箱庭夏葬
Y/F
箱庭夏葬
この街には夏が来ない。消えてしまったといっても良い。以前まではきちんと四季が訪れる、ごく普通の街だった。それが、ある年になって突然、異変が起きた。桜の花が散り、若葉が芽吹き始め、やがて青い葉が茂り出す頃、季節の様子がおかしくなった。待てど暮らせど夏が一向に訪れず、春の終わりの生ぬるい空気が、この次に到来する短い秋まで街中をただようようになった。
やっとのことで長い春が終わると、あっという間に秋が走り去り、当たり前のように冬は来る。冬は徐々に長くなり、いつの間にか四季の半分を占めるようになった。年中温暖だとか年中極寒だとか、そんな街もあるはずだが、四季の存在が当たり前だった街の住人たちは、自分たちの生活が脅かされるであろうこの異変に動揺した。しかしそれはほんの一時的なことだった。街の環境デザインを司るエンジニアとデザイナーたちが不眠不休で対策に当たり、当局との話し合いがなされ、「夏は失われたままでよろしい」という方針に固まると、街も街の住人たちも、まるで何事もなかったかのように、落ち着きを取り戻していった。
「おかしいと思わないか」
「何が?」
「街の環境デザイン」
ぼくの問いかけに、教室の端っこの席で本を読んでいた
「おかしいも何も」ページをめくり、本に目を向けたまま千種は続ける。「生活できてるじゃない」
「それはそうだが」
「何が気になるっていうの」
「夏が消えたこと、初めから夏をないものみたいに扱っていること、街全体がそれを疑問に思っていないこと」
ゆっくりとした千種の口調とは反対に、ぼくは早口だ。会話の速度が噛み合わないこともしばしばで、いつも奇妙な
「方針は方針で、誰も変えられないってこと。だから誰も何も言わない。でしょ」
「変えられなくても、おかしいとは思うはずだ」 千種は目だけをぼくに向けて言った。眠たそうな瞼だ。
「思っていても、口に出したりしないよ。みんな適応力が高いし、ほどよく諦めているし、良い具合に無関心だから」
「なぜ誰も探そうとしないんだろう」
「探すって」読んでいた本を閉じて、ため息混じりに千種は言う。「何を」
「夏を消した犯人」
本を閉じた姿勢でしばらく俯いていた千種が、ふと顔を上げた。
「探してどうするの」
「え?」
「警察に突き出す?」
「いや」
「吊るしあげる?」
「いいや」
「友達になる?」
「ならない」
千種の眉が、ほんの少し上がる。
「じゃあ、何?」
「誰なのか、知りたい」
唇の両端をほんの少しあげて、我が子を愛おしむ母親のようなまなざしで千種は笑った。
「わかった。じゃあぼくが面白いものを見せてあげる」
千種は読んでいた本を鞄にしまうと、「ついてきて」と言って足早に教室から出て行ってしまった。ごくたまに、覚醒したように活発になる千種は、別人のように僕の目に映る。いつも眠たそうにしているせいで、千種のことを静かで省エネなやつだと思い込んでいるのかもしれない。
校門を出てから駅まで歩き、そこから更にぼくたちの宿舎がある居住区までを二人で歩く。街はいくつもの階層に分かれ複雑な作りになっていて、慣れていてもたまに道を間違ってしまう。川沿いを進んでいくと迷わずに宿舎にたどり着けることは千種が教えてくれたが、実際歩いて帰るのは今日が初めてのことだった。辺りは日が暮れて、天井にはおそらく本物そっくりの夜空が広がっている。
「どこまで行くつもりだ?」
「うーんとねえ」たっぷりと間をあけて、千種はこたえる。「誰もいないところ」
「もうずいぶん歩いたと思うけど」
「そうだね。でも、まだ駄目だよ」
一応ね、と千種は付け加えた。
「あまりおかしなところに行くのはまずくないか?」
「心配ないよ。宿舎に着くルートからは外れていないから」
ぼくの不安を察するように、千種が言った。川沿いから離れていないから、千種の言っていることは本当だ。仕方なく、黙ってあとをついて歩く。
「案外さ、関係者が犯人だったりするかもよ。そう思わない?」
「それは考えた。でも、それだと意味がわからない。どうしてわざわざ季節を飛ばして住民を混乱させる必要がある?」
「うん。確かにそうだね」
千種は納得したように、低く頷いた。
実際のところ、夏が一つ消えたところで、混乱することはあっても、誰も困ることはなかった。もともとこの街の季節は、人工的に作り出されたものだからだ。消えた夏への対策としてエンジニアとデザイナーたちが与えれた課題は、夏を取り戻すのではなく、夏がないままでも問題ないように街全体の季節の構成を変え、整えることだった。犯人探しより、住民の生活を優先し、守ったとも言える。けれどそこで何故、消えた夏を戻そうとしなかったのか。それくらいは簡単なはずだった。
「着いたよ」
