2
私の唯一の友であったギギレンドーラ。彼女もまた私と同じようにEC画家として活動する女性だった。少し赤みがかった髪を長く伸ばして、暗い納屋に炎を閉じ込めたような瞳をしている。見た目は繊細に見えて性格は豪胆だった。どこへ行くにもリュックいっぱいに岩を詰めて、暇さえあれば床にぶち撒けて庭のようなものを作っていた。
ギギレンドーラとの出会いはユニバーシティの生徒用アトリエだった。私は生まれて初めて母から離れて暮らしていた。一人暮らしの条件は彼女の指定したユニバーシティに通うこと。私は自立心を芽生えさせたのではない。単に家からユニバーシティに通う時間がかかりすぎるから不便に思ったのだ。小さなアパートの一室に住み、ユニバーシティの美術クラスに通う。そこは古典美術を嗜む場ではない。テーブルマナーを学ぶ前に、どれだけ社交パーティに無理矢理乗り込んでお腹を満たせるかを教える場所だった。私は熱心に脳波を信号に変えた絵を生み出し続けた。直観に頼れば頼るほど作品の幅は広がって、モチーフの絞り方に絶妙な方向性が出た。この当時は分からなかったけれど、評価の高低にはますます差がついたようだった。同じ一枚の絵に賞賛の合唱と不評の嵐。御絵のように崇拝する者と、呪物崇拝の偶像と言いはやす者とに分かれていたはずだ。
私がアトリエで脳波の採取のためのツールを外すと、すぐ近くにギギレンドーラが座っているのに気づいた。ぼんやりと私の絵を眺めていた。手はひたすら持ち込んだ石を積んでいる。
「まだそういう絵が出力できるんだ。羨ましいなあ。羨ましくないけど」
どっちなんだと上ずった声で尋ねると、ギギレンドーラはじろりと目を向けて「私はもうそこには戻りたくない」と吐いた。積んでいた四つほどの方形の石を崩していた。それから舌打ちをして「自分だけは騙せないからね。皆を騙せても」と言って黄色のリュックに全ての岩石を収めて立ち去った。
ギギレンドーラの予言じみた一言が当たったのは、それから数ヶ月の後だった。
私が一人暮らしを始めても、母は度々訪ねて来ていた。聞かれるのはいつも創造のことであった。描いた絵があれば見せるように言い、クラスの課題以外のものは全て抱えていった。それから授業以外でも何か一点か二点、絵を創発するように求められた。私は逆らわずに電磁タイルにインスピレーションをぶつけるだけだった。母は私の新作を一枚見るたびに狂喜した。母が部屋を去ってアパートの窓から外を眺めると、彼女の待機させていたトラックが走り去っていく所だった。母が私の絵を売って儲けているのは知っていた。しかし彼女は私を一人で私を育ててくれたし、その協力をするのは当たり前だと思って何も考えていなかった。私にも度々お小遣いの名目で口座に振り込みがあった。その額が多いのか少ないのか私には分からない。ただどちらであったにしても、私は私の実力で稼いだ金額が総額で幾らなのかは知る由もなかったのだ。
ふと一度、私は自らの絵を買った人に会う機会があった。大学のアトリエで電磁タイルの準備をしていた時に、細身で中年くらいの女性がやって来て私に話しかけてきた。作品を販売されているのは知っていたが、名前と正体は隠していたはずなので、これまで直接会いに来た人物はいなかった。彼女はひたすら喋り続けた。恐らくは私の創作物を称賛しているのだろう。だが半分以上は何を言っているか分からなかった。聞き逃せない一言を耳にしたのは去り際だった。「生粋の天才だと思うわ。あなたはそのままで大人になってね」と言った。それは母の口癖と同じだった。
私はひどく気になってインターネットで自分の情報を検索した。パソコンの操作自体を大学生になっても母によって禁止されていた。私はいまいち興味がなく、あえて母からの言いつけを破る理由もなかったので従っていた。だが今回は探究心が勝った。ネットには多くの他人の瞳が感じられた。視線は全て私に向いているはずなのだが、見つめられている気分にならなかった。その分、気持ち悪さは増大していた。インターネットのやり方を教えてくれたのは教員であった。彼に「作品が売られている場所が見たい」と要望した。すぐに目当てのサイトは見つかった。母は私の作品を確かに販売していた。値段も相応のものが付けられている。それはあくまでどうでも良く、私が気になったのは母による「作者の紹介」という項目だった。
全てが的確な評価はあり得ない。今でこそ私はそんな風に片付けられる。だが当時の私にとって母からの紹介は、ひどく私という人間を誤解させるようなものに感じた。「生まれたままの感性と先入観のないインスピレーションを持つEC画家」、「人間の持つ根源的なイメージを描き出す」、「既存の価値観にとらわれず、過去の美術作品からの影響を一切受けない」……。こういう人間だと私が世間に認知されているのだとしたら、酷い犯罪に加担しているような気分になってきた。サイトで絵の作者を名乗る自分は明らかに自分ではない。今となっては部分的に的を得てはいる。しかしこの頃の私はひどく気分を害したのだった。
私は十数年生きて来た。感性は生まれたままではない。無感動にただ漫然と生きているだけではなかった。比喩としても受け入れられない。まるで生まれてからこの方、外の世界を知らない人間のようだ。先入観もある。明け方の空の寒さと夕暮れの寒さは、夜が控える分、夕暮れにより肌寒さを覚えるだろう。過去の美術作品の閲覧も母に禁じられていた。だが大学には図書館があった。興味を覚えればいつでも画集で過去の傑作を目にできる。暇があれば私は古今東西の美術家の画集を眺めていた。ベラスケス、レンブラントといったバロック期の絵画を気に入っていた。画面の中には潜れる深さの闇がある。浸って静謐な雰囲気を味わえる。整然とした細部に一つの点があれば、光となって作用し影を連ねて輝きを束ねる。
私を崇拝するコミュニティは存在する。「他人を騙せても、自分は騙せない」。ここでギギレンドーラの予言が頭をよぎった。ファンの人達を正しくない情報で操るのは造作もない。しかしそんな風に振る舞う私を、私自身の存在のあり方として無造作に受け入れるのは難しさより辛さが勝った。
私は母に絵を渡すのを止めた。彼女がサイトで絵を販売する限り、例え絵自体は本物であったとしても、作者が偽物になってしまう。それを伝えると母はいとも簡単に引き下がった。「今までどうもありがとう。きっと無理をさせていたのね」と言った。あっけなく私の作品の流通は止まり、既出の作品群は軒並みに価格が上昇した。同時に私はフェイミー・フェルメラの名で新たに作品発表の場を設けた。『罪咎』を創発したのもちょうどこの頃だった。
『罪過』の発表から、私に備わっていたインスピレーションは曲がってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます