誰が為に 〈ろ〉
長く続く見慣れた景色と、見慣れた人影が一つ。
白衣を着ていること、あの人物が神下冬太郎であることは確認できるのだが、その様子はどこかおかしかった。
廊下のど真ん中に三角座り、自分の頭を抱きかかえるように大きく俯いて、まるでホラー映画のワンカットみたいだった。
その光景を見た時、二人の腕には鳥肌が立ち、嵯峨野花は自身の腕をさすった。
「……不味い事になってないか」
「一目瞭然でね」
小さな声での会話。
一歩、また一歩と神下へと近づいていく。
すると、段々辺りの空気が冷たくなっていくのが分かる。
まるで、うだるような夏の暑い日に冷たいプールへと飛び込んだ時のように、体に沿って流れる冷気が気持ちよいと最初は思うのだが、その感覚に段々と体が慣れ始めて、少し寒いと感じ始めた不快感が永続的に触れ続ける。
そして、この場から離れたいという思考が判断を鈍らせる。
二人と神下の距離が声を張らなくても会話が出来るほどになった時、神下が頭を上げた。
その顔は生きているのかさえ不明なほどに真っ白く、対照的に瞳とその周辺の皮膚は黒かった。
そのせいで何処を見ているのか分からなかった。
「おい、神下」
その声に反応したのかしていないのか、神下はゆっくりとした動作で天井を見上げ始めた。
不快な冷気に包まれた音の無い世界は、二人の精神を少しづつ確実に蝕んでいく。
突然、神下がごろりと後ろに転がった。
何が始まったのかと思う隙も無く、神下の体はゆっくりと宙へ浮かび上がり、そして、そのまま〝天井へと足から着地した〟。
まるで国際宇宙ステーションを動き回る宇宙飛行士の映像を見ているかのように、地面と天井の役割を反転させたのだった。
「神下、お前はいつから凄腕の手品師になったんだ」
骸井は冗談を言ってみたが、口調に余裕がなく格好がつかなかった。
逆さまになった状態で、神下は再び三角座りをして、ついに口を開いた。
「我を〝悪鬼〟と〝邪気〟に分け隔てた当人を目の前にして、我の中に煮えたぐる怒りを抑えらるるものか……否、貴様は百回殺しても殺したりぬ。故に今ここで自由への贄となるがいい」
その声と話している内容を聞いた瞬間、目の前にいるのが神下ではないという事をすぐに察知する。
その刹那の事。
【捕縛】――ッパチン!
骸井の能力で宙に文字を書き記して一拍打った後、神下と思しき人物は天井に張り付いて、その動きを止めた。
「一旦退散だ」
「う、うん!」
骸井と嵯峨野は来た道を戻り、再び階段を上り二階へと駆けあがっていく。
「はぁ、はぁ」
「ふー……」
二階の廊下に複数ある教室の中から、一番真ん中にあった教室へと逃げ込んだ二人は、息を整えながら警戒心を高めていく。
石膏像や派手な色が乗ったカンバス、畳まれ重ねられたイーゼルを見て自分達がどの教室に逃げ込んだのかを理解した。
息を整えた嵯峨野が口を開く。
「この結界を見つけてからずっと考えていた事なんだけど、今この状況になってようやく納得がいった。この結界が長い間自壊しなかったのには理由があったんだ」
「自壊しない理由……」
「今見ての通り、この結界内は時間の流れが歪められている」
壁に掛けてある時計の針を見てみると、三階でみた位置と全く変わっていなかった。
骸井はポケットに入っていたスマホを取り出して電源を付けたが、こちらも同様に表示されている時計の数字が一分たりとも動いていない。
「ついに〝自己修復する結界を生成できるようになった〟のかと思っていたのだけど、まさかその想像の上を行く方法で結界の消費期限をなかったことにしていたなんてね」