足を止め、千種は振り返った。あたりには何もなく、ただ川が流れ、均等に連なっていた街灯がぷつりと途切れる場所だった。
「暗いな」
「だから良いんだ」
誰もいない場所というのは、誰からも見られない、見づらい場所ということでもあった。鞄の中から小さなアタッシュケースを取り出した千種は、それを地面に置いて両手で鍵を押し開き、蓋を上げた。中には、灰色の緩衝材にすっぽりと埋まった小さな液晶画面のようなものが入っていた。
「それは?」
千種は端末を取り出して電源を入れると、何度か液晶を指で操作し、ぼくに見せた。液晶画面には、今はあまり見ない古めかしいデザインが白白と光っていた。
「何に見える?」
ぼくは珍しい画面をじっと見た。
「ゲームか何か?」
「うーん」千種は立ち上がり、言った。「まあ、そんなところかな」
「実際は?」
「アプリだよ。ボタン一つで季節を消せるアプリ」
「季節を、消せる」
そういえば、と思い返す。千種があまり学校に来ないのは、街のエンジニアたちの仕事を手伝っているからだ、と言われていたことがある。千種自身がエンジニアたちをまとめる人物なのでは、という噂も飛び交っていた。環境デザインのチームは各都市から選抜されたエリートが大勢いる。現場は過酷だ。千種のような半分寝ぼけ顔の、のんびりとした平和の象徴みたいな人間が、かけ離れた世界で生きている姿は想像ができないし、したくなかったのかもしれない。だからぼくは噂を聞き流し、そんな噂があったこともすっかり忘れていた。
「作るのは結構簡単なんだ。ぜんぶ単純なコードだから」
「待て。頭が付いて行ってない。一度整理したい」
「いいよ。でも整理なんてしなくても、知りたいことはもう目の前にあると思うけどなあ」
次第に、理解する。明らかになっていく。ぼくの中にあった疑問の答えから目が逸らせなくなる。狼狽するぼくを前に、千種の顔には笑みが浮かぶ。 頭の中を整理するより先に唇が動き、声が響いた。
「きみがやったのか」
ぼくの問いかけは、確信を持っていた。
「きみが、夏を消した」
「やっと気付いた」
千種は口元をゆるませ、呆れた様子で微笑んだ。
「鈍感だね」
夏のことが怖いのだ。はっきりとした理由はわからない。季節という得体の知れないものが大きな口を開けて、ぼくのことを骨一本残らず食べてしまう。特に夏は、恐ろしさが強くなる。息苦しい空気に体がばらばらにされてしまう。夏は部屋の中で布団をかぶってやり過ごし、夜は眠れず、そのまま朝を迎えることもあった。街から夏が消えて、どうやらそれがずっと続くとわかったとき、胸の真ん中を占領していた重たい鉛も溶けて消えた。
目に見えないものが怖いだなんて、誰も信じない。けれど千種は違っていた。千種は覚えていた。ぼくのこの冗談みたいな告白を。
「気づくわけないだろ」
暗闇に、戸惑うぼくの声が響き渡った。
「そうかな? 気づくと思う。いや」千種の頭が右に傾いて止まり、「気づかないか」左に動いた。
「環境デザインのインターンだったんだよね。去年、学校にあんまりいなかったのは、そのせい。それで、成績が良かったから、そのまま働くことになって。必死で仕事してたら、ちょっと偉いポジションになっちゃって。だからさ、職権濫用っていうのかな。季節ひとつ消してやっかあ、みたいな」
てへ、と笑う千種は、あくまで自分のやったことは環境デザインのチームの一員として正しかったのだ、という顔をしている。
「やっかあ、じゃない」 ぼくは答える。
「そんなおっかないもの作って、捕まったらどうするんだ」
「大袈裟だな。もう夏がどうのなんて話、誰もしてないよ」
「していなくてもだよ」
ぼくみたいに普通の、ただの街の住人ひとりのために一体どんな犠牲を払ったのか。考えると恐ろしかった。
「平気だよ。捕まったりしないし、問題にもならない。そういう方針だから。言っただろ?」
職権濫用。そういう方針。千種の言葉が頭の中をぐるぐるとかけ巡る。
「驚いた?」
「驚いたも何も」
血の気が引いてもおかしくないはずが、額に、頬に、両耳に、全身の血液が集まっていくのを感じた。
「なんでそんなことを……」
「元気になってほしかった。ただそれだけ」
怒っているのか、眠たいだけなのか、泣いているのか、笑っているのか、千種はいつも、よくわからない表情だ。でも今は違う。ぼくへの祝福を送る穏やかな顔。それが間違いないということ。本物だということ。
微笑みを浮かべる千種の睫毛に、雪が降りて溶けた。
空を見上げる千種の横で、ぼくは小さく、ありがとうと言った。満足そうに、千種は笑った。
箱庭夏葬 Y/F @zizizhuji
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