誰が為に 〈は〉
骸井は体力と根気を回復するためにしばらく目を瞑って横になっていたが、その間、さっきみたいに幽霊が襲ってくることはなかった。
嵯峨野はさっきの出来事を振り返って、この結界について思案する。
というのも、さっき魔法陣を書いて結界術を発動しようとしたが全く反応がなかったのである。
つまり、この空間は〝結界術師だけが入れるが結界は使えない〟という半ば即死トラップみたいなものだった、という事なのかもしれない。
そうだとしたら……もしも、そばに骸井がいなかったら、と思うと恐ろしくてたまらない。
目を瞑って横になっている骸井のそばで三角座りのまま、嵯峨野は自分自身の手のひらを見る。
指先が微かに震えている。
そのことを確認してギュッと手を握りこんだ。
それから、しばらくの間のつかの間の平穏ののち。
骸井は目を覚まして上体を起こした。
首を回し、手首を回して、グッと一発伸びをする。
立ち上がり、腕を頭の上に伸ばして手を重ね、そのまま左右に身体を伸ばす。
腰に手を置いて、上体を後ろに倒し、背中を弓のようにしなやかに伸ばす。
足首を回し調子を確かめて、手をグーパーグーパーと感覚を確かめる。
「よし」
骸井は足元に小さく座っている嵯峨野を見下ろして、
「さっきは、その、ありがとう。助かった」
と素直な感謝の言葉を落とす。
「いや、君のおかげだよ。君が能力を発動してくれなかったら僕の魔法陣は発動せず結界も意味を成さなかった」
「……そうか」
「それで、一つ気になったことがあるんだ」
「なんだ」
「いや、あの状況で〝どうやって能力を発動できたのか〟という事が気になって。だって君は両手を使えなかったんだよ? ましてや事前に準備をしていたわけでもない。僕の経験上、予備動作なしで原存の能力を発動するのは見たことないから」
骸井はしばらく考えてみたが、混濁した記憶と曖昧意識の中だったし、説明するとしても〝故意的な何かではなかった〟という事しか言えなかった。
「僕の能力が発動した瞬間の事を覚えていないのだが、教えてもらえるか?」
「分かった! えーっと、骸井君が首を絞められていた時、僕はギリギリのタイミングで何とか〝魔払いの結界〟を書く事が出来て、それで、その結界を発動し展開しようとしたんだけど、どういう訳かそれが出来なかったんだ」
嵯峨野は骸井の反応を待ったが、骸井はそのまま続けてくれという目線を返したので、首肯し続けて口を開く。
「それで、他の結界術を試すとかが頭に浮かんだけど、それも間に合わないって思ったから、決死の想いで骸井君に叫んだ」
骸井は嵯峨野が叫んだであろう言葉を思い返してみたが、朦朧とした意識の中に入ってきた言葉は輪郭を失ってぼやけて溶けてしまっていた。
では、どうして能力を発動しようと思ったのだろうか。
そして、どうして発動できたのだろうか。
「叫んだ後、骸井君の身体がだらんとなった時は本当に絶望したよ。目の前で死んじゃったんだって。そして、僕もここで死ぬんだって。……だけど、僕達は死ななかった」
嵯峨野は空に広がる黒を眺めた。
「一瞬の空白があった。そして、次の瞬間には大きな音がして、それで窓ガラスが全て割れて床に飛び散った。いったい何が起こったのか分からないままに目の前を見ると、〝黒〟という文字が眼前にあった。そこにいる誰もがその文字に目を奪われていたの」
「窓が割れて、という事は外からそれが入ってきたという事か?」
「確証はできないけど、多分そうだと思う」
骸井も嵯峨野が見ているあの黒い空を見上げてみる。
「それで、その黒がぶわって広がったと思ったら辺りが真っ暗になってそれで……」
「それで?」
「気づいたらここにいた」
「……そうか」
今見ているこの暗黒から骸井の能力として現れる文字が、能力発動条件をスキップした状態で現れて発動した。
まるであの黒い空に浮かぶ一粒の白い点のように、微かな希望に応えるように、美術室ごと飲み込んで消え、た……。
思考を整理しながらも眼前に佇んでいたその違和感を目の前に――骸井は止まった。
そして、今まで考えていたものを全て薙ぎ払って消し去り、今目の前に現れた違和感に対しての思考へと急旋回をして、再び考えを回し始める。
白い点?
あれが夜空に光る一番星だったとしたら、一幕のロマンチックという事でただ心が穏やかになるだけだけど、どう考えてもその線は論外だった。
「おい、あれなんだと思う」
骸井は当該の白い点を指さして嵯峨野に尋ねた。
「星に見えるけど……まぁ違うと思うからー、何だろうね」
嵯峨野は大して興味なさそうな口調でそう答えた。
「僕は結界術の知見も経験もないからどうにもこうにも言えないけれど、でも何となく君の話を聞いていたら一つ、可能性が思い浮かぶ」
「なになに?」
「あの白い点は元々【黒】と書かれていたけれど、僕が能力を発動させようと強く思ったせいで、さっき一つ消費したから結界に穴が開いた、という事なんじゃないか?」
「えーっと、どういう事?」
「つまり、〝この暗闇は全部何かしらの文字で構成されている可能性がある〟っていう話」
「……ちょっとスケールが大きすぎるかも」
誰が、何のために、こんな大掛かりで時間の掛かる結界を作ったのだろうか。
というか、もしもこの仮説があっているのならば、この結界内の空間が時間を歪ませている摂理を、超越した影響をもたらすことを納得できる気がした。
しかし、そうなるとつまり、あの白い点はすなわち〝結界を構成していた一部分だった〟という事になるけれど、果たして大丈夫なのだろうか。
これのせいで何かただならぬ方向に進まなければいいのだけれど、と掴みがたい不安を燻らせていた骸井の予想はすぐに当たることとなるのだった。
⦅⦅お二人さん、御機嫌いかが?⦆⦆
その声はどこから聞こえると断言しがたいような、まるで脳内に鳴り響いて反響するような変な感覚で聞こえてきた。
骸井と嵯峨野はすぐに臨戦態勢になり辺りを見渡すが、その声を発した当人を見つけることは叶わなかった。
⦅⦅貴方たちがこの結界を見つけてくれなかったら、私は永遠にこの世を彷徨うただ一匹の幽霊に成り下がっていたことでしょう。感謝するわ⦆⦆
ひやりと背筋を撫でるようなその声は、奥底に存在する冷たい畏怖を呼び起こさせ、頭に響く聞こえ方のせいか、かき氷を食べた時にずきりと痛むあの感覚を思い出す。
頭から侵入してするりと全身を冒す毒のようにすら感じられた。
⦅⦅しかも、結界にひびを入れてくれたおかげで、やっともう一つの私に出会う事が出来……え、貴方何してるの? なに、捕まった? 身動きが取れないから解いてくれって……はぁ、ちょっと待ってなさい、今話してるから――あー、あー、あー、えーっと……どこまで話したかしら?⦆⦆
肩透かしを食らうような言葉は変わらず脳内に反響する。
骸井と嵯峨野はどうにも反応に困った。
⦅⦅……私という存在を二つに引きはがして隔離し、二度とその機会を与えないようにしたのは貴方。そして、過去のことなんて何一つ憶えてちゃいない、ぬかしたそこの数字名前くん?⦆⦆
その声が途絶えた途端、辺りの空気がほんの少し重くなる感覚がした。
窓や黒板が微かにガタガタと揺れ、すぐ近くまで這い寄っている得体の知れない絶望を予感して、嵯峨野は骸井に警戒するよう口添えしようとした。
しかし、その言葉を発するよりも先にそれは訪れた。
「あぁ! ここにいたのね! 探したわ」
教室の入り口から律儀にドアを開けて入ってきたのは、長身でグラマラスな体型が目立つタイトなスーツを身に纏った女だった。
その瞬間に神下が今どこにいてどうゆう状態なのかが脳裏をよぎる。
しかし、目の前にいる得体の知れない存在を無視して、神下の下へと向かえるのかが分からない怪しい状況なのは確かだった。
――ゴオオォーーン……。
その時、骸井と嵯峨野の耳元で不自然なほどに大きな鐘の音が激しく鳴り響く。
二人は音の大きさが故に、びくりと肩が飛び上がって心臓が激しく拍を打ち始める。
胸骨を震わせる心臓の鼓動が自身の気付けとなり、さーっと血の気が引くような感覚で脳内が冷えてゆき、不思議と冷静に思考している自分自身に驚く骸井。
その冷静になった頭がいち早く骸井に伝えた情報はというと、とある致命的な欠陥であった。
それは、鼓動しているはずの心臓の音が〝全く聞こえない〟という事。
最初は聞こえていると思っていた。