「お前をもってしてもできないものなのか?」
「はは! 僕を買いかぶりすぎだよ骸井君……というか、この世界ではそんな事不可能だとすら思っていたさ。でも、今それが目の前に、現実として存在してしまっているんだから、どうやらこの世界はまだまだやれることがあるみたいだね」
嵯峨野は嬉しそうに笑った。
二人は神下らしき何かが近づいて来ていないかを確認した後、一息つく。
二人は見張りを交代して水分補給を取りながら、適当な机に腰を掛ける。
「あ、そうだ! 骸井君に渡しておかないといけないものがあるんだった!」
そう言って嵯峨野は胸ポケットから何かを取り出して、それを骸井から見えないように手のひらで包み、その拳を突き出した。
「はい!」
「どういう――」
「ほら、渡すから早く手出して!」
骸井は恐る恐る嵯峨野の拳の下に手のひらを広げる。
すると、嵯峨野はむにむにと小刻みに指を動かし始めた。
骸井はそれが何をしているのかよく分からなかったので、ただただぼんやりと小さく白い拳を眺める。
「はっ――う、嘘だろ!」
骸井は嵯峨野の拳から這い出してきた存在を目にし、驚愕して思わず後方に飛び下がって目を見開いた。
「あ! 骸井君ダメじゃん!」
当の本人はさぞかし楽しそうな表情でそう言った。
指の隙間から這い出して蠢く〝黄緑色の毛虫〟を骸井に見せびらかしながら笑った。
「ほら!」
嵯峨野は良く見えるようにその手を骸井に近づける。
「おい! やめろッ!」
さらに離れる骸井。
「違うって! ちゃんと見てって!」
骸井を追いかける嵯峨野。
そして、全速力で逃げる骸井。
それからしばらく攻防にしのぎを削った二人は、嵯峨野の「違うから! これエノコログサのふさふさだから!」という言葉で終止符を打つのだった。
「はぁ、はぁ」
「はぁ……ふふ、あははは!」
疲弊して膝に手をつく骸井をよそに大声で笑う嵯峨野。
「こんな状況なのに二人して無駄に疲れて馬鹿みたいだね! ひっひひ!」
「……」
「何だよその目は! というか普通一回はやったことあるでしょこの遊び」
「勝手に普通を押しつけるな」
「はは、いやー面白かった! じゃあ、はい! 言ってた通りあげるよ」
骸井は一瞬断ろうか悩んだが、ここで断るのも負けた気がするし、さらにいじりが加速することが目に見えているので、素直に受け取ってそれを胸ポケットに仕舞った。
その時一瞬、不思議な匂いが鼻腔をくすぐって、意識とは別に足が一歩前に出た。
「骸井君? どうしたの?」
「? いや……なんでもない」
骸井は、走ったばかりの足が疲れて変な挙動をしたのだと、勝手な結論で勝手に納得して、特に気にすることはしなかった。
そして、この先のことを考えると、そんな様子じゃ持ちこたえられないと思った途端、背中がひんやりと寒くなる感覚がした。
背中を撫でるような寒気。
これが〝先を思いやる感情〟から生じたものだと思っていたけれど、その感覚が次第に強まっていくので考えを改める必要がある。
さっきも同じ様な感覚を味わったばかりなので、はっきりと覚えていた。
どうやらもうすぐそこまで――
「危ない!」
骸井にその声が聞こえた時には、もう嵯峨野の体が骸井へと触れていた。
半ばタックルのようになった嵯峨野と骸井は二人で雪崩のようにずさーっと倒れた。
骸井は素早く仰向けになり、その姿を視認するよりも前に気配のする方に指を構えて宙に文字を描く。
【弾】――パチン!
