〈真紅の女王の心〉が輝きを放った。


 それこそが真実だった。


 紅き光によって現世に戻ったという彼女、そしてその胸に輝いた真紅の宝石、彼等は今まさに奇跡を目の当たりにしたのである。


 彼女が語り始めた真実を荒唐無稽な夢物語や妄言だと思う者は多くいた。いや、おそらく全員と言ってもいいだろう。


 それも当然だ。彼女の事は誰もが心の壊れた王女だと認識しているのだから。


 第一、そもそもが信じがたい話なのだ。仮に、彼女の心に何の問題も無かったとしても、これを真実だと受け取る者はなかっただろう。


 だが、たった一度の奇跡が彼等の抱いていた疑念や不審を彼方へと追いやった。彼等はその奇跡、いや、目の前の現実を信じ始めていた。


「本当に〈そう〉なのか?」


「ああ、おそらくは……」


「しかし、蘇りなどそんな事が」


「今のを見た後では、〈人が変わった〉などという言葉で片付けられんだろう」


 今や、彼等の中に彼女を訝る者は無かった。


 それは彼等全員が寺院から迸った紅い光を目撃している、というのがまず一つ。場所が聖堂、玉座の前であるというのも大きな理由だろう。


 次に彼女の出で立ち、その胸に輝く真紅の宝石、そして彼女の声、彼等は彼女に何らかの神秘的、超常的な力が宿っていると信じざるを得なかった。


 では、そこにいる彼女は一体誰であるのか。


 それは最早、この場の誰もが理解していた。彼等が示し合わせたように一斉に跪くと、彼女は今こそ自らの名を告げた。


わたくしの名はウルリーカ・アサナシア・フェルディーン。この胸に不滅の心をいだく者。私は此処にいます。王家の為、国と民の為に」


 偉大な女王の声は、静寂の寺院に長く響いた。


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