第6話 騒動


「何ですか、あの有り様は!」


 レセディの怒声がバルコニーに響いた。


「明日の昼にはライラント様がいらっしゃるのです! 婚約者を何の準備も無しに迎える事など出来ますか!?」


 王女レセディは語気荒く、非常に苛立った様子でグンナルに詰め寄った。


「レセディ様、全ては私の責任です。申し訳ありません」


グンナルが白髪頭を下げて謝罪すると、レセディは怒りに任せてしまった事を恥じ入るようにその声を和らげた。


「……声を荒げて申し訳ありませんでした。しかし、ライラント様は勿論の事、イダー=オーバーシュタイン家には格別のもて成しをしなければなりません。これから先、私達は様々な面で頼る事になるでしょうから」


「レセディ様の仰る通りに御座います。イダー=オーバーシュタイン家が今後の王家にとって力強いお味方となるのも間違い御座いません」


 婚約者が来ると分かっていながら歓待の準備をしないのは無礼である。彼女の怒りとその言い分は至極真っ当なものであった。


 ただ、それは相手がいればの話である。レセディは彼が来るものと信じて疑わない。グンナルは彼が決して現れないという事を既に知っている。二人の現実は決して交わる事はない。 


 グンナルにとっては今年で二度目、以前もそうしたように、侍女達と協力して何とか誤魔化そうとしたのだが、今年はそうは行かなかった。


 今回の彼女は、それを怠慢だとして酷く立腹したのである。その為、現在宮殿内では、彼女を推す者達によって大掛かりな準備が行われている。彼等は彼等で機嫌取りに必死なのだろう。


「先程も申し上げました通り、歓待の準備が大幅に遅れていたのは私の責任です。しかしながら、宮殿内の事はともかく民衆の前で婚約発表をする必要はないかと思われます。婚約は既に周知の事実でありますし、現在は生誕祭の最中です、何が起きるとも分かりません。明日には多くの方々が王都にいらっしゃいます。宮殿内でのみ盛大に行うのが宜しいかと……」


「彼は女王の伴侶となる方です。わたくしはその知恵によって飢饉を防いだ彼の功績、そしてその雄姿を民に広く知らしめたい。何よりも国に無くてはならぬ方なのだと示したいのです。勿論、これにはお父様も賛成して下さいました」


 確かにそういう話だった。二年前は。


 グンナルは軽い眩暈に襲われたが、そんなものに構っている暇は無かった。せめて、婚約発表だけは何としても取り止めて貰わなければならない。他ならぬ、彼女自身の未来の為に。


「勿論存じ上げておりますとも。しかし、今は控えられた方が宜しいかと。明日はライラント様も帰還したばかりでお疲れのはず、時期を考えるのであれば、女王に即位されてからでも遅くはないと思われますが?」


「……グンナル先生、私は幼少の頃から貴方を師事して来ました。貴方は素晴らしい教師です。不満に思った事などありません。ライラント様も素晴らしい御方だと貴方を尊敬しておりました。それ故、貴方に対しては特別な親しみがあるのです。ですから、私は今もこうして話を聞いているのですよ?」


「有難き幸せに御座います」


「しかし、この私に対して摂政のように振る舞うのならば、これ以降は貴方を遠ざける他にありませんね」


 その冷徹な言葉に、グンナルは愕然とした。


「レセディ様、何を仰います! 私にそのようなつもりは毛頭御座いません!」


「貴方にそのつもりがなくとも私がそう感じるのです。まあ、明日で十八ですから私に摂政など必要ありませんが。ともかく、もう話す事はありません。後のことは私一人で結構、もう下がって宜しい」


「レセディ様……」


 懇願するようにその背に声を掛けるグンナルだったが、王女は決して振り向こうとはしなかった。


 彼はぐっと奥歯を噛み締めた。幼い頃から知っている彼女に一生消えぬ恥を晒すような真似をさせたくない。その一心で再び説得に臨んだのだが、遂に叶うことはなかった。


 グンナルには彼女の背中が遥か遠くに見え、その身に纏う冷たい空気によって別人のようにさえ思えた。事実、そうなのかも知れない。


 彼女は固く閉ざした現実にその心を深く沈めてしまっている。ほんの二年前まではこうではなかった。己の置かれた立場を理解し、その重圧に人知れず涙しながらも、次期女王として相応しい人間となるべく努力する立派な王女だった。


 それが、今では見る影もない。王の寵愛を受ける傲慢な娘になってしまった。かつては同情的だった者達の中にも、陰で気狂いと呼ぶ者が現れた。グンナルはそのような言葉を認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。


 何とかして現状を変えようとした。交流のある医師に訊ね、自らも様々な治療法を調べた。その末に分かった事は一つ、心とは人間にとって最も繊細な臓器であると言うこと。下手に触れれば、現在の危うい均衡が完全に崩れてしまう可能性が高い。


 仮に此方が手を差し伸べたとして、現在の彼女には差し伸べられた手の意味を理解出来ない。ライラントが消えたという事実、それを彼女が受け入れない限り、どうしようもないのだ。


 問題はそれだけではない。王の心身もいつまで保つか分からない。グンナルは考えたくもなかったが、今の彼女が女王となれば、待っているのは暗い未来だけだ。その間、如何なる者が王家の血筋に介入しようとするかも分からない。彼女の叔父の存在もまた気掛かりの一つだった。