バチンンッッ……と音を立てたので命中したのだと分かった。
しかし、気付いた時には、教室の天井に、壁際や窓際に、入り口付近にも、ずらりと立ち並んでこちらを見据える無数の影があった。
今、命中したのはその中のたった一体にしか過ぎないと考えると、余計に精神を削られた。
教室の入り口は塞がれていて、今ここで目の前に見える十数体の悪霊と対峙しなければいけないという事が確定していた。
しかし、そのどこを見ても神下の姿がないのが気になったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
骸井は嵯峨野を教室の隅っこに誘導して、嵯峨野の前に骸井が立つ。
こうすれば、全体が見える。
「骸井君! 少しだけ耐えてくれ!」
嵯峨野花はしゃがんで、いつの間に拾ったのか、画用紙に向かって素早くペンを走らせた。
「了解」
骸井は、頭上から強襲してきた二体の幽霊の攻撃を両手で受け止めて流し、生まれた僅かな隙で能力を発動。
【浄化】――パチン
その流れで、遠距離にいる幽霊にも能力を飛ばして、三体の幽霊を倒した。
ぼしゅぅ、ぼしゅぅ、ぼしゅぅ。
走って近寄ってきた二メートル近い大きな幽霊が振りかぶってくる。
避けると後ろにいる嵯峨野に当たってしまうと考え、咄嗟に受け止めて歯を食いしばる骸井。
「おい! まだか!」
「もうちょっと……あとちょっとで」
幽霊の攻撃を受けながら後ろを向いた骸井は、受け止めている圧力が変わらなかったので油断していた。
後ろを向いている一瞬の隙間で、その幽霊が逆さまにひっくり返っていることに気付かなかったのだ。
骸井は幽霊の大きな腕によって首を引っかけられて、天井に吊るされた。
「ぐっぅ……早くっ、しろ!」
首と腕の間に指を挟んでギリギリ締まらないようにしていたが、それも時間の問題だった。
「ぐ……っ……」
その間にも、天井や床からおぞましい見た目の幽霊がぞろぞろと、絶え間なく湧き続けて嵯峨野へと少しずつ近づいていく。
骸井の瞼が半開きになり、視界がぼやけ始めたところで嵯峨野が立ち上がり叫ぶ。
「〝黒〟って書いて能力をこの紙に飛ばして!」
骸井の指は両方、首に隙間を開けることに割いていて文字を書けない。
食い込み過ぎて首から抜くことも敵わない。
途切れ行く意識の中、もう何でもいいから能力を発動しようとあがく。
骸井は頭の中に〝黒〟を思い浮かべて、頭の中でパチン! と一拍打つ。
しかし、そんな努力も虚しいかな、骸井の体から力が抜けてだらんと力なく揺れた。
嵯峨野花の瞳には、残酷にも叫びたくなるような絶望がありありと映った。
ヒュッ――――…………ガッッッシャャャァァンン! バリバリバリン。
突如として窓が割れて嵯峨野の下に何かが飛来した。
【黒】
嵯峨野の目の前で一瞬だけ制止したその文字は、次の瞬間、嵯峨野の書いた魔法陣へと入り込む。
すると、校舎の外と同じ様に真っ黒な波が嵯峨野を包み込むように広がり、真っ黒な球へと変質した。
やがてその球は教室全体を飲み込むように膨れ上がっていく。
音を飲み込み、
光を飲み込み、
教室の中に存在する全てを飲み込んだ。
かつて美術室があった場所には、黒々とした球だけが存在した。
その球は段々と小さくなってゆき、二人の人間を吐き出して無限に縮小し続ける。
どさっ……。
骸井と嵯峨野は美術室の真下にあった家庭科室へと落ちた。
「いてて」
特に目立った外傷もなく無事だった嵯峨野は、近くに横たわる骸井を見つけると、急いで駆け寄り声を掛ける。
「む、骸井君! 大丈夫!? 聞こえる!?」
「……ぃ」
「は、意識はある……骸井君! 聞こえてたら返事をして!」
「……るさい。少し黙ってくれ」
骸井は眉間に皺を寄せ小さな声でそう返事をした。
「はぁー良かったー!」
嵯峨野はほっと胸を撫で下ろし、へたりと尻餅をついて座った。
上を仰げばあるはずの天井が無く、とても開放的な家庭科室から見えるのは相も変わらず暗闇だった。
これがもしも青空だったら、ここで作る料理もちょっとは楽しくなるのかな……なんて、こんな状況に見合わないような感想が、嵯峨野の中に浮かんだがすぐに消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます