開示 〈は〉

 遡って十数分前の事。

 新井リコにぐるぐると回された反動で、胃の中がぐちゃぐちゃとうねりうねった挙句、口から逆流しかけているという散々な結末を迎えた男が一人トイレの個室でうずくまっていた。

「おぇ……」

 昼に食べたものが完全に消化されるには後数時間足りない為、多分ドロドロとした半固形半流体の何かが吐き出されるのだろう。

 ……という想像をしたことによって、ますます気分が悪くなっていくのを感じる骸井は、「いっその事吐き出してしまった方が楽なのではないだろうか」という思考が去来し、観念して指を口から入れて喉奥へと突っ込んだ。


 ――びちゃびちゃびちゃ……ぴち。


「ぷっ――がらがらがら――びしゃ……」


 持っていたペットボトルの水で口をゆすいで、トイレの中へと吐き出す。


 じゃーーー……ごごご。


 吐しゃ物が水流でぐるぐると回り、便器の奥へと流され消えていく。

 吐き出したことで気分はかなり良くなったが、口に残る匂いやトイレの匂いが無くなったわけではないので、少しだけ不快感を覚えながら骸井はついでに小便をしようと便器に座った。


「スッキリしたかな?」


 その声は隣の個室からだった。

 骸井はその声を聞いて自分に向けてのものだとは思わなかったし、何なら汚い音を聞かせてしまって申し訳ないとすら思った。

 だが、よくよく考えてみるとおかしい事に気付く。

 それは、その声が女子生徒の声であるという事。

 それなら、隣で卑しい行為に及んでいたという事になる。そう考えると先程聞こえてきた「スッキリしたかな?」という言葉の意味に整合性が取れ――


「骸井君今変なこと考えてない?」


 ……こうやってわざわざ釘を刺される前に、すぐトイレから出ていればこんなややこしい場面で知り合いと出会わなくて済んだかもしれないのに――という過ぎた後悔の重さに辟易しながらその声に応える。

「はぁ……ここは男子トイレなので、通報される前に今すぐ退室する事をお勧めしよう」

「大丈夫大丈夫! 僕もうんちしに来たからね!」

「大丈夫の意味をもう一度調べてこい」

 その声の主、〝嵯峨野花〟は「ぷはっ!」と破裂するような笑いを漏らした後に、「冗談! 冗談に決まってるじゃんか……本当にうんちすると思った?」と、全くありがたくない誘惑めいた台詞を吐いた。

 骸井はやれやれと溜息を吐いた後に、このまま小便をするのもどこか気まずいと思っていると、


「骸井君おしっこするの恥ずかしがってない? 安心して、今から僕耳塞いでおくからどうぞスッキリしてくださいな」


 いきなり図星をついてきた上にどうにも承諾しかねる提案をされてしまった。

 中性的できれいな声からは想像できないような下品なワードが目立っているが、この言動をするのが彼女のデフォルトだということを知ったのはかなり早かったと骸井は記憶している――


「回想入る前に出した方がいいと思うよ?」

 隣から聞こえる野次に反論しようとしたが、一理あったので言い返す言葉も見つからなかった。なので口をつぐんで、もう覚悟を決めることにした。

「回想には入らん」

「……」

 もう耳を塞いでいるのか、ただ黙っているだけなのか、返事はなかった。


 シャ――――――………………


 ……ごごご。

 さっき見たぐるぐると流水が吸い込まれる映像が、太ももの裏に当たる少しの水飛沫から思い浮かんで少し不快になる。

「スッキリ?」

「少し不快になった」

「骸井君は天邪鬼だねぇ」

 見えていないはずなのに骸井の頭にはニヤニヤしている嵯峨野花の顔が浮かんでいた。


 嵯峨野花の性格についての考証。


 初めに会った印象と今の印象はだいぶ変わっている。

 骸井の中で初めて会った時の嵯峨野花は、愛嬌と面倒見のいい不思議ちゃんという評価だった。

 今その要素がないかというと別にそんな事はないけれど、その印象がだいぶ薄れてしまうほどに変人な要素が徐々に表面化してきたという、初見では絶対に見抜けないトラップカードが伏せられていたのだった。

 だから、彼女は友達が少ないのかもしれない。

 そして、僕に友達がいない現状を考えると、多少なりとも嵯峨野花と関わっている事が影響してそうだった。

 何とも痛手なハズレくじを引かされたもんだ……と骸井は隣にいる当該の変人にバレないように肩を落としながら立ち上がる。

「君を揶揄からかうのは楽しいけど、実は伝えたいことがあったから話しかけたんだよね」

「なにさ」

 カチャカチャとズボンのベルトを直しながら話半分で聞き流す骸井。


「このまま骸井君は教室に戻ると思うんだけど、その話し合い、あんまり意見を述べたりせずに君を除いた三人のサポートになるような立場でいた方がいいと思うよ」


「お前……盗み聞きしてたのか」

「ううん。僕は何も見たり聞いたりしてないよ。ただずっとここでぱちぱち擦ってただけ」

「男子トイレに何しに来てるんだ」


「えーっと? 何を言ってるの? ここは女子トイレだよ」


「はぁ? 何言って――」

 骸井に一抹の不安が募った。

「知ってた? この学校の男子トイレと女子トイレ、どっちも壁の色は白色のタイル。床も両方カーキ色」

 骸井だとしても流石に女子トイレの情報は知らない。

 もしも、嵯峨野花の言っている事が本当ならば……。


「……なんて嘘はもうお前の所為で慣れっこだ。その話はダウト――ここは男子トイレだ」


「ふーん……どうしてそう言い切れるのかな」

「根拠なんか要らない。だって、僕がそんな些細でくだらない間違えなど犯すはずがないのだから、理由付けなどただの虚勢に成り下がる玩具に過ぎない」

「自信満々だね。じゃあ、その自分自身の確信に対して、『ここが男子トイレである』というその断固たる主張に対して、君はどれぐらい賭けられる?」

「何が狙いだ」

「ははっ、ただのお遊びだよ。例えば……じゃあ、自販機の飲み物一本とかどう?」

「別にそれでいいなら僕は構わない」

「そう! 良かった……じゃあ、答え合わせね。今から合図して同時に扉を開けて個室から出るから……行くよ? せーのっ!」


 ぎぃ! 


 扉を開けた時、骸井の目の前には予想通り小便器が数台並んでいた。

「やっぱり嘘だったじゃないか」

 骸井は嵯峨野花の声がした個室の方を向いた。

 しかしそこに嵯峨野花はいなかった。

「おい、嵯峨野」

 呼んでみても返事はなかった。

 何が起こったのかを判断しかねるまま、嵯峨野花の声がしていた個室の扉を開く。


『純白の乙女が入ったトイレの個室を開けるなんて……骸井君は本当にスケベだね!』


 閉じられた便器の蓋に置いてある紙にデカデカと書かれた文章。

 その文字は太めのマジックペンで書かれていて、鮮やかの朱色が扇情的に主張している。

 今更こんな煽り文章に頭が温まる事は無いが、それよりも気になる事がある。


 ――さっきまで話していた嵯峨野花の声は一体何だったのか。


 あらかじめ録音をしていたにしては余りにも会話が成立しすぎているのでありえないとして、じゃあそれなら一体どうやって嵯峨野花と会話ができていたのか。

 骸井はしばらくの間突っ立ったままで腕を組んで、色んな仮説を想像したが、どれとしてしっくりくるものは無かった。


 お手上げ状態であり、詰みであった。


 振り返ってみれば、骸井の経験上、投了するまで追い詰められる存在はこの学校に嵯峨野花以外いなかった。

 嵯峨野花の話しぶりと性格を真に受けていると、いつの間にか油断するが、奴はかなりのやり手だ。

 ここでふと、気まぐれに、目の前に置いてある紙を持ってしっかりと見てみた。

 それは、ただこんなゴミをトイレに放置しておくのは、この学校の生徒としてどうかと思ったが故の行動だった。

 光に透かしても、インクに触れても、紙の材質を確かめたとしても、そこから得られるものは何もなかった。

 一応裏返してみても真っ白で何にも書いてない。

 そのまま気持ちをぶつけてぐちゃぐちゃに丸めようと決意したその時、親指に微かな感覚が触れてその手を止めた。

 それは余りにも小さな違和感であり、勘違いで簡単に掃き捨てられるはずだった気まぐれの偶然と言ってもよかった。

 しかし、直感が何かを引き留めた。

 骸井はもう一度裏側の真っ白な紙面を斜めにして、小さな窓から入ってくる太陽の光を反射してくまなく確認する。

 するとそこには規則的な曲線で構成された、何か模様のような柄のような透明の線が刻まれていたことに気づいた。

 しかし、一部を断片的に確認するだけでは全体的な構造を理解できないため、これが何かを推測できないが、これほどまでに複雑な曲線を規則的に配置する物など一つしか知らない、と骸井は少し前の記憶を思い出す。

「結界術……か」

 もしかしたら、嵯峨野花に聞かれているかもしれないという考えから口に出してみたが、相変わらず返事はなかった。

 しかし、その魔法陣は全体像が見えなかったとしても理解不可能なほどに複雑で、そして、何の文字かもわからない羅列があることで、以前に神下冬太郎が教えてくれたものとは別の種類の魔法陣であることが分かった。


 ――ぼっ。


「な――」

 持ち帰って神下に共有しようと思った次の瞬間にその紙から炎が上がり、骸井が驚いて手から離すと、煙が出ないままにその紙は異常な速度で燃え尽きて、後には何も残らなかった。

 骸井の中にはもうとっくに気持ち悪さなど残っていなかった。

 それを覆うほどの好奇心を腹に貯めながら骸井がトイレを出ると、同じタイミングで隣の扉も開く。

「骸井君、話し合いが終わったら教室で待ってるね! 後、僕の助言、忘れないでね」

「おい……」

 嵯峨野花は骸井の言葉を待たずして行ってしまった。

 それから、骸井は早足で教室へと戻った。

 嵯峨野花との件で確認したいことがあったが、下手に長い時間開けるのも申し訳が立たないので、一先ず話を片付けてからまた嵯峨野花と合流すると心に決めた骸井であった。

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