 分裂も十分に有り得る。弟君を跡継ぎにするべく擁立する者達が現れれば、どちらかが打倒されるまで争いが続くのだ。グンナルは想像し得る最悪の結末を予期して気が遠退くのを感じた。


 しかしその時、突然上空を見上げたレセディに釣られて顔を上げると、この辺りでは見掛けない梟が、薄暮の中を蒼雀に追い回されていた。


 二つの影がバルコニーの直ぐ先に急降下して通り過ぎた時、それはグンナルの老いた眼にもはっきりと映った。


「あの鵂、あれは少年の……」


 大小の二羽は瞬く間に宮殿の陰へと姿を消してしまったが、あれが昼間に出会ったミミズクである事は間違いないなかった。


 グンナルは再び思い出した。昨晩の夢に聞いた声が出会いと変化の訪れを告げた事、その変化をもたらす者の名をリトラと呼んでいたことを。


 事実、リトラという名の少年には出会った。しかし、あの少年が何をしてくれると言うのか。何かしらの超常的、奇跡的な力で以て、王女レセディの心を修復するとでも言うのだろうか。果たしてそんな事が起こり得るのだろうか。


 いかん、と迷信めいた思考に沈淪しそうになる自分を何とか抑え込む。


「……これにて失礼致します。レセディ様、まだ夜は冷えます。あまり無理はせぬよう」


 グンナルは深く頭を下げ、失意の内に宮殿内へと戻って行った。扉には警護という名の監視がぴたりと張り付いている。きっと今の会話も聞かれていたに違いない。


 グンナルは明らかな痛罵の意を込めて睨んだが、逆に鼻で笑われてしまった。用済みになった老いぼれ、そう言われたようだった。


 まあ良い、それは間違いではないのだからとグンナルは甘んじて受け入れた。しかし、彼等の嘲笑は自分にだけではなく、自分を通して王女にさえも向けられている。


 だが、今は怒りさえも湧かなかった。グンナルは足早にその場を去りながら、半ば取り憑かれたように一事のみを考えていた。


 それは夢に聞いた声の事、あの声の主が神か悪魔かは分からない。ただ、そこに絶大な力があったのは確かなのだ。あの声を聞いた時、何かが起きるのを感じた。事態は好転するのだと。いや、そうであって欲しかった。


 これまで神頼みのような事はしたことは無かった。神を尊び、神を頼らず、それがグンナルが神への信仰に出した答えだったからだ。しかし、それも今では揺らぎ始めていた。


「強くあれ、寄り掛かる先を求めてはならぬ、そう教えられたのはいつだったか……おや? 此処は……」


 何処をどう歩いて来たのか、気付けば馴染みある古い廊下を歩いていた。すっかり日は暮れたようで、窓からは薄く月明かりが差し込んでいる。


「久方振りだな、此処を歩くのは……」


 現在は使用されていない教室、そこへ向かう廊下。長年通ったこの場所を足が記憶していたのだろうか。それとも、無意識に過去への安らぎを求めたのだろうか。


 グンナルは、そこに飾られた物を一つ一つ眺めて行った。ほんの少し欠けた胸像、かつては壺が飾られていた場所にある絵画、僅かに残る壁の傷、暗がりではっきりとは見えなくとも、その一つ一つには忘れられない思い出がある。


「これはそうだ、確か陛下が……ふふ、思えば陛下には中々苦労したものだ……」


 懐かしんでいたのも束の間、突如として猛烈な喪失感がグンナルの心を捕らえた。


 これら全てがこの瞬間にも消え失せてしまうのではないか、そんな言いようのない恐怖が夜と共にやって来たようだった。


 グンナルはふらつきながら壁に手を突いて何とか体を支えたが、その場にずるずると崩れ落ちてしまった。


「多くのものを受けておきながら、儂は恩返し一つ出来ずに終わるのか……ああ、ウルリーカ様、ラーシュ様……」


 自分を長く重用してくれた王家が没落する様など見たくない。固く目を閉じれば、かつての二人が笑っていた。次第に二人の姿が薄れると、次は何者かの穏やかな声が聞こえてきた。


『グンナル先生、これから何があってもレセディを信じて欲しい。何、大丈夫ですよ、あの子はきっとお祖母様のようになる。ですが、今のあの子には支えが必要です。決して裏切らぬ存在が必要なのです。お願いです、私も何とか耐えてみせますから……』


 それは二年前のあの日、王がこの手を握って告げた言葉だった。しかしそれ以降、グンナルは様々な者の手によって徐々に王から遠ざけられてしまった。


「……しかし、陛下、どうすれば」


 グンナルはふらふらと立ち上がると壁伝いにゆっくりと歩き始めた。朧な意識の中、遠くで叫び声のしたような気がした。


 窓の外、眼下にはランプの灯りが激しく揺れている。何やら只ならぬ様子、異変が起きたに違いない。もしや、あの夢の主は悪魔だったのだろうか。自分はその手引きをしてしまったのだろうか。


「儂は何ということを……」


 限界だった。重なった心労は思考の混乱を引き起こし、それによって更に動転したグンナルの心は、遂に意識を手放してしまった。


 主を失った肉体が床に衝突する寸前、何者かがその体を抱き止めた。その人物は彼を軽々と背負うと、後に続く者達に向かって何事かを言付けたようだった。


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