第9話 沼御前

「リトラ君?」


「ん? あ、ごめん。さあ、気を取り直して別の場所を探そう。プリムラ、やっぱり君はこんな所にいるべきじゃない。君はフェザーといなきゃダメなんだ」


 そう言って振り向いた時だった。


 この大門から一直線に伸びる真紅の絨毯の遥か先、一段高い台座のような場所に何か大きなものが見える。


 それは黒い塊のような何かだった。ここからでも大きいと感じるなら、一体どれほどの大きさだろうか。おそらく丘や山ほどもある。


「あんなのあったっけ?」


「ううん、なかったと思う……」


「何だろ、泥団子?」


「それにしてはつやつやしてるけど」


「じゃあ、丸まった黒猫」


「それがいいね。でも大きいのは怖いかな。ぺしってされたら潰れちゃうよ?」


 などと言いながらも注意深く観察していると、それが動いた。


 表面がざわざわと波打ち、悶えるようにして形を変えている。すると、そこから一本の針のようなものがぬっと突き出した。


 実際にはこの神殿の柱ほどの太さだろうか。それが突然、二人を目掛けて凄まじい勢いで射出された。


「プリムラ!」


 咄嗟にプリムラを抱えて横に跳ぶ。


 その直後、黒い柱は二人が立っていた場所を通過して背後の扉に衝突したが、不思議と激しい音はない。この間にも、リトラはプリムラを抱えたまま支柱の陰に隠れようと走り出す。


 しかし、此処から一番近い支柱でさえ相当の距離がある。走りながらちらりと黒い塊を見ると、幸いにも今は静止しているようだった。黒い塊から突き出した柱も扉に衝突したまま静止している。


 リトラはそのまま速度を緩めずに走り続け、ようやく支柱へと辿り着くと、巨大な支柱の陰で、抱き抱えていたプリムラをそっと下ろした。


「プリムラ、大丈夫かい?」


「う、うんっ!」


「良かった。君は此処にいてくれ。此処なら、さっきの黒い塊からは見えないから」


「待って! 近付くのは危ないよ。だって、あれは多分……」


「あれ〈も〉ロベリアなんだろ?」


 プリムラはこくりと頷いた。


「二人でいるより俺一人の方がいい。此処には逃げ場もないし」


「どうするの? 戦うつもりなの? リトラ君じゃロベリアには勝てないんだよ?」


「それでも行かなきゃ。大丈夫、君には触れさせない。それに、フェザーはきっと来るよ。それまで耐えればこっちの勝ちさ」


「リトラ君!」


 引き留めようとするプリムラをその場に残し、リトラは柱の陰から身を躍らせて黒い塊に向かって走り出す。


 その時、扉に衝突したまま静止していた黒い柱が音もなく崩れ落ち、はらはらと解けて床に広がった。


 だが、異変はここからだった。


 突き出た黒い柱の根源、黒い塊そのものが崩れたかと思うと、濁流のように波を打って流れ出したのだ。これに飲まれてはならない、そう判断したリトラは直ぐさま中央から脇へと逸れる。


 湧き上がる黒い波の勢いは凄まじく、今や黒い大河となって神殿を分断する真紅の絨毯を忽ち覆い尽くした。そこで勢いは止まず、退避したリトラの足元にまで迫って、ようやく収まった。


 黒い何かは未だざわざわと波立ち、どこからか差し込む光を受けて、きらきらと輝いている。そこで、リトラは何かに気が付いた。


「なる程、髪か。ってことは……」


「どう? 驚いた?」


「うわっ!? なあ、やめくれよ。そういうの良くないぜ? ホントに良くない」


 石畳に流れる黒髪の大河の中から、ロベリアが顔だけを出している。それはまるで、底なし沼に沈みかけているようだった。その当人が笑っているのだから余計不気味に見える。


 一方の彼女はリトラの反応に満足したのか、黒髪の沼の中から姿を現した。湖で見せた色のない水の像だった時とは違い、病的なまでに白い肌と艶やかな黒髪が鮮やかに映えている。


