アウターチャイルド
Garanhead
1
インスピレーションに従えば多くのことが上手くいっていた。
五年前に改めるべき認識だったのかも知れないけれど、手放してしまったら自分が何処かへ落下して行ってしまうようで、今に至るまでしがみつき続けている。
そんな五年前に創発した絵を私は息子と一緒に眺めに行った。息子は絵を理解できるはずもないけれど、彼は私の心を守るために必要な存在だった。一人で向き会おうと直前まで決めていた。だが、取り返したものを喪失する恐れがあるので同行してもらう。
『罪咎』と題された当作は私の評価を決定付けるものになっていた。EC(Electrical control)画家としてのキャリア。実を言えばデビュー前に別名で作品を販売していた。その頃から私の絵は界隈で有名となっていた。それを別にすれば、この作品は初めて本名フェイミー・フェルメラを名乗って世に出した。呪いの始まりだ。
五マイクロメートルかける五マイクロメートルの電脳タイルを敷き詰めた、S四号キャンバスが壁にかかっている。絵を見てみると渦巻きが幾重にも重なっているが、どれが一番表層の絵柄なのか判断がつかない。渦は目で追いかけているうちに透けて、その上にまた同じ具合の渦が出現する。それを観察していくと更に上の層に辿り着く。少し離れて見つめれば絵の主題は瞳なのではないかと思われる。人間の瞳か獣の瞳かそれは分からない。渦の中央に視線を移すと奥行きのある闇が描かれている。まるでキャンバスに底なしの穴が空いているかのようだ。落ちていく途中の壁には写実的なタッチで車の部品が剣山のように並んでいた。ボンネットオープナー、ラジエートフィン、シリンダヘッドカバー。どれも新品だ。奥へ奥へとリョウメンシダが生えて、奥まるほどその葉は若くなる。そのシダ系植物はアナウサギの影を描く。巣穴は人間の肝臓の細胞に見える。
構造の不条理さはメビウスの輪を思わせた。細部を語ればシュルレアリスム。およびトロンプルイユ。私の作った絵は多くの人の探究心をくすぐった。同時に専門家からの嫌悪感も表明された。「これは一昔前に流行ったジェネレーターマシンによる生成画だ。しかも劣化品だ」。聞き飽きた講評をいつでも私は思い出す。
私は小さい頃から、そのままのあなたで大人になってくれと言われて育った。禁じられたのは本を読むこと、テレビを見ること、ゲームをすること。誰かと競うこと。誰かを嫌うこと。誰かを好きになること。母は繰り返し私に言った。
「丈夫に育って健康に生きてくれればいい。病気や怪我をせずに心を乱さないで。そのままのあなたでいてちょうだい」
その言葉が全て純粋な愛情から出たものだったのかどうか。
私に禁じたあらゆる事柄が、一体何から何を守るためのものだったのか。
疑問に思わず過ごした時間が長すぎて、疑惑の溝は深々と心に横たわっている。
EC画家としての最初の歩みを語るのならば、恐らく三歳くらいに遡るのだろう。私はほぼ記憶を有していないが、その時の作品が残っている。それらを今から五年くらい前のものを見比べると、ほぼ変化がないように見受けられた。私は三歳から完成されたEC画家であり、当時はインスピレーションなんて言葉も知らなかったが、内部からの感情の発露だけで完全な絵が作れてしまっていた。私が生まれてからすぐに父と母は別々に暮らし始めた。母の元で私は育った。彼女は私を産んだ時は二十歳と三十歳の境目くらいの年齢だったが、いつも老いて見られたようだった。その事をいつか酒に酔った時の独り言で愚痴っていた。
私が絵を創発する際に用いたのは、簡単なアクティブ型脳波写機だった。三歳の頃に触れたそれは家を出た父が置いていったものらしく、後に母の手で処分される予定だったようだ。ヘッドフォンのような機器と電磁タイルの敷き詰まったボードがセットになっている。ヘッドフォンを被ると電源が入り、型(ヘロアス)と呼ばれる電波が発せられる。それが脳波に反応して振動し信号を発し、電磁タイルが色や形を変えていくのだ。おおよそ十数年前から、この手の脳波を用いた描画機器はおもちゃとして販売されていた。電子楽器が流通して子供から大人まで暇つぶしに楽しむように、アクティブ型脳波写機も同じ用途で所有されていた。顔も知らぬ私の父はこのおもちゃで一体どんな絵を作ったのだろうか。
アクティブ型脳波写機は個人のイメージをタイルに写し取って画像に仕上げる。画面の全体を一気に想起しなくてはならないので難易度は高かった。脳の発達した大人でも精密な絵を生み出すのは難しい。私は三歳で使いこなせたらしい。そもそもメーカーは脳波への影響から幼児への使用を控えるように呼びかけていた。だが、私は覚えたばかりのハイハイ歩きで家を動き回って、捨てるために玄関の隅に置かれていた機器を、何も知らずに作動させてしまった。出来上がった絵には三分割された空があって、朝昼夕方と時間帯が分かれて各々の面で星の位置が正確にずらされていた。この絵図はドレスの袖のデザインとなっている。ドレスを身にまとうのは骨だけの花嫁。目には、楓の樹が切断されるその瞬間が描かれていた。絵を目撃した母は機械の故障だと思ったのだろう。続いて自らも試してみたらしい。が、タイルにはうっすらと線のようなものが現れるだけで、何も有意味な事象は見られなかった。対して私はまた同じような絵を創発し続けた。
母は面白がって、架空の名義でその絵をネットオークションに出した。すると私の絵はたちまち話題となってニュースに取り上げられて、絵自体もいい価格で売れたのだった。買ったのはどこかの美術館だと噂されているが、真相は今に至るまで分かってはいない。母親の懐に入った額も今日に至るまで不明だ。
この頃から私の記憶はたどれば引っかかる浅さになってくる。前述の通りにテレビやゲームを禁じられたのも、はっきりとこの頃だと把握していた。代わりに私は川や森で遊ぶのを命じられて、浅いが魚一匹見えない川で葉っぱを船にして泳がせていた。一人きりで。キンダーガーデンに通う頃には初めて自分と同い年位の子たちと交流したが、彼らの行う遊びが理解できなくて打ち解けられなかった。
その頃の孤独はどうしていただろう。大人から渡された粘土を使って様々な形を作るのは好きだった。丸や四角や三角を自らの手で整える。一つ満足いく形状が出来上がると次は別の図形に。そうやって夢中になっていると、他の子供が私を遊びに誘ってくれる。遊び盛りの子供は強引で仕方がなく加わった。しかし生来のぼんやり屋なので、ボール遊びに参加しても積極的にボールを触りに行こうとしない。追いかけっこをしても追いかけないし逃げない。皆からすれば私は退屈な存在だった。ルールの中で個々がどう動くかをずっと観察していた。それならばルールの外にいる方が適している。私はずっとルールの内側から彼らを見つめていた。やがて、同年代の子供たちは不気味がって無視し始めた。記憶に残る限り、キンダーガーデンから数えてユニバーシティに至るまで、私と会話をした人間は教師を除くと片手で数える程しかいない。
そして、そのうちの一人がギギレンドーラだった。
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