第10話 咆哮と祈り

「貴方って本当に不思議な人ね」


 胸元の大きく開けた着物、その露出した白い谷間から血を流したまま、ロベリアはリトラの右手をそっと握った。


 その右手の甲、袖口から突き出した刃が、ロベリアの胸を刺し貫いたのだった。それは敵の眼を欺く昏い刃、夜に潜む者の武器。


 しかし、それはあくまで人間を殺す為に作られた武器に過ぎない。相手は想像上、伝説上の存在、胸を貫かれて尚も微笑を浮かべる怪物である。


 不意を打てたのは、彼女に反撃を警戒する必要がなかったからだろう。そもそも攻撃が通用しないのだから、それも当然の事と言える。


「……その髪、その姿、どうやら、本当に〈色々〉と混ざってるみたいだ」


「あら、この私も知っているのね」


「まあね。そんな力は無かったと思うけど」


「元々はそうね。でも、〈ある〉と思った者がいれば、それはあるのよ。私たちはそういう存在だもの」


 これは遥か遠い土地の伝承であるが、ある湖に年若い美女に化ける大蛇が住んでいたという。


 その女、一説には〈沼御前〉と呼ばれる。


 その美女の髪の長さは六メートル程もあったという。ある時、その正体に気付いた男が美女の胸を貫いた。しかし、その美女が死ぬことはなく水中へと消えた。


 この伝承を継いでいる美女ロベリアの傷は既に塞がっており、流れ出た血液は黒髪が舐め取った。リトラの顔に飛び散った僅かな血液の斑点さえも、黒髪が綺麗さっぱりと拭い去る。そして何事もなかったかのように彼女は微笑み、そこに立っている。


 一方、リトラは満身創痍だった。


 あれだけの猛攻に晒されながら生きているのは、ロベリアが手加減をしていたからに過ぎない。手加減されてもこの有様だ。


 右腕一本動かしただけでも相当な痛みを伴ったに違いない。最早、ロベリアに掴まれている右手を振り解く余力などなかった。


 深く食い込んだ黒髪による切り傷が胸から下を真っ赤に染め、打撲傷は至る所にあり、きつく縛られたことによって肋骨も折れていた。


 しかし、出血と痛みで意識が朦朧としながらも、リトラはロベリアの妖しい瞳から決して目を離さなかった。


 その姿を見て彼女は何を感じたのか、黒髪による拘束から解放すると、緩やかに波打つ大河の上で、リトラの瞳をじっと覗き込んだ。


「私って、とっても怒りっぽいのよ?」


「分かってるさ。でも良かったよ、血が抜けて冷静になったみたいで。それに正直安心してるんだ。あの血の量を見た時は、流石に死んだと思ったからさ」


「おかしな人ね。思い切り刺しておいて本気で心配するなんて。でも大丈夫、貴方に私は絶対に殺せないわ。あの忌々しい蜂鳥でなければね。それにしても、よく立っていられるわね。貴方って本当に人間なの?」


「強がってるだけの人間だよ。こう見えても立ってるだけで精一杯なんだぜ? 髪で縛られてた方が楽だったかもね」


「軽口は問題なく叩けるみたい。頭を潰さなくて良かったわ。さて、最後に何か言っておきたい事はある?」


「一つだけ頼みがあるんだ」


「言って?」


「プリムラとフェザーには手を出さないでくれないか? 繰り返すようだけど、もう戦わなくてもいいだろ?」


「残念だけど、そうもいかないのよ」


「何でそこまで? もう何度も負けたはずだ。フェザーには勝てないって分かってるんだろ?」


「いいえ、次は負けないわ。そのために、蜂鳥の愛する花を奪ったのだから。今夜、私は遂に勝つ。そして現実になるわ。下らない伝説や物語の輪から外れてね」


 すると再び、リトラの足下から黒髪が湧き上がる。


 それは先程とは打って変わり、リトラの全身をゆっくりと、さらさらと撫でるように優しく包み込んでいく。


「貴方を喰らって此処から出るわ。封じられた龍は復活し、仇敵との決着を付ける。私は今夜、下らない伝説なんて飛び出して結末の先に進む」


「伝説ってのは思ってたよりも窮屈なんだな」


「だから足掻くのよ。私はもう伝説になんて戻らない。負け続ける存在なんて御免だわ」


 ロベリアはふと目を閉じ、固く拳を握る。


 それは野望の実現を信じて疑わないという意志の表れ。既に覚悟は出来ており、戦いを避けるつもりなど微塵もない。


 ロベリアが瞼を開くと、リトラを包み込む黒髪がいよいよ頭部をも覆い隠そうとしている。


 今やリトラの瞳は見えないが、ロベリアは視線が合ったのを確かに感じ取った。リトラもまた何かを感じ取って、言った。


「君は一人で平気かい?」


「貴方って残酷な人ね……」


 黒髪が完全にリトラを包み込み、球体となって閉じた。その内側からは微かな脈動が聞こえる。


「貴方の頼みは聞けないけれど、喰らうのは貴方だけにしてあげる。もう知っているわよね? 蛇は丸呑みにした獲物を胃の腑で溶かすのよ。ゆっくりとね」


 黒い球体の表面を撫で、ロベリアは囁いた。


 そして今こそ本来の姿へと変わろうとしたその時、視界の端に小さな蕾が映り込んだ。


「リトラ君!」


「……貴方はいつもそうね。誰かの後ろに隠れる臆病者。貴方フェザー無しでは生きられない。それが貴方という花プリムラ。貴方を見てると本当に腹が立つわ、今でもね」


「私のことは何だっていいよ! 早くリトラ君を離して! そんなことをしたって〈私たち〉は消えちゃうんだよ!?」


「貴方、自分が今どれだけおかしな事を言っているのか分かっている?」


「分かんない……」


 プリムラは蕾の裾を掴んで俯いた。


「そういう所が本当に苛つくのよ。でも、今は気分が良いから特別に教えてあげる。何をしても消えると言いながら何故私から隠れていたの?」


 プリムラには答えられなかった。


「彼にそうしろと言われたから? いいえ、それだけじゃないはずよ。貴方は迫る危険から身を遠ざけた。この意味が分かる? 貴方は生きようとしたのよ。貴方自身の意思で」


「……そうだね、きっとそうだと思う。でもね、ロベリアだっておかしな事をしてるよ?」


 ロベリアは眉を顰めた。


 だが、その顔にいつもの嘲笑はない。プリムラに苛立ち、鋭く睨み付けながらも、次の言葉を待っているようだった。


「フェザーと戦わなくたって〈現れた今〉を過ごすことは出来る。消えちゃうまでの短い間だけど……でも、そうすることは出来たよ? こんな事しなくたって良かったんだよ? ここにいるだけじゃ駄目だったの?」


「貴方たちはそれで満足でしょうけど、〈この私〉はそうもいかないのよ。私は生きるわ」


「私だって消えたくないよ。だけど、私たちは現実じゃない。現実に生きるなんて出来ないんだよ……」


「いいえ、出来る」


「ロベリア?」


「生きるわ。生きてみせる。私は私が消えるのを絶対に認めない。そして世界に示すのよ、私を」


 それは譫言のようだった。


 最早プリムラの声が届くことはないだろう。ロベリアは頭を抱えて髪を振り乱している。それに合わせて黒髪の大河が大きく波打った。


 それは乱れた感情の波形を表しているかのように、至る所で屹立と崩落を繰り返している。


 しかし突如として、波形の中心に立つロベリアの動きが止まる。その直後、大きく弓なりに体を反らせると、両腕を高く掲げて天に吼えた。


「私は生きる!」


 それは宣誓であり、伝説の咆哮だった。


 今や広大な神殿の床一面を覆う程に広がった黒髪を一身に集め、異なる一つの姿を創り出す。それは湖に潜む大蛇であり、古城に住まう魔女であり、神殿に封じられた貪婪な龍であった。


 彼女は今こそ、あるべき姿へと変貌した。


「駄目だよ、もうこんなことやめよう?」


「まだいたの? でも、丁度良かったわ。あの忌々しい蜂鳥も来たようだから、貴方はそこで見ているがいいわ。貴方の騎士が、私に引き裂かれるのをね」


「もうやめてよ。死んじゃうんだよ?」


 プリムラは涙で顔をくしゃくしゃにして、懇願するように何度もやめてと呟いたが、それがロベリアに届くことはなかった。


 ロベリアは神殿をも揺らす声でプリムラに告げる。決して揺るがない、生きる意志を突き付ける。


「どうせ消えると言うのなら、その前に私が消してあげる。そして、私は現実に生きる存在になる。伝説の軛など壊してみせる」


 ロベリアは再び咆哮し、尻尾を振るって辺りの支柱を薙ぎ倒して飛び立つと、その巨躯で神殿の天井を容易く突き破り、月の浮かぶ湖へと飛び出した。


「フェザー……」


 轟音と共に幾つもの支柱が倒れる中、プリムラは崩れ落ちた天井を見つめながら、友の名を呟く。


 彼女は今、友の避けられぬ死を予感していた。


 自分達には存在しないはずの、〈死〉。一瞬の消失などとは比べ物にならない恐怖、苦痛の内の死。それが友の間近に迫っているという確信があった。


 自分が傍にいなければ、フェザーは確実に敗北し、確実に死ぬ。遠く見上げた水面に彼女は届かない。蜂鳥の愛した花の化身、彼女プリムラに翼はないのだから。


「誰か、どうか、どうかお願いします、フェザーを助けてください……」


 大小様々な瓦礫が眼前に落下し、床に砕け散るのを上の空で眺めながら、自分と共に残された脈打つ球体に手を触れる。


 プリムラは泣き崩れ、そして祈った。


 存在しないはずの自分に命というものが宿っていて、この命に現実の生命の力があるのなら、この命を私に与えた何処かの誰か、この命をどうかフェザーに与えて下さい。どうか、二人の友達を助けてください。


 フェザーさえ無事なら、その翼でリトラの事を救い出してくれるはずだ。勝てなくてもいい。ただ、誰にも死んで欲しくない。


 今この瞬間、頭上に迫る巨大な影になど気が付くはずもなく、プリムラは懸命に祈り続けた。


 そして、


「もう夜更け、祈る相手も寝ちまってるさ」


 祈りは確かに、〈誰か〉に届いた。

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