 大きく胸の開けた色鮮やかな着物姿は煽情的で、彼女の魅力をより一層強めていた。


「ごめんなさい、ちょっと虐めてやりたくて。それより、どうかしら? 実物の方が綺麗でしょう?」


 ロベリアは自身の容姿を見せ付けるように、穏やかに波打つ黒髪の上でくるくると舞っている。


 リトラはその姿に一瞬だけ目を奪われた。


 数歩下がって距離を取ろうとした時には、何かががっしりと足を掴んでいる。まさかと足下を見ると、既に大量の黒髪が両脚に絡み付いていた。


「はい、捕まえた。どう? 囚われのお姫様とのお喋りは楽しかった?」


「実に色々なこと知ることが出来たよ。あんたの事もね」


「あらそう。それで? 私と違って〈現実に存在している〉貴方に何が出来るのかしら?」


 どうやら、全てを聞いていたようだ。


「覗き見してたんだ。趣味が悪いですね」


「壁登り、見ていて楽しかったわよ? ひっくり返った虫が一生懸命に脚を動かしてるみたいで」


 リトラをぐいっと引き寄せ、ロベリアは嘲笑う。


 彼女の眼をリトラは真正面から見据えた。ロベリアは威嚇するように蛇の眼で睨み付けるが、リトラは怯まなかった。


「伝説のままじゃ満足出来ないのか? 現実の人間たちは〈それ〉になろうとして無茶してるんだぜ?」


「私は〈この私〉に満足出来ないのよ。だから、やり直す。現実が伝説となったのなら、伝説もまた現実になれると思わない? 元々は現実に起きた出来事なのよ?」


 リトラの頬に蛇を象った黒髪をちろちろと這わせ、ロベリアが妖しく笑う。


「まあ、確かに……でも無茶だよ。伝説は現実が辿り着ける最高の到達点であり終点なんだ。つまり、既に現実の手からは離れてる。一度至ったら〈そこ〉からは戻れない」


「いいえ、私には出来る。やってみせるわ。捧げられた人間の血肉を得れば可能なる。それもまた、私の力の一つなのだから」


「だとしても湖からは離れられないぜ? 遥か遠い土地、とある湖の伝承があんたを縛ってる。強大な力があってもそこにしか存在出来ない」


「その為の血と肉なのよ。この神殿に封じられた霊的な存在から脱却して、私はこの場所と湖に縛られない新たな私を得る。それと、私はロベリアよ」


 その眼には、危うい光が宿っていた。


「それは意地悪な魔女の名前だろ?」


「へえ、やけに詳しいわね。お勉強の成果を披露できて良かったじゃない」


「で、あんたは結局どうしたいんだ? 世界を食い尽くすのか? 蜂鳥から花を奪おうとした貪婪な龍みたいに」


「あら素敵。それもいいわね。世界を喰らい尽くしてぐっすり眠るの」


「独りでね」


「黙りなさい」


 黒髪がリトラの体をしゅるしゅると音を立てて這い回る。


 それはリトラの脚から胸にまで一瞬にして絡み付き、その体を容易く持ち上げてきつく締め付けた。


「知っているかしら? 蛇は捕らえた獲物が呼吸する度に、徐々に締め付けを強くしていくの」


「言われなくても身を以て知ってるところだよ」


「まだそんな事が言えるのね」


「ロベリア、あんたは自由に生きたいとは思わないのか? 無理矢理押し付けられた性格になんて従わなくていいし、戦いから逃げたっていいはずだ」


 瞬間、空気が一変する。


 その言葉にロベリアはかっと眼を見開き、黒髪で掴んだ足を引っ張ると、遥か後方の扉に向かって思い切り投げ飛ばした。


 鈍い音と共に背中を強打したリトラは、黒髪の上で膝を突き、酷く咳き込んでいる。


 直後、再び激しい衝撃がリトラを襲った。腹を蹴り上げられて宙に投げ出されると、地面に衝突する寸前、帯状の黒髪がリトラの体を再び絡め捕る。


 そこから更に、幼児に弄ばれる人形のように、手足が千切れるほど乱暴に振り回され、背後の分厚い扉に向かって何度も叩き付けられた。


 この間、万力の如く締め上げていた黒髪からはリトラの血が滴っていた。リトラは一瞬にしてくたびれた布切れのような姿で宙吊りとなり、そして先程と同じ格好のまま、ロベリアと再び相対する。


「逃げる? この私が? もう一度言ってくれないかしら、聞き間違いかも知れないから」


「歳じゃない?」


「貴方って本当に生意気」


 黒髪によって胴を縛り上げられたリトラを引き寄せ、その首に手をかける。


 ロベリアはその細腕に徐々に力を込めていき、指先が食い込んでいくと共にその瞳も妖しい輝きを増していく。


そして、青ざめていくリトラの鼻先にまで顔を近付けると、薄く紅を引いた唇を歪め、愉悦の笑みを浮かべた。


「貴方の血によって力が増していくのを感じるわ。大勢の生贄が必要になると記憶していたけれど、これなら貴方一人で事足りる」


 鈍い音が響き、鮮血が噴き出す。


 ロベリアの瞳には歓喜の炎が輝き、満悦の笑みを浮かべている。そして大量に飛び散った返り血は、その艶やかな黒髪へと吸い込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る