遅咲きの桜は式典にさよならを 〈に〉

 骸井が保健室を後にしてからしばらく。

 新学期が始まって間もなくであったとしても部活がある二年生と三年生は今までと変わらない要領なのか、いつも通りの平常運転みたいな顔で校舎周辺を走っていたり、備品を運んだり、先生と話し合っているのをちらほらと見かけた。

 一年生たちはとっくのとうに帰っている。

 自身の教室にいる人間が変わっても、一年、二年、ここで過ごしたという経験は確かに心の中で培われて、なので、クラス替えなどがあってももう一年生の時よりも緊張はしていないのだろう。

 そんな目には見えない奥ゆかしい情緒を目の前にして、骸井は自分自身がその感情に出会い納得するという答え合わせをもうできない、という〝確かな事実〟を考えないようにしながら、人間観察の目に再び意識を向ける。

 入学式〝以前〟のこの学校の様子など骸井にとって知る由もないが、⦅つい最近まで目の前にいた先輩達が卒業していくという事実⦆を目に焼き付けられた在校生達にとって、新たに入ってくるおよそ百人超の人間を目の当たりにするのは、多少たりとも浮足立ったり、緊張したり、先輩になったという自覚しずらい実感を植え付けたり、はたまた、黒青混合した過去を思い出したり、なんて生徒もいるのかもしれない。

 この一年間で少しだけ大人になったことで表面上に見えなくなったが、細かくジッと見てみれば、その一挙手一投足に何かしらの感情が滲み見えるのかもしれない。

 ……まぁ、そんな心理を見透かす審美眼などもちろん持ち合わせていないのだがな、と自嘲的に心の中で笑いながら廊下を歩く。

 そして、しばらく学校内を観察していた骸井は、↺再び↻、自分のクラスがある教室の前へとたどり着いていた。

 そこは六つある二年生の教室の内、廊下の一番奥にあり、入口の扉上には『二年六組』と書かれた小さな看板が大人しく主張していた。

 角部屋、と言ったら聞こえがいいが、廊下の突き当たりに階段が設置されているわけではないので、休み時間での用事で☈行って帰って☈のとんぼ返りになる時、タイムロスが毎回発生するため決して立地は良くない。

 なので、早急に階段を設置するか他のクラスへと変更してもらいたい、なんて、そんな叶わない文句を口に貯めてベロで遊ばせながら、骸井は教室へと入る。

 教室の中はというと、歴史を感じるほど古くもなく、真新しい匂いがするかといえばそんなこともないようなそんな教室。

 ほどほどに生活の足跡が付いた床、凹んでいても汚れてはいない壁、綺麗に消しきれるほどの力はもうなくなってしまった黒板消しに、最新型ではないにしろ高性能な背の低い暖房機。

