第9話

「大丈夫?」

「なにが?」


「その、なんちゅーか、無理してない?」

「してない」


「前になんて進まなくてもいいんだよ。夢なんてなくてもいいのと一緒。別に誰かを傷つけたり犯罪を犯してるわけじゃない。進歩なんかしなくたっていいんだよ。僕たちは毎日こんなに楽しいし、温かい」

「うん。そうだね。そうやって夏雄が見ててくれたから、だから前に進む勇気がもてた。もっと言ってしまえば、前に進みたくてたまらなくなった」


「そっか」

 涙が出そうになる。

 手のかかった生徒が卒業を迎えると、教師の涙腺はこんなふうに緩むのかもしれない。


「何かんがえてるの?」

「え?」


「なんかいちいち表情が微妙だよ」

「そう?」


「ちょっと本気になってよ~。作るのも育てるのも共同作業なんだからさ」

「わかってるよ」


「家事ももっとできるようになってよ」

「え~」


「え~じゃないよ。子供じゃないんだから」

「子供でいたいんだよ、男は」


「馬鹿か」

「馬鹿でいさせてよ、家でぐらい」


「外でもバカなんじゃないの?」

「外ではしっかりやってるって。見せたいぐらいだよ」


「ほんとかな」

 皮肉に笑ったあと、春子は目をつぶった。


 すぐ近くに春子がいる。その体温も匂いも、体からかすかに放出されているやる気だったり希望だったりするみたいなものも感じ取れることができる。


 境界線は完全に消えないかもしれない。

 でも、春子が言ったではないか。


 完全になくなることはない。でも、うまく付き合っていける。

 そうだ。年を重ねれば傷が増える。


 付いた傷が完全に消えることはない。でも、いつかは癒えていく。

 それに付き合っていくのだ。


 癒し、再び目を覚まさないように、付き合っていく。

 そうやって自分を、周りの大事な人間を守っていく。


 春子の両親はその瞬間、春子のことを思ったはずだ。

 そんな二人の思いにこたえたいと思った。


 春子と一緒に生きていく。その悲しみも一緒に携えて。


 子供ができるかできないかはわからない。医学的な確率でいえば、できる可能性のほうが低いのだろう。

 それは口にしなくても二人ともわかっている。


 だめならだめでかまわない。


 僕たちに一番大切なのはこれからも二人で一緒にいることなのだから。

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