車椅子の君

@hiragi0331

車椅子の君

 2月14日。

 そう、今日はバレンタインデーだ。

 手に下げた紙袋には、綺麗にラッピングされた包み……チョコレートが入っている。

 受け取ってくれるだろうか。

 いや、『友チョコ』として渡せばあるいは……。

 ふう、と溜息をついて、陽子は眩しい程に青い空を見上げ、そして歩き出した。


 その人と出会った……いや正確に見かけたのは、3か月程前。

 長い横断歩道を渡り、何気なく目をやった歩道。そこには懸命に車輪を動かしている、車椅子の女性がいた。その表情は歪んで、誰が見ても苦しそうなのが分かる。

(……この先って小さな坂が結構あるから大変だろうなぁ)

 とぼんやり思い、陽子はその場から立ち去った。

 ……が。

「あああああ~~~~!!」

 ベッドに潜って、ごろごろとのたうち回りながら訳の分からない寄声をあげる。

 残るのは後悔と自己嫌悪。長い間此処に住んでいるのだから、小さな坂の存在など分かっていた筈なのに。別に断られたらその時はその時だと思って割り切ればいい。

 なのになんで。

(声をかけなかったんだ、私は!!)

 じくじくと湧き出す黒くやり場のない感情に、飲み込まれそうだ。

 自分はこんなに思いやりのない人間だったのか、と情けなくなる程には。

(次見かけた時は、絶対に声をかけよう!! 絶対にだ!!)

 陽子は決意を固めて、ぎゅう、とシーツを握った。 


 それから数日後。

 機会は思ったよりも早く訪れた。

「っ……!」

 思わず声をあげそうになるのを、懸命に抑える。

 あの時と同じ場所で、同じように懸命に車椅子の車輪を動かしている女性。

 間違いない。あの時の。

 すう、はあ、と大きく深呼吸をする。心臓が高鳴るがぐっと抑えて。

 大丈夫、大丈夫だ。

 断られたら、断られたでその時はその時。別に落ち込まなくてもいい。それに、あの時感じた深い自己嫌悪を、また味わいたくはない。

 足早に近寄り、口を開く。

「あ、あのっ!」

「はい?」

 急に呼び止められたのに驚いたのか、女性は目を見開いてこちらを見た。

 そうして初めて、はっきりとその顔を見る。

 ストレートの綺麗な黒髪に、きりりとした眉、少し吊り目がちの一重の瞳、ほんのりと赤い小さな唇。

「……っ!」

 ぼふっ、と陽子の顔が熱くなった。

(……タイプだ)

 そう、陽子は同性愛者。今のご時世なら隠すこともないかもしれないが、社会的な偏見は根強いため、両親にしかカミングアウトしていない。(ちなみに両親には泣かれた。何故早く言ってくれなかったのか、という意味で)

 なぜ同性にしか恋愛対象にならないのか、と聞かれれば、こっちが聞きたい、と答えるだろう。とにかく物心ついた時には『女の子』にしか、『そういう感情』を抱けなかったのだ。ちなみに惹かれるタイプは、今まで同じ、所謂きりりとした『美人系』だった。

 閑話休題。

「あの、何でしょうか?」

 再度尋ねられ、はっと我に返る。

 女性は怪訝そうな顔をしていた。

 危ない危ない。これじゃ不審者だ。とりあえず落ち着け。

 と、陽子は少しだけ息をつき、改めて口を開いた。

「よ、よかったら、車椅子、押しましょうか?」

 動揺の余り、声が裏返ってしまったしどもってしまった。

 ああ、もう終わりだ、マジでヤバイやつじゃん、どーすんだよ私!! などとマイナス方向に脳が働き始めた、その時。

「いいんですか? ……お願いします」

 女性は、ほっと安堵した、それでも嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。

 ああ、良かった~、と内心で思いながら、陽子はもまた微笑む。

「失礼します」

 車椅子の後ろにまわって、グリップをしっかりと握る。

 そして力を込めれば、車椅子はスムーズに動き出した。

「速さは、このくらいで大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

 ふわり、と良い香りがした。それは酷く甘くて爽やかな、花のような香り。

 それが彼女自身から香るものだと分かった瞬間、顔がまた熱くなるのが分かった。まずい、まさか香りまでタイプだとは。フェロモンというものが本当にあるなんて。彼女からこちらが見えないのは幸いだ。

「え、ええっと、どちらまで押せばいいですか?」

「もう少し行った、バス停までお願いできますか?」

「はい」

 快く返事をし、グリップを握る手に力を込める。

 しばらく無言のまま足を進める、が。

(正直タイプ、ではあるけれど、外見だけじゃ分からないし、でもこの機会を逃したら)