 そんな今昔入り混じる教室に、一人の生徒がぽつんと座っていた。


 窓際で物憂げに外を見る女子生徒がいた。


 机に肘をついて、顎に手を添えて、無気力な表情の彼女がいた。


 窓なんか開いちゃいないのに、綺麗に切り揃えられている前髪が動いたが、風の行方なんかどうでもよくなるぐらいに綺麗な髪だった。


 そんな彼女は、教室の扉がカラカラと音を立てて開いたのに気づき、こちらを一瞥する。

 そして、一瞬、骸井に優しく微笑んだ気がして、よく見ようと瞬きをした次には、また憂い漂う表情へと戻っていた。

 気のせいだったのだろうと骸井は特に気に留めず、そのまますぐに半回転して教室を背に、後ろ手で扉の取っ手に手をかけた。


「骸井君……」


 その声はかなり小さかったが、しかし、骸井にははっきりと聞こえた。

 骸井は足を止めてまた教室の方を向く。

 そして、その女子生徒のいる席まで歩いて近づいていくその途中で気が付く。


「そこは君の席ではない、間違えている」


「え、あ! 本当だ……ごめんね」

 彼女はそう言って、ひとつ前の席へと移動した。


「どうぞ」


 そして、さっきまで座っていた席に座るよう手で促している。

 骸井は逡巡した後、「クラスメートとの交流、特に前の席にいる生徒に対してはしておいた方が損はないだろう」という結論に達し、素直に従って座ることにした。

 椅子に座ると、まだ座面に残っている彼女の温もりを感じて、微かな嫌悪感を覚えた。

 見知らぬ人間の温もりほど嫌なものはないし、それ故に髪を触られたり、体に触れられるのも、他人の痕跡が自分の体にこびりつく感覚がして嫌だと感じる。

 骸井はこれを、潔癖症と近似した何らかの癖や病だろうという自己解釈をしている。

「今日は早帰りだろう? 一人教室に残って何を?」


「僕は君が来るのを待っていたんだよ」


「待っていた?」

「うん。あれ、神下先生から聞いてここに来たんじゃないの?」

「いや、今、偶然ここに立ち寄っただけで、あいつから君に関してのことは何も聞いてないな」


「⦅⦅ちょっと! 話と違うじゃんか!⦆⦆」


「ん?」

「え、いや……どうしたのかな?」

「いや、今何か言った気がしたが……」

「気のせいじゃないかな? あ、ほら! 野球部の掛け声が近づいてきてるし!」

 耳をすませば、確かに廊下の奥から部活動中らしい掛け声が段々と近づいて来ていた。

 多少強引な言い訳であったが、骸井自身、何を言っていたのかをどうしても聞き直したいか、というとそうでもなかった。それに加えて、野球部の声を聴き間違えたという自分自身の過失という説は絶対におかしい、と言い切れるほどの確証を持てなかったので、この事は不問という泡となって消えたのだった。

「それで、待ってたというのはどういう要件で」

「特段、用があるってわけじゃなくって……何となく話してみたくてって理由じゃダメかな?」

「そうか。別にいいんじゃないか? こっちもその気で乗ったからな」

「そうなんだ……ありがとね?」

「いや、単なる利害の一致さ」

「じゃあ、そういうことにしときますね!」

 彼女は嬉しそうな表情でそう言った。

「一応、自己紹介から始めた方がいいかな?」

「そうだな、その方が助かる」

「それじゃあ名前から!」

 そう言って、彼女は自身のリュックに手を突っ込み、今日配られたプリントの中でも一番重要度が低そうな一枚を裏返して、スラスラと名前を書いた。


「『嵯峨野花』って書いて『さがのはな』って読みます! 越後西中学校から来ましたー、よろしくお願いします」


 それを受けて、骸井も嵯峨野からシャープペンシルを借りて、自分のカバンから同じプリントを取り出して同じ様に自分の名前を書く。

「『骸井九』と書いて『むくろいきゅう』と読む。……越後……あーっと、越後東、中学から来た」

 骸井は急遽考えて、この高校からできるだけ一番遠い位置にある中学校の名前を絞り出して答えた。

 遠距離であればあるほどこの高校に進学しづらいだろうという、下手な言及とリスク回避のためにであり、これが今できうる最善の選択故の答えだった。

「へぇ~「東中」からなんですね! 遠いところからどうも」

「言っても、西中からここまでも同じぐらいじゃないか」

「確かにそれもそうか!」

 そう言って、にへらと笑う嵯峨野。

「うちの学校、割と人数がいるのに、入学当初のオリエンテーション的な自己紹介以来、こうやって情報交換する機会ないんだよね……あ、そういえば、骸井君って一年の時、何組だったの?」

「あぁ、それなんだが――」

「?」

 急に無言になる骸井。


「少しワケあって、全校集会とかで発表せずに今日から転入していてな……」


「え! ってことは、転校生ってこと?」

「そうなる」

「嘘でしょ……それって、いや、一体どんな事情があったら、何の発表も無しに転入することになるの。勿論言えないんだろうけどさ」

「個人的な事情だけだったら言っても良かった。だが、色々と事情が立て込んでいてな。まぁ、言える時が来たら話す。すまない、内緒話を人に押しつけるつもりはなかったが、これ以上ごまかすのも脳みそを使って面倒だったから吐き出してしまった……悪かったな」

「ううん! 誰だって秘密の一つや二つぐらいあるものだもん。ちょっと気になりはするけど、変な詮索はしないから安心して」

「そうしてくれると助かる」

 骸井は少しだけ足を伸ばした。

「そうだ! 転入してきたばっかりってことは、どこにどの教室があるとか分からないんじゃない? そーなんじゃない? どーかな?」

 嵯峨野はわざとらしい鬱陶しさでそう言った。

「……確かに、今職員室がどこにあるかと言われたら、ぱっと答えられないかも知れないな」

「でしょ! 特に仲が良い友達とかがいないのなら、尚更人に聞いたりしにくいだろうし……って事で」

 嵯峨野はまるで、お付きの執事かの如く、軽やかな動きで立ち上がり、椅子を仕舞って、一回転し、胸の下に手を添えて、一礼をする。


「それでは行きましょうか。あー……――お嬢様」


 きりっとした決め顔でそう言った。

「お嬢様じゃないだろ」

「いや、そうだけど、でも、『お嬢様』を男に直すと『お坊ちゃま』になるよ? なんか、骸井君ってお坊ちゃまって感じじゃなくない?」

「じゃあ、『主様』とか『ご主人様』とかにすればいいだけだろ」

「……確かに! まぁ、咄嗟すぎてそれがぱっと思い浮かばなかっただけっていうか、みたいな感じではあるけど、まぁ、その線も一理はあったかもしれないね! うん!」

 まるで言い訳を並べるみたいに早口でつらつらつら。

「ほぼほぼそのせいじゃあないか」

「……何故ばれた?」

 そんな茶番を挟みながら、骸井と嵯峨野の二人は教室を後にした。

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