しかし、それは鼓動する感覚から脳が補完して修正していただけに過ぎず、緊張しすぎると聴覚がおかしくなる、みたいな話ではなかったのだ。
緊急事態に思わず嵯峨野の名前を呼ぶ。
「嵯峨野!」
しかし、骸井の目に映るのは、先程襲来した暴虐の幽霊を見据えている嵯峨野の横顔であった。
その横顔がこっちを振り向くことはない。
骸井は思考するよりも前に、指で宙に文字を書き出し、素早い一拍を打つ。
【捕縛】――パチン。
「ちぎゃああぁぁ!」
鼓膜を引き裂くような甲高い声が辺りに響き渡る。
しかし、骸井と嵯峨野には聞こえていない。
見ると、そこには薄灰色の小さな子供のような幽霊が、床に小さく横たわっている。
「君……ひどいじゃない。折角私が大切に育てていたペットにそんな酷い事。まぁ、こんなことを言ったとて聞こえていないんじゃ意味ないけど……ふふ」
嵯峨野は簡易の防御結界を展開しようと試みるが、やはりこの結界内では意味がなかったのか、形だけの動作だけが虚しく映る。
――ゴオオォーーン……。
無慈悲にも二回目の鐘の音が鳴り響く。
この音が聴覚から感知しているわけではないという事を骸井は自覚して、それに気付くのが遅すぎたと後悔した。
やがて、二人の目から光が失われた。
まるでこの結界の空みたいな暗闇。
そこに白い光が一つあるか無いか、が唯一違う点だった。
――【重】
唐突に現れたその文字は、さっき美術室であったものと同じように目の前に顕現した。
その文字の周辺は不自然に歪み、後ろの景色がぼやけて見えた。
そして、「――パチンッ」という破裂音がどこからか聞こえてきたかと思ったら、その文字がぐにゃりと一点に吸い込まれるような形で円形に潰れて飲み込まれていく。
しかし、歪めているはずの発信源は未だそこに存在していて、やがて一直線にその女目掛けて飛んでいく。
しかし、彼女もただでそれを受け止めるわけもなかった。
彼女の頭上から、背後から、床から、胸元の谷間から、様々な場所から機関銃の乱射かと見紛うほど大量の幽霊を向かわせる。
だが、その算段も空しきかな、その歪みを止めようと立ち向かった幽霊たちは、触れようと手を伸ばした瞬間には、もうその姿形は無く、無慈悲な渦に吸い込まれるように細長く変化し消えていくのだった。
一体、また一体とグルグルグルグル渦になって消えていく。
まるで蓋を閉じる前の便器の中みたいに。
まるでお風呂のお湯を捨てた時のように。
迫ってくる歪みを目の前にして、それでもその場から動かずに幽霊を召喚しては向かわせる彼女だったが、とうとう躱せるか躱せないかのギリギリに差し迫った辺りで、ぴょんと横へと飛び込んだ。
その際、片足が引力で巻き込まれそうになるが、咄嗟にパッと靴を脱いだ事で事なきを得た。
ついでにもう片方の靴もその歪みへと投げ捨てる。
その時、嵯峨野と骸井の視力と聴力が元に戻った。
「「……はぁ、はぁ、はぁ」」
二人はまるでずっと息を止めていたかのような荒い呼吸で肩を揺らす。
ずきりと頭が痛むのを無視しながら、目の前の女へと目をやると、裸足になって激しく風景を歪ませている丸い何かを警戒して見つめていた。
この時、骸井の中で一つの確信が生まれていた。
つまり二度目の無詠唱能力発動によって、浮かんでいた仮説が立証されたと言って間違いなかった。
少し前、嵯峨野と骸井で「この空間は無数の文字で囲まれている」という可能性について話したが、それが今確定したのだ。
そして、今目の前にいる女の能力も少しだけ理解した。
神下に憑りついていた奴が幽霊を召喚出来る能力があって、そのせいで美術室でのあのことに繋がるのだとしたら、あの鐘の音の攻撃は彼女自身が元々持っていた能力だと骸井は推測した。
つまり、今なら神下を助けられるという事である。
そうなるならば、今の目標は、〝今目の前にいる幽霊女をどうにか対処しながら神下を連れて結界から脱出する〟という事だ。
「神下……」
骸井は、思考を整理しながら神下の安全を祈るのであった。
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