 陽子は恋愛事には奥手なタイプであった。でもどう切り出せばいいんだ、名前くらい聞いてもいいんだろうか、でも一度しか会わないかもしれないし、と悩んでいる内に。

「ここです」

 バス停へと辿り着いてしまった。

 結局何も話さないままに。

 ぶっちゃけ後悔が胸を占めるが、余りにも積極的だと距離無しだと思われてしまうし、と言い訳をしつつ、陽子はグリップから手を離す。

「ありがとうございます!」

 女性は首を捻って、こちらを見て笑顔で礼を言ってくれた。

 その花のような笑顔に。どきり、と心臓が高鳴る。

 何か言おうとする前に、バスの到着音が無粋に響いた。

「……あ、ど、どういたしまして」

 何とか言おうと紡ぎ出したのは、たったそれだけだった。

 運転手が下りて来て、スロープを出し、手際よく車椅子を乗せる。

「お、お気をつけて!」

 せれだけを言うと、彼女はまた首を捻ってぺこり、と頭を下げてくれた。

 そして。

「本当にありがとうございます」

 その言葉を最後に、ドアが閉められた。

 最早彼女の姿は見えない。

 だが陽子は、バスが見えなくなるまで見送った。


 そしてこれがきっかけに彼女と親密になり仲良く会話をするまでに……などというどこぞの安易な恋愛小説のようになる筈はなかった。

 そうなったらどんなにいいか、と陽子は歯嚙みする日々を送っていた。

 彼女が現れるのは、毎日ではなく、一週間の内に2、3日程度。しかも時間帯もバラバラ。

 これでは親しくなりようがない。

 ……が、偶然出会うだけでもラッキーだよね、と陽子は思い直すことにした。

 偶然会った彼女の車椅子を押し続け、何の会話もすることなく車椅子を押す、ただそれだけの不思議な関係を築くこと3ヵ月。

「いつも、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 バス停までの数十メートルまでの距離では、会話など弾むはずもなく。

 話しかけようと口を開きかけては止める、を何度繰り返したことか。

 己の奥手……いや、ヘタレ振りに枕を涙で濡らす日々。

 彼女は何者だろう。なんて名前なんだろう。趣味は? 好きなものは? 嫌いなものは?

 ……そして、車椅子になった理由は?

(いや、そこまで聞いたら失礼か……)

 ごろり、と寝返りをうって、思いに浸る。

「はあ……」

 溜息をついて、スマホの画面に目をやれば。

(もうすぐバレンタインか……)

 まあ関係ないけど、と一瞬思ったが、いや関係あるやん、と思い直す。

 想い人にチョコレートと共に、気持ちを伝える一斉イベントであるこの日なら。

(それにかこつけて、少しだけでも会話とかできちゃったりするかもしれない!)

 よしっ! とスマホを握り締め、ロックを解除。

『バレンタイン チョコレート 人気』

 検索をタップする陽子の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。


 そして話は冒頭へと戻る。

(いや、友チョコ、というのも無理があるだろう。友だちにもなってないのに)

 ずうん、と陽子に重く圧し掛かる黒い空気。

(そもそも私は彼女の事を何も知らない。……甘いものが嫌い、ってことだってあるのに)

 もし「結構です、いりません、迷惑です」なんて言われて拒絶された日には、一か月は立ち直れないこと間違いない。

(それに今日会えるかも分からないのに……)

 と思っていた、その時。

「……っ!」

 いた。

 懸命に車輪を動かす、車椅子の彼女が。

 迷ってなどいられない。こうなれば、出たとこ勝負だ。それにいつもの事じゃないか。

 築き上げてきた関係は、決して裏切ったりなどしない。

 陽子は真っすぐに駆け寄り、口を開く。

「……押しましょうか?」

 彼女は穏やかな笑みを浮かべてくれた。

「いつも、ありがとうございます」

「いえいえ」

 そう言いながら、陽子は後ろにまわってグリップを握った。

 そして、力を込めてゆっくりと車椅子を動かす。いつもの通りに。

「……」

 そしていつもの通り、無言のままだ。

 彼女も特に口を開くことはない。

 こんなんじゃ駄目だ、と思っても、一度卑屈になってしまった想いは、立て直すことが出来なくて。

 口を開きかけては止めて、と繰り返している間に、いつものバス停へと辿り着いてしまう。

 これでおしまいだ……と思っていると。

「あの、お時間大丈夫ですか?」

「!」

 なんと、彼女の方から声をかけられた。

 大丈夫、大丈夫に決まっている。急いで彼女の前へと移動し、目線を合わせるようにする。

「だ、大丈夫です」

 こうして見ると、やっぱり自分の好みそのものだ。

 穏やかに細められた瞳も、優しく笑みを描く唇も。これが今は自分だけに向けられていると思うと、胸が張り裂けそうに高鳴る。

「これ、良かったら、受け取っていただけませんか?」

 そっと差し出された、小さな紙袋。

 目を見開く陽子をどう捉えたのか、彼女は少しだけ恥ずかしそうな顔をした。

「その、今日はバレンタインデーなので。だから、いつも車椅子を押してくれる貴方に、何かお返しが出来ればと思ったんです。……もしかして、甘いものは嫌いですか?」

「い、いえ! ……大好きです」

 というか貴方から貰えるなら何でも大好きになります! とか言いたいのを堪え、陽子は紙袋を丁寧に受け取った。

 そして。

「あの、私からも、これを……。受け取っていただけませんか?」

 自分の紙袋を差し出すと、彼女は目を見開いた。

「そんなお世話になっているのは、こちらなのに……」

「いえ!」

 お世話になっているのは、こちらの方だ。

 貴方に出会って、束の間の間だけでも一緒に過ごせた、それだけで。

(私は、満足できていたんです)

 陽子は、真っすぐに彼女を見つめ、改めて口を開く。

「これは、貴方のために用意したんです。だから、貴方に受け取って欲しいんです」

 口に出したのは、たったそれだけ。愛の告白のような言葉に、我ながらぶわり、と頬が熱くなった。

 だけど彼女は見開いていた目を細め、こくり、と頷いてくれた。

「ありがとうございます。受け取らせて、いただきますね」

 しなやかな白い指が、紙袋の取っ手を包み込んだ。

 それに合わせて手を離せば、彼女は紙袋を大切そうに押し抱くようにしてくれている。

 ああ、嬉しい。すごく、嬉しい。

「それに、ごめんなさい」

「えっ?」

 いきなり謝られ、陽子は目を見開く。

「ずっとお世話になっていたのに、名前も名乗らずに失礼しました」

「いえ、そんな……」

 彼女は、にこ、と優美な笑みをその唇に浮かべ、そして。

「私、『高橋陽菜』と申します。よろしくお願いしますね」

 やっと、やっと名前を知ることが出来た。

 嬉しくて、ふわり、と胸が熱くなる。

 それなら、こちらも。

「私は、『小鳥遊陽子』といいます。こちらこそ、よろしくお願いします」

「まあ、たかなし?」

「ええ、小鳥が遊ぶ、と書いて、『小鳥遊』です」

「それなら、一文字違いですね」

「あ、そういえばそうですね」

 くすくす、とお互いに顔を見合わせて笑いあう。

「あの、こんな事をいうと、軽蔑されてしまうかもしれないけれど」

「え? 何ですか?」

 少々緊張しながら尋ねれば、陽菜はもじもじと指を弄りながら答えた。

「私、貴方にお会いできるのを、楽しみにしていたんです」

「え……!?」

「いえ、決して車椅子を押してくれる方だから、という訳ではなくて。……貴方が、私を見つけてくれて笑顔で駆け寄ってくれるのが、嬉しかったんです。だから……」

 そんな、そんな勘違いしそうになる。だけど、凄く嬉しい。

「……私もです、高橋さん」

「え?」

 陽子はにこ、と安心させるように笑ってみせる。

「私も、貴方に会えるのを楽しみにしていました。だから、こうやってお話ができて、本当に嬉しいです」

 続く言葉は、バスの到着によって遮られてしまった。

 全く無粋だ。それなら。

「また、声をかけます。貴方がここに来てくれる限り、ずっと」

 そう言うと、陽菜もまた、微笑んでくれた。

「ありがとうございます。また貴方に会えるのを、楽しみにしています」

 その時は、と陽子は自然と口を開いて、言った。

「また、お話ししてください」

「はい、是非」

 陽菜が頷いてくれた。

 また嬉しさで、今度は涙が零れ落ちそうになる。我ながら情緒不安定だな、と内心で自嘲して。

 バスが到着し、運転手が手際よく陽菜をバスに乗せる。手を振れば、陽菜もまた手を振り返してくれた。

 バスが見えなくなるまで見送り、陽子は貰った紙袋をぎゅ、と押し抱く。

(嬉しい……! 沢山話が出来た!!)

 これからの事は分からないけれど。それでも一歩前進した、と思っていいだろう。

 きっと近い内に、彼女……陽菜と出会える。

 そうしたら、今度は色々な話が出来る。それから陽菜の事を、徐々に知って行けばいいだろう。

 時間はきっと、いくらでもあるのだから。

(ああ、楽しみだなぁ……)

 青い空の下を行く歩みは、驚く程に軽かった。


(